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あなたに汚されたら困る
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選考会が始まる前は、決まって世間話で盛り上がる。
話す人々の手にはたいてい、煙草がある。
皆、席には座らずに立って話しこんでいる。それぞれが読み終え、持ってきた原稿がテーブルに置かれていた。原稿が燻されるのではないかと、逢坂は思った。
逢坂は壁際で、人々の間から立ちこめる煙を見つめていた。誰かと話すつもりはなく、持っている手帳を時折、眺めた。
明日、俊英賞の受賞パーティがある。皆川と出席するつもりだ。この場所よりも広い会場で行われる。煙臭くないから助かる。
煙草の煙を吸うと、息が詰まってしまう。少し吸うくらいで体を壊すわけがない。そう思っても、気になってしまう。
「逢坂君。君は吸わないのかね」
逢坂より二十歳くらい年上の小柄な男が話しかけてきた。名前が思い出せなかった。皆川が前に勤めていた出版社の上司だったはずだ。
煙草を差し出されたが断った。
「すみません。吸ったことがないので無理です」
珍しいな、と男は呟いた。
「汚れを知らないまっさらな肺なのか」
男は目を見開いて、逢坂の胸の辺りを見た。大げさですよ、と逢坂は笑って返した。
「父がかなり吸っていましたから、多少は汚れています」
煙草の話をしてくれた父を思い浮かべた。あの銘柄はきつすぎるからだめ、この銘柄は香りがいい。最後には必ず、煙草は吸わないに越したことがないと呟いていた。
父の煙草はいやではなかった。使い終わった灰皿を逢坂が洗うこともあった。銘柄によって煙が違うのだろうかと、逢坂は考えた。
「四十にもなろうとしているのに、煙草の味も知らない男……か」
男が逢坂の胸を撫でた。突然のことで動けなかった。胸のなだらかな曲線に沿って触り、力を込めてくる。
声が出た。女のように高い声だったので恥ずかしかった。
思い出した。数年前に皆川を通じて男と知り合った。ある書籍の出版パーティだった。
あのときも体をひと撫でされた。女相手なら訴えられるから、男ばかり触るのだと皆川が言っていた。
「やめてください。男の胸なんて触っても面白くないですよ」
突き飛ばしたくなったが堪えて、男の手首を掴んだ。逢坂は笑顔を忘れなかった。
男の視線が逢坂の全身を這う。
「男同士というのはどうやるんだ、君なら知っているだろ」
逢坂は手を離した。言葉を返そうにも声が出ない。
昔、同じ言葉を言われたことがある。目の前の男と、あのときの男の顔が重なった。
抵抗しないのを了承と取ったのだろう。男が体を寄せてきた。逢坂は声も出せなかった。
「私のかわいい息子に手を出すなんて、感心しませんな」
誰かが間に入った。臙脂色のセーターを着た、白髪の男だった。
「宇津木先生」
逢坂を庇うように宇津木は腕に抱きこんだ。
「純情な息子があなたに汚されたら困る」
腹の底から響かせた低い声だった
ぶつぶつと呟きながら、男は去っていった。宇津木は、逢坂の両腕を掴んで顔を覗きこんできた。
「しっかりしろ。君は狙われやすいと前にも言っただろ」
厳しい口調だったが、宇津木は穏やかな顔だった。この表情を見る度に、逢坂は父を思い出した。
何度も礼を言った。
「そんなかわいい顔をするな。危なっかしくて見ていられないな」
大きな乾いた手で頬を撫でられた。
宇津木は酒が入るとよくこうしてくる。酔っているのかと尋ねたら、宇津木は否定した。笑いながら逢坂の肩を抱いてくる。
「ああ、失敗したな。酒のせいにすれば君を抱き締められた」
宇津木が囁いた。
「選考会が終わったら、私の家に来なさい。話したいことがある」
逢坂は頷いた。宇津木は会場の中央へ向かった。
「皆さん。少し早いですが決めてしまいましょう」
手を叩いて呼びかけた。ばらばらになっていた人々が集まる。逢坂も輪に加わった。
一瞬宇津木が見せた、つらそうな顔が忘れられなかった。
選考会のあとに宇津木とともにタクシーに乗った。宇津木の家に着き、逢坂は財布を出し料金を払おうとした。しかし宇津木が制した。
外食でも宇津木は、相手に払わせる時間を与えない。礼を言いながら、お返しになることを自分がしているのかと、逢坂はいつも考えてしまう。
靴を脱いでリビングのソファに座ると、体の力が緩むのを感じた。他人の家だが、何度も通っているので安らぐ。
室内を見回した。内壁も戸棚もテーブルも、年月を思わせる木の色をしている。カーテンやクッションは深い緑で統一していた。
「すまない。茶菓子を切らしていた。お茶しか出せない」
構いません、と逢坂は返した。宇津木の家はリビングとキッチンが繋がっている。奥から、湯を沸かす音が聞こえた。
待っている間、戸棚にある写真を眺めていた。
左端の写真には、入社したばかりの逢坂と白髪混じりの宇津木が写っている。宇津木の妻が撮った写真だ。
お盆に湯呑みを乗せて、宇津木がリビングに来た。
「昔の逢坂さんは優しい顔だったのかと、それを見た編集者は必ず言っているな」
「優しいというより頼りない顔ですよ」
シャッターを切る瞬間、宇津木に抱き寄せられたことを今でも覚えている。出来上がった写真を見て、自分はスーツが似合わない男だと思った。隣の写真に視線を移した。
