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〜第六話 いつかまた好きだと言って
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「とにかく落ち着いて。まずは心当たりのある場所を探そう」
加山の冷静な声に、芳春は、少しづつ落ち着きを取り戻して行った。
千尋の気配が消えていることに気付いた時、芳春は、頭がどうにかなってしまいそうなほど気が動転し、発作的に家を飛び出していた。
スマホを片手に、震える指で千尋の連絡先の発信ボタンを押し、呼び出し音を聞きながら、コンビニまでの下り坂をがむしゃらに走った。
店の中に駆け込み、どこにもいない千尋と一向に繋がらない電話に業を煮やし、わらをも掴む気持ちで加山に連絡を取った。
早朝にも関わらず、加山はすぐに応答し、芳春に取り敢えずアパートに戻るよう促した。
それから小一時間ほどして加山は芳春の元へ駆けつけた。
「千尋くんが行きそうな場所……千尋くんの友達とか知り合いとか何か解らない?」
芳春は、咄嗟に後藤龍一の顔を思い浮かべた。
真っ先に、ではなく、後藤龍一の顔以外思い浮かばなかった。
千尋と深い付き合いをするようになって二ヶ月弱。その間、芳春の知る限り、千尋に友達らしい知り合いは一人もいなかった。千尋は、後藤龍一と、後藤龍一の周りの小さな世界の中だけで生きていた。
芳春は、後藤龍一の名前を伝えるとともに、後藤龍一と千尋の関係とこれまでの生活、自分が千尋と暮らすことになった経緯を加山に全て打ち明けた。
にわかには信じられない話に加山がどう反応するのか気になったが、芳春の心配をよそに、加山は大きく表情を崩すことなく芳春の話に耳を傾けた。
「つまり、千尋くんは、その後藤、って男に売春させられている、ということなんだね」
ハッキリと言葉にされたことで、目を背けていた事実がより明確な真実となって芳春に迫った。
いきなり胸を突かれたような衝撃に、芳春は眉間を顰めながら奥歯を噛み締めた。
「あいつは千尋を喰い物にしてるんだ。引き離さないと今に大変なことになる」
加山は落ち着いた様子で芳春の話しを聞いていたが、その目は、どこか思い詰めたような暗い影を漂わせていた。
「その可能性もあるとは思ってたけど、まさか本当にそうだとすると、これは案外厄介かも知れない」
「厄介?」
加山は、専門的なことは解らないが、と前置きし、いつになく真剣な眼差しで芳春を見た。
「まず、売春の件だけど、売春させられていると言っても、男同士の場合、あの行為自体が性行為類似行為、つまり本当の性行為ではなく、あくまで類似行為とみなされ、売春禁止法の定めるいわゆる“性交”には該当しないんだ。おまけに千尋くんは未成年じゃないから淫行で訴えることも出来ない。たとえその後藤龍一って男が裏で手引きしていたとしても、そもそも売春行為に当たらないものを罰することが出来るのかどうかも疑問だし、合意の上だと言われてしまえばお終いだ。レイプや暴行罪で訴えることは可能だけども、この前の千尋くんを見る限り、暴力も合意の上だったと言い出す可能性の方が高い」
藤田にあれほどの暴行を働かれた時ですら、合意の上であったと言った千尋のことだ。たとえまた酷い目に遭ったとしても、同じように答えるのは目に見えていた。
やりきれない思いが胸の中に冷たく吹き込み、芳春は、堪らず目を閉じた。
加山は無言のままの芳春を気遣いながらも淡々と言葉を続けた。
「つまり、今、千尋くんがそういう目に遭っているとしても僕らは何も出来ない状況なんだ。説明した通り、たとえ僕らが後藤龍一のしている事を掴んだとしても、それを理由に千尋くんを助け出すことは出来ないし、暴行障害で訴えようにも肝心の千尋くんがそれを認めないんじゃどうしようも無い。それに何より、千尋くんは自分から望んで後藤龍一の元へ行っている。僕はむしろそっちの方が問題だと思うんだ」
「そっちの方って……」
「あんなことをされておきながら、後藤龍一から離れようとしない千尋くんの方を、だよ」
受け止め切れない思いが芳春の胸を掻き乱す。
確かに。どうして千尋は後藤龍一から離れないのか。
利用され、裏切られ、踏みにじられ、身体だけでなく心にも深い傷を負わされ、なのにどうしてまだ追い求めるのか。
千尋に対してなのか自分自身に対してなのか解らない悔しさが胸を突き上げ、芳春は項垂れたまま唇を噛み締めた。
「後藤のことがそんなに好きなのか……」
恨み言が口をついて溢れ出た。
芳春は吐き気のように込み上げる乱暴な感情を抑えることが出来なかった。
加山は、肩を怒らせて震える芳春を宥めるように声を和らげた。
「好き嫌いの問題じゃないと思うよ」
「なら、どんな問題だ」
「本能的欲求、とでも言うのかな。例えば、小さな子供はどんな親でも好きでしょう? 怒鳴られても、暴力を振るわれても、親のそばにいたいし、愛されたいと思う。
母性とか父性なんて言うけれど、僕は親が子供を思う気持ちより、子供が親を思う気持ちの方が強いと思ってるんだ。どんなに罵声を浴びせられようと、どんなに理不尽な怒りをぶつけられようと、子供は一途に親を思い、親からの愛情を得ようと無償の愛を注ぎ続ける。どうしてなんて明確な理由は無いんだ。あるのは、ただ、親に愛されたい、という本能的な欲求。千尋くんの後藤龍一に対しての行動は、それに似ているような気がする」
「後藤は千尋の親じゃない」
「もちろん、そうだ。でも千尋くんが、後藤龍一の中にそういうものを見てるのだとしたら、今のような状態になっても不思議じゃない。僕が“厄介”と言ったのは、もしそうなら、千尋くんは後藤龍一に何をされても受け入れてしまうし、自分からは絶対に離れないということなんだ」
ドクン、と心臓が跳ねる音が重い衝撃となって芳春の胸を打った。
「じゃあどうすれば良いんだ……」
側にいる加山に八つ当たりしそうになるのを堪え、芳春は、痛みを堪えるような唸り声を上げた。
加山は、悔しそうに唇を曲げる芳春の肩をポンと叩いた。
「心配しなくても、助ける方法ならまだ一つだけある」
芳春は反射的に顔を上げた。
「それはどんな方法だ」
「無理に引き離すんだ。物理的に」
「へ……?」
「千尋くんが自分から離れないなら、こちらから無理に引き離して後藤龍一に会えないようにしてしまえばいい。原始的な方法だけど、とにかく引き離してしまわなきゃ話は先に進まない」
呆気に取られる芳春を横目に、加山は、カバンの中から筆記用具とメモを取り出して何かを書き始めた。
「そのためには、まずは、後藤龍一の居場所を突き止めなきゃならない。そこで、マスターにはこれを調べてもらいたいんだ。アパートを借りる時提出してる筈だから契約資料を見ればわかるよね」
後藤龍一の本籍、連絡先、勤務先。
千尋の本籍。
芳春は、手渡されたメモに書かれた文字を目で追った。
読み終わるが早いか、突然、背中を手加減無しで叩かれた。
「いつまでもそんな顔してないで、さっさと調べる!」
加山の迫力に押されるように、芳春は立ち上がった。
メモを握り締めた手が熱を帯びて行く。沈んでいた闘志が再び浮上し、芳春の背筋をブルッと震わせた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
薄暗い部屋。湿った空気。埃っぽい臭い。
後ろを貫かれるたび、コンクリートの床に散らばった砂利が背中とこすれて傷口に焼けるような痛みが走る。
動こうにも、見知らぬ男に、両腕を頭の上でバンザイさせられた状態で押さえつけられ、上からは、藤田が両足首を掴んで目一杯開いた状態で押し入り、肩を浮かせることも出来なかった。
内臓を突き上げ、引き抜かれ、千尋は、されるがままに身体を前後に揺らして痛みに耐えていた。
「凄い……千尋くんのお尻が広がって、僕のを根元まで咥え込んでるのが丸見えだ」
「はぅっ……やっ……も……あぁぁっ……」
奥の奥を揺さぶられ、これ以上ないほど膨張した肉棒を、肉壁に擦り付けるように捏ね回される。
相変わらずのしつこさに、千尋の眉間が嫌悪に歪む。
簡単に行かないことは解っていた。
藤田がすんなり要求を飲むとは思っていなかった。普段の藤田の行動から、こうなることも予測できていた。
しかし、もう夕方だ。
藤田とは、朝日が昇る前に合流し、まだ空が完全に明るくなる前にこの場所へ連れられた。
誰もいない、抜け殻のようなビルだった。
辺りをキョロキョロと見回す千尋に、藤田は、このビルが元は自分の所有するオフィスビルであったことと、近々、後藤龍一の父親が経営する建設会社で大規模な建替工事をする予定であることを伝えた。
『ここなら誰にも邪魔されずに話しができる』
藤田の言葉を信じたのは、藤田の口から出た龍一の名前と、そういう関わりがあるのなら龍一がここを面会場所に選んでもおかしくはないという判断からだった。
見返りを要求されるのも承知の上、他の誰かを連れてくることも、藤田ならやりそうだと諦めて受け入れた。
誤算だったのは、藤田が連れてきた男が恐ろしく体力のある男だったということだ。
いくらなんでも長すぎる。
最初に押し倒されてから、千尋は、藤田と、藤田が連れてきた男に、代わる代わる何時間も犯され続けていた。
藤田が上から犯せば男が下から犯し、お互いが体位を競い合うように、次から次へと色んな角度で挿入する。
無理なポーズを強いられ、不自然に折り曲げられた関節がキュウキュウと悲鳴を上げ、
痛みなのか快感なのか解らない気が狂いそうな感覚が身体を突き抜け、ペニスが勝手に反応して勝手に射精する。
気持ちいい、とか、イキたい、という感覚は無かった。
ただ、身体中が恐ろしく熱く痺れ、千尋はどこから出しているのか解らないような声を上げながら、自分が吐き出した精液まみれの床の上をのたうち回った。
そんな状況の中でも、芳春の感覚が身体の奥にまだありありと残っているのが不思議だった。
