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誰もいないところに連れ去りたくなります
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「何言っているんだよ」
真顔で、皆川は前を見ている。
「ときどき、編集長を誰もいないところへ連れ去りたくなります。そうすれば、あなたは痛みを知らなくて済む」
流れは遅くなり、車はほとんど進まない。
行き来する車に気を配っているから、真剣な目をしている。そう思いたかった。
「ずっと、私だけに笑ってくれる」
冗談だと思いたかった。
サイドミラーに自分の顔が映っている。悲しくないのに笑えない。嬉しいのに受け止められない。
揺れる、自分の瞳の光を見つめた。
「気づかなかったよ……」
「一番好きな人が傍にいたからですよ。私より大切にしたい人が、あなたの心を満たしていた」
向かいの道路を、鮮やかな新緑の色をした車が走っていく。一瞬、皆川が車を見た。
「今では、緑が嫌いな色になりました」
「皆川。会場には予定通りに着くのか」
数台前の車が動き出す。
「キスしてくれたら連れて行きます」
「皆川、それはできない」
ごめん、と逢坂は小さな声で言った。
皆川が逢坂の手を取り、唇を落とした。
「これで許してあげます」
いつも見せてくれる安らぐ顔だった。
会場のホテルに着いた。地下の駐車場に車を止め、エレベーターに乗った。
ロビーに出ると皆川がスマホを取り出した。
先に行くと逢坂は言ったが、腕を掴まれた。
「一緒に行きましょう」
立ち聞きしたくないので距離を置いた。隅に置かれた、大きく丸い形に生けてある、薄紅色の花を見つめた。
それでも静かなロビーに響く、皆川の声を聞いてしまった。
「皆川だ、ホテルに着いたよ。編集長もいる。おまえが来るのを待っているからな」
留守番電話にかけているらしく、一方的に話して切った。知り合いの出席者への伝言だったのだろう。桧山かもしれないと考えた。たとえ私情のもつれがあっても、皆川なら割り切って仕事の付き合いをしていくだろう。
俊英賞は、四十歳以下の作家に贈られる。昨年受賞した桧山は、きっと来るだろう。桧山は史上最年少で受賞したのでマスコミでも取り上げられた。おかげで、笠井出版で出した桧山の書籍は増刷できた。
再び、皆川とエレベーターに乗った。他社の編集者たちに会ったので、当たり障りのない挨拶をした。
会場のホールがある十階に着いた。自然と親しい者同士の固まりになり、廊下を歩いた。
逢坂は隣を歩く皆川に話しかけた。
「桧山先生に会ったら受賞作の感想でも聞くよ。先生と同世代の作品だから、いい刺激になっているだろうな」
「桧山先生は来ませんよ」
取材旅行のために、京都へ行ったと言う。新作が楽しみだと逢坂は返した。
皆川の電話の相手が気になったが、詮索はしなかった。
ホールに入ると、既に多くの人が来ていた。いくつか集まりができているので、見回して知っている顔を探した。
花を胸につけている受賞作家の周りには人だかりができている。タイミングを見て挨拶したいと逢坂は考えた。
肩を叩かれた。和服の男だ。馴染みの年配作家で俊英賞の選考委員だ。お久しぶりです、と言い頭を下げた。男はふたりを眺めた。
「皆川と来たのか。怖いもの知らずだね」
「どういう意味ですか」
皆川が言い返したので、逢坂は制した。
「言いたいことはわかりますよ。昔の男と今の男が仲良くしているのは、妙だと言うんでしょう」
遠回しに攻撃する者には、正面から立ち向かうしかない。相手の揶揄なんか、傷にはならないと示すべきだ。
覚悟はできていた。宇津木から聞いているので、人々が何を言っているかは想像できる。
「男が絡んでも、仕事はこなさないといけません」
全くだ、と男は大声で笑いながら立ち去った。逢坂は息を吐いた。平静を装い、顔を上げる。
「皆川、別行動しようか。挨拶回りは手分けしたほうが早いだろ」
とっさに思いついた理由だと皆川はわかっているだろう。
「はい。ありがとうございます」
礼を言ってもらうことではない。
皆川のためではなかった。噂に晒される自分の姿を見せたくなかった。
授賞式が始まった。逢坂は壁際で受賞作家のスピーチを聞いていた。白っぽいスーツを着た三十代の男が壇上に上がっている。
酒を飲んでいるのだろう、早口でしゃべり喜びを全身で表わしている。
名刺は式が始まる前に渡せた。あなたの活躍は知っていると言われたとき、どう返そうか迷った。笑う男の顔が忘れられない。スピーチが終わり、逢坂は無表情で拍手した。
授賞式が終わり、参加者の会合になった。
初対面の人によく話しかけられる。いつもより名刺の減りが早かった。顔馴染みとは近況報告をするくらいだった。
誰に会っても腹を探られているように感じた。相手の一言が、自分の返事が、刃となり跳ね返ってくる気がした。
今いる場所が薄く削られて、立っているのも危うい感覚がしてきた。
「顔色が悪いですよ」
梶が近づいてきた。ブルーブラックのスーツを着ている。からかわれると思ったのに、梶は笑わずに見つめてきた。
大丈夫だと言って離れようとした。
腰を掴まれ、抱き寄せられた。周囲の目がこちらに向けられているように思えた。頬を撫でられた。
温かったので目を閉じてしまう。
「逢坂さん、無理しないでください」
