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相愛〜離さない、離れない
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熱めのシャワーが、亜也人のぐちゃぐちゃになった頭を少しづつ平常に戻していた。
松岡の車から飛び出した後、亜也人は、細い路地をがむしゃらに走って松岡を撒いた。
衝動的な行動だった。
怒りというより、ショックで気が動転してしまっていた。
乱暴されたことよりも、浩然との仲を疑われたことが、亜也人の胸を想像以上に深く傷付けた。
これ以上一緒にいたら取り返しのつかない喧嘩に発展してしまう。思った途端、身体が勝手に動き、逃げるように走り出していた。
亜也人は、狭い路地に逃げ込み、息が切れたところで地べたにへたりこんだ。
汗が噴き出し、胃の奥から吐き気が込み上げる。
この前は浩然が薬を飲ませてくれた。
浩然は、ただ、純粋に心配してくれている。それをどうして頭ごなしに悪者だと決め付けるのか、亜也人には松岡の気持ちが全く理解出来なかった。
このまま一生友達が出来ないまま生きて行くのだろうか。
高校時代に出来た唯一の友達は、当時付き合っていた恋人、積川良二の凄惨なリンチに遭い亜也人の前から姿を消した。
その時のことを思い出すと、亜也人は今でも胸が張り裂けそうになる。
『 お前、そいつが好きなのか』『そいつにどこまでやらせた』
良二にそう言われた時の血の引くような思いが、再び亜也人の背筋をゾクゾクと震わせていた。
『そいつに惚れたのか』
松岡は確かにそう言った。
まさか、松岡に限ってそんなバカな真似はしないとは思う。
しかし、絶対か、と言われたら亜也人には自信が無かった。松岡の気持ちは松岡にしか解らない。浩然の身に何も無いという保証はどこにも無かった。
居ても立ってもいられず、亜也人は、慌てて浩然に連絡を取った。
浩然は、亜也人のただならぬ様子を察したのか、すぐに自分の部屋へ来るよう言いつけた。
こうして亜也人は、浩然に言われるまま、タクシーを呼んでホテルへ戻った。
来るまでは混乱していたが、熱いシャワーを浴びるうちに、不安と焦りでこんがらがっていた頭が少しづつほぐれてきた。
冷静になると、途端に松岡のことが気になった。
松岡は良二とは違う。
考えてみれば、松岡がそんな大人気ない真似をするわけが無かった。
それなのに、松岡を信じることが出来ず、一時の感情でこんなところまで来てしまった。
松岡はどうしているだろうか。まだあの路地を走り回っているのだろうか。それとも愛想を尽かして帰ってしまっただろうか。
飲みかけのソーダ水のグラスについた汗がテーブルに連なって落ちて行くさまを見ながら、亜也人は、車を飛び出す直前に見た、松岡の愕然とした顔を思い出していた。
「吉祥……怒ってるかな……」
うっかり声に出してしまいそうになり、亜也人は慌てて咳払いをして誤魔化した。
「どうした浮かない顔して。お前を酷い目に遭わせたヤツが乗り込んでくると思ってるのか? それなら心配いらねぇ。ここへは誰も通すなって、って言ってあっから」
無我夢中で駆け付けたせいで、衣服の乱れにまで気が回らなかったのが原因だった。亜也人を見るなり、浩然は、はだけたシャツから覗く幾つものキスマークにギョッと顔を引きつらせ、亜也人が何者かに乱暴されたと結論付けた。
誰にやられた、と問い詰められ、松岡との関係を正直に打ち明けたものの、亜也人の告白は返って浩然を混乱させ、浩然の中での松岡のイメージを、亜也人を好き放題に扱うヒモ男として位置付けてしまった。
亜也人はもちろん反論したが、それすらも仕返しを恐れて庇っていると受け取られ、松岡の印象をますます悪くした。
松岡のことを悪く言われるのは心苦しかったが、自分が撒いた種だけに浩然を責めるわけにもいかない。
亜也人はただ、自分自身身への情けなさを誤魔化すように、気の抜けた薄ら笑いを浮かべながら俯いた。
「悪いことは言わねぇから、その、松岡ってヤツからはもう離れた方が良い。お前だっていつまでもこんなこと続けるの嫌だろ?」
強い口調で言うと、浩然は、濡れ髪のままソファーに座る亜也人の頭の上にタオルを掛け、「乾かさないと風邪を引く」と、両手でわしゃわしゃと掻き乱した。
次は、「これに着替えろ」と、黒いスウェットの上下を手渡される。
頭から被り、バスローブを脱ぎながら腕を通すと、少し距離を取って見守っていた浩然が目ざとく亜也人の脇腹の傷を見付けた。
「それも、その、松岡、ってヤツにやられたのか……」
脇腹の傷は良二に付けられたものだった。松岡との関係を問いただされた時、激怒した良二に脇腹を食いちぎられるほど強く噛まれたのだ。
一年半も経つと言うのに、それは、良二の存在を知らしめるかのように、亜也人の白い肌にいびつな赤味となって今もなお居座り続けている。
傷痕を見るたびに、良二と過ごした日々が鈍い痛みとなって蘇る。
亜也人にとって良二との記憶は、自分自身の“罪の象徴”だ。
どれだけ月日が経とうとも、それは一瞬にして亜也人を過去へと引きずり戻し、重苦しい感情の渦へと放り込む。