好きだ、と囁かれながら押し込まれた時の、芳春の逞しく肥大した昂りの感触も、重ねた唇の感触も、情事の後、抱き締めながら優しく頭を撫でられた時の手の感触も、芳春が寝静まるのを待ってベッドから抜け出した時の、剥がしてもなお捕まえようと絡みついてきた指先の感触も全てがまだ千尋の中にあった。
いつもは割り切れた筈の藤田とのセックスが今日に限って割り切れないのはそのせいなのかも知れない。
しつように捻じ込まれる衝撃に、千尋は、鼻にシワを寄せて嫌悪感を露わにした。
「そんな怖い顔しないでよ。心配しなくても龍一くんなら後でちゃんと来るから……」
藤田は、反抗的な千尋をからかうように、突然千尋の身体をうつ伏せに返し、肩を床に押さえつけ、お尻だけを上げさせた格好で後ろから奥へと突き入れた。
「ああぁんっ! んぅ……」
感じるポイントを刺激しながら、一番深い奥の部分を亀頭でこじ開け、ズンズンと押し入れる。
お腹の中を突き回されるような動きに、千尋は、お腹に力を入れて崩れそうになる膝を支えた。
「ああ、これいい。そうやって踏ん張ると中が凄く……絡む。引きずり込まれそ……」
「あああああぁっ、いいいいっいやぁ、ぁあぁっ」
狭いところを無理に開かれ、限界まで広げられた肉壁を先の部分で執拗に舐め回される。
イキたいのかどうかも解らない。痺れるような身悶えるような疼きに、射精感なのか尿意なのか判断のつかない放出感が何度も訪れ、ペニスの先から熱いものが迸った。
「あぁ、凄くいい。たまらないよ千尋くん……」
「あっひっ、ひっ、あっ」
「そう。もっと吸い付いて……」
「ああぁっ、あっ、いっいいぁああぁっ」
自分の声が遠い場所から聞こえる他人の声のように耳の周りにまとわりつく。
ひときわ大きく響いたのは男の声だった。
「すげー。俺にもやらせて」
声とともに、藤田の昂りがズルリとお尻から引きずり出され、代わりに男の手が腰を掴んで千尋の四つん這いになった脚の間に割り込む。
藤田のモノを抜いたあとも、千尋の後孔はまだ肉棒を咥え込んでいるかのようにヒクヒクと口を開き、ペニスの先からは色の無い液体がポタポタと床の上に垂れ落ちている。
羞恥心などもはや何処にも無かった。
男は、獣のような格好で犯され続ける千尋を嬉々とした表情で見ていたが、千尋は、男が見ていることも、自分がどんな格好をしているのかもよく解っていなかった。
千尋はただ、男の上反りに勃った昂りが身体の中心にめり込んでくる衝撃に耐えながら、狂った女のように泣き叫んだ。
「あぁああっ、あん、いいい、いああやぁぁっ、あっ」
「うわっ、うそ、マジで、凄いイイ」
「やあああぁぁぁっ、あああっ、ああっ、いっ」
朦朧とした意識の中で、腕を引っ張られて身体を起こされ、背中を仰け反らせた状態で更にズンズンと奥を突かれる。
無理やり顔を上げさせられた先で、藤田が立て膝をついて自身の赤黒く反り勃つ肉棒を口元に突き付けていた。
「んっ、いやぁっ……」
殆ど無意識な行動だった。明確な理由があるわけでもなく、千尋は無意識に顔を背けていた。
「こらこら、逃げちゃダメじゃないか」
横を向いたところを髪を掴んで戻され、口の周りに先端を擦り付けられた。
逃げようにも、両手を掴まれているので身動き出来ない。
そうしているうちにも、藤田は千尋の後頭部を鷲掴みにし、唇の間に先端をねじ込ませた。
「や……だっ……」
「ほら、ちゃんと口開けて。いつもは顔の前にチラつかせるだけで自分から咥えにくるくせに、一体どうしちゃったの。やっぱり、アパートにいたあの男の影響?」
即答できるほどの思いでは無かったが、藤田の先端が唇に触れた瞬間、唇に残った芳春の感触をこんなもので掻き消されたくないと思ったのは事実だった。
千尋は、反射的に藤田のペニスを舌で押し返して侵入を拒んでいた。
「んんんっ……も……やだっ……」
歯を食いしばり、顔を左右に振って口の中から吐き出す。顔を背けたまま息を吸うと、突然、髪を掴まれ思い切り頬を打たれた。
「聞き分けのないことを言うんじゃないよ。ちょっと甘い顔をするとすぐにつけ上がる。僕は、龍一くんとそういう契約をしてるんだ。ちゃんと従ってもらわなきゃ困るよ」
打たれた衝撃で横にねじれた顔を戻す暇もなく、二発、三発、と立て続けに頬を打たれる。
藤田が派手な音を立てて頬を打つたび、千尋に腰を突き立てている男が、「しまる、しまる」とはしゃきながら更に腰を突き立てた。
「ああこれサイコー。これ、中がキュッと締まってスゲェ気持ちイイ……」
男の反応に刺激されたのか、頬を打つ藤田の手にだんだん力がこもり、いつの間にか平手が握り拳に変わっていた。
男が、「締まる」と叫ぶたびに拳をぶつけられ、千尋の頭が左右にねじれる。無抵抗な千尋を眺めながら、藤田は猟奇的な薄ら笑いを浮かべて拳を振り下ろした。
「こんなの見たら龍一くん怒っちゃうかな。今日は乱暴なことはしないでおこうと思ったのに、千尋くんといるといつもこうなる……」
鼻の奥から流れ込む血を何度も飲み込みながら、千尋は、口の中に残る芳春の舌の感触や唇の感触を思い出していた。
殴られる痛みは不思議と感じなかった。
それよりも、見知らぬ男に身体を貫かれ、喘いでいる自分に胸が痛んだ。
藤田に嫌悪感を抱きながら、その藤田に股を開く自分に嫌悪する。
はたから見れば自分も藤田と同類。
果たして自分はどう見えているのだろう。
自分はどれほど汚れているか。
自分はどれほど無様で醜いか。
思いがけない気持ちの昂りに、千尋は堪らす目を閉じた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「余計なお世話だとは思ったんだけど、気になったんで、急遽知り合いに調べさせた」
加山は言うと、ノートパソコンの向きを変え、画面一杯に映し出された人物画像を芳春に見せた。
「十五歳、中学の卒業式の時のものらしい。全然変わってないだろう?」
芳春の視界の先で、学生服に身を包んだ色白の少年が、茶色い前髪の隙間から怯えた瞳を覗かせてこちらを見ている。
ずいぶん弱々しい印象をうけるが、目鼻立ちは間違いなく千尋だった。
「ひょっとしたらと思って、千尋くんがクリニックで診察を受けた時に聞き出した情報をもとに調べさせたらこれがビンゴ。これ、千尋くんが昔住んでたとこの地元警察の行方不明者リストらしいんだけど、見ての通り、顔も名前も千尋くんと一致する」
「これってつまり……」
「ああ。おそらく家出だろう。五年前の春に捜索願いが出てる」
芳春が自宅マンションに戻って後藤龍一のアパートの賃貸契約書を探している間、加山はリビングのローテーブルの上に、持参したノートパソコンを広げて熱心に作業していた。
契約時の提出書類から、後藤の本籍地や勤務先などの情報は入手出来たが、千尋に関する情報は何も見つからなかった。
後藤の居場所を突きとめる手掛かりは入手出来たのでこれで充分だと芳春は思ったが、加山は諦めていなかったらしく、土壇場になって知り得た千尋の情報に目を輝かせた。
「力づくで取り戻すしかないと思ってたが、これを見せて『親元に返す』と言えば、ひょっとしたら大人しく観念するかも知れない」
声を弾ませる加山とはうらはらに、芳春は複雑な気持ちに襲われていた。
加山が、何気なく発した、親元に返す、という言葉が胸に引っかかった。
千尋が特別な事情を抱えていることは、後藤龍一との異常な同居生活や千尋の周りに漂う仄暗い雰囲気からも想像はついていた。
そのこと自体は、芳春には何のこだわりもなかった。
千尋にどんな事情があろうと、どんな過去があろうと、芳春には今の千尋が全てであり、それ以外の千尋が何者であろうと関係無かった。
しかし、『親元へ返す』という言葉には抵抗があった。
抵抗、というより、その発想自体が芳春には無かった。
後藤龍一から千尋を取り戻したら、千尋は自分の側にいるものなのだと思っていた。
それ以外の結末は考えていなかった。千尋には、自分以外帰る場所はないと思っていた。
それが、加山の一言で綻び始めた。
「親元へ……?」
頭の中を巡る言葉が、ひとりでに口からこぼれ出た。
うわ言のように呟く芳春を振り返ることもなく、加山は、パソコン画面を見たまま声だけを芳春に向けた。
「実際に返すかどうかは別として、家族から捜索願いが出ている以上、見付けたからには警察に情報提供するのが筋だろう? それに、千尋くんが家出当時から後藤と一緒にいたんだとしたら後藤にはかなり分が悪い。そこを突いて、警察に連絡を取るから詳しい経緯を説明をしろと迫れば、さすがの後藤も怯むだろう」
興奮気味に声を弾ませると、加山は、勝手知ったる様子でテレビ台に置かれたプリンターにパソコンを繋ぎ、千尋の画像をプリントアウトした。
芳春は、手渡されるまま、カメラ目線で見詰める千尋の前髪の隙間から覗く怯えた瞳と、今にも泣き出しそうに下がった眉に目をやった。
瞳は切ないくらい悲しげに震えているのに、口元は不自然なくらい大袈裟な笑いを浮かべている。
笑え笑えと言われ、引き攣った口を無理やり開けて笑顔を作る千尋の姿が目に浮かび、芳春は堪らず目を閉じた。
泣きたい時に泣かず、笑いたくない時に笑う。
こうして、やがて、何も考えない、何の表情もない、何の感情もない顔に変わって行く。
千尋の笑顔に、その始まりを見たような気がして、芳春は、いたたまれない気持ちに襲われた。
手に力が入るのが自分でも解った。
ふいに、プリント用紙を握り締める手に加山の手が重なり、芳春はハッと我に返った。
「そんなに強く握ったら破れるよ」
視線を落とした先で、握りすぎてシワになった千尋の顔が、口元に陰影を作り、泣いているような表情を浮かべて芳春を見ていた。
「加山さん、俺……」
「心配しなくても、なんで家出したのかちゃんと調べてからじゃないと親御さんの元には戻さないから安心して」
芳春の胸の内を覗き見たかのように、加山は、重苦しい表情を浮かべる芳春を宥めるように言った。
「ただ、この先ちゃんと生活して行くためには、一度は家に戻らなきゃいけないと思う。ちゃんと戻って、親御さんと話し合って、家を出るなら出るで、住民票も移して、保険の手続きもちゃんとして……。そういう現実的なことをきちんとした上でその先のことを考えなきゃいけないと思う。飛び出した時は十五の子供だったかも知れないが、千尋くんはもう二十歳の大人なんだから」