耳元で梶の声が聞こえてきた。
「少し休みませんか。部屋を用意します」
真顔で、皆川は前を見ている。
「ときどき、編集長を誰もいないところへ連れ去りたくなります。そうすれば、あなたは痛みを知らなくて済む」
流れは遅くなり、車はほとんど進まない。
行き来する車に気を配っているから、真剣な目をしている。そう思いたかった。
「ずっと、私だけに笑ってくれる」
冗談だと思いたかった。
サイドミラーに自分の顔が映っている。悲しくないのに笑えない。嬉しいのに受け止められない。
揺れる、自分の瞳の光を見つめた。
「気づかなかったよ……」
「一番好きな人が傍にいたからですよ。私より大切にしたい人が、あなたの心を満たしていた」
向かいの道路を、鮮やかな新緑の色をした車が走っていく。一瞬、皆川が車を見た。
「今では、緑が嫌いな色になりました」
「皆川。会場には予定通りに着くのか」
数台前の車が動き出す。
「キスしてくれたら連れて行きます」
「皆川、それはできない」
ごめん、と逢坂は小さな声で言った。
皆川が逢坂の手を取り、唇を落とした。
「これで許してあげます」
いつも見せてくれる安らぐ顔だった。
会場のホテルに着いた。地下の駐車場に車を止め、エレベーターに乗った。
ロビーに出ると皆川がスマホを取り出した。
先に行くと逢坂は言ったが、腕を掴まれた。
「一緒に行きましょう」
立ち聞きしたくないので距離を置いた。隅に置かれた、大きく丸い形に生けてある、薄紅色の花を見つめた。
それでも静かなロビーに響く、皆川の声を聞いてしまった。
「皆川だ、ホテルに着いたよ。編集長もいる。おまえが来るのを待っているからな」
留守番電話にかけているらしく、一方的に話して切った。知り合いの出席者への伝言だったのだろう。桧山かもしれないと考えた。たとえ私情のもつれがあっても、皆川なら割り切って仕事の付き合いをしていくだろう。
俊英賞は、四十歳以下の作家に贈られる。昨年受賞した桧山は、きっと来るだろう。桧山は史上最年少で受賞したのでマスコミでも取り上げられた。おかげで、笠井出版で出した桧山の書籍は増刷できた。
再び、皆川とエレベーターに乗った。他社の編集者たちに会ったので、当たり障りのない挨拶をした。
会場のホールがある十階に着いた。自然と親しい者同士の固まりになり、廊下を歩いた。
逢坂は隣を歩く皆川に話しかけた。
「桧山先生に会ったら受賞作の感想でも聞くよ。先生と同世代の作品だから、いい刺激になっているだろうな」
「桧山先生は来ませんよ」
取材旅行のために、京都へ行ったと言う。新作が楽しみだと逢坂は返した。
皆川の電話の相手が気になったが、詮索はしなかった。
ホールに入ると、既に多くの人が来ていた。いくつか集まりができているので、見回して知っている顔を探した。
花を胸につけている受賞作家の周りには人だかりができている。タイミングを見て挨拶したいと逢坂は考えた。
肩を叩かれた。和服の男だ。馴染みの年配作家で俊英賞の選考委員だ。お久しぶりです、と言い頭を下げた。男はふたりを眺めた。
「皆川と来たのか。怖いもの知らずだね」
「どういう意味ですか」
皆川が言い返したので、逢坂は制した。
「言いたいことはわかりますよ。昔の男と今の男が仲良くしているのは、妙だと言うんでしょう」
遠回しに攻撃する者には、正面から立ち向かうしかない。相手の揶揄なんか、傷にはならないと示すべきだ。
覚悟はできていた。宇津木から聞いているので、人々が何を言っているかは想像できる。
「男が絡んでも、仕事はこなさないといけません」
全くだ、と男は大声で笑いながら立ち去った。逢坂は息を吐いた。平静を装い、顔を上げる。
「皆川、別行動しようか。挨拶回りは手分けしたほうが早いだろ」
とっさに思いついた理由だと皆川はわかっているだろう。
「はい。ありがとうございます」
礼を言ってもらうことではない。
皆川のためではなかった。噂に晒される自分の姿を見せたくなかった。
授賞式が始まった。逢坂は壁際で受賞作家のスピーチを聞いていた。白っぽいスーツを着た三十代の男が壇上に上がっている。
酒を飲んでいるのだろう、早口でしゃべり喜びを全身で表わしている。
名刺は式が始まる前に渡せた。あなたの活躍は知っていると言われたとき、どう返そうか迷った。笑う男の顔が忘れられない。スピーチが終わり、逢坂は無表情で拍手した。
授賞式が終わり、参加者の会合になった。
初対面の人によく話しかけられる。いつもより名刺の減りが早かった。顔馴染みとは近況報告をするくらいだった。
誰に会っても腹を探られているように感じた。相手の一言が、自分の返事が、刃となり跳ね返ってくる気がした。
今いる場所が薄く削られて、立っているのも危うい感覚がしてきた。
「顔色が悪いですよ」
梶が近づいてきた。ブルーブラックのスーツを着ている。からかわれると思ったのに、梶は笑わずに見つめてきた。
大丈夫だと言って離れようとした。
腰を掴まれ、抱き寄せられた。周囲の目がこちらに向けられているように思えた。頬を撫でられた。
温かったので目を閉じてしまう。
「逢坂さん、無理しないでください」
耳元で梶の声が聞こえてきた。
「少し休みませんか。部屋を用意します」
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