浩然は、他の人へ施すことで過去の罪を消化させる、と言ったが、亜也人は自分の罪を軽くしようとは思っていなかった。亜也人は自分のせいで周りが傷付く姿をあまりにも見過ぎてしまった。自分はそれだけ罪深い。痛みは当然の報いだと思っていた。
浩然の伺うような視線を感じながら、亜也人は浩然の方を振り向かずに答えた。
「これは吉祥にやられたんじゃないよ」
浩然はすぐに反応した。
「じゃあ誰だよ。客か?」
「ううん。でも、相手が全て悪いわけじゃない。俺にも悪いとこはあるんだ。俺、鈍臭いから、上手いこと説明できなくて、いつも相手を怒らせちゃうんだ」
「だからって酷いことして良いわけじゃねーだろ?」
「そうだけど、怒らせてるのはこっちだし、向こうだってツライと思うから……」
「は? なに言ってんの、お前」
実際、叱られている自分よりも、叱っている良二や松岡の方が辛そうな顔をしていることを亜也人は知っている。
昔から、『要領を得ない』をよく言われた。上手く話そうとすればするほど、頭の中に色んな言葉が溢れて収集がつかなくなる。頑張って話せば相手を混乱させ、黙っていればイラつかせる。知らないうちに相手を怒らせるような態度を取っているのだとは思ったが、無意識だけに、亜也人には改めようが無かった。
「怒らせないように出来ればいいんだけど、俺、バカだから、相手の言うこともちゃんと理解してやれないし……。だから、怒られても仕方ない、って言うか、相手だけを責められないとこもあるんだ」
浩然は、もじもじと語尾を細める亜也人を気難しい顔で見ていたが、やがて、何かを決意したように突然ソファーから立ち上がった。
「決めた。やっぱ。そうさせてもらう」
表情の端に確かな自信を覗かせながら言うと、浩然は、スウェットのズボンを広げたまま見上げる亜也人を見詰めながら、亜也人の隣に、飛び込むように腰掛けた。
「やっぱ、お前はヤツのところへは返さない」
「え? なに言って……」
反動でソファーが弾み、スプリングの軋む音で浩然の声が掻き消される。
圧倒される亜也人をよそに、浩然は、よろける亜也人の両腕を掴み、興奮気味に語気を強めた。
「お前は、今すぐ環境を変えるべきだ
「環境を変える……?」
強い感情のこもった口調だった。
「金なら用意した。だからもうヤツのところへは戻るな。俺と一緒に来い!」
亜也人は、何を言われているのか解らず、呆然と浩然を見上げた。
頭が混乱し、心臓が物凄い勢いで鼓動する。
浩然の強い視線に、喉が痙攣したように震え、返事はおろか、声すら出せなくなっていた。
「被害者なのに、自分も悪い、とか、まともな考えじゃねぇよ。お前の今の環境がお前にそんな考えを起こさせてんだ。環境が変わればきっと考えも変わる。俺と一緒に上海へ来いよ。広い屋敷だから部屋はいくらでもあるし、仕事だってたくさんある。お前がその気なら、一緒に勉強して、将来、俺の秘書として働いたっていいんだ」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
言葉を絞り出しながら、喘ぐように、亜也人は言った。
「そ、そ、そんなこと急に言われても困るって!」
「なにが困るんだ」
「だって、吉祥がっ……」
言いかけ、ふと、口ごもる。
自分がいなくなることで松岡がどう困ると言うのか。
もともと松岡は、当時、石破組の若頭であった内藤の命により、ドラッグの横流しをしていた亜也人を捕え、引き渡す予定だったのだ。
それを、一目惚れというチンケな理由で手元に置いた。
松岡が手元に置かなければ、亜也人は今頃、内藤の手によって、今よりももっと酷い仕事を強要され、ヘタをすれば命まで奪われていたかも知れない。
当時は思いもしなかったが、冷静に考えれば、松岡は、亜也人が積川良二と内藤との間に抱えていたトラブルに、無理やり付き合わされているに過ぎないという事実に気付く。
実際、松岡は亜也人とは何の関係も無い人間だった。それが亜也人と関わったことで背負わなくてよい苦労を背負わされた。
松岡と出会ってからのこれまでの二年近くを振り返っても、松岡は亜也人と関わったせいで多くの犠牲を払ってきた。
亜也人のために借金を抱え、辛い仕事を引き受け、暗い表情で思い悩む。全て自分が原因だ。自分がいなくなったところで松岡は何も困らない。むしろ、重荷から解放されて自由になれる。
「だって、吉祥が……吉祥は……」
その先の言葉が続けられず、亜也人は、クッと下唇を噛んだ。
不安、恐れ、悲しみ。受け止めきれない幾つものマイナスの感情が、焼けるような熱さとなって胸を押し上げる。
鼻の奥がツンと痺れ、瞼に溜まった涙が白目を赤く腫らしながら頬へと溢れた。
「怖がらなくて大丈夫だ。亜也人は何も心配しなくていいから」
予想外の展開に狼狽る亜也人とはうらはらに、浩然の瞳は自信に輝き、声は、力強さに満ちいていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「すみません。ナンパされたなんて知ったら、松岡さんが、もう、亜也ちゃんを外出させない、なんて言い出すんじゃないかと思って、どうしても言い出せなくて……」