加山の言葉は、少しの迷いも間違いも無かった。
芳春は、加山の落ち着いた、それでいて、しっかりとした意志のこもった力強い声を聞きながら、手元の千尋の瞳を見た。
「とにかく今は千尋くんの居場所を突き止めるのが先だ」
芳春は大きく頷いた。
不思議と不安は一切無かった。
ただ、一刻も早く千尋に会いたかった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
待ち望んでいた声が、通りに流れる生活の音のように千尋の耳に響いていた。
「こりゃまた派手にやってくれたねぇ、藤田さん」
「顔だから目立つだけだよ。痛みはいつもの半分以下だ」
「痛みのことを言ってるんじゃないよ。こんな目立つ怪我させて、サツに目ぇ付けられたらどう責任取ってくれんの」
顔が焼けるように熱く、口の中に血の味が充満している。
ボヤけた視界の中で、パリッとしたスーツを着こなした、見たこともない龍一が腕組みしながら立っていた。
片足に体重をかけ、もう片方の足の靴の爪先でタンタンと床を叩く。イライラしている時に出る癖と、怒鳴りたいのを我慢している時に出る、首を左右交互に倒す癖が同時に出ている。
途切れ途切れの意識の中でも、龍一が怒っていることははっきりと解った。
「あんたの加虐嗜好はいつかとんでもねぇ事態を引き起こす。頼むから俺を巻き込まないでくれ」
「巻き込むなんて人聞きが悪い。金ならちゃんと払ってるじゃないか」
「あんたが勝手に振り込んだんだろ? 悪いが、俺はもうコイツとは関係ない。そんなにやりたきゃ、あんたがコイツを囲って可愛がってやりゃあいい」
「そんなこと出来るわけないだろ。僕には妻も子供もいるんだ。それに、千尋くんは龍一くんの言うことしか聞かない。今までみたいに、龍一くんが千尋くんを管理して僕に回してくれなきゃダメなんだ。今日だって、千尋くんがどうしても龍一くんに会いたいって言うからわざわざ高いお金を払って来てもらったんだから。なぁ、千尋くん」
名前を呼ばれ、千尋は、視界を遮る汗か涙か解らないものを瞬きして拭い払った。
重い目蓋を開けて目を見開く。
霞んだ視界の先で、まず藤田と目が合い、それから龍一の鋭い視線と目が合った。
「りゅう……」
途端に、嬉しいような、悲しいような、切ないような、どうしようもなく泣きたい気持ちが込み上げ千尋は言葉を詰まらせた。
懐かしさに震える一方で、恨めしいような、腹立たしいような暗い気持ちが同時に胸の底に渦巻く。
龍一の妙に落ち着いた目が、以前とは違う他人行儀なよそよそしいものに感じられ、千尋はまともに見ることが出来なかった。
「ほら、千尋くんからも龍一くんにお願いして! また龍一くんと一緒にいたいんだろ? そのために龍一くんを探していたんだもんね。ほら、龍一くんならここにいる。もう一度拾ってもらいなさい。また一緒にいたいってお願いしなさい」
黙ったまま目も合わさない千尋を見兼ねたように、藤田が、前髪を掴んで無理に顔を上げさせる。
今度は目を逸らすことが出来なかった。
顔を上げさせられた途端、龍一の、内面にえぐり込んでくるような視線と目が合い、たちまち動けなくなった。
龍一は、藤田に、千尋から手を離すよ命令すると、コンクリートの地べたに横向きで横たわる千尋の前にしゃがみ込み、千尋の血と汗で汚れた髪を優しく撫でた。
「せっかく離れてやったのに、なんでまた戻ってきちまうかな、お前は……」
髪を撫でる手の温かさとはうらはらに、龍一の言葉は酷くぶっきら棒で冷ややだった。
「お前、俺に会いたくてコイツに頼んだんだってな。コイツに頼めばどんな目に遭うかぐらい解ってたろ。なのになんでまたコイツに頼んだ」
「りゅ……」
「だいたい、なんで俺に会いたいんだ。悪りぃが、俺はお前をもう一度拾おうなんて思っちゃいない。俺はお前を棄てたんだ。今更何言われても側に置く気は無ぇ」
「龍一くん!」
声を荒げたのは藤田だった。
千尋が答えるよりも先に、藤田は、龍一に対してヒステリックな声を上げた。
「千尋くんがこんな思いをしてまでお願いしてるのにその言い方は無いだろう! これじゃあ千尋くんが可哀想だ。もう一度千尋くんの側にいてやるとどうして答えてやらない!」
「あんたがそれを言うのか。コイツをこんな目に遭わせたのはあんただろ! あんたはただ、安全にコイツを買いたいだけだろう!」
耳をつん裂くような怒鳴り声が千尋のこめかみをズキズキと疼かせる。
やめさせようと手を伸ばし、偶然触れた龍一のズボンの裾を掴んだ。
「千尋……?」
不意を突かれた龍一の素の顔が、一緒にいた頃の表情のまま千尋を見下ろした。
「りゅ……俺……」
「なんだ。今の話、聞いてたろ? 俺はお前とヨリを戻す気は無ぇ。それに、俺と一緒にいるってことは、これからもこの藤田の相手をするってことだ。 お前、コイツのこと嫌いだったんだろ? いい加減目ぇ覚ませ! 俺のことならいくら恨んでも構わねぇから大人しく家に帰んな!」
「……じゃない」
自分でもよく解らない、説明のつかない騒めきが全身を駆け抜けた。
そうじゃない。
否定の言葉がぐるぐると頭を回り、それを吐き出すように、千尋は、首を激しく左右に振った。
「千尋……?」
「そうじゃない! 俺が聞きたいのは……俺が聞きたかったのはそんなことじゃなくて……」
胸の奥に仕舞った思いのフタが外れ、抑えていた思いが熱い感情となって溢れ出た。
龍一の元へ戻る、戻らない、など、どうでも良かった。
千尋はただ知りたかった。
龍一のズボンの裾を握り締め、千尋は、龍一の驚いた顔を見上げた。
「俺は……どうしてりゅうに棄てられたの? どうしてりゅうは俺を好きになってくれなかったの?」
思いの全てを一滴残らず絞り出すように、千尋は、泣き出しそうに声を震わせた。
「どうして? 俺の何がいけなかったの? 何が足りなかったの? 教えて。俺の何が嫌だった? どこが悪かった?」
龍一は、一瞬黙り、やがて静かに口を開いた。
「お前に悪いとこなんか無ぇよ。俺が、お前の望むような感情をお前に抱いてやれなかっただけだ」
「だから、どうして……」
「それだけの気持ちしか無かったからだよ」
「りゅう……」
「お前は気紛れで拾ったペットみてぇなもんだ。冷たいようだが、最初から真剣に面倒見ようと思ってたわけじゃねぇ。早い話が、悪い相手に捕まっちまったってことだ。だから、お前の何が悪いとか、何がいけなかったとか、そんなことは関係無ぇんだ。悪いところがあるとしたら、それは、俺なんかを好きだと勘違いしちまったお前の心の弱さだ」
「勘違い……?」
コトリ、と頭の奥で何かが外れる音がした。信じられない龍一の一言に、千尋は唖然と唇を強張らせた。
「お前、本当にそこまで俺のこと好きだったのか? 違うだろ? お前はただ、誰かに嫌われて棄てられたくなかっただけだ」
「なんだよそれ。なに、わけわかんないこと……。そんなことで俺を誤魔化そうったって……」
龍一は何も答えず、ただ、瞳の奥に深い憂いを滲ませ、いつになく真剣な表情で千尋を見下ろした。
「とにかく、お前とはもう終わったんだ。解ったらとっとと帰れ。それと、二度と藤田には近付くな」
龍一の言葉が鋭いトゲとなって胸に突き刺さる。
その痛みを千尋は全身で受けていた。
他人の口からではなく、龍一の口から直接聞かされたことで、宙ぶらりんになっていた痛みとショックが現実になって降りかかった。
終わった。
心臓が壊れたように激しく鳴り始め、胸が押し潰されるように苦しくなった。
両眼からは視界を眩ますほどの涙が溢れ、身体中に溜まった悲しみを全部吐き出すように、絶叫のような泣き声が次から次へと噴き出した。
龍一は、両手で顔を覆って泣き叫ぶ千尋の頭をもう一度優しく撫でると、ゆっくりと腰を上げ、踵を返した。
本当に終わったのだ。
遠ざかっていく龍一の靴音を、千尋は、自分の身体を抱き締めながら身体を丸めて聞いていた。
すると、突然後ろから身体を引きずり上げられ、千尋は、しゃくり上げた息を吸ったまま硬直した。
「待て! まだ話は終わってない!」
藤田の腕が喉の下に食い込み、前方で龍一がゆっくり振り返る。
痩せギスの藤田など普通の状態ならば充分振りほどけたが、長時間犯され続けたことによる体力の消耗と暴行による傷の痛みで抵抗らしい抵抗も出来なかった。
藤田は、千尋を羽交締めにしながら、龍一を睨み付けた。
「勝手に二人で話しを終わらせないでくれ。僕には千尋くんが必要なんだ。金なら出すから、今まで通り千尋くんを手元に置いて僕に斡旋しなさい。それが嫌なら、今ここで、千尋くんにこれからも僕の相手をすると約束させなさい!」
「あんたバカか!」
飛び交う怒号が徐々に遠くなる。藤田に容赦なく首を締め上げられながら、千尋は、藤田と龍一の争う声を途切れ途切れの意識の中で聞いていた。
「勝手が許されると思ってもらっては困る。今までいくら使ったと思ってるんだ。約束しないなら今この場で千尋くんを殺す」
「頭大丈夫か? そんなことしたらあんたが捕まるだけだ。おいっ! 何やってる! やめろ! 千尋を離せ!」
だんだんと暗くなっていく視界を眺めながら、千尋は、十五歳の春、小遣いの残りを握りしめて高速バスに乗った日のことを思い出していた。
あの日、義兄との行為を母親に見られたあの時、千尋は、母親が自分の手を取り、一緒に安全な場所へ逃げてくれることを願った。
バスに乗るまでの間、誰かが気付いて追いかけてきてくれるんじゃないかと何度も振り返った。
龍一に拾われた夜、温かいバスタブの中で身体を撫でられながら、今度こそ棄てられないようにと、自分から龍一にしがみついた。
今までの思い出が、死ぬ前に見る夢のように千尋の脳裏を駆け巡る。
次に浮かんだのは芳春の顔だった。
芳春がアパートを訪れた日、千尋は、龍一の面影を求めながら、龍一とはまるで違う雰囲気を持つ芳春に戸惑っていた。
店での仕事は新鮮だった。
仕事らしい仕事などしたことも無い、接客も苦手なら物覚えも悪く要領を得ない不出来な有り様だったが、芳春に仕事を教わるのは楽しく、達成感を得る喜びも覚えた。
