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調香師の口説き
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「私、お目にかかったこと、ありますか……?」
「いや。僕たちは遠くから君の姿を見せてもらっただけで、正面から会っているわけじゃない。今から十五年くらい前のことだけど、僕もその時のことははっきり覚えているよ」
六花が五歳前後なら、直靖とまだ屋敷で顔を合わせていた頃かもしれない。羽琉の話だと、直靖に連れられて金烏に来ていた三兄弟は、六花の姿を屋敷の外から見たというのだ。
「直接会わせるのは許可が出なかったからって、父上がこっそりと見せたんだ」
直靖だったら考えそうなことだ。幼少期とはいえ、恥ずかしいところを見られてやしないかと、六花は焦った。
「ちなみに、どんな場面を……?」
「琴の稽古をつけてもらっている最中だったな。当時僕は十三歳だったし、八つも下の子に興味なんて湧かないだろうと思っていたんだけど。六花の横顔があまりにも楽しそうで、見惚れたんだ。それは、鬼灯も大牙も同じだったよ」
それ以来、六花の姿を見ることはできなかったけれど、三人ともずっとその日のことを覚えているという。直靖が〝六花を息子たちの嫁に迎える〟と言って聞かせてきたので、忘れられなかっただけかもしれないが。
「気付かない間に、見られていたんですね。変な場面じゃなくてよかった……」
「ふふ。鬼灯と大牙は君と年齢が近いから、僕よりも興味は強かったと思う。だから、年長者の僕は見守る側に回ろうと思ったんだけど……」
羽琉は、次に六花の頬に手を添えた。温かく大きな手のひらだ。指の一本一本は細いのに、女性のそれとは確実に異なる。しっかりとした男性の感触に、六花はびくりと震える。
「ああ、ごめん。まだ慣れないかな」
「いえ、大丈夫です。びっくりしただけなので……」
羽琉の優しい触れ方に、むしろ六花の心が解されていく。
「嫌じゃない?」
「……はい」
彼の言葉の続きが気になって、六花は強請るように視線を向けた。羽琉は眉を跳ねさせ、目を丸くしたが、すぐに破顔する。
「そういう表情、本当にぞくぞくする……」
「えっ」
低い声で、羽琉が一瞬謎の言葉を発したようだったが、六花にはよく聞き取れなかった。
「いや。あー、こほん。君が屋敷に来るのを楽しみにしていたのは確かなんだけど、十五年ぶりに会って、『綺麗になったな』と思ったら。鬼灯と大牙に譲るのは惜しくなって」
羽琉は、すぐに取り繕った。六花はじっと目を見ながら聞いていたが、嘘を言っている様子ではなさそうだ。真摯な彼の気持ちが伝わってきて、胸が熱くなる。
「もちろん、外見だけじゃないよ? 地主の息子だからって、財産目当てで近づいてくる女性は多いけれど。君は、家族のためっていう純粋な気持ちでこっちに来た。それに、昨日から思っていたけれど、控えめで初心なところもいいなと思う」
頭頂部から火が出そうな程に、六花は首から上を赤く染めていた。それは体温で羽琉にも伝わるようで、褒め殺しに慣れていない六花は恥ずかしくてたまらない。
「……あ、ありがとうございます」
「ふ、真っ赤。頬が熱くなってる。ほんと、可愛いな。妻に迎えるなら、やっぱり君がいい」
視線を逸らしたくても、彼の黒曜石の瞳に射止められたようで、動けずにいる。
そのまま、羽琉の顔がまた徐々に近づいてきた。六花が戸惑っているうちに距離が詰まり、鼻と鼻がぶつかりそうにまでなる。口づけの合図かもしれないと思った六花は、なるようになれとばかりに、ぎゅっと目を閉じた。
「ごめんください」
「……はい! 伺います!」
お邪魔虫か、救いの手か。最初の客がやってきたようで、羽琉は弾かれたように返事をして顔を遠ざけた。気配がなくなったのを感じて、六花も目を開ける。
「残念。また次の機会に。六花は適当に座って見ていていいよ」
「……はい」
羽琉は入り口の方へと向かい、老齢の女性客と接し始めた。常連客のようで、名前を呼んで丁寧に対応している。六花は邪魔にならないよう、椅子には座らずに、花の鉢植えを観察して静かに過ごした。
だが、六花の気持ちは上の空だった。花を愛でるような余裕は全くなく、先程の出来事が六花の脳内で何度も繰り返される。来客がなければ、あのまま口づけを交わしていたかもしれないのだ。なぜそんな思い切ったことをしたのか、六花自身も理解できず心を乱されていた。
