26 / 55
25 ヴィンセント21歳 04
しおりを挟む
それから三か月ほど経ち、エルが子育てに少しずつ慣れたころ。エルはオーナーに、あるお願いをした。
子どもの面倒をみつつ、徐々に職場復帰したいと。
もともとあの診療所は自由が利く場所だったし、乳児の面倒を見ながら働くにも安心できる場所だ。
いつまでのここにお世話になるわけにもいかないし、家に戻れば生活費が必要だ。
けれどオーナーは困ったような顔で、エルから視線をそそらした。
「申し訳ございませんが、それはできかねます」
「ご迷惑でしたか?」
「決してそういう訳では。ただ、皇太子殿下がお許しにならないかと……」
「殿下のお許しをいただければ良いのね」
「はい……。それより、無理して働く必要はございませんよ。私どもは、エル様を養女にお迎えしたいと考えております」
「私は殿下と結婚しないのに、必要ないと思いますが」
「それでもです。殿下はエル様の幸福を願っておられます」
裕福な暮らしが幸福とは限らないと、ヴィンセントなら分かっているはずなのに。
その夜。エルの元へと足を運んだヴィンセントに、エルは宣言した。
「ヴィー。私、ここを出て家に帰ろうと思うの。それから仕事にも復帰したいわ」
「なぜですか。ここに不満でもありますか?」
「男爵邸の方々は、私たちにとても良くしてくれたわ」
「それなら、ずっとここにいてください。オーナーにはエルの生活費を渡してありますから、何も気にする必要はありませんよ」
オーナーからも引き止められているし、エルが男爵邸にいたほうが都合が良い者は多いようだ。
けれど……。
「これでは、結婚しているのと変わらないわ……」
「エルは皇宮が嫌なんですよね? 僕のことを嫌いなわけではないと」
「そうだけれど、あなたはいずれ結婚しなければいけないのよ? 愛人をもつなんて良くないわ」
エルが男爵邸に住んでから一年ほど経つが、その間ヴィンセントは毎日のようにここへ通っている。
これほど大っぴらに行動していたら、皇宮や貴族の間でも噂になっているはず。
悪役皇妃や、ヒロインの耳にも入っているかもしれない。
「エルは愛人などではありません! 僕にとっては大切な、愛する人です……。エルがいない人生なんて考えられません……」
ヴィンセントは崩れ落ちるように両膝を床につけながらそう叫ぶと、縋りつくようにエルの腰へと抱きついてきた。そして、がたがたと震え出す。
「すみません。もう大人だから震えたりしないはずなのに……」
「ヴィー……ごめんなさい。急すぎたわね」
五年ほど離れていたことで、エルがいなくても彼は不安に震えることなく生きられるようになっていると思っていた。
けれどそうではなかったのだ。彼はこの五年間を、エルと一生を共にするための準備期間にしていただけだった。
小説の本編が始まるのはあと半年ほどだ。
彼は長年の恨みである父親を倒し、皇帝となる。そして、ヒロインと出会う前に悪役皇妃を迎える。
それまでにエルの存在を消さなければ。
皇后の脅威は消えたけれど、今度は悪役皇妃に目をつけられるはずだ。
悪役皇妃は心の底からヴィンセントを愛している。そのせいで邪魔な存在であるヒロインを虐めたのだから、エルの存在を知れば放っておくはずがない。
(でも、本当に本編は始まるのかしら……)
本編が始まるきっかけは、ヴィンセントが祖父を父親に殺された恨みをひたすら募らせていたからだ。
けれど今の彼は、エルを繫ぎとめることに必死で、そのような雰囲気は見られない。
父親からわざわざ、結婚相手を選ぶ自由を得ているし、現皇帝との関係が悪いようにも見えない。
(ううん。そんなこと関係ないわ。序章の登場人物は私を覗いて皆、順当に死んでいるもの。皇帝も何かがきっかけでヴィーの恨みを買うのかもしれないわ)