芳春との生活は、龍一と一緒にいた頃と比べて時間の流れが穏やかで、龍一といた頃には感じられなかった、緩みや安らぎのようなものがあった。
あの安らぎの中へ戻れるのだろうか、とふと思った。
頭の片隅に浮かんだ芳春の顔が、瞬く間に千尋の目蓋の裏側一杯に広がって行く。
その顔が、千尋を見詰め、『好きだ』と囁いた。
好きだ。
心の中で繰り返した途端、芳春にそう言われた時の光景がありありと目の前に現れた。
また、あんなふうに言って貰えるのだろうか。
全てを終わらせ、今、心と身体の隅々を襲うこの苦しみや悲しみや憎しみや、辛さや悔しさや虚しさが自分の中から全部出て行ってしまったら、また芳春はあんなふうに『好き』と言ってくれるのだろうか。
真っ暗闇の中へと吸い込まれて行く芳春を眺めながら、千尋は、自分のことを『好き』と言った芳春の唇と、耳元を流れた甘い吐息に思いを巡らせた。
すると、
「好きなんだ!」
幻聴にしてはやけにはっきりと聞こえた声に、千尋は薄っすらと目を開けた。
「マス……タ……?」
目の前に芳春の顔があった。藤田に羽交締めにされていた筈が、いつの間にか芳春の腕の中にいることに気付き千尋は反射的に身体を起こした。
「なんだお前は! 部外者のくせに口を出すな!」
「部外者じゃない! 俺は千尋が好きなんだ! あんたの好きにはさせない! あんたに千尋は絶対に渡さない!」
藤田のヒステリックな声と芳春の聞いたこともないような感情的な怒鳴り声が、代わる代わる千尋の耳元で轟く。
何が起きたのか、千尋には何も解らなかった。
千尋はただ、芳春に抱き締められながら、自分の耳にはっきりと流れ込んできた芳春の言葉を心の中で繰り返した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「カクテルフェア? ビールじゃなくて?」
イベント用のメニューを片手に呟く加山を横目に、芳春は、棚に置かれた酒瓶を手に取り、専用のクロスで表面を拭き取った。
「ビアカクテルももちろんやりますよ。あとはメジャーなやつを5、6種類」
「へぇ……」
ボサノバの気怠いリズムに、明るさを絞った琥珀色の照明。
ラストオーダーを終えたショットバーは、眠りにつく前の緩慢とした静けさに包まれていた。
客も残すところ後一組となり、グラスの中のお酒の減り具合から、いつお会計の声がかかってもおかしく無い。
あとは閉店を待つだけの店内に、加山の姿がいつまでも残っているのもすっかり日常風景になっていた。
「それにしても、もう一年か……」
加山の言葉に、ボトルを拭く芳春の手が止まる。
千尋を取り戻すために後藤龍一の元へ乗り込んでから一年が経っていた。
あの日、賃貸契約書類を頼りに訪ねて行った先で、芳春は後藤龍一と対面した。
久しぶりに見る後藤龍一は、以前、家賃の集金に行った時に見ただらしない姿とは打って変わって、いかにも重要なポストに就いていますと言わんばかりの高級スーツに身を包んで芳春の前に現れた。
「へぇ。やっぱ、あんたとそういう事になってたんだ」
身なりが変わったところで中身までが変わるわけではない。捜索願いを盾に詰め寄る芳春をものともせず、後藤は、横柄な口調でデスクの椅子にふんぞり返った。
「まぁ、こうなることはなんとなく解ってたけどね。だってあんた、うち来るたびに千尋のことチラチラ見てただろ? 俺が千尋といるのが気に喰わねぇ、って顔してさ」
悪態をつきながらも、後藤は、千尋を連れ去ったのが藤田であることと、藤田から千尋に会いに来るよう頼まれていることを正直に話した。
「勘違いしてるようだから言っておくけど、俺なんかより藤田の方がよっぽど厄介だぜ? 千尋を一番必要としてるのはアイツだ」
藤田の元へ向かう間、後藤は、千尋とのこれまでの経緯や藤田との関係を、まるで懺悔でもするかのように芳春に話した。
どうしてそこまで話すのか芳春が訪ねても、後藤は意味深に笑うだけで何も答えなかった。
その後、打ち合わせ通り後藤が一人で藤田に会い、藤田が千尋を監禁陵辱した証拠をレコーダーに収めてから千尋を救出した。
こうして藤田は観念し、千尋は救急車で近くの病院に搬送された後、そのまま家出人として通報され、治療が終わると同時に家族の元へと帰された。
千尋が自分の家に帰ったことを、芳春は店での仕事中、立ち寄った加山から聞かされた。
千尋とは、その後、病院で寝ているところを見たのを最後に一度も会っていなかった。
すぐにでも連れ帰るつもりで訪ねたが、傷付いた姿で横たわる千尋を見た途端、高ぶっていた気持ちが急速に冷め、代わりに、千尋を無理やり自分の元へ連れ帰ろうとしていた自分の傲慢さに嫌悪感が込み上げた。
千尋は、心も身体も傷付いている。
この傷が癒えるのは果たしていつなのか。
弱々しい呼吸を繰り返す包帯だらけの千尋を見ながら、芳春は、ただ後藤龍一から引き離せば全て解決すると考えていた自分を情けなく思った。
後藤龍一の呪縛から解放されるには、それにまつわる全てのものから距離を置かねばならない。
自分もその一つであることは言うまでも無かった。
結局、芳春は、千尋に声を掛けないまま病室を後にした。
縁があったらもう一度会えると思った。
千尋が後藤龍一の呪縛から完全に抜け出した後、もしも千尋が望めば、もう一度会える筈だと思っていた。
あれから一年。
「そう言えば、千尋くんに貸したカクテルレシピはどうなったの?」
加山の言葉に、芳春は、うっすらと顎ヒゲの浮かぶ横顔を小さく歪めた。
「どうなったもなにも、あれ以来会ってないから解りませんよ」
「でも千尋くんが持ってるんでしょ?」
「さぁ。部屋に置いてなかったから持ってったんだろう、って思ってるだけで、案外荷物に紛れて何処かに行っちゃった可能性もありますよ」
荷物と言っても着替え程度しか無かったが、千尋の荷物は知らない間に部屋から持ち出され、芳春が訪ねた時には、使い古した衣類が残されているだけだった。
部屋を出る時、何気に覗いたポストに鍵が入っているのに気付き、芳春は、千尋が本当にアパートを出て行ったのだと理解した。
あの日から一年。
レシピ本の行方は解らないままだったが、千尋が持っているならそれでいいと芳春は思っていた。
「あのまま千尋くんがここで働いてたら、今頃、カッコよくシェーカー振ってたんだろうね……」
独り言のように呟く加山を笑顔でやり過ごし、拭き終わったボトルを棚に戻した。
同じタイミングで最後の客が帰り、残っていた加山の手を借りながら後片付けをして店を出た。
タクシーで帰ろうという加山の申し出をやんわりと断り、一人で駅に向かって歩いた。
自宅マンションとは違う路線に乗って帰る帰り道。
かつて、千尋が後藤龍一を待っていたあのアパートで、今は自分が千尋を待っている。
運命とは皮肉なものだと芳春は思った。
『龍一はここに帰ってくる。龍一が帰って来た時、俺がここにいないと』
かつて、うんざりしながら聴いていた千尋のセリフを、今は自分が千尋を思い浮かべながら繰り返している。
その時の千尋の気持ちが、こんなにも身に染みて理解出来る日が来るとは思っていなかった。
最寄り駅を降り、芳春は、千尋がこの道を歩いていた時に思っていたであろう気持ちと同じ気持ちでアパートまでの緩やかな坂道を登っていた。
途中のコンビニで菓子パンとジュースを買い、残りの一本道を歩く。
慣れているからこそ、芳春はすぐに異変に気が付いた。
部屋の前に誰かいる。
自然と脚が地面を蹴り上げ、身体が前のめりに先を急ぐ。
「千尋!」
裏返る声を振り絞り、立ち上がったシルエットにもう一度叫んだ。
「千尋!」
小さな影が駆け寄ってくるのを真っ直ぐに見詰めながら、芳春は、だんだんと近付く愛しい姿に、全速力で駆け寄り力一杯抱き締めた。
「マスター……。俺、鍵持ってなくて……だからここでずっと待ってて……」
「鍵なんかいらない。もういいから。もう何も言うな」
柔らかい髪が芳春の鼻先をくすぐり、甘い吐息が肩先を優しくなぞる。
久しぶりに触れる千尋の身体は、最後に抱き締めた時よりふっくらと柔らかく、朝露に濡れる爽やかな草原の香りがした。
「マスター、俺、マスターに借りた本、たくさん読んで、たくさん覚えたんだ。だから、マスターとまた働きたい」
芳春は何も言えなかった。
千尋に会ったら、あれも言おうこれも言おうと準備していた言葉は、一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。
千尋の小さな背中を抱き締めながら、芳春は、胸の奥底から湧いてくる切ない思いに身体を震わせていた。
「好きだ……」
それ以外の言葉は消えて無くなってしまったかのように、好き、という言葉だけが喉を押し上げ芳春の唇から溢れ出た。
「好きだ……千尋……」
千尋の身体を胸元からそっと剥がし、千尋を正面から見詰めてもう一度言った。
言い終わらないうちに、千尋の唇が、「俺も」と動いた。
「俺も……、俺も、マスターが好き……」
一瞬、空気がシンと静まり返る。
次の瞬間、芳春と千尋は、どちらかともなく顔を近付けていた。
唇を少し開きながら、お互いの舌を舌で迎えて絡ませ合う。
たっぷりと舌を差し入れ、愛情を与え合うように深く激しく吸い合いながら、吐息混じりに「好き」と繰り返した。
昨日と同じはずの景色が今を境にガラリと変わった気がした。
長いキスの後、芳春は、千尋を部屋の外で待たせ、小さなカバンに詰めれるだけの荷物を詰めてアパートを出た。
ここから始まり、ここで終わる。
待っている日々はもう終わった。
次は、ここから新しい日々が始まる。
「どこ行くんだよ……」
芳春は、千尋の手を取り、雑草の生茂る駐車場に停めた車に千尋を乗せた。
「俺たちの家だ」
エンジンをかけ、アクセルを踏んで、来た道を戻る。
聞きたいことがたくさんある。
やらなければならないこともたくさんある。
しかし、まずは千尋を抱き締めよう。
家に着いたら、千尋を抱き締めて、柔らかい頬を撫でて、たくさんキスをして、たくさん『好き』と言おう。
車は、芳春のマンションに向かって走り出していた。