神妙な顔をする紀伊田を、「もういい」と宥め、松岡は、ダイニングテーブルに両肘をついて手の甲を重ねて顎を乗せた。
「それよりも今は、亜也人をどうやって連れ帰るかだ」
インペリアルガーラホテル、最上階のスイートルーム。
亜也人がそこにいることは、紀伊田の報告を受ける前から解っていた。
ならば今すぐにでも連れ戻しに行けば済む話しだが、そうしないのは、相手が王静(ワンシン)の息子であることと、バックに、内藤と、チャイニーズギャング“フェニックス”との闇取り引きが絡んでいるからだ。
後先を考えないのであれば連れ戻す方法はいくらでもある。しかし、亜也人を安全に取り戻し、取り戻した後も、命を脅かされることなく平穏に暮らして行けるようにするためには、その場しのぎの強引な方法は避けなければならない。
「ウエイターを買収してハオランの部屋の様子を伺わせてますが、今のところ外へ出る気配はありません。あと、これ、駐車場の画像です」
「色々すまないな」
「やめて下さい。これぐらいして当然です」
紀伊田は、お礼を言う松岡を胸の前で両手を振りながら見上げると、ここからが本題だと言わんばかりに、姿勢を正して松岡を見た。
「問題なのは、ハオランが亜也ちゃんの借金を肩代わりすると言ったことでしょう。奴らは『やる』と言ったことはどんな些細なことでも絶対にやります。一度口にしたことは必ずやり遂げる。そこが奴らの怖いとこなんです」
日本のヤクザのようなピラミッド形の組織力を持たない彼らは、組織という後ろ盾がないぶん、自分の身は自分で守る、完全実力主義の暴力集団とも言える。その弱肉強食の世界において、有言実行は、自分自身の強さと信頼性の高さを周りに知らしめる証となる。だからこそ、彼らは、自分の宣言したことはどんな手を使っても必ず遂行する。
加えて、フェニックスが人身売買に手を染めているという事実も嫌な予感を増幅させた。
紀伊田の調べによると、フェニックスが扱うのは性的搾取を目的とした売買で、コーディネーターの眼力によって選出された対象は、外見、中身ともに申し分無く、目が飛び出るような高値で取り引きされているという。
ハオランが持ち出した借金返済の話がそれを見込んでの策略だったとしたら、亜也人は返済額以上の高値で取引きされることになり、相手は、オイルマネーで潤うサウジアラビアあたりの富豪と推測される。
内藤から取り戻すのでさえ手こずっていると言うのに、遠い異国の富豪の手に渡ってしまっては、さすがの松岡も手出しは出来ない。仮説が実行される前に取り戻さなければ、亜也人を永遠に失うことになるのは目に見えていた。
それだけは何としても避けなければならない。
居場所を知りながら手も足も出ないジレンマを抱えながらも、松岡は、焦る気持ちを抑えながら努めて冷静に解決策を巡らせた。
「ホテルに張り込んで移動のタイミングを狙うか、内藤に全てを話して王静(ワンシン)に目通りを願うか」
内藤の名前を出すと、紀伊田は、松岡を上目使いチラと見上げ、言いづらそうに眉を顰めた。
「内藤の線は俺も考えましたけど、内藤に全てを話すのはリスクが高い気がします」
「どうしてそう思う」
「松岡さんだからハッキリ言いますけど、内藤は、本当は亜也ちゃんを積川から遠ざけたいんです。ハオランが亜也ちゃんの借金を肩代わりする気でいることを知ったら、内藤は間違いなくハオランの側につくでしょう。金を貰えて、亜也ちゃんを遠くに追いやれる。内藤に取っては一石二鳥です」
内藤が亜也人を疎ましく思っていることは松岡も承知している。
内藤にとって亜也人は、内藤が、石破組の将来を担う幹部候補として可愛がっている積川良二を破滅の道へ引き込む危険因子である。
もっともそれは亜也人のせいではなく、亜也人に異常な執着をみせ、亜也人を傷付けた人間を片っ端から血祭りに上げてしまうほどの凶暴性を持つ積川良二の歪んだ愛情が原因だったが、内藤は、そもそも亜也人さえいなければそんなことにはならないのだと、責任の所在を亜也人に向けた。
ならば、どうしてさっさと手放さないのかと言われたら、それは、亜也人を野放しにすることへの不安だろう。
毒は、管理されていれば何の問題もない。
見えないところで悪さをされるより、自分の目の届くところに置いて監視した方がよほど安全というわけだ。
「確かに、内藤にとっては一石二鳥だな」
「ごめんなさい……」
「なんでお前が謝る。内藤のことはお前とは関係ない。それに俺も悪かったんだ。あいつが、そのハオランって奴をあんまり庇うから、ついカッとしちまって……」
「松岡さん。亜也ちゃんは松岡さんを裏切るような真似はしてないと思いますよ」
「解ってる。ただ、あいつはまだ子供だ。自分の行動が何を招くのかも解ってないし、周りの状況にも流されやすい」
とくに亜也人の場合、優柔不断で流されていると言うよりも、むしろ、解った上で敢えて流されているようなところがある。
ようするに、逃げている。
まるで、その方が楽だから、と言わんばかりに、自分自身で考えることを諦め、自ら進んで周りに従う。