中島と宇津木が肩を組んで写っている。
話す人々の手にはたいてい、煙草がある。
皆、席には座らずに立って話しこんでいる。それぞれが読み終え、持ってきた原稿がテーブルに置かれていた。原稿が燻されるのではないかと、逢坂は思った。
逢坂は壁際で、人々の間から立ちこめる煙を見つめていた。誰かと話すつもりはなく、持っている手帳を時折、眺めた。
明日、俊英賞の受賞パーティがある。皆川と出席するつもりだ。この場所よりも広い会場で行われる。煙臭くないから助かる。
煙草の煙を吸うと、息が詰まってしまう。少し吸うくらいで体を壊すわけがない。そう思っても、気になってしまう。
「逢坂君。君は吸わないのかね」
逢坂より二十歳くらい年上の小柄な男が話しかけてきた。名前が思い出せなかった。皆川が前に勤めていた出版社の上司だったはずだ。
煙草を差し出されたが断った。
「すみません。吸ったことがないので無理です」
珍しいな、と男は呟いた。
「汚れを知らないまっさらな肺なのか」
男は目を見開いて、逢坂の胸の辺りを見た。大げさですよ、と逢坂は笑って返した。
「父がかなり吸っていましたから、多少は汚れています」
煙草の話をしてくれた父を思い浮かべた。あの銘柄はきつすぎるからだめ、この銘柄は香りがいい。最後には必ず、煙草は吸わないに越したことがないと呟いていた。
父の煙草はいやではなかった。使い終わった灰皿を逢坂が洗うこともあった。銘柄によって煙が違うのだろうかと、逢坂は考えた。
「四十にもなろうとしているのに、煙草の味も知らない男……か」
男が逢坂の胸を撫でた。突然のことで動けなかった。胸のなだらかな曲線に沿って触り、力を込めてくる。
声が出た。女のように高い声だったので恥ずかしかった。
思い出した。数年前に皆川を通じて男と知り合った。ある書籍の出版パーティだった。
あのときも体をひと撫でされた。女相手なら訴えられるから、男ばかり触るのだと皆川が言っていた。
「やめてください。男の胸なんて触っても面白くないですよ」
突き飛ばしたくなったが堪えて、男の手首を掴んだ。逢坂は笑顔を忘れなかった。
男の視線が逢坂の全身を這う。
「男同士というのはどうやるんだ、君なら知っているだろ」
逢坂は手を離した。言葉を返そうにも声が出ない。
昔、同じ言葉を言われたことがある。目の前の男と、あのときの男の顔が重なった。
抵抗しないのを了承と取ったのだろう。男が体を寄せてきた。逢坂は声も出せなかった。
「私のかわいい息子に手を出すなんて、感心しませんな」
誰かが間に入った。臙脂色のセーターを着た、白髪の男だった。
「宇津木先生」
逢坂を庇うように宇津木は腕に抱きこんだ。
「純情な息子があなたに汚されたら困る」
腹の底から響かせた低い声だった
ぶつぶつと呟きながら、男は去っていった。宇津木は、逢坂の両腕を掴んで顔を覗きこんできた。
「しっかりしろ。君は狙われやすいと前にも言っただろ」
厳しい口調だったが、宇津木は穏やかな顔だった。この表情を見る度に、逢坂は父を思い出した。
何度も礼を言った。
「そんなかわいい顔をするな。危なっかしくて見ていられないな」
大きな乾いた手で頬を撫でられた。
宇津木は酒が入るとよくこうしてくる。酔っているのかと尋ねたら、宇津木は否定した。笑いながら逢坂の肩を抱いてくる。
「ああ、失敗したな。酒のせいにすれば君を抱き締められた」
宇津木が囁いた。
「選考会が終わったら、私の家に来なさい。話したいことがある」
逢坂は頷いた。宇津木は会場の中央へ向かった。
「皆さん。少し早いですが決めてしまいましょう」
手を叩いて呼びかけた。ばらばらになっていた人々が集まる。逢坂も輪に加わった。
一瞬宇津木が見せた、つらそうな顔が忘れられなかった。
選考会のあとに宇津木とともにタクシーに乗った。宇津木の家に着き、逢坂は財布を出し料金を払おうとした。しかし宇津木が制した。
外食でも宇津木は、相手に払わせる時間を与えない。礼を言いながら、お返しになることを自分がしているのかと、逢坂はいつも考えてしまう。
靴を脱いでリビングのソファに座ると、体の力が緩むのを感じた。他人の家だが、何度も通っているので安らぐ。
室内を見回した。内壁も戸棚もテーブルも、年月を思わせる木の色をしている。カーテンやクッションは深い緑で統一していた。
「すまない。茶菓子を切らしていた。お茶しか出せない」
構いません、と逢坂は返した。宇津木の家はリビングとキッチンが繋がっている。奥から、湯を沸かす音が聞こえた。
待っている間、戸棚にある写真を眺めていた。
左端の写真には、入社したばかりの逢坂と白髪混じりの宇津木が写っている。宇津木の妻が撮った写真だ。
お盆に湯呑みを乗せて、宇津木がリビングに来た。
「昔の逢坂さんは優しい顔だったのかと、それを見た編集者は必ず言っているな」
「優しいというより頼りない顔ですよ」
シャッターを切る瞬間、宇津木に抱き寄せられたことを今でも覚えている。出来上がった写真を見て、自分はスーツが似合わない男だと思った。隣の写真に視線を移した。
中島と宇津木が肩を組んで写っている。
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