もう二度と待つ必要の無い、当たり前のように愛がいつもすぐ側にある、二人の新しい日常へと走り出していた。
加山の冷静な声に、芳春は、少しづつ落ち着きを取り戻して行った。
千尋の気配が消えていることに気付いた時、芳春は、頭がどうにかなってしまいそうなほど気が動転し、発作的に家を飛び出していた。
スマホを片手に、震える指で千尋の連絡先の発信ボタンを押し、呼び出し音を聞きながら、コンビニまでの下り坂をがむしゃらに走った。
店の中に駆け込み、どこにもいない千尋と一向に繋がらない電話に業を煮やし、わらをも掴む気持ちで加山に連絡を取った。
早朝にも関わらず、加山はすぐに応答し、芳春に取り敢えずアパートに戻るよう促した。
それから小一時間ほどして加山は芳春の元へ駆けつけた。
「千尋くんが行きそうな場所……千尋くんの友達とか知り合いとか何か解らない?」
芳春は、咄嗟に後藤龍一の顔を思い浮かべた。
真っ先に、ではなく、後藤龍一の顔以外思い浮かばなかった。
千尋と深い付き合いをするようになって二ヶ月弱。その間、芳春の知る限り、千尋に友達らしい知り合いは一人もいなかった。千尋は、後藤龍一と、後藤龍一の周りの小さな世界の中だけで生きていた。
芳春は、後藤龍一の名前を伝えるとともに、後藤龍一と千尋の関係とこれまでの生活、自分が千尋と暮らすことになった経緯を加山に全て打ち明けた。
にわかには信じられない話に加山がどう反応するのか気になったが、芳春の心配をよそに、加山は大きく表情を崩すことなく芳春の話に耳を傾けた。
「つまり、千尋くんは、その後藤、って男に売春させられている、ということなんだね」
ハッキリと言葉にされたことで、目を背けていた事実がより明確な真実となって芳春に迫った。
いきなり胸を突かれたような衝撃に、芳春は眉間を顰めながら奥歯を噛み締めた。
「あいつは千尋を喰い物にしてるんだ。引き離さないと今に大変なことになる」
加山は落ち着いた様子で芳春の話しを聞いていたが、その目は、どこか思い詰めたような暗い影を漂わせていた。
「その可能性もあるとは思ってたけど、まさか本当にそうだとすると、これは案外厄介かも知れない」
「厄介?」
加山は、専門的なことは解らないが、と前置きし、いつになく真剣な眼差しで芳春を見た。
「まず、売春の件だけど、売春させられていると言っても、男同士の場合、あの行為自体が性行為類似行為、つまり本当の性行為ではなく、あくまで類似行為とみなされ、売春禁止法の定めるいわゆる“性交”には該当しないんだ。おまけに千尋くんは未成年じゃないから淫行で訴えることも出来ない。たとえその後藤龍一って男が裏で手引きしていたとしても、そもそも売春行為に当たらないものを罰することが出来るのかどうかも疑問だし、合意の上だと言われてしまえばお終いだ。レイプや暴行罪で訴えることは可能だけども、この前の千尋くんを見る限り、暴力も合意の上だったと言い出す可能性の方が高い」
藤田にあれほどの暴行を働かれた時ですら、合意の上であったと言った千尋のことだ。たとえまた酷い目に遭ったとしても、同じように答えるのは目に見えていた。
やりきれない思いが胸の中に冷たく吹き込み、芳春は、堪らず目を閉じた。
加山は無言のままの芳春を気遣いながらも淡々と言葉を続けた。
「つまり、今、千尋くんがそういう目に遭っているとしても僕らは何も出来ない状況なんだ。説明した通り、たとえ僕らが後藤龍一のしている事を掴んだとしても、それを理由に千尋くんを助け出すことは出来ないし、暴行障害で訴えようにも肝心の千尋くんがそれを認めないんじゃどうしようも無い。それに何より、千尋くんは自分から望んで後藤龍一の元へ行っている。僕はむしろそっちの方が問題だと思うんだ」
「そっちの方って……」
「あんなことをされておきながら、後藤龍一から離れようとしない千尋くんの方を、だよ」
受け止め切れない思いが芳春の胸を掻き乱す。
確かに。どうして千尋は後藤龍一から離れないのか。
利用され、裏切られ、踏みにじられ、身体だけでなく心にも深い傷を負わされ、なのにどうしてまだ追い求めるのか。
千尋に対してなのか自分自身に対してなのか解らない悔しさが胸を突き上げ、芳春は項垂れたまま唇を噛み締めた。
「後藤のことがそんなに好きなのか……」
恨み言が口をついて溢れ出た。
芳春は吐き気のように込み上げる乱暴な感情を抑えることが出来なかった。
加山は、肩を怒らせて震える芳春を宥めるように声を和らげた。
「好き嫌いの問題じゃないと思うよ」
「なら、どんな問題だ」
「本能的欲求、とでも言うのかな。例えば、小さな子供はどんな親でも好きでしょう? 怒鳴られても、暴力を振るわれても、親のそばにいたいし、愛されたいと思う。
母性とか父性なんて言うけれど、僕は親が子供を思う気持ちより、子供が親を思う気持ちの方が強いと思ってるんだ。どんなに罵声を浴びせられようと、どんなに理不尽な怒りをぶつけられようと、子供は一途に親を思い、親からの愛情を得ようと無償の愛を注ぎ続ける。どうしてなんて明確な理由は無いんだ。あるのは、ただ、親に愛されたい、という本能的な欲求。千尋くんの後藤龍一に対しての行動は、それに似ているような気がする」
「後藤は千尋の親じゃない」
「もちろん、そうだ。でも千尋くんが、後藤龍一の中にそういうものを見てるのだとしたら、今のような状態になっても不思議じゃない。僕が“厄介”と言ったのは、もしそうなら、千尋くんは後藤龍一に何をされても受け入れてしまうし、自分からは絶対に離れないということなんだ」
ドクン、と心臓が跳ねる音が重い衝撃となって芳春の胸を打った。
「じゃあどうすれば良いんだ……」
側にいる加山に八つ当たりしそうになるのを堪え、芳春は、痛みを堪えるような唸り声を上げた。
加山は、悔しそうに唇を曲げる芳春の肩をポンと叩いた。
「心配しなくても、助ける方法ならまだ一つだけある」
芳春は反射的に顔を上げた。
「それはどんな方法だ」
「無理に引き離すんだ。物理的に」
「へ……?」
「千尋くんが自分から離れないなら、こちらから無理に引き離して後藤龍一に会えないようにしてしまえばいい。原始的な方法だけど、とにかく引き離してしまわなきゃ話は先に進まない」
呆気に取られる芳春を横目に、加山は、カバンの中から筆記用具とメモを取り出して何かを書き始めた。
「そのためには、まずは、後藤龍一の居場所を突き止めなきゃならない。そこで、マスターにはこれを調べてもらいたいんだ。アパートを借りる時提出してる筈だから契約資料を見ればわかるよね」
後藤龍一の本籍、連絡先、勤務先。
千尋の本籍。
芳春は、手渡されたメモに書かれた文字を目で追った。
読み終わるが早いか、突然、背中を手加減無しで叩かれた。
「いつまでもそんな顔してないで、さっさと調べる!」
加山の迫力に押されるように、芳春は立ち上がった。
メモを握り締めた手が熱を帯びて行く。沈んでいた闘志が再び浮上し、芳春の背筋をブルッと震わせた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
薄暗い部屋。湿った空気。埃っぽい臭い。
後ろを貫かれるたび、コンクリートの床に散らばった砂利が背中とこすれて傷口に焼けるような痛みが走る。
動こうにも、見知らぬ男に、両腕を頭の上でバンザイさせられた状態で押さえつけられ、上からは、藤田が両足首を掴んで目一杯開いた状態で押し入り、肩を浮かせることも出来なかった。
内臓を突き上げ、引き抜かれ、千尋は、されるがままに身体を前後に揺らして痛みに耐えていた。
「凄い……千尋くんのお尻が広がって、僕のを根元まで咥え込んでるのが丸見えだ」
「はぅっ……やっ……も……あぁぁっ……」
奥の奥を揺さぶられ、これ以上ないほど膨張した肉棒を、肉壁に擦り付けるように捏ね回される。
相変わらずのしつこさに、千尋の眉間が嫌悪に歪む。
簡単に行かないことは解っていた。
藤田がすんなり要求を飲むとは思っていなかった。普段の藤田の行動から、こうなることも予測できていた。
しかし、もう夕方だ。
藤田とは、朝日が昇る前に合流し、まだ空が完全に明るくなる前にこの場所へ連れられた。
誰もいない、抜け殻のようなビルだった。
辺りをキョロキョロと見回す千尋に、藤田は、このビルが元は自分の所有するオフィスビルであったことと、近々、後藤龍一の父親が経営する建設会社で大規模な建替工事をする予定であることを伝えた。
『ここなら誰にも邪魔されずに話しができる』
藤田の言葉を信じたのは、藤田の口から出た龍一の名前と、そういう関わりがあるのなら龍一がここを面会場所に選んでもおかしくはないという判断からだった。
見返りを要求されるのも承知の上、他の誰かを連れてくることも、藤田ならやりそうだと諦めて受け入れた。
誤算だったのは、藤田が連れてきた男が恐ろしく体力のある男だったということだ。
いくらなんでも長すぎる。
最初に押し倒されてから、千尋は、藤田と、藤田が連れてきた男に、代わる代わる何時間も犯され続けていた。
藤田が上から犯せば男が下から犯し、お互いが体位を競い合うように、次から次へと色んな角度で挿入する。
無理なポーズを強いられ、不自然に折り曲げられた関節がキュウキュウと悲鳴を上げ、
痛みなのか快感なのか解らない気が狂いそうな感覚が身体を突き抜け、ペニスが勝手に反応して勝手に射精する。
気持ちいい、とか、イキたい、という感覚は無かった。
ただ、身体中が恐ろしく熱く痺れ、千尋はどこから出しているのか解らないような声を上げながら、自分が吐き出した精液まみれの床の上をのたうち回った。
そんな状況の中でも、芳春の感覚が身体の奥にまだありありと残っているのが不思議だった。
好きだ、と囁かれながら押し込まれた時の、芳春の逞しく肥大した昂りの感触も、重ねた唇の感触も、情事の後、抱き締めながら優しく頭を撫でられた時の手の感触も、芳春が寝静まるのを待ってベッドから抜け出した時の、剥がしてもなお捕まえようと絡みついてきた指先の感触も全てがまだ千尋の中にあった。
いつもは割り切れた筈の藤田とのセックスが今日に限って割り切れないのはそのせいなのかも知れない。