亜也人を見ていると、松岡は、亜也人のこれまでの人生も、ただ周りに流されて今に行き着いてしまったのではないかと思うことがある。
自分の人生なのに、自分で行き先を決めない。
はたして、その中に亜也人の意思は存在しているのだろうか。ひょっとしたら、今、こうして自分と一緒にいることさえ、流された末の結果に過ぎないのではないだろうか。
そんなことを思うたび、松岡は、心に長い針を突き刺されているような痛みに襲われる。
もちろん答えなど出ない。人の気持ちを全て理解することは不可能だ。亜也人の気持ちは亜也人にしか解らない。
松岡の苦悩を感じ取ったのか、黙り込む松岡を元気付けるように、紀伊田は、声のトーンを少し上げて言った。
「大丈夫。亜也ちゃんは流されたりなんかしませんよ」
「だといいが……。今回ばっかりは自信が無い」
「それは、亜也ちゃんを信じる自信が無いってことすか?」
「それもあるが、もし、あいつがハオランって奴の話を受けると決めてしまったら、俺はあいつを説得する自信が無い」
「松岡さん!」
紀伊田の食って掛かるような視線を冷静に交わし、松岡は、部屋の壁を遠い目で眺めた。
「もちろん、そんな真似は絶対にさせない。どんな手を使ってでも、俺は必ずあいつを連れ戻す。だが、そうなったら、俺はあいつを無理やり連れて帰ることになる。あいつの意思なんかお構いなしに無理やりな……」
「でもそれは亜也ちゃんのためじゃないすか」
「そうだが、あいつにとっては余計な世話かも知れん。そもそも俺といること自体、あいつにとって良いことなのかどうか……」
すると、
「それ以上言ったら怒るよ! 松岡さん!」
紀伊田か、バシン、とテーブルを両手で叩き、松岡は遠くへ向けた視線を紀伊田に戻した。
「とにかく今は、亜也ちゃんを助け出すことが先決です! 幸い、内藤にはまだハオランの件は知られていないようだし、知られる前に、俺はフェニックスの方へ探りを入れてみます。松岡さんは今すぐホテルへ向かって下さい」
松岡は、紀伊田の力強い眼差しを見ていた。
「松岡さん。俺の話、聞いてます?」
「ああ……」
「なら、早くホテルへ……」
紀伊田が言うのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。
突然、厳つい男が二人、部屋に押し入り、紀伊田の肩を両側から担ぎ上げた。
「ちょっと! なんだお前ら! 松岡さん、これどういうこと!」
松岡は、唇を苦しそうに歪めて頭を下げた。
「すまない紀伊田。ことが済むまでしばらく大人しくしててくれ」
男たちに抱えられながら連れ出される紀伊田を無言で見送り、静かになったところでスマホを手に取った。
「俺だ。紀伊田は安全な場所に移すから安心しろ、佐伯」
電話口に向かって囁き、薄っすらと頬を緩める。
佐伯が安心しているのを物語るような優しい笑みだ。
しかしそれも束の間、松岡の表情が再び険しく強張った。
紀伊田から取り上げたスマホが、テーブルの上でメールの着信を伝えながら振動している。
送り主は、紀伊田が買収したホテルのウエイターからだ。松岡は、慌てて手に取り、メッセージを確認した。
「悪い。ホテルで動きがあったらしいから俺はそっちへ向かう」
一方的に電話を切り、松岡は、転がるように部屋を出た。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
飲み物を飲んだところまでは覚えていた。
頭が溶けてしまいそうな微睡みの中、聞き覚えのある声が、別の世界から流れてくるように、細く長く響いていた。
『話が違うじゃねーか、このクソ親父!』
目を覚ますと、白い天井が目の前に広がった。
手首が冷たく、ズキズキと痛む。何気に目をやると、黒い金属製の手枷が目に入り、亜也人はいっぺんに目が覚めた。
手枷は、両手首に着けられ、ベッドヘッドに繋がれている。まさかと思い足を動かすと、少し持ち上げたところで下からピンと引っ張られ、ズキンとした痛みが脛を這い上がった。
やはり繋がれている。
しかも全裸で。
『金はもう用意した。実は、あれからすぐ親父に話したんだ。将来、俺の秘書にする、って言ったら喜んでくれたよ。一億、って聞いた時は正直ビビッちまったけど、親父にはお安い御用だったらしい』
浩然から聞かされた後、何の前触れもなく突然部屋のドアが開き、肩幅のある、いかにも強そうな男数人と、恰幅の良い中年男性、その後ろから白衣を着た男がぞろぞろと中に入ってきた。
入って来た時の貫禄のある雰囲気から、中年男性が浩然の父、王静(ワンシン)であることはすぐに解った。
王静(ワンシン)は、ソファーから立ち上がろうとする亜也人を、そのままでいい、と手で静止すると、柔らかい笑みを浮かべながら流暢な日本語で挨拶した。
その後、『お近付きのしるし』と、赤いワインのような飲み物の入った小さなグラスを手渡され、乾杯の後、ひと口で飲み干してから記憶が途切れた。
浩然はどこに行ったのだろう。
思いながら部屋の中をぐるりと見渡すと、 まるで亜也人が目覚めたのを知っていたかのように、ドアノブがガチャリと音を立てて開いた。
「時間ピッタリにお目覚めとは、さすがは白石先生だ」