そしてエルも、何かがきっかけで罪に問われる。五年前も、ヴィンセントが皇宮へ戻る決心をしなければ、エルが罪に問われるところだった。
またそうなる前に、やはり逃げ出さなければ。
そう決意したエルは後日。ヴィンセントに、鉱山へ子どもを見せに行きたいとお願いした。
初めは危険だからと渋っていた彼だが、エルにとってあそこがどれだけ心の拠り所になっていたかも知っている。最後には、オーナー夫人を同行させる条件で了承した。
そして当日の朝。エルはお腹や太ももにありったけの、布おむつを巻きつけた。必要なものは逃げる途中で調達すれば良いが、こればかりは余裕がなければ心配だ。
その上からゆったりとしたデザインのドレスを着れば、それほど不自然ではない。
それから宝石箱を開けて、ヴィンセントがくれた宝石の中で高く売れそうなものをいくつかポケットに押し込んだ。
逃げるにもお金がかかるし、他国で新しい生活を始めるには、それなりの資金が必要。ヴィンセントには悪いが、これはその費用として使わせてもらう。
宝石箱の蓋を閉めようとした時、ふとダイヤの指輪が目に入った。
これはプロポーズの際に、ヴィンセントが用意した指輪。結婚は断ったのに結局は「持っていてください」と預かるはめになった。
これも売れば、良い金額になりそうだ。
「でも、これはヴィーが一生懸命に働いた証だから、売れないわよね」
エルはそれをテーブルの上に置いてから、エルヴィンを抱いて部屋を出た。
子どもの面倒をみつつ、徐々に職場復帰したいと。
もともとあの診療所は自由が利く場所だったし、乳児の面倒を見ながら働くにも安心できる場所だ。
いつまでのここにお世話になるわけにもいかないし、家に戻れば生活費が必要だ。
けれどオーナーは困ったような顔で、エルから視線をそそらした。
「申し訳ございませんが、それはできかねます」
「ご迷惑でしたか?」
「決してそういう訳では。ただ、皇太子殿下がお許しにならないかと……」
「殿下のお許しをいただければ良いのね」
「はい……。それより、無理して働く必要はございませんよ。私どもは、エル様を養女にお迎えしたいと考えております」
「私は殿下と結婚しないのに、必要ないと思いますが」
「それでもです。殿下はエル様の幸福を願っておられます」
裕福な暮らしが幸福とは限らないと、ヴィンセントなら分かっているはずなのに。
その夜。エルの元へと足を運んだヴィンセントに、エルは宣言した。
「ヴィー。私、ここを出て家に帰ろうと思うの。それから仕事にも復帰したいわ」
「なぜですか。ここに不満でもありますか?」
「男爵邸の方々は、私たちにとても良くしてくれたわ」
「それなら、ずっとここにいてください。オーナーにはエルの生活費を渡してありますから、何も気にする必要はありませんよ」
オーナーからも引き止められているし、エルが男爵邸にいたほうが都合が良い者は多いようだ。
けれど……。
「これでは、結婚しているのと変わらないわ……」
「エルは皇宮が嫌なんですよね? 僕のことを嫌いなわけではないと」
「そうだけれど、あなたはいずれ結婚しなければいけないのよ? 愛人をもつなんて良くないわ」
エルが男爵邸に住んでから一年ほど経つが、その間ヴィンセントは毎日のようにここへ通っている。
これほど大っぴらに行動していたら、皇宮や貴族の間でも噂になっているはず。
悪役皇妃や、ヒロインの耳にも入っているかもしれない。
「エルは愛人などではありません! 僕にとっては大切な、愛する人です……。エルがいない人生なんて考えられません……」