しつように捻じ込まれる衝撃に、千尋は、鼻にシワを寄せて嫌悪感を露わにした。
「そんな怖い顔しないでよ。心配しなくても龍一くんなら後でちゃんと来るから……」
藤田は、反抗的な千尋をからかうように、突然千尋の身体をうつ伏せに返し、肩を床に押さえつけ、お尻だけを上げさせた格好で後ろから奥へと突き入れた。
「ああぁんっ! んぅ……」
感じるポイントを刺激しながら、一番深い奥の部分を亀頭でこじ開け、ズンズンと押し入れる。
お腹の中を突き回されるような動きに、千尋は、お腹に力を入れて崩れそうになる膝を支えた。
「ああ、これいい。そうやって踏ん張ると中が凄く……絡む。引きずり込まれそ……」
「あああああぁっ、いいいいっいやぁ、ぁあぁっ」
狭いところを無理に開かれ、限界まで広げられた肉壁を先の部分で執拗に舐め回される。
イキたいのかどうかも解らない。痺れるような身悶えるような疼きに、射精感なのか尿意なのか判断のつかない放出感が何度も訪れ、ペニスの先から熱いものが迸った。
「あぁ、凄くいい。たまらないよ千尋くん……」
「あっひっ、ひっ、あっ」
「そう。もっと吸い付いて……」
「ああぁっ、あっ、いっいいぁああぁっ」
自分の声が遠い場所から聞こえる他人の声のように耳の周りにまとわりつく。
ひときわ大きく響いたのは男の声だった。
「すげー。俺にもやらせて」
声とともに、藤田の昂りがズルリとお尻から引きずり出され、代わりに男の手が腰を掴んで千尋の四つん這いになった脚の間に割り込む。
藤田のモノを抜いたあとも、千尋の後孔はまだ肉棒を咥え込んでいるかのようにヒクヒクと口を開き、ペニスの先からは色の無い液体がポタポタと床の上に垂れ落ちている。
羞恥心などもはや何処にも無かった。
男は、獣のような格好で犯され続ける千尋を嬉々とした表情で見ていたが、千尋は、男が見ていることも、自分がどんな格好をしているのかもよく解っていなかった。
千尋はただ、男の上反りに勃った昂りが身体の中心にめり込んでくる衝撃に耐えながら、狂った女のように泣き叫んだ。
「あぁああっ、あん、いいい、いああやぁぁっ、あっ」
「うわっ、うそ、マジで、凄いイイ」
「やあああぁぁぁっ、あああっ、ああっ、いっ」
朦朧とした意識の中で、腕を引っ張られて身体を起こされ、背中を仰け反らせた状態で更にズンズンと奥を突かれる。
無理やり顔を上げさせられた先で、藤田が立て膝をついて自身の赤黒く反り勃つ肉棒を口元に突き付けていた。
「んっ、いやぁっ……」
殆ど無意識な行動だった。明確な理由があるわけでもなく、千尋は無意識に顔を背けていた。
「こらこら、逃げちゃダメじゃないか」
横を向いたところを髪を掴んで戻され、口の周りに先端を擦り付けられた。
逃げようにも、両手を掴まれているので身動き出来ない。
そうしているうちにも、藤田は千尋の後頭部を鷲掴みにし、唇の間に先端をねじ込ませた。
「や……だっ……」
「ほら、ちゃんと口開けて。いつもは顔の前にチラつかせるだけで自分から咥えにくるくせに、一体どうしちゃったの。やっぱり、アパートにいたあの男の影響?」
即答できるほどの思いでは無かったが、藤田の先端が唇に触れた瞬間、唇に残った芳春の感触をこんなもので掻き消されたくないと思ったのは事実だった。
千尋は、反射的に藤田のペニスを舌で押し返して侵入を拒んでいた。
「んんんっ……も……やだっ……」
歯を食いしばり、顔を左右に振って口の中から吐き出す。顔を背けたまま息を吸うと、突然、髪を掴まれ思い切り頬を打たれた。
「聞き分けのないことを言うんじゃないよ。ちょっと甘い顔をするとすぐにつけ上がる。僕は、龍一くんとそういう契約をしてるんだ。ちゃんと従ってもらわなきゃ困るよ」
打たれた衝撃で横にねじれた顔を戻す暇もなく、二発、三発、と立て続けに頬を打たれる。
藤田が派手な音を立てて頬を打つたび、千尋に腰を突き立てている男が、「しまる、しまる」とはしゃきながら更に腰を突き立てた。
「ああこれサイコー。これ、中がキュッと締まってスゲェ気持ちイイ……」
男の反応に刺激されたのか、頬を打つ藤田の手にだんだん力がこもり、いつの間にか平手が握り拳に変わっていた。
男が、「締まる」と叫ぶたびに拳をぶつけられ、千尋の頭が左右にねじれる。無抵抗な千尋を眺めながら、藤田は猟奇的な薄ら笑いを浮かべて拳を振り下ろした。
「こんなの見たら龍一くん怒っちゃうかな。今日は乱暴なことはしないでおこうと思ったのに、千尋くんといるといつもこうなる……」
鼻の奥から流れ込む血を何度も飲み込みながら、千尋は、口の中に残る芳春の舌の感触や唇の感触を思い出していた。
殴られる痛みは不思議と感じなかった。
それよりも、見知らぬ男に身体を貫かれ、喘いでいる自分に胸が痛んだ。
藤田に嫌悪感を抱きながら、その藤田に股を開く自分に嫌悪する。
はたから見れば自分も藤田と同類。
果たして自分はどう見えているのだろう。
自分はどれほど汚れているか。
自分はどれほど無様で醜いか。
思いがけない気持ちの昂りに、千尋は堪らす目を閉じた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「余計なお世話だとは思ったんだけど、気になったんで、急遽知り合いに調べさせた」
加山は言うと、ノートパソコンの向きを変え、画面一杯に映し出された人物画像を芳春に見せた。
「十五歳、中学の卒業式の時のものらしい。全然変わってないだろう?」
芳春の視界の先で、学生服に身を包んだ色白の少年が、茶色い前髪の隙間から怯えた瞳を覗かせてこちらを見ている。
ずいぶん弱々しい印象をうけるが、目鼻立ちは間違いなく千尋だった。
「ひょっとしたらと思って、千尋くんがクリニックで診察を受けた時に聞き出した情報をもとに調べさせたらこれがビンゴ。これ、千尋くんが昔住んでたとこの地元警察の行方不明者リストらしいんだけど、見ての通り、顔も名前も千尋くんと一致する」
「これってつまり……」
「ああ。おそらく家出だろう。五年前の春に捜索願いが出てる」
芳春が自宅マンションに戻って後藤龍一のアパートの賃貸契約書を探している間、加山はリビングのローテーブルの上に、持参したノートパソコンを広げて熱心に作業していた。
契約時の提出書類から、後藤の本籍地や勤務先などの情報は入手出来たが、千尋に関する情報は何も見つからなかった。
後藤の居場所を突きとめる手掛かりは入手出来たのでこれで充分だと芳春は思ったが、加山は諦めていなかったらしく、土壇場になって知り得た千尋の情報に目を輝かせた。
「力づくで取り戻すしかないと思ってたが、これを見せて『親元に返す』と言えば、ひょっとしたら大人しく観念するかも知れない」
声を弾ませる加山とはうらはらに、芳春は複雑な気持ちに襲われていた。
加山が、何気なく発した、親元に返す、という言葉が胸に引っかかった。
千尋が特別な事情を抱えていることは、後藤龍一との異常な同居生活や千尋の周りに漂う仄暗い雰囲気からも想像はついていた。
そのこと自体は、芳春には何のこだわりもなかった。
千尋にどんな事情があろうと、どんな過去があろうと、芳春には今の千尋が全てであり、それ以外の千尋が何者であろうと関係無かった。
しかし、『親元へ返す』という言葉には抵抗があった。
抵抗、というより、その発想自体が芳春には無かった。
後藤龍一から千尋を取り戻したら、千尋は自分の側にいるものなのだと思っていた。
それ以外の結末は考えていなかった。千尋には、自分以外帰る場所はないと思っていた。
それが、加山の一言で綻び始めた。
「親元へ……?」
頭の中を巡る言葉が、ひとりでに口からこぼれ出た。
うわ言のように呟く芳春を振り返ることもなく、加山は、パソコン画面を見たまま声だけを芳春に向けた。
「実際に返すかどうかは別として、家族から捜索願いが出ている以上、見付けたからには警察に情報提供するのが筋だろう? それに、千尋くんが家出当時から後藤と一緒にいたんだとしたら後藤にはかなり分が悪い。そこを突いて、警察に連絡を取るから詳しい経緯を説明をしろと迫れば、さすがの後藤も怯むだろう」
興奮気味に声を弾ませると、加山は、勝手知ったる様子でテレビ台に置かれたプリンターにパソコンを繋ぎ、千尋の画像をプリントアウトした。
芳春は、手渡されるまま、カメラ目線で見詰める千尋の前髪の隙間から覗く怯えた瞳と、今にも泣き出しそうに下がった眉に目をやった。
瞳は切ないくらい悲しげに震えているのに、口元は不自然なくらい大袈裟な笑いを浮かべている。
笑え笑えと言われ、引き攣った口を無理やり開けて笑顔を作る千尋の姿が目に浮かび、芳春は堪らず目を閉じた。
泣きたい時に泣かず、笑いたくない時に笑う。
こうして、やがて、何も考えない、何の表情もない、何の感情もない顔に変わって行く。
千尋の笑顔に、その始まりを見たような気がして、芳春は、いたたまれない気持ちに襲われた。
手に力が入るのが自分でも解った。
ふいに、プリント用紙を握り締める手に加山の手が重なり、芳春はハッと我に返った。
「そんなに強く握ったら破れるよ」
視線を落とした先で、握りすぎてシワになった千尋の顔が、口元に陰影を作り、泣いているような表情を浮かべて芳春を見ていた。
「加山さん、俺……」
「心配しなくても、なんで家出したのかちゃんと調べてからじゃないと親御さんの元には戻さないから安心して」
芳春の胸の内を覗き見たかのように、加山は、重苦しい表情を浮かべる芳春を宥めるように言った。
「ただ、この先ちゃんと生活して行くためには、一度は家に戻らなきゃいけないと思う。ちゃんと戻って、親御さんと話し合って、家を出るなら出るで、住民票も移して、保険の手続きもちゃんとして……。そういう現実的なことをきちんとした上でその先のことを考えなきゃいけないと思う。飛び出した時は十五の子供だったかも知れないが、千尋くんはもう二十歳の大人なんだから」
加山の言葉は、少しの迷いも間違いも無かった。
芳春は、加山の落ち着いた、それでいて、しっかりとした意志のこもった力強い声を聞きながら、手元の千尋の瞳を見た。
