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第4章
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《perspective:千尋》
この状況を、一体どう理解すればいいのか。
亜矢は、乱れた服を整えることもなく、自身の肩を両手で抱きながら、ボロボロと大粒の涙を零していた。
「もういい」
暫くその姿を見つめた後、そう言い放って部屋を出た。嗚咽混じりの切なげな声が、後ろから纏わりつくように追いかけてきた。
出来るだけ優しくするつもりだったのに、知らないうちにピアスをつけられたことに腹が立った。終いには、他の男の名前を呼びやがる。
以前の俺だったら、亜矢が泣いて嫌がったとしても、何とかして気持ちを向かせようと躍起になっていたかもしれない。
しかし、そんな気が起きないほどに、あいつは俺の存在を目の前から完全に消し去ったのだ。
「恋する女みたいな顔しやがって……」
チッと小さく舌打ちして、バルコニーのチェアに乱暴に座る。禁煙中で封を閉じたままの箱を取り出し、煙草に火をつけ、そのままぼんやりと煙を燻らせた。
あんなにも、感情的に泣いているところは初めて見た。加えてあのカラダの変化。そんな状態にしてしまうほど、亜矢と深く関わった男とはどんな奴なのだろう。
日本を発つ時、俺は確信していた。
亜矢は昔から、良くも悪くも人の目を惹く男だった。その気になれば恋人なんて簡単にできる。相手は、おそらく女だけではないだろう。
そう思いながらも、確信していたのだ。
亜矢は必ず俺を待っていると。たとえ体を重ねたとしても、恋人だけはつくらないと。
恋や愛が何なのか、あいつがそれを理解する前に、強引に体を奪った。
そんな背徳を犯してまで、俺のすべてを亜矢に浸透させたつもりだった。
それなのに。
俺が4年も目を離していた隙に、驚くほどあいつは大人になって、綺麗になった。
そして、俺を忘れた。
そうしたのは紛れもなく、亜矢が「会いたい」と泣いた男。
「“ユヅキ”、か……」
亜矢が涙に混じらせながら呟いたその名前を、紫煙と共に小さく吐き出した。その途端に胸やけがした。
その単語を発したのは、ずいぶんと久しぶりだった。あの鈍く光った黒いピアスを、目にするのも。
まったく笑えない。
思い出したくもないあの男の名前を、何故、亜矢が口にする。
あの男がつけていたピアスと同じデザインのものが、どうして亜矢の左耳にあるんだ。
「……これは、ただの偶然だ」
先刻からずっと引っかかっていたものを、無理矢理嚥下するように、はっきりと口に出した。
* * *
その夜、俺はリビングのソファで眠った。
翌朝、水の流れる音で目を覚ますと、キッチンに向かう亜矢の姿が目に入った。
「おはよう、亜矢」
後ろ姿に声をかける。顔は見えなかったが、細い肩が揺れたその様子から、明らかにこちらを警戒しているようだった。
昨夜、勝手に行為を中断させたのだ。どういう制裁が下るのか。亜矢はきっとそれを恐れている。
以前は、俺を拒んだことすら、なかったのだから。
「亜矢」
もう一度呼んでみる。今度は強く、振り向かざるを得ないくらいに。
亜矢は返事はせず、コーヒーの香りが立ち上るマグカップを両手に持ち、伏し目がちにこちらへ歩いてきた。
無言でカップが差し出される。それを受け取ると、亜矢はソファの向かいにあるダイニングテーブルの椅子に座った。
目を合わせることもなくそれを飲む亜矢を眺めながら、カップに口をつける。
一口飲んでハッとした。
馴染みのある、まろやかな口当たり。俺好みのドリップの濃さやミルクの分量を完璧に覚えている。ぎこちない手つきでコーヒーを淹れていた、制服姿の亜矢を思い出した。
互いに何も話さず、時間が過ぎる。
亜矢が席を立ったのを気配で感じ、俺は顔を上げた。それと同時に、感情の読めない瞳をスッと向けられる。亜矢は黙って俺を見つめたまま、ゆっくりと傍に寄った。
「亜……」
口を開きかけた瞬間、頬に柔らかいものが当たる。
それが唇だと気づいた時には、亜矢は「いってきます」と小さく言い、リビングの扉へ向かって歩き出していた。
咄嗟に立ち上がって大股に近づき、その背中を抱き締める。ちらと目に入った左耳には、あのピアスはもう無かった。
「やっぱり、お前は……」
亜矢は何も言わず、煩わしげに腕を解き、家を出た。
俺を拒絶したと思ったら、その昔強要したことを、当たり前のようにやる。
あいつの真意はよく解らないが、昨夜の衝撃で消えかけていた、狂おしいほどの愛しさが再び心を満たしてゆくのを感じた。
4年前、最後に亜矢に伝えた言葉は、まるでそれが義務であるかのように、心の中に在り続けた。
――亜矢は、俺のところに戻ってくるんだ。どんなことがあっても、必ず、最後には……