ヴィンセントは崩れ落ちるように両膝を床につけながらそう叫ぶと、縋りつくようにエルの腰へと抱きついてきた。そして、がたがたと震え出す。
「すみません。もう大人だから震えたりしないはずなのに……」
「ヴィー……ごめんなさい。急すぎたわね」
五年ほど離れていたことで、エルがいなくても彼は不安に震えることなく生きられるようになっていると思っていた。
けれどそうではなかったのだ。彼はこの五年間を、エルと一生を共にするための準備期間にしていただけだった。
小説の本編が始まるのはあと半年ほどだ。
彼は長年の恨みである父親を倒し、皇帝となる。そして、ヒロインと出会う前に悪役皇妃を迎える。
それまでにエルの存在を消さなければ。
皇后の脅威は消えたけれど、今度は悪役皇妃に目をつけられるはずだ。
悪役皇妃は心の底からヴィンセントを愛している。そのせいで邪魔な存在であるヒロインを虐めたのだから、エルの存在を知れば放っておくはずがない。
(でも、本当に本編は始まるのかしら……)
本編が始まるきっかけは、ヴィンセントが祖父を父親に殺された恨みをひたすら募らせていたからだ。
けれど今の彼は、エルを繫ぎとめることに必死で、そのような雰囲気は見られない。
父親からわざわざ、結婚相手を選ぶ自由を得ているし、現皇帝との関係が悪いようにも見えない。
(ううん。そんなこと関係ないわ。序章の登場人物は私を覗いて皆、順当に死んでいるもの。皇帝も何かがきっかけでヴィーの恨みを買うのかもしれないわ)
そしてエルも、何かがきっかけで罪に問われる。五年前も、ヴィンセントが皇宮へ戻る決心をしなければ、エルが罪に問われるところだった。
またそうなる前に、やはり逃げ出さなければ。
そう決意したエルは後日。ヴィンセントに、鉱山へ子どもを見せに行きたいとお願いした。
初めは危険だからと渋っていた彼だが、エルにとってあそこがどれだけ心の拠り所になっていたかも知っている。最後には、オーナー夫人を同行させる条件で了承した。
そして当日の朝。エルはお腹や太ももにありったけの、布おむつを巻きつけた。必要なものは逃げる途中で調達すれば良いが、こればかりは余裕がなければ心配だ。
その上からゆったりとしたデザインのドレスを着れば、それほど不自然ではない。
それから宝石箱を開けて、ヴィンセントがくれた宝石の中で高く売れそうなものをいくつかポケットに押し込んだ。
逃げるにもお金がかかるし、他国で新しい生活を始めるには、それなりの資金が必要。ヴィンセントには悪いが、これはその費用として使わせてもらう。
宝石箱の蓋を閉めようとした時、ふとダイヤの指輪が目に入った。
これはプロポーズの際に、ヴィンセントが用意した指輪。結婚は断ったのに結局は「持っていてください」と預かるはめになった。
これも売れば、良い金額になりそうだ。
「でも、これはヴィーが一生懸命に働いた証だから、売れないわよね」
エルはそれをテーブルの上に置いてから、エルヴィンを抱いて部屋を出た。
61
お気に入りに追加
327
あなたにおすすめの小説
目が覚めたら夫と子供がいました
青井陸
恋愛
とある公爵家の若い公爵夫人、シャルロットが毒の入ったのお茶を飲んで倒れた。
1週間寝たきりのシャルロットが目を覚ましたとき、幼い可愛い男の子がいた。
「…お母様?よかった…誰か!お母様が!!!!」
「…あなた誰?」
16歳で政略結婚によって公爵家に嫁いだ、元伯爵令嬢のシャルロット。
シャルロットは一目惚れであったが、夫のハロルドは結婚前からシャルロットには冷たい。
そんな関係の二人が、シャルロットが毒によって記憶をなくしたことにより少しずつ変わっていく。
なろう様でも同時掲載しています。
転生先が羞恥心的な意味で地獄なんだけどっ!!