「とにかく今は千尋くんの居場所を突き止めるのが先だ」
芳春は大きく頷いた。
不思議と不安は一切無かった。
ただ、一刻も早く千尋に会いたかった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
待ち望んでいた声が、通りに流れる生活の音のように千尋の耳に響いていた。
「こりゃまた派手にやってくれたねぇ、藤田さん」
「顔だから目立つだけだよ。痛みはいつもの半分以下だ」
「痛みのことを言ってるんじゃないよ。こんな目立つ怪我させて、サツに目ぇ付けられたらどう責任取ってくれんの」
顔が焼けるように熱く、口の中に血の味が充満している。
ボヤけた視界の中で、パリッとしたスーツを着こなした、見たこともない龍一が腕組みしながら立っていた。
片足に体重をかけ、もう片方の足の靴の爪先でタンタンと床を叩く。イライラしている時に出る癖と、怒鳴りたいのを我慢している時に出る、首を左右交互に倒す癖が同時に出ている。
途切れ途切れの意識の中でも、龍一が怒っていることははっきりと解った。
「あんたの加虐嗜好はいつかとんでもねぇ事態を引き起こす。頼むから俺を巻き込まないでくれ」
「巻き込むなんて人聞きが悪い。金ならちゃんと払ってるじゃないか」
「あんたが勝手に振り込んだんだろ? 悪いが、俺はもうコイツとは関係ない。そんなにやりたきゃ、あんたがコイツを囲って可愛がってやりゃあいい」
「そんなこと出来るわけないだろ。僕には妻も子供もいるんだ。それに、千尋くんは龍一くんの言うことしか聞かない。今までみたいに、龍一くんが千尋くんを管理して僕に回してくれなきゃダメなんだ。今日だって、千尋くんがどうしても龍一くんに会いたいって言うからわざわざ高いお金を払って来てもらったんだから。なぁ、千尋くん」
名前を呼ばれ、千尋は、視界を遮る汗か涙か解らないものを瞬きして拭い払った。
重い目蓋を開けて目を見開く。
霞んだ視界の先で、まず藤田と目が合い、それから龍一の鋭い視線と目が合った。
「りゅう……」
途端に、嬉しいような、悲しいような、切ないような、どうしようもなく泣きたい気持ちが込み上げ千尋は言葉を詰まらせた。
懐かしさに震える一方で、恨めしいような、腹立たしいような暗い気持ちが同時に胸の底に渦巻く。
龍一の妙に落ち着いた目が、以前とは違う他人行儀なよそよそしいものに感じられ、千尋はまともに見ることが出来なかった。
「ほら、千尋くんからも龍一くんにお願いして! また龍一くんと一緒にいたいんだろ? そのために龍一くんを探していたんだもんね。ほら、龍一くんならここにいる。もう一度拾ってもらいなさい。また一緒にいたいってお願いしなさい」
黙ったまま目も合わさない千尋を見兼ねたように、藤田が、前髪を掴んで無理に顔を上げさせる。
今度は目を逸らすことが出来なかった。
顔を上げさせられた途端、龍一の、内面にえぐり込んでくるような視線と目が合い、たちまち動けなくなった。
龍一は、藤田に、千尋から手を離すよ命令すると、コンクリートの地べたに横向きで横たわる千尋の前にしゃがみ込み、千尋の血と汗で汚れた髪を優しく撫でた。
「せっかく離れてやったのに、なんでまた戻ってきちまうかな、お前は……」
髪を撫でる手の温かさとはうらはらに、龍一の言葉は酷くぶっきら棒で冷ややだった。
「お前、俺に会いたくてコイツに頼んだんだってな。コイツに頼めばどんな目に遭うかぐらい解ってたろ。なのになんでまたコイツに頼んだ」
「りゅ……」
「だいたい、なんで俺に会いたいんだ。悪りぃが、俺はお前をもう一度拾おうなんて思っちゃいない。俺はお前を棄てたんだ。今更何言われても側に置く気は無ぇ」
「龍一くん!」
声を荒げたのは藤田だった。
千尋が答えるよりも先に、藤田は、龍一に対してヒステリックな声を上げた。
「千尋くんがこんな思いをしてまでお願いしてるのにその言い方は無いだろう! これじゃあ千尋くんが可哀想だ。もう一度千尋くんの側にいてやるとどうして答えてやらない!」
「あんたがそれを言うのか。コイツをこんな目に遭わせたのはあんただろ! あんたはただ、安全にコイツを買いたいだけだろう!」
耳をつん裂くような怒鳴り声が千尋のこめかみをズキズキと疼かせる。
やめさせようと手を伸ばし、偶然触れた龍一のズボンの裾を掴んだ。
「千尋……?」
不意を突かれた龍一の素の顔が、一緒にいた頃の表情のまま千尋を見下ろした。
「りゅ……俺……」
「なんだ。今の話、聞いてたろ? 俺はお前とヨリを戻す気は無ぇ。それに、俺と一緒にいるってことは、これからもこの藤田の相手をするってことだ。 お前、コイツのこと嫌いだったんだろ? いい加減目ぇ覚ませ! 俺のことならいくら恨んでも構わねぇから大人しく家に帰んな!」
「……じゃない」
自分でもよく解らない、説明のつかない騒めきが全身を駆け抜けた。
そうじゃない。
否定の言葉がぐるぐると頭を回り、それを吐き出すように、千尋は、首を激しく左右に振った。
「千尋……?」
「そうじゃない! 俺が聞きたいのは……俺が聞きたかったのはそんなことじゃなくて……」
胸の奥に仕舞った思いのフタが外れ、抑えていた思いが熱い感情となって溢れ出た。
龍一の元へ戻る、戻らない、など、どうでも良かった。
千尋はただ知りたかった。
龍一のズボンの裾を握り締め、千尋は、龍一の驚いた顔を見上げた。
「俺は……どうしてりゅうに棄てられたの? どうしてりゅうは俺を好きになってくれなかったの?」
思いの全てを一滴残らず絞り出すように、千尋は、泣き出しそうに声を震わせた。
「どうして? 俺の何がいけなかったの? 何が足りなかったの? 教えて。俺の何が嫌だった? どこが悪かった?」
龍一は、一瞬黙り、やがて静かに口を開いた。
「お前に悪いとこなんか無ぇよ。俺が、お前の望むような感情をお前に抱いてやれなかっただけだ」
「だから、どうして……」
「それだけの気持ちしか無かったからだよ」
「りゅう……」
「お前は気紛れで拾ったペットみてぇなもんだ。冷たいようだが、最初から真剣に面倒見ようと思ってたわけじゃねぇ。早い話が、悪い相手に捕まっちまったってことだ。だから、お前の何が悪いとか、何がいけなかったとか、そんなことは関係無ぇんだ。悪いところがあるとしたら、それは、俺なんかを好きだと勘違いしちまったお前の心の弱さだ」
「勘違い……?」
コトリ、と頭の奥で何かが外れる音がした。信じられない龍一の一言に、千尋は唖然と唇を強張らせた。
「お前、本当にそこまで俺のこと好きだったのか? 違うだろ? お前はただ、誰かに嫌われて棄てられたくなかっただけだ」
「なんだよそれ。なに、わけわかんないこと……。そんなことで俺を誤魔化そうったって……」
龍一は何も答えず、ただ、瞳の奥に深い憂いを滲ませ、いつになく真剣な表情で千尋を見下ろした。
「とにかく、お前とはもう終わったんだ。解ったらとっとと帰れ。それと、二度と藤田には近付くな」
龍一の言葉が鋭いトゲとなって胸に突き刺さる。
その痛みを千尋は全身で受けていた。
他人の口からではなく、龍一の口から直接聞かされたことで、宙ぶらりんになっていた痛みとショックが現実になって降りかかった。
終わった。
心臓が壊れたように激しく鳴り始め、胸が押し潰されるように苦しくなった。
両眼からは視界を眩ますほどの涙が溢れ、身体中に溜まった悲しみを全部吐き出すように、絶叫のような泣き声が次から次へと噴き出した。
龍一は、両手で顔を覆って泣き叫ぶ千尋の頭をもう一度優しく撫でると、ゆっくりと腰を上げ、踵を返した。
本当に終わったのだ。
遠ざかっていく龍一の靴音を、千尋は、自分の身体を抱き締めながら身体を丸めて聞いていた。
すると、突然後ろから身体を引きずり上げられ、千尋は、しゃくり上げた息を吸ったまま硬直した。
「待て! まだ話は終わってない!」
藤田の腕が喉の下に食い込み、前方で龍一がゆっくり振り返る。
痩せギスの藤田など普通の状態ならば充分振りほどけたが、長時間犯され続けたことによる体力の消耗と暴行による傷の痛みで抵抗らしい抵抗も出来なかった。
藤田は、千尋を羽交締めにしながら、龍一を睨み付けた。
「勝手に二人で話しを終わらせないでくれ。僕には千尋くんが必要なんだ。金なら出すから、今まで通り千尋くんを手元に置いて僕に斡旋しなさい。それが嫌なら、今ここで、千尋くんにこれからも僕の相手をすると約束させなさい!」
「あんたバカか!」
飛び交う怒号が徐々に遠くなる。藤田に容赦なく首を締め上げられながら、千尋は、藤田と龍一の争う声を途切れ途切れの意識の中で聞いていた。
「勝手が許されると思ってもらっては困る。今までいくら使ったと思ってるんだ。約束しないなら今この場で千尋くんを殺す」
「頭大丈夫か? そんなことしたらあんたが捕まるだけだ。おいっ! 何やってる! やめろ! 千尋を離せ!」
だんだんと暗くなっていく視界を眺めながら、千尋は、十五歳の春、小遣いの残りを握りしめて高速バスに乗った日のことを思い出していた。
あの日、義兄との行為を母親に見られたあの時、千尋は、母親が自分の手を取り、一緒に安全な場所へ逃げてくれることを願った。
バスに乗るまでの間、誰かが気付いて追いかけてきてくれるんじゃないかと何度も振り返った。
龍一に拾われた夜、温かいバスタブの中で身体を撫でられながら、今度こそ棄てられないようにと、自分から龍一にしがみついた。
今までの思い出が、死ぬ前に見る夢のように千尋の脳裏を駆け巡る。
次に浮かんだのは芳春の顔だった。
芳春がアパートを訪れた日、千尋は、龍一の面影を求めながら、龍一とはまるで違う雰囲気を持つ芳春に戸惑っていた。
店での仕事は新鮮だった。
仕事らしい仕事などしたことも無い、接客も苦手なら物覚えも悪く要領を得ない不出来な有り様だったが、芳春に仕事を教わるのは楽しく、達成感を得る喜びも覚えた。
芳春との生活は、龍一と一緒にいた頃と比べて時間の流れが穏やかで、龍一といた頃には感じられなかった、緩みや安らぎのようなものがあった。
あの安らぎの中へ戻れるのだろうか、とふと思った。