もう決して手放したりはしない。
あの頃のように、生温い愛し方だけは絶対にしない……
この状況を、一体どう理解すればいいのか。
亜矢は、乱れた服を整えることもなく、自身の肩を両手で抱きながら、ボロボロと大粒の涙を零していた。
「もういい」
暫くその姿を見つめた後、そう言い放って部屋を出た。嗚咽混じりの切なげな声が、後ろから纏わりつくように追いかけてきた。
出来るだけ優しくするつもりだったのに、知らないうちにピアスをつけられたことに腹が立った。終いには、他の男の名前を呼びやがる。
以前の俺だったら、亜矢が泣いて嫌がったとしても、何とかして気持ちを向かせようと躍起になっていたかもしれない。
しかし、そんな気が起きないほどに、あいつは俺の存在を目の前から完全に消し去ったのだ。
「恋する女みたいな顔しやがって……」
チッと小さく舌打ちして、バルコニーのチェアに乱暴に座る。禁煙中で封を閉じたままの箱を取り出し、煙草に火をつけ、そのままぼんやりと煙を燻らせた。
あんなにも、感情的に泣いているところは初めて見た。加えてあのカラダの変化。そんな状態にしてしまうほど、亜矢と深く関わった男とはどんな奴なのだろう。
日本を発つ時、俺は確信していた。
亜矢は昔から、良くも悪くも人の目を惹く男だった。その気になれば恋人なんて簡単にできる。相手は、おそらく女だけではないだろう。
そう思いながらも、確信していたのだ。
亜矢は必ず俺を待っていると。たとえ体を重ねたとしても、恋人だけはつくらないと。
恋や愛が何なのか、あいつがそれを理解する前に、強引に体を奪った。
そんな背徳を犯してまで、俺のすべてを亜矢に浸透させたつもりだった。
それなのに。
俺が4年も目を離していた隙に、驚くほどあいつは大人になって、綺麗になった。
そして、俺を忘れた。
そうしたのは紛れもなく、亜矢が「会いたい」と泣いた男。
「“ユヅキ”、か……」
亜矢が涙に混じらせながら呟いたその名前を、紫煙と共に小さく吐き出した。その途端に胸やけがした。
その単語を発したのは、ずいぶんと久しぶりだった。あの鈍く光った黒いピアスを、目にするのも。
まったく笑えない。
思い出したくもないあの男の名前を、何故、亜矢が口にする。
あの男がつけていたピアスと同じデザインのものが、どうして亜矢の左耳にあるんだ。
「……これは、ただの偶然だ」
先刻からずっと引っかかっていたものを、無理矢理嚥下するように、はっきりと口に出した。
* * *
その夜、俺はリビングのソファで眠った。
翌朝、水の流れる音で目を覚ますと、キッチンに向かう亜矢の姿が目に入った。
「おはよう、亜矢」
後ろ姿に声をかける。顔は見えなかったが、細い肩が揺れたその様子から、明らかにこちらを警戒しているようだった。
昨夜、勝手に行為を中断させたのだ。どういう制裁が下るのか。亜矢はきっとそれを恐れている。
以前は、俺を拒んだことすら、なかったのだから。
「亜矢」
もう一度呼んでみる。今度は強く、振り向かざるを得ないくらいに。
亜矢は返事はせず、コーヒーの香りが立ち上るマグカップを両手に持ち、伏し目がちにこちらへ歩いてきた。
無言でカップが差し出される。それを受け取ると、亜矢はソファの向かいにあるダイニングテーブルの椅子に座った。
目を合わせることもなくそれを飲む亜矢を眺めながら、カップに口をつける。
一口飲んでハッとした。
馴染みのある、まろやかな口当たり。俺好みのドリップの濃さやミルクの分量を完璧に覚えている。ぎこちない手つきでコーヒーを淹れていた、制服姿の亜矢を思い出した。
互いに何も話さず、時間が過ぎる。
亜矢が席を立ったのを気配で感じ、俺は顔を上げた。それと同時に、感情の読めない瞳をスッと向けられる。亜矢は黙って俺を見つめたまま、ゆっくりと傍に寄った。
「亜……」
口を開きかけた瞬間、頬に柔らかいものが当たる。
それが唇だと気づいた時には、亜矢は「いってきます」と小さく言い、リビングの扉へ向かって歩き出していた。
咄嗟に立ち上がって大股に近づき、その背中を抱き締める。ちらと目に入った左耳には、あのピアスはもう無かった。
「やっぱり、お前は……」
亜矢は何も言わず、煩わしげに腕を解き、家を出た。
俺を拒絶したと思ったら、その昔強要したことを、当たり前のようにやる。
あいつの真意はよく解らないが、昨夜の衝撃で消えかけていた、狂おしいほどの愛しさが再び心を満たしてゆくのを感じた。
4年前、最後に亜矢に伝えた言葉は、まるでそれが義務であるかのように、心の中に在り続けた。
――亜矢は、俺のところに戻ってくるんだ。どんなことがあっても、必ず、最後には……
もう決して手放したりはしない。
あの頃のように、生温い愛し方だけは絶対にしない……
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