寵愛の檻

枳 雨那

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調教開始

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 大学に着いた頃には、参加すべき最初の講義は終わってしまっていた。講義室から出てきた学生たちの中に、千ちゃんを見つけ声を掛ける。

「千ちゃん」
「あっ! 二人ともどうしたの? 大遅刻して」

 いぶかしむような視線を投げかけられて、私は目を逸らした。今朝の私たちの態度に加え、遅刻までしたことで、千ちゃんはかなり不思議に思っているようだ。

「それが、電車の中で寝てしまって……」
「二人して乗り過ごしたんだ」

 私が咄嗟とっさに嘘をつくと、おーちゃんが平然と乗っかった。おーちゃんは、いつも正直で嘘はつかない人だった。それは昨日、本人も私に対しても言ったばかりなのに。

 少し驚きながら、おーちゃんの顔を見る。おーちゃんは、「そんな顔をしてると、嘘だってバレるよ?」と言いたげに、にっこりと笑った。

「乗り過ごし!? あちゃー、どこまで行ったんだよ?」
「えっとね……」

 適当に遠い駅名を挙げると、千ちゃんはすっかり信じきった。罪悪感で、胸が痛い。

「朧もついていながら。胡蝶はいつもどこか抜けてるから、分かるけど」
「えっ!」
「うん、ごめん。僕がしっかりしていないとね」

 絶対に本心ではそう思ってないのに、おーちゃんは千ちゃんに謝っている。それよりも、私はおっちょこちょいだと思われているらしいことに、びっくりした。二人が私の顔を見て、ニヤニヤしている。

「本人は、気付いていないみたいですけどねぇ?」
「天然な人ほど、自分のことをしっかり者だと思っていたりするから」
「ひ、ひどい!」
「はは。まぁ、事故とかじゃなくて、安心したよ」

 千ちゃんは息を吐いて、私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。慈しむような目と優しくて大きな手。突然のことにドキドキする。

「心配かけてごめんね、千ちゃん」
「うん。反省しているならいいんだ」

 せっかく整えてきた髪が、千ちゃんの手で乱れていく。好きな人にそうされるのは、全然嫌じゃない。

 今はもう、気持ちを伝えることはできなくなってしまったけれど、私の心はまだ、千ちゃんにらわれたままだ。

 千ちゃんの手が離れてから、はっとする。おーちゃんはどう思っただろうか。「千里に触らせないで」って怒るかもしれない。

 冷や冷やしながら、おーちゃんの顔を見上げた。その目は千ちゃんの方をじっと見ているだけで、特に変化はない。杞憂きゆうに終わったと、胸を撫で下ろした。


「二人に、さっきの講義のノートのコピーをあげるから、また昼に合流しよう」
「ありがとう」
「助かるよ、千里」
「じゃあ、後でな」

 千ちゃんが先に行ってしまった。次の講義は、三人ともバラバラだ。専攻の関係上、共通のものもあれば、それぞれ選択科目でとっているものもある。ということは、一度ここで、おーちゃんから離れられる。心が休まる気分だった。

「胡蝶、じゃあ僕も行くけど、約束はちゃんと守ってね?」
「分かってる、守るよ」
「今日の講義が全部終わったら、また一緒に帰ろう?」
「……うん。そのことは、千ちゃんに何て説明するの?」
「僕から言うよ」

 おーちゃんのことだから、千ちゃんが納得できるよう、上手に説明するのだろう。私に説明をさせないのは、余計な発言を防ぎたいから。おーちゃんに任せきりだと、変な誤解を招きそうで、とても怖い。

「胡蝶は、僕に任せてくれればいいから」

 そう言って、おーちゃんは微笑みながら、私の頭をぽんぽんと撫でた。髪を乱さない、千ちゃんよりも少し優しい触れ方。不覚にも、胸がときめく。

 もしかしなくても、ほだされかけているのだろうか。いや、信じたくない。

「さっきの、上書き。胡蝶、顔真っ赤だよ?」
「からかわないで……」
「早く移動しないと、次の講義も遅れちゃうね」
「あ、ほんとだ」

 おーちゃんに手を振って別れ、目的の講義室に向けて歩き始める。友達数人とすれ違い、その度に挨拶を交わしていると、いつもの日常に戻ってきた気分になった。
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