頭の片隅に浮かんだ芳春の顔が、瞬く間に千尋の目蓋の裏側一杯に広がって行く。
その顔が、千尋を見詰め、『好きだ』と囁いた。
好きだ。
心の中で繰り返した途端、芳春にそう言われた時の光景がありありと目の前に現れた。
また、あんなふうに言って貰えるのだろうか。
全てを終わらせ、今、心と身体の隅々を襲うこの苦しみや悲しみや憎しみや、辛さや悔しさや虚しさが自分の中から全部出て行ってしまったら、また芳春はあんなふうに『好き』と言ってくれるのだろうか。
真っ暗闇の中へと吸い込まれて行く芳春を眺めながら、千尋は、自分のことを『好き』と言った芳春の唇と、耳元を流れた甘い吐息に思いを巡らせた。
すると、
「好きなんだ!」
幻聴にしてはやけにはっきりと聞こえた声に、千尋は薄っすらと目を開けた。
「マス……タ……?」
目の前に芳春の顔があった。藤田に羽交締めにされていた筈が、いつの間にか芳春の腕の中にいることに気付き千尋は反射的に身体を起こした。
「なんだお前は! 部外者のくせに口を出すな!」
「部外者じゃない! 俺は千尋が好きなんだ! あんたの好きにはさせない! あんたに千尋は絶対に渡さない!」
藤田のヒステリックな声と芳春の聞いたこともないような感情的な怒鳴り声が、代わる代わる千尋の耳元で轟く。
何が起きたのか、千尋には何も解らなかった。
千尋はただ、芳春に抱き締められながら、自分の耳にはっきりと流れ込んできた芳春の言葉を心の中で繰り返した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「カクテルフェア? ビールじゃなくて?」
イベント用のメニューを片手に呟く加山を横目に、芳春は、棚に置かれた酒瓶を手に取り、専用のクロスで表面を拭き取った。
「ビアカクテルももちろんやりますよ。あとはメジャーなやつを5、6種類」
「へぇ……」
ボサノバの気怠いリズムに、明るさを絞った琥珀色の照明。
ラストオーダーを終えたショットバーは、眠りにつく前の緩慢とした静けさに包まれていた。
客も残すところ後一組となり、グラスの中のお酒の減り具合から、いつお会計の声がかかってもおかしく無い。
あとは閉店を待つだけの店内に、加山の姿がいつまでも残っているのもすっかり日常風景になっていた。
「それにしても、もう一年か……」
加山の言葉に、ボトルを拭く芳春の手が止まる。
千尋を取り戻すために後藤龍一の元へ乗り込んでから一年が経っていた。
あの日、賃貸契約書類を頼りに訪ねて行った先で、芳春は後藤龍一と対面した。
久しぶりに見る後藤龍一は、以前、家賃の集金に行った時に見ただらしない姿とは打って変わって、いかにも重要なポストに就いていますと言わんばかりの高級スーツに身を包んで芳春の前に現れた。
「へぇ。やっぱ、あんたとそういう事になってたんだ」
身なりが変わったところで中身までが変わるわけではない。捜索願いを盾に詰め寄る芳春をものともせず、後藤は、横柄な口調でデスクの椅子にふんぞり返った。
「まぁ、こうなることはなんとなく解ってたけどね。だってあんた、うち来るたびに千尋のことチラチラ見てただろ? 俺が千尋といるのが気に喰わねぇ、って顔してさ」
悪態をつきながらも、後藤は、千尋を連れ去ったのが藤田であることと、藤田から千尋に会いに来るよう頼まれていることを正直に話した。
「勘違いしてるようだから言っておくけど、俺なんかより藤田の方がよっぽど厄介だぜ? 千尋を一番必要としてるのはアイツだ」
藤田の元へ向かう間、後藤は、千尋とのこれまでの経緯や藤田との関係を、まるで懺悔でもするかのように芳春に話した。
どうしてそこまで話すのか芳春が訪ねても、後藤は意味深に笑うだけで何も答えなかった。
その後、打ち合わせ通り後藤が一人で藤田に会い、藤田が千尋を監禁陵辱した証拠をレコーダーに収めてから千尋を救出した。
こうして藤田は観念し、千尋は救急車で近くの病院に搬送された後、そのまま家出人として通報され、治療が終わると同時に家族の元へと帰された。
千尋が自分の家に帰ったことを、芳春は店での仕事中、立ち寄った加山から聞かされた。
千尋とは、その後、病院で寝ているところを見たのを最後に一度も会っていなかった。
すぐにでも連れ帰るつもりで訪ねたが、傷付いた姿で横たわる千尋を見た途端、高ぶっていた気持ちが急速に冷め、代わりに、千尋を無理やり自分の元へ連れ帰ろうとしていた自分の傲慢さに嫌悪感が込み上げた。
千尋は、心も身体も傷付いている。
この傷が癒えるのは果たしていつなのか。
弱々しい呼吸を繰り返す包帯だらけの千尋を見ながら、芳春は、ただ後藤龍一から引き離せば全て解決すると考えていた自分を情けなく思った。
後藤龍一の呪縛から解放されるには、それにまつわる全てのものから距離を置かねばならない。
自分もその一つであることは言うまでも無かった。
結局、芳春は、千尋に声を掛けないまま病室を後にした。
縁があったらもう一度会えると思った。
千尋が後藤龍一の呪縛から完全に抜け出した後、もしも千尋が望めば、もう一度会える筈だと思っていた。
あれから一年。
「そう言えば、千尋くんに貸したカクテルレシピはどうなったの?」
加山の言葉に、芳春は、うっすらと顎ヒゲの浮かぶ横顔を小さく歪めた。
「どうなったもなにも、あれ以来会ってないから解りませんよ」
「でも千尋くんが持ってるんでしょ?」
「さぁ。部屋に置いてなかったから持ってったんだろう、って思ってるだけで、案外荷物に紛れて何処かに行っちゃった可能性もありますよ」
荷物と言っても着替え程度しか無かったが、千尋の荷物は知らない間に部屋から持ち出され、芳春が訪ねた時には、使い古した衣類が残されているだけだった。
部屋を出る時、何気に覗いたポストに鍵が入っているのに気付き、芳春は、千尋が本当にアパートを出て行ったのだと理解した。
あの日から一年。
レシピ本の行方は解らないままだったが、千尋が持っているならそれでいいと芳春は思っていた。
「あのまま千尋くんがここで働いてたら、今頃、カッコよくシェーカー振ってたんだろうね……」
独り言のように呟く加山を笑顔でやり過ごし、拭き終わったボトルを棚に戻した。
同じタイミングで最後の客が帰り、残っていた加山の手を借りながら後片付けをして店を出た。
タクシーで帰ろうという加山の申し出をやんわりと断り、一人で駅に向かって歩いた。
自宅マンションとは違う路線に乗って帰る帰り道。
かつて、千尋が後藤龍一を待っていたあのアパートで、今は自分が千尋を待っている。
運命とは皮肉なものだと芳春は思った。
『龍一はここに帰ってくる。龍一が帰って来た時、俺がここにいないと』
かつて、うんざりしながら聴いていた千尋のセリフを、今は自分が千尋を思い浮かべながら繰り返している。
その時の千尋の気持ちが、こんなにも身に染みて理解出来る日が来るとは思っていなかった。
最寄り駅を降り、芳春は、千尋がこの道を歩いていた時に思っていたであろう気持ちと同じ気持ちでアパートまでの緩やかな坂道を登っていた。
途中のコンビニで菓子パンとジュースを買い、残りの一本道を歩く。
慣れているからこそ、芳春はすぐに異変に気が付いた。
部屋の前に誰かいる。
自然と脚が地面を蹴り上げ、身体が前のめりに先を急ぐ。
「千尋!」
裏返る声を振り絞り、立ち上がったシルエットにもう一度叫んだ。
「千尋!」
小さな影が駆け寄ってくるのを真っ直ぐに見詰めながら、芳春は、だんだんと近付く愛しい姿に、全速力で駆け寄り力一杯抱き締めた。
「マスター……。俺、鍵持ってなくて……だからここでずっと待ってて……」
「鍵なんかいらない。もういいから。もう何も言うな」
柔らかい髪が芳春の鼻先をくすぐり、甘い吐息が肩先を優しくなぞる。
久しぶりに触れる千尋の身体は、最後に抱き締めた時よりふっくらと柔らかく、朝露に濡れる爽やかな草原の香りがした。
「マスター、俺、マスターに借りた本、たくさん読んで、たくさん覚えたんだ。だから、マスターとまた働きたい」
芳春は何も言えなかった。
千尋に会ったら、あれも言おうこれも言おうと準備していた言葉は、一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。
千尋の小さな背中を抱き締めながら、芳春は、胸の奥底から湧いてくる切ない思いに身体を震わせていた。
「好きだ……」
それ以外の言葉は消えて無くなってしまったかのように、好き、という言葉だけが喉を押し上げ芳春の唇から溢れ出た。
「好きだ……千尋……」
千尋の身体を胸元からそっと剥がし、千尋を正面から見詰めてもう一度言った。
言い終わらないうちに、千尋の唇が、「俺も」と動いた。
「俺も……、俺も、マスターが好き……」
一瞬、空気がシンと静まり返る。
次の瞬間、芳春と千尋は、どちらかともなく顔を近付けていた。
唇を少し開きながら、お互いの舌を舌で迎えて絡ませ合う。
たっぷりと舌を差し入れ、愛情を与え合うように深く激しく吸い合いながら、吐息混じりに「好き」と繰り返した。
昨日と同じはずの景色が今を境にガラリと変わった気がした。
長いキスの後、芳春は、千尋を部屋の外で待たせ、小さなカバンに詰めれるだけの荷物を詰めてアパートを出た。
ここから始まり、ここで終わる。
待っている日々はもう終わった。
次は、ここから新しい日々が始まる。
「どこ行くんだよ……」
芳春は、千尋の手を取り、雑草の生茂る駐車場に停めた車に千尋を乗せた。
「俺たちの家だ」
エンジンをかけ、アクセルを踏んで、来た道を戻る。
聞きたいことがたくさんある。
やらなければならないこともたくさんある。
しかし、まずは千尋を抱き締めよう。
家に着いたら、千尋を抱き締めて、柔らかい頬を撫でて、たくさんキスをして、たくさん『好き』と言おう。
車は、芳春のマンションに向かって走り出していた。
もう二度と待つ必要の無い、当たり前のように愛がいつもすぐ側にある、二人の新しい日常へと走り出していた。
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