それから、六花は羽琉の仕事ぶりを観察しながら過ごした。客が途絶えている間は、花の世話や香炉を含めた道具類の手入れ、それから棚や床の掃除、香木の仕入れなどを行っている。それらが終われば、調合比率の研究時間にあてるようだ。
「六花、退屈じゃない?」
「いえ、全然。なにかお手伝いできることがあれば、したいんですが……」
邪魔にならないように隅で過ごしていた六花は、正直に伝えてみた。
「そう? じゃあ、帳簿の整理を手伝ってもらおうかな」
「はい、ぜひ!」
役に立てるのならと、六花は喜んで引き受けた。料理も掃除も裁縫も、屋敷の使用人たち以上にできる自信はないけれど、嫁ぐからには妻としてできることをしたい。直靖には自由に過ごすように言われても、やはり自分の気持ちが大事だった。
いそいそと近づいてくる六花を、羽琉は微笑ましく見ている。ふと、六花は数刻前の急接近を思い出して、恥じらいの表情を見せた。帳簿は約一ヶ月前から記入が滞っているようで、領収書や納品書の日付を確認しながら、六花は丁寧に埋めていった。少しでも役に立てているかと思うと、嬉しくてたまらない。
「楽しい?」
「はい」
「僕は、帳簿整理だけは面倒でついつい後回しにしてしまうから、助かるよ」
六花は、羽琉に頭をふんわりと優しく撫でられた。褒められていると分かって、六花ははにかむ。
「これからもお手伝いできることがあれば、遠慮なく教えてください」
「分かった。頼りにするよ」
今後は、羽琉の妻としての順番が回ってきた日に、六花が適宜手伝うことになった。役目ができて、六花の気がかりがひとつ、溶けて消えていく感覚がした。羽琉も心なしか嬉しそうだ。
「羽琉様、六花様。いらっしゃいますでしょうか?」
「美鶴さんだ」
もう、太陽が真南に昇っている。そろそろ昼時だという時に、美鶴が訪ねてきた。両手に風呂敷に包まれた箱を持っているようだ。
「ああ、お疲れさま。今日も届けてくれてありがとう」
「恐縮でございます」
羽琉が美鶴から大きい方の風呂敷を受け取った。どうやら弁当箱らしい。いつも届けてもらっているようだ。
「はい。こちらは六花様の分です。今後、量の調整をご所望の時は、また仰ってください」
「ありがとうございます」
「あと、忘れないようにこれを」
美鶴は、女性医師から処方された錠剤を一錠、薬包紙に入れて持ってきてくれたようだ。食後に飲むようにと、水筒も準備してくれている。美鶴の完璧な配慮に、六花は感動していた。
「いや。僕たちは遠くから君の姿を見せてもらっただけで、正面から会っているわけじゃない。今から十五年くらい前のことだけど、僕もその時のことははっきり覚えているよ」
六花が五歳前後なら、直靖とまだ屋敷で顔を合わせていた頃かもしれない。羽琉の話だと、直靖に連れられて金烏に来ていた三兄弟は、六花の姿を屋敷の外から見たというのだ。
「直接会わせるのは許可が出なかったからって、父上がこっそりと見せたんだ」
直靖だったら考えそうなことだ。幼少期とはいえ、恥ずかしいところを見られてやしないかと、六花は焦った。
「ちなみに、どんな場面を……?」
「琴の稽古をつけてもらっている最中だったな。当時僕は十三歳だったし、八つも下の子に興味なんて湧かないだろうと思っていたんだけど。六花の横顔があまりにも楽しそうで、見惚れたんだ。それは、鬼灯も大牙も同じだったよ」
それ以来、六花の姿を見ることはできなかったけれど、三人ともずっとその日のことを覚えているという。直靖が〝六花を息子たちの嫁に迎える〟と言って聞かせてきたので、忘れられなかっただけかもしれないが。
「気付かない間に、見られていたんですね。変な場面じゃなくてよかった……」
「ふふ。鬼灯と大牙は君と年齢が近いから、僕よりも興味は強かったと思う。だから、年長者の僕は見守る側に回ろうと思ったんだけど……」
羽琉は、次に六花の頬に手を添えた。温かく大きな手のひらだ。指の一本一本は細いのに、女性のそれとは確実に異なる。しっかりとした男性の感触に、六花はびくりと震える。
「ああ、ごめん。まだ慣れないかな」
「いえ、大丈夫です。びっくりしただけなので……」
羽琉の優しい触れ方に、むしろ六花の心が解されていく。
「嫌じゃない?」
「……はい」
彼の言葉の続きが気になって、六花は強請るように視線を向けた。羽琉は眉を跳ねさせ、目を丸くしたが、すぐに破顔する。
「そういう表情、本当にぞくぞくする……」
「えっ」
低い声で、羽琉が一瞬謎の言葉を発したようだったが、六花にはよく聞き取れなかった。
「いや。あー、こほん。君が屋敷に来るのを楽しみにしていたのは確かなんだけど、十五年ぶりに会って、『綺麗になったな』と思ったら。鬼灯と大牙に譲るのは惜しくなって」