高福あさひ
恋愛
とある日、自分が乙女ゲームの世界に転生したことを知ってしまったユーフェミア。そこは前世でハマっていたとはいえ、実際に生きるのにはとんでもなく痛々しい設定がモリモリな世界で羞恥心的な意味で地獄だった!!そんな世界で羞恥心さえ我慢すればモブとして平穏無事に生活できると思っていたのだけれど…?※カクヨム様、ムーンライトノベルズ様でも公開しています。不定期更新です。タイトル回収はだいぶ後半になると思います。前半はただのシリアスです。
婚約破棄目当てで行きずりの人と一晩過ごしたら、何故か隣で婚約者が眠ってた……
木野ダック
恋愛
メティシアは婚約者ーー第二王子・ユリウスの女たらし振りに頭を悩ませていた。舞踏会では自分を差し置いて他の令嬢とばかり踊っているし、彼の隣に女性がいなかったことがない。メティシアが話し掛けようとしたって、ユリウスは平等にとメティシアを後回しにするのである。メティシアは暫くの間、耐えていた。例え、他の男と関わるなと理不尽な言い付けをされたとしても我慢をしていた。けれど、ユリウスが楽しそうに踊り狂う中飛ばしてきたウインクにより、メティシアの堪忍袋の緒が切れた。もう無理!そうだ、婚約破棄しよう!とはいえ相手は王族だ。そう簡単には婚約破棄できまい。ならばーー貞操を捨ててやろう!そんなわけで、メティシアはユリウスとの婚約破棄目当てに仮面舞踏会へ、行きずりの相手と一晩を共にするのであった。けど、あれ?なんで貴方が隣にいるの⁉︎
記憶を失くした代わりに攻略対象の婚約者だったことを思い出しました
冬野月子
恋愛
ある日目覚めると記憶をなくしていた伯爵令嬢のアレクシア。
家族の事も思い出せず、けれどアレクシアではない別の人物らしき記憶がうっすらと残っている。
過保護な弟と仲が悪かったはずの婚約者に大事にされながら、やがて戻った学園である少女と出会い、ここが前世で遊んでいた「乙女ゲーム」の世界だと思い出し、自分は攻略対象の婚約者でありながらゲームにはほとんど出てこないモブだと知る。
関係のないはずのゲームとの関わり、そして自身への疑問。
記憶と共に隠された真実とは———
※小説家になろうでも投稿しています。
死亡フラグ立ち済悪役令嬢ですけど、ここから助かる方法を教えて欲しい。
待鳥園子
恋愛
婚約破棄されて地下牢へ連行されてしまう断罪の時……何故か前世の記憶が蘇った!
ここは乙女ゲームの世界で、断罪され済の悪役令嬢だった。地下牢に囚えられてしまい、死亡フラグが見事立ち済。
このままでは、すぐに処刑されてしまう。
そこに、以前親しくしていた攻略対象者の一人、騎士団長のナザイレが、地下牢に現れて……?
婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)
婚約破棄したい悪役令嬢と呪われたヤンデレ王子
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「フレデリック殿下、私が十七歳になったときに殿下の運命の方が現れるので安心して下さい」と婚約者は嬉々として自分の婚約破棄を語る。
それを阻止すべくフレデリックは婚約者のレティシアに愛を囁き、退路を断っていく。
そしてレティシアが十七歳に、フレデリックは真実を語る。
※王子目線です。
※一途で健全?なヤンデレ
※ざまああり。
※なろう、カクヨムにも掲載
あなたの嫉妬なんて知らない
abang
恋愛
「あなたが尻軽だとは知らなかったな」
「あ、そう。誰を信じるかは自由よ。じゃあ、終わりって事でいいのね」
「は……終わりだなんて、」
「こんな所にいらしたのね!お二人とも……皆探していましたよ……
"今日の主役が二人も抜けては"」
婚約パーティーの夜だった。
愛おしい恋人に「尻軽」だと身に覚えのない事で罵られたのは。
長年の恋人の言葉よりもあざとい秘書官の言葉を信頼する近頃の彼にどれほど傷ついただろう。
「はー、もういいわ」
皇帝という立場の恋人は、仕事仲間である優秀な秘書官を信頼していた。
彼女の言葉を信じて私に婚約パーティーの日に「尻軽」だと言った彼。
「公女様は、退屈な方ですね」そういって耳元で嘲笑った秘書官。
だから私は悪女になった。
「しつこいわね、見て分かんないの?貴方とは終わったの」
洗練された公女の所作に、恵まれた女性の魅力に、高貴な家門の名に、男女問わず皆が魅了される。
「貴女は、俺の婚約者だろう!」
「これを見ても?貴方の言ったとおり"尻軽"に振る舞ったのだけど、思いの他皆にモテているの。感謝するわ」
「ダリア!いい加減に……」
嫉妬に燃える皇帝はダリアの新しい恋を次々と邪魔して……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる