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「信司」
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自分が中島の傍にいることで、自分と梶のように断ち切ることのできない繋がりになるのではないか。
離れなければならないとわかっていても、分かつことのできない鎖のような関係になってしまうのではないか。
そのときには、自分は中島を振り切ることはできないだろう。
柔らかく受け止めてくれる中島の腕を知ってしまった。
抱き締められるだけで何もかもが消え去る瞬間を知ってしまった。
どんなに溺れても苦しくはない。終わることのない甘い余韻に満たされていく。だから怖い。
中島も自分も、戻れなくなるときが来る。
撫でていた中島の手が、逢坂の髪を梳いた。数回梳かしてから、指先で逢坂の髪を弄った。手が耳へ降りて首筋に触れた。
くすぐったくて顔を上げた。中島と目が合った。目を細めているから、笑っているのかと思った。
唇を噛みしめて、逢坂の顔を見ている。重ねていた手に力を込めてきた。心の内を知られたくないから、逢坂は視線を外した。中島の顔の向こうに見える景色を眺めた。
うすい水色の空を見た。
やけに晴れている。見ているだけで風を感じた。
車が逢坂のマンションの前で止まった。
「ありがとう。明後日に会おうな」
礼を言ってドアを開けたら、中島に腕を引っ張られた。中島に抱きつくかたちになった。顔が近づいてくる。キスされると気づき逃れようとしたが、放してはくれなかった。
顎を掴み、唇を押し付けてくる。わざと音を立てているだとわかっていた。口内で中島の舌が蠢く。逢坂は応えなかった。開け放ったドアから外気が入り込んでくる。日差しが背に当たっていた。
唇が離れていく。中島が顔を窺ってきた。
「すみません」
そう言って、中島は抱き締めてきた。逢坂は首を振って抱き返した。
走り去る車を逢坂は眺めていたが、やがて歩き出した。
自分の部屋に入ると、逢坂はコートを脱いだ。ネクタイを緩めようとしたがやめて、笠井のスマホへ電話をかけた。
今日のことを報告しなくてはならない。数回のコールのあと、笠井が出た。逢坂はソファに座らず、その場で話した。中島が梶を殴ってしまったと言った。
笠井は息を吐いてしばし黙っている。これから処理しなくてはいけない事柄が頭をめぐっているのだろう。
「社長。彼のせいではありません。私がもっとしっかりしていればこんなことにはならかったんです。中島の処分は軽くしてください」
沈黙している笠井に、逢坂が話しつづけた。言葉を繋げなければ事態は悪化すると思った。
「おまえらしくないな。相手に考える時間を与えないなんて」
逢坂は答えなかった。
「明日出勤してこい。午前十時、社長室で待っている」
わかりましたと言って、逢坂は受話器を置いた。ソファに座り俯いた。息を殺し、考えた。
中島のためなら事情なんてどうにでも変えられる。逢坂は息を整えた。
嘘をつくのなら自分の心から騙していかなくてはならない。己の心さえも偽れば見抜かれないだろう。意識を集中させたとき、何度も中島の顔がよぎった。
西日が窓から差し込んでいた。
ベッドの白いシーツに、午後の陽が当たっていた。
抱かれた夜を思い出した。
向き合って中島の顔を見つめていたら、眠ってくださいと言われた。背中を優しく叩かれたので、子供じゃないのにと笑った。中島は手を止めなかった。
中島の肌からは、いっときの熱は引いていた。抱かれている間は、互いの躯が溶けてしまうのではないかと思った。
瞼が重くなったとき、中島の声が聞こえた。
俺の名前を呼んで、と言っていた。目を閉じたまま、逢坂は唇を動かした。思うように声が出なかった。
眠りたくない。そう思った夜は初めてだった。
スマホが鳴った。胸ポケットから取り出し画面を見た。
中島からだった。
「すみません。編集長の声が聞きたくなって」
「俺も聞きたかった。おかしいよな、会ったばかりなのに」
中島は笑っていた。逢坂はスマホを手で覆った。
確実に自分の声が届くようにした。
「信司」
スマホの向こうで中島が息を飲むのがわかった。すぐに穏やかな声で話しかけられた。
「どうしたんですか、急に」
「あのとき、ちゃんと言っていなかったから」
「聞こえていましたよ。でも、もう一回言ってください」
「信司」
再び名前を呼んだ。思わず、笑みが零れた。
「俺、今すぐそっちへ行きたいです」
逢坂は答えなかった。会えば自分の決心が揺らいでしまう。
「これから出かけなくてはいけないんです。その前に、編集長の声が聞けて嬉しかった」
切らなくてはと思ったのに、言い出せなかった。少しずつ言葉が途切れがちになり、互いの声は小さくなった。
はっきりとした声で中島が話しかけてきた。
「編集長がいてくれたら、どんなことでもできるんです。護りたいなと思ったら何でもできるんですよ」
受賞パーティで梶が言っていた言葉を思い出した。中島が脅した、と言っていた。
「おまえは強いよ」
「好きだからこうなってしまうんです」
「俺は強くないよ。おまえに応えてこなかった……」
(これからも……悲しませるんだろうな)
「ごめん……」
「編集長?」
中島への思いだけを抱えて、他のものは全て捨ててしまいたかった。でも、そんなことでは暮らしていけないとわかっている。逢坂は窓の景色を見た。
離れなければならないとわかっていても、分かつことのできない鎖のような関係になってしまうのではないか。
そのときには、自分は中島を振り切ることはできないだろう。
柔らかく受け止めてくれる中島の腕を知ってしまった。
抱き締められるだけで何もかもが消え去る瞬間を知ってしまった。
どんなに溺れても苦しくはない。終わることのない甘い余韻に満たされていく。だから怖い。
中島も自分も、戻れなくなるときが来る。
撫でていた中島の手が、逢坂の髪を梳いた。数回梳かしてから、指先で逢坂の髪を弄った。手が耳へ降りて首筋に触れた。
くすぐったくて顔を上げた。中島と目が合った。目を細めているから、笑っているのかと思った。
唇を噛みしめて、逢坂の顔を見ている。重ねていた手に力を込めてきた。心の内を知られたくないから、逢坂は視線を外した。中島の顔の向こうに見える景色を眺めた。
うすい水色の空を見た。
やけに晴れている。見ているだけで風を感じた。
車が逢坂のマンションの前で止まった。
「ありがとう。明後日に会おうな」
礼を言ってドアを開けたら、中島に腕を引っ張られた。中島に抱きつくかたちになった。顔が近づいてくる。キスされると気づき逃れようとしたが、放してはくれなかった。
顎を掴み、唇を押し付けてくる。わざと音を立てているだとわかっていた。口内で中島の舌が蠢く。逢坂は応えなかった。開け放ったドアから外気が入り込んでくる。日差しが背に当たっていた。
唇が離れていく。中島が顔を窺ってきた。
「すみません」
そう言って、中島は抱き締めてきた。逢坂は首を振って抱き返した。
走り去る車を逢坂は眺めていたが、やがて歩き出した。
自分の部屋に入ると、逢坂はコートを脱いだ。ネクタイを緩めようとしたがやめて、笠井のスマホへ電話をかけた。
今日のことを報告しなくてはならない。数回のコールのあと、笠井が出た。逢坂はソファに座らず、その場で話した。中島が梶を殴ってしまったと言った。
笠井は息を吐いてしばし黙っている。これから処理しなくてはいけない事柄が頭をめぐっているのだろう。
「社長。彼のせいではありません。私がもっとしっかりしていればこんなことにはならかったんです。中島の処分は軽くしてください」
沈黙している笠井に、逢坂が話しつづけた。言葉を繋げなければ事態は悪化すると思った。
「おまえらしくないな。相手に考える時間を与えないなんて」
逢坂は答えなかった。
「明日出勤してこい。午前十時、社長室で待っている」
わかりましたと言って、逢坂は受話器を置いた。ソファに座り俯いた。息を殺し、考えた。
中島のためなら事情なんてどうにでも変えられる。逢坂は息を整えた。
嘘をつくのなら自分の心から騙していかなくてはならない。己の心さえも偽れば見抜かれないだろう。意識を集中させたとき、何度も中島の顔がよぎった。
西日が窓から差し込んでいた。
ベッドの白いシーツに、午後の陽が当たっていた。
抱かれた夜を思い出した。
向き合って中島の顔を見つめていたら、眠ってくださいと言われた。背中を優しく叩かれたので、子供じゃないのにと笑った。中島は手を止めなかった。
中島の肌からは、いっときの熱は引いていた。抱かれている間は、互いの躯が溶けてしまうのではないかと思った。
瞼が重くなったとき、中島の声が聞こえた。
俺の名前を呼んで、と言っていた。目を閉じたまま、逢坂は唇を動かした。思うように声が出なかった。
眠りたくない。そう思った夜は初めてだった。
スマホが鳴った。胸ポケットから取り出し画面を見た。
中島からだった。
「すみません。編集長の声が聞きたくなって」
「俺も聞きたかった。おかしいよな、会ったばかりなのに」
中島は笑っていた。逢坂はスマホを手で覆った。
確実に自分の声が届くようにした。
「信司」
スマホの向こうで中島が息を飲むのがわかった。すぐに穏やかな声で話しかけられた。
「どうしたんですか、急に」
「あのとき、ちゃんと言っていなかったから」
「聞こえていましたよ。でも、もう一回言ってください」
「信司」
再び名前を呼んだ。思わず、笑みが零れた。
「俺、今すぐそっちへ行きたいです」
逢坂は答えなかった。会えば自分の決心が揺らいでしまう。
「これから出かけなくてはいけないんです。その前に、編集長の声が聞けて嬉しかった」
切らなくてはと思ったのに、言い出せなかった。少しずつ言葉が途切れがちになり、互いの声は小さくなった。
はっきりとした声で中島が話しかけてきた。
「編集長がいてくれたら、どんなことでもできるんです。護りたいなと思ったら何でもできるんですよ」
受賞パーティで梶が言っていた言葉を思い出した。中島が脅した、と言っていた。
「おまえは強いよ」
「好きだからこうなってしまうんです」
「俺は強くないよ。おまえに応えてこなかった……」
(これからも……悲しませるんだろうな)
「ごめん……」
「編集長?」
中島への思いだけを抱えて、他のものは全て捨ててしまいたかった。でも、そんなことでは暮らしていけないとわかっている。逢坂は窓の景色を見た。
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