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『ほっと・ちょこれいと逃避行』

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「旦那様が、居間の方へとお呼びですよ」
「……ええ。分かってる」
「不安、ですか?」

 青山は、どうして私を引き留めてくれないのだろう。私が不安なことくらい、分かっているはずなのに。

 私の、なのに。

「青山、もしも……私、身売りされることになったら、どうしよう?」
「大丈夫ですよ。旦那様は、そんなことをされる方ではありません」
「でも、青山だってこの家の状況、分かっているでしょう?」
「はい。ですが、どうにか切り抜ける方法はあるはずです。私も外に働きに出ますから、心配しないでください」
「え……ここを出て行くの?」

 そんなことは一言も聞いていない。青山まで居なくなってしまったら、この屋敷には、私とお父様だけになってしまう。

 慌てて青山の服を掴んだ。彼は微笑んで、首を横に振る。そのまま私の両手を握って身をかがめ、顔を近づけて囁いた。

「旦那様には、身寄りのない私を拾っていただいた恩義がありますので、執事の仕事はできる限り今まで通りに。そこに他の仕事が加わるだけです。少しでもお力になれればと」

 青山が出て行かないと分かって、少しだけほっとした。今から自分の身に降りかかる事柄次第では、私の方が先に屋敷を出て行かなければならない。

「でも、そんなに働いて、倒れないかしら?」
「お嬢様と、旦那様のためですから」
「無理しないでね……」
「はい。ほら、もう行きませんと」
「……待って」

 背伸びをして、青山の首に抱きついた。私よりもずいぶん背の高い青山には、つま先を立ててもなお、屈んでもらわないと口吸いすらできない。どうにか頬をすり寄せると、青山は意味を理解したらしく、苦笑した。

「少しだけですよ」
「ええ」

 唇を重ね合わせるだけの、束の間の逢瀬。恋人同士であることは、もちろんお父様には話していない。話せるはずがない。でも、この関係もいつかは絶たなくてはいけないのだろう。

 青山の唇は薄いけれど、いつだって温かい。ついばむように何度か口吸いを繰り返して、青山が先に離れた。名残惜しさを顔に浮かべると、青山はまた優しく笑う。

「今日は、素敵な洋服をお召しになってるんですね」
「あ、ありがとう。似合うかしら?」
「はい。とてもかわいらしいです」
「青山にそう言ってもらえるなら、着てよかった……」

 恋心というのは単純で、好きな人に褒められたら嬉しいし、舞い上がってしまう。頬が熱くなるのを感じながら、お母様に感謝した。わずかだけれど、お父様にも。

 けれどそんな気持ちは、お父様が招いたによって、粉々に砕かれてしまった。
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