王静(ワンシン)と白衣の男だった。
二人は意味深な笑みを浮かべながら近付くと、ベッドの上に全裸で繋がれた亜也人を舐めるように見回し、好色そうに目を輝かせた。
「どうして自分がこんな目に遭うのか解らない、って顔だね。男に吸われた痕をこんなにたくさん残しながら、まるで処女みたいに清純な顔をするんだな君は」
最初に見た柔らかい笑顔とは違う、獲物を前に舌舐めずりするような不気味な笑みだ。
王静(ワンシン)は言うと、亜也人の唇に指先を乗せ、「それにしても美しい顔だ」と輪郭をなぞった。
「私が君のために一億用意したことはハオランから聞いてるね? 私は確かに事業で成功しているが、一億円は決して安い金額じゃない。それだけの金を払うんだから、君の身体はしっかりチェックしておかなきゃならないんだ」
輪郭から徐々に内側の粘膜へ指を這わせ、無理に唇を開いて口の中に入れる。
ささくれだった指が何度も口の中に出し入れされ、卑猥な動きに、亜也人の唇の端から唾液が滴り落ちた。
「柔らかい唇だ。口の中も驚くほど熱い……」
執拗に口を弄ぶと、王静(ワンシン)は、亜也人の唾液の付いた指を自分の口の中に入れてしゃぶり、亜也人を見下ろしながら片方の口角だけをグニャリと歪めた。
「そう驚くな。身体の反応を見てるだけだ。そうそう、君が寝てる間に身体測定させてもらったよ。もう少し体脂肪率があれば言うこと無いんだが、数字が全てではないからね。実際、こうして見ると君の美しさは本当に申し分ないよ。特にこのウエストのラインは見ているだけでそそられる」
言いながら、脇の下の窪みに指先を伸ばし、脇腹に向けてのカーブをツーッとなぞる。
木目の荒い乾燥した指先が、薄い皮膚の上を引っ掻くように伝い降り、腰骨から、更にその下の太ももまで降りていく。
膝まで下がったところで再び上に戻り、ウエストの一番くびれたところで脇腹の肉を摘んで止まった。
不快感が優っているせいだろう。くすぐったさはさほど感じない。それでも、荒れた指先が這い回る感触は亜也人の身体をビクビクと震わせた。
「これだけ派手にキスマークを付けられていたら普通は興ざめなんだろうが、君の場合はむしろ艶めかしく見えるから不思議だよ。白い肌に赤い印が、咲いたばかりの牡丹の花のようだ。私も早くこの細い腰を乱暴に抱いて、君の身体にたくさんの牡丹を散らしてみたいものだよ」
「血液検査の結果はまだですが、現役の高級コールボーイですから性病対策はしっかりされてると思います。なんなら今すぐ試されますか?」
白衣の男に、うむ、と答えると、王静(ワンシン)は、ウエストに置いた指先を横に滑らせ、臍の窪みに添えた。
「あっ……」
臍の中を指先でいじられ、亜也人は思わず声を漏らした。
悩ましい表情の亜也人とはうらはらに、王静(ワンシン)は満足そうに目を細めた。
「それにしても、ようやく君を抱けるのかと思うとそれだけで興奮するよ。君はもともと私の相手をする筈だったんだよ。それがどこで嗅ぎつけたのか、ハオランの奴が土壇場で場所を変更して自分の部屋へ君をよこした。お陰でこっちは待ちぼうけ。ミスター内藤にクレームを入れてやろうと思ったが、部下から事情を聞いて諦めたよ。たかがコールボーイ相手に身内の恥を晒すわけにはいかないからね」
王静(ワンシン)の言いたいことはすぐに解った。
これから何をされるのかも当然予測はついている。
幸か不幸か、亜也人は、こういう場面には慣れていた。
ここまできたらされることは同じ。
亜也人は腹を括り、弱い臍まわりをいじる王静(ワンシン)の愛撫を、瞳を硬く閉じて耐えた。
「我慢する顔も色っぽい。声を出すのが恥ずかしいのかい? やはり、日本人は奥ゆかしくて素敵だねぇ。ハオランに横取りされた時は腹が立ったが、これならあいつが夢中になるのも無理はない」
臍の窪みをいじっていた指を下へ滑らせ、手のひらを広げて下腹に当てる。ザラついた指先とはうらはらに、王静(ワンシン)の手の平は爬虫類の腹のような冷たい湿気を帯びていた。
「薄いが腹筋もちゃんとついてるね。胃の下からなだらかに窪んで薄く盛り上がる。細いが、ギスギスした感じがないところも良い……」
次はペニスに来ると思っていたが、亜也人の予想に反して、王静(ワンシン)の手はみぞおちを上がって胸元へ伸びた。
「あっ……やぁっ!」
いきなり乳首を摘まれ、亜也人が堪らず悲鳴を上げる。
ベッドがぐらりと揺れ、思わず目を開けると、王静(ワンシン)の顔が間近に迫っているのに気付き、亜也人はヒッと喉を引きつらせた。
「すまないね。声が聞きたかったからちょっと乱暴にしてしまったよ」
王静(ワンシン)は、近付けた顔を一旦離すと、おもむろにベッドの上に乗り上がり、亜也人の足の間に両膝を滑り込ませて亜也人の身体に覆い被さった。
「乳首も何という可愛いらしさだ。小ぶりで、綺麗で、色もいい。今からこの可愛らしい乳首をたくさん舐めてあげるから、遠慮しないで泣きなさい」
「んあぁっ!」
ねっとりとした舌の感触に、全身の皮膚がぞわぞわと鳥肌を立てる。
加減を知らない子供のような雑な愛撫だ。
ジュル、ズッ、チュパッ、ジュル。
一心不乱に乳首を舐めしゃぶる音が、吐息とともに胸元で渦を巻く。