羽琉は、すぐに取り繕った。六花はじっと目を見ながら聞いていたが、嘘を言っている様子ではなさそうだ。真摯な彼の気持ちが伝わってきて、胸が熱くなる。
「もちろん、外見だけじゃないよ? 地主の息子だからって、財産目当てで近づいてくる女性は多いけれど。君は、家族のためっていう純粋な気持ちでこっちに来た。それに、昨日から思っていたけれど、控えめで初心なところもいいなと思う」
頭頂部から火が出そうな程に、六花は首から上を赤く染めていた。それは体温で羽琉にも伝わるようで、褒め殺しに慣れていない六花は恥ずかしくてたまらない。
「……あ、ありがとうございます」
「ふ、真っ赤。頬が熱くなってる。ほんと、可愛いな。妻に迎えるなら、やっぱり君がいい」
視線を逸らしたくても、彼の黒曜石の瞳に射止められたようで、動けずにいる。
そのまま、羽琉の顔がまた徐々に近づいてきた。六花が戸惑っているうちに距離が詰まり、鼻と鼻がぶつかりそうにまでなる。口づけの合図かもしれないと思った六花は、なるようになれとばかりに、ぎゅっと目を閉じた。
「ごめんください」
「……はい! 伺います!」
お邪魔虫か、救いの手か。最初の客がやってきたようで、羽琉は弾かれたように返事をして顔を遠ざけた。気配がなくなったのを感じて、六花も目を開ける。
「残念。また次の機会に。六花は適当に座って見ていていいよ」
「……はい」
羽琉は入り口の方へと向かい、老齢の女性客と接し始めた。常連客のようで、名前を呼んで丁寧に対応している。六花は邪魔にならないよう、椅子には座らずに、花の鉢植えを観察して静かに過ごした。
だが、六花の気持ちは上の空だった。花を愛でるような余裕は全くなく、先程の出来事が六花の脳内で何度も繰り返される。来客がなければ、あのまま口づけを交わしていたかもしれないのだ。なぜそんな思い切ったことをしたのか、六花自身も理解できず心を乱されていた。
それから、六花は羽琉の仕事ぶりを観察しながら過ごした。客が途絶えている間は、花の世話や香炉を含めた道具類の手入れ、それから棚や床の掃除、香木の仕入れなどを行っている。それらが終われば、調合比率の研究時間にあてるようだ。
「六花、退屈じゃない?」
「いえ、全然。なにかお手伝いできることがあれば、したいんですが……」
邪魔にならないように隅で過ごしていた六花は、正直に伝えてみた。
「そう? じゃあ、帳簿の整理を手伝ってもらおうかな」
「はい、ぜひ!」
役に立てるのならと、六花は喜んで引き受けた。料理も掃除も裁縫も、屋敷の使用人たち以上にできる自信はないけれど、嫁ぐからには妻としてできることをしたい。直靖には自由に過ごすように言われても、やはり自分の気持ちが大事だった。
いそいそと近づいてくる六花を、羽琉は微笑ましく見ている。ふと、六花は数刻前の急接近を思い出して、恥じらいの表情を見せた。帳簿は約一ヶ月前から記入が滞っているようで、領収書や納品書の日付を確認しながら、六花は丁寧に埋めていった。少しでも役に立てているかと思うと、嬉しくてたまらない。
「楽しい?」
「はい」
「僕は、帳簿整理だけは面倒でついつい後回しにしてしまうから、助かるよ」
六花は、羽琉に頭をふんわりと優しく撫でられた。褒められていると分かって、六花ははにかむ。
「これからもお手伝いできることがあれば、遠慮なく教えてください」
「分かった。頼りにするよ」
今後は、羽琉の妻としての順番が回ってきた日に、六花が適宜手伝うことになった。役目ができて、六花の気がかりがひとつ、溶けて消えていく感覚がした。羽琉も心なしか嬉しそうだ。
「羽琉様、六花様。いらっしゃいますでしょうか?」
「美鶴さんだ」
もう、太陽が真南に昇っている。そろそろ昼時だという時に、美鶴が訪ねてきた。両手に風呂敷に包まれた箱を持っているようだ。
「ああ、お疲れさま。今日も届けてくれてありがとう」
「恐縮でございます」
羽琉が美鶴から大きい方の風呂敷を受け取った。どうやら弁当箱らしい。いつも届けてもらっているようだ。
「はい。こちらは六花様の分です。今後、量の調整をご所望の時は、また仰ってください」
「ありがとうございます」
「あと、忘れないようにこれを」
美鶴は、女性医師から処方された錠剤を一錠、薬包紙に入れて持ってきてくれたようだ。食後に飲むようにと、水筒も準備してくれている。美鶴の完璧な配慮に、六花は感動していた。
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