王静(ワンシン)の舌にひねり潰され、捻じ曲げられ、亜也人の乳首が、悲鳴を上げるように赤く腫れ上がった。
「君の反応は素直で良いねぇ。ちょっと触っただけでもうこんなに硬く尖って、まるで、食べてくれ、って言ってるみたいじゃないか……」
お前の泣いてるみたいな喘ぎ声は男の征服欲をそそるからむやみやたらに声を出すな。
松岡に言われたことを思い出し、唇を真一文字結んで堪えていたが、王静(ワンシン)の執拗な舌使いに、亜也人の我慢はすぐに限界を迎えた。
「あっ、ああ……あああっ、んっ……あっ」
「本当に良い声を出すなぁ君は。耳がとろけてしまいそうだよ」
乳首を吸っていた唇が、みぞおちから臍へと降りていく。
先程の指先での愛撫の反応から、王静(ワンシン)は、ここが亜也人の弱いポイントであることを見抜いていたらしい。舌先を尖らせて臍の穴の中をまさぐる王静(ワンシン)の舌使いは、乳首を弄んでいた時よりしつこく、いやらしかった。
「いやぁっ! ダメですっ。そこ……やめっ……んあぁっ!」
「こらこら、そんなに腰をくねらせるんじゃない。たっぷり可愛いがってやろうと思ってるのに我慢が出来なくなるだろう?」
薄い窪みにピッタリと唇を付けて吸い、舌先で奥をつついて舐め回す。吸われるたび、お腹の奥に電気が流れるようなビリっとした衝撃が走り、お尻に甘い疼きが沸き起こる。
腰を捻ったところで、剥き出しのペニスが熱く勃ち上がり始めていることは隠しようが無かった。
「ほほう。こっちも元気になってきたな。さて、こっちはどうしてやろうか。舐めて欲しいか、扱いて欲しいか。君はどちらが好きだ? どうして欲しい?」
脚を左右に大きく開いて固定されているせいで、逃げることも出来ない。
答えなど何の意味も無かった。王静(ワンシン)は、うろたえる亜也人をニヤニヤと眺め、返事も聞かずに、根元を掴み、先の部分を唇でなぞった。
「んぁっ! や……」
反射的に身体がビクンと跳ね、鼻に抜けるような甘ったるい悲鳴が亜也人の口から漏れた。
「あっあっ……あああ、や……んんっ」
「んん? なんだ、これがいいのか。欲張りな奴だ」
わざとそうしたわけでは無かったが、亜也人の反応は王静(ワンシン)を喜ばせ、愛撫に没頭させた。
「やっ……やぁ……ダメっ……そんな……しないでぇっ……」
「こんなに気持ち良さそうなのに、やめても良いのかい? ほら、いやらしい蜜がこんなに溢れて、舐めても舐めても追いつかない……」
根元を激しく扱きながら、カリ首から先端までの間を上から横から色んな角度で舐めしゃぶり、亜也人のペニスが完全に勃ち上がると、おもむろに口に含み、真上から唇がお腹につくほど深く飲み込み、しぼり取るように吸い上げた。
気が遠くなりそうな快楽に、亜也人はこれ以上ないほどギュッと眉を顰め、押し殺したような悲鳴を漏らした。
「んんっ……や……やめ……んぁっ、んん……」
ほどなくして亜也人が、あっ、と泣き声を上げて絶頂を迎えると、王静(ワンシン)は、亜也人が口の中に吐き出した精液を美味しそうに飲み干し、満足げに笑った。
「若いだけあって精液もみずみずしいね。イッた後の顔も最高に艶めかしい。売り飛ばすのが惜しくなってきたよ……」
「売り飛ばす?」
亜也人は咄嗟に聞き返した。
王静(ワンシン)の言葉を聞いた途端、朦朧とした意識が一瞬にして覚醒した。
「あの…売り飛ばすって一体……」
浩然は、一緒に上海に行こうと言っていたのでは無かったか。
もちろん、最初から行く気など無い。
そもそも、浩然の申し出を受け入れたつもりも、正式に返事をしたわけでも無い。
しかし王静(ワンシン)は、唖然と見上げる亜也人を、陰険さの漂う目付きで見返した。
「なんだ、まさか、本当にハオランの秘書になれるとでも思ったのか? あいつが何を言ったのかは知らないが、お前をあいつの側に置くわけにはいかない。お前は確かに類い希な美人だが、所詮は卑しい男娼だ。そんな奴が、将来、上海スターリーグループを背負って立つ大事な後継者の側にいられるわけが無いだろう? それに私はお前のために一億用意したんだ。それに見合っただけの働きはしてもらわねば困る」
恐ろしさと焦りに、亜也人の身体に戦慄が走る。
「お金なんていらない……」
ガチガチと震える口を開き、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「お金はいらない。だから、家に帰して」
王静(ワンシン)は首を横に振った。
「ダメだ。お前は、私が一億で買うと決めたんだ。今だって色んな男に抱かれてるんだ。所有者が変わったところで何の問題も無いだろう?」
「い、嫌です。お、俺は、行かない。家に帰る……」
「家? 松岡とかいう男のところか。松岡吉祥、元、石破組構成員。お前の後見人、いや、恋人……と言ったほうが良かったかな」
「どうしてそれを……」
「お前のことは色々と調べてさせて貰った。私はハオランと違ってお前の私生活になど全く興味は無い。ただ……」
亜也人の股間から上半身を起こして言うと、王静(ワンシン)は、亜也人の頭の両側に手をついて身を乗り出し、視線を合わせて意味深な笑みを浮かべた。
「ただ、私は一度口にしたことを撤回するつもりは無い。私がその気になれば、松岡を地獄の底に突き落とすことなど造作ない。何が言いたいかはもう解るな?」
瞬間、亜也人の心臓が、ドクン、と跳ね上がった。
全身の血を抜かれるような説明のつかない恐ろしさが込み上げ、出かかった悲鳴が喉の奥にへばりついたまま固まる。
狼狽えながら見上げた先で、王静(ワンシン)の渇いた艶のない瞳が不気味に光っていた。
「お前の返事次第で、お前の大事な恋人が大変な災難に遭うことになるんだ」
「きっ、吉祥に何する気だ……」
「さぁな。海に沈めて魚のエサにしてやってもいいし、苛性ソーダで跡形もなく溶かしてやってもいい。どちらにせよ、お前の一言で松岡はこの世から消えていなくなる。さあ、お前はどうする? お前の返事を聞かせてくれ」
亜也人は何も答えず硬く目を閉じた。
王静(ワンシン)は、苦悶の表情で睫毛を震わせる亜也人を、「いい子だ」と宥めると、ゆっくりと上体を起こし、部屋の隅で控えていた白衣の男に目を向けた。
男は示し合わせたように王静(ワンシン)に近付き、何かを手渡した。
王静(ワンシン)は、それを受け取ると、亜也人の腰の上に馬乗りになり、男から受け取った物を亜也人の目の前に差し出した。
「これは……」
「見ての通りお前の携帯だ。お前はこのまま船に乗って中国本土へ連れ帰る。だから、これで松岡に電話を掛けろ。『俺はワンシン様のところへ行く』と松岡にそう伝えるんだ」
液晶画面の冷たい感触が耳たぶをピリリと硬直させる。
松岡を呼び出す音が、葬送の鐘のように亜也人の頭に重く響いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
実際に見るハオランは、送られてきた画像より、ずいぶん雄々しく、若々しく見えた。
ウエイターから、ハオランが部屋に監禁されているとの情報を受け、松岡は急いでホテルに向かった。
ルームサービスを装い部屋に入り込み、クローゼットの中で、手足を縛られ、口枷を付けられたハオランを発見した。
薬を嗅がされていたのだろう。ぐったりとしていたが、松岡が抱き起こして身体を揺さぶると、カッと目を見開き、敵意を剥き出しにして松岡を睨み付けた。
その目。
ハオランの、突き刺すような鋭い視線に、松岡は不覚にも一瞬たじろいだ。
強いだけでは無い、激しく憎々しく残忍な、睨み殺してやると言わんばかりの強い意志を込めた視線。
それは、松岡がこれまで何度も目にしてきた闇社会のカリスマたちの瞳と同じ色をしていた。
どうりで紀伊田が内緒にしていた訳だ。思いながらも、松岡は怯むわけにはいかなかった。
「お前がハオランだな。亜也人は何処だ! 亜也人の居場所を言え!」
ハオランは、最初こそ敵意を剥き出しにしたものの、松岡が亜也人の名前を出すと、たちまち、堅く強張った表情を崩し、狼狽えたように松岡に迫った。
「あんた、ひょっとして松岡か!」
表情豊か、と言うより、気性の激しさを思わせる、一瞬にして変わる表情。
切迫詰まった様子で松岡の腕を掴み、松岡が頷くと、今度は今にも泣き出しそうな表情で松岡に縋り付いた。
「あ、亜也人が……亜也人が大変なんだ!」
「落ち着け。亜也人はどこにいるんだ」
ハオランは、王静(ワンシン)が亜也人を自分の部屋に連れ去ったこと、亜也人の借金を肩代わりする見返りに、亜也人を他国へ売り飛ばすつもりでいることを話した。
「俺、こんなことになるなんて思って無かったんだ……。俺はただ、あいつがツラそうだったから助けてやろうと思って……なのにあのクソ親父……」
「感傷は後にしろ! それより、王静(ワンシン)の部屋はどこだ! 早く言え!」
「解らない。刺客の目を眩ますために一日ごとに部屋を移動してるんだ。このホテルのどこかにはいる筈だけど、でも、解ったところで見張りがいるから近付けねぇ」
「見張りは何人だ」
「部屋の中に三人、両サイドに三人づつ。部屋はモニターで監視されてて何かあったらマスターキーですぐ駆け付けることになってる」
「解った……」
「解った、って、まさかあんた、俺と二人だけで行くつもりか?」
松岡が頷くと、ハオランは、ギョッと顔を痙攣らせた。
「待てよ! 息子の俺ですらこんな目に遭わせる野郎だぜ? 応援も無しに行くなんていくらなんでも無謀だよ!」
「だったらお前はここにいろ」
揺るぎない決意を見せつけるかのように、松岡は、ハオランを振り払い、立ち上がった。
恐れていたことが現実になろうとしている。衝撃を受けなかったと言えば嘘になるが、既に覚悟は出来ていた。
松岡は、持参した改造スタンガンとサバイバルナイフをベルトに装着し、ジャケットの内ポケットに入れたアイスピックを生地の上から手でなぞった。
そして、ドアに向かって走り出したその時だった。
突然スマホの着信音か鳴り、松岡はふと足を止めた。
亜也人からだ。
「き……吉祥……?」
亜也人の声は、これまで亜也人とともに過ごし、誰よりもその声を身近で聞いてきた松岡ですら一度も聞いたことの無い、本当に亜也人の声なのかと疑いたくなるような、ひどく悲しく、か細く、不安げな声だった。
「亜也人! どこにいるんだ! 無事か!」
意識を集中しなければ上手く聞き取れないほど弱々しい声に、松岡の語気が自然と荒くなる。
亜也人がどんな様子でこんな悲壮な声を出しているのかと想像すると、あまりの痛々しさに目を開けていられないほどの息苦しさに襲われる。
声を抑えられない自分とはうらはらに、あからさまに弱々しくなっていく亜也人の声に、松岡は、言いようのない不安を覚えた。
「吉祥……俺……俺……」
「なんだ! どうした! ハッキリ言え!」
「俺……俺ね……もう、吉祥のところには戻れない……」
「おい! 何言ってんだ! 今すぐ行くから場所を言え!」
「無理だよ……」
ギリッ、と心臓に爪を立てられたような痛みが走る。
「諦めるな!!」
痛みが引き金となり、怒りにも似た衝動が、身体の内側から松岡の心の中心を突き抜けた。
「吉祥……」
「諦めるな! 必ず助けるから、諦めるんじゃない!」
亜也人の声は、言葉を伝えるにはあまりにも怯え、震えすぎていた。
「も……無理……だよ。俺……」
「何が無理なんだ!」
「だって……俺、もう……。吉祥だってその方が……」
「俺が? 俺が何だって言うんだ!」
「お、俺なんかいない方が……吉祥だって、その方が……」
亜也人の声が泣き声に変わったのが先か、松岡の心を縛り付けていた糸がプツリと切れたのが先か、ふいに、叫ばずにはいられないような激しい衝動が胸の底から突き上げ、松岡は感情のままがなり立てた。
「その方が何だって言うんだ! 俺が、いつお前を、いない方が良いだなんて思ったよ! 人の気持ちを勝手に決めつけんじゃねー!」
亜也人がこれまでどんなふうに生きてきたのか直接側で見て来たわけではない。
しかし、松岡は、亜也人の過去の調査資料や共に暮らした二年近くの月日から、亜也人がどういう人間であるかは理解しているつもりだった。
『自分の周りの人間が不機嫌だったり落ち込んでいたりすると全部自分が悪いと思ってしまうんです』
亜也人のかつての先輩、山下は、亜也人を、相手を責めるより、自分が悪いと思ったほうが楽、自分が苦しむより周りが苦しむ姿を見る方が辛いと思う優しい性格だと言った。
確かに亜也人は、自分より周りを優先させる傾向があった。周りの空気に敏感で、周りが自分に酷いことをするのでさえ、自分にも悪いところはあるのだからと捉えているところもある。
自分が周りを不快にさせ、怒らせる。
悪いのは全部自分。
だから、自分を殺し、相手に従い、全てを受け入れる。
ようは、他人本意。
自分よりも他人が優先。
しかし、それが“ラク”かと言われれば、松岡は決してそうではないと思っていた。
ラクならば、もっとラクそうな顔をしている筈だ。
しかし亜也人は、こういう場面に出食わすたび、いつも悲しい顔をする。
今も、端正な顔を絶望に歪め悲しみに打ちひしがれているに違いない。
それは、本当は嫌だからではないのか。
それなのに、この後に及んで何をまだ我慢する。
自分自身の気持ちは一体何処だ。
「もうたくさんだ!」
切なさ、悲しさ、不甲斐なさ、そうした抑え切れない幾つもの思いがごちゃまぜになって襲い掛かり、松岡に感情的な言葉を吐かせた。
「訳わかんねーことばっかり言いやがって、俺は、助けると言ったら助けるんだ! 部屋が解らないなら、部屋の特徴を言え!」
「ダメだよ……そんなことしたら吉祥が……」
「てめぇはまだそんな……」
「無駄だよ」
答えたのはハオランだった。
「多分、あんたを殺す、って脅されてんだ。あいつらのやり方はよぉく知ってる。何がそいつに一番ダメージを与えるか知ってやがるのさ」
「そうなのか……?」
問いただすと、ハオランの言葉を証明するかのように、亜也人が声を上げて泣き始めた。
まるで、親に置き去りにされた子供が、身体中の力を振り絞って泣いているかのようだった。
松岡は、吼えるように泣く亜也人の悲痛な泣き声を頭の中に響かせていた。
「大丈夫……」
亜也人に言っているのか、自分自身に言っているのか、大丈夫、という言葉が自然と口から漏れた。
「俺は大丈夫だからお前の気持ちを言ってみろ……」
亜也人は涙に声を詰まらせるだけで言葉らしい言葉は何も言わない。
それでも松岡は更に言った。
「亜也人。俺のことは考えなくて良い。俺はお前の気持ちが聞きたいんだ」
「で……でも……」
「頼むから、お前の本当の気持ちを教えてくれ。周りに合わせるんじゃなく、諦めるんじゃなく、お前が本当に思ってることを聞かせてくれ」
吉祥、と、震えて声にならない吐息のような声が確かに松岡の名を呼んだ。
「お前は、本当は、どうしたいんだ。もう俺には会いたくないのか? もう俺とは一緒にいたくないのか? 俺のこと、嫌なのか? 俺には助けてもらいたく無いのか?」
言ってくれ! と、松岡は電話越しに叫んだ。
亜也人は小さく口を開いた。
「……たい……」
「どうした、ちゃんと言ってみろ」
「一緒に……いたい。たすけ……て……」
亜也人はハッキリと叫んだ。
「助けて、吉祥!!」
亜也人の絶叫が終わらないうちに、一方的に電話は切れた。
松岡の頭の中には、亜也人の、喉を引き裂かんばかりの、高い、ひび割れた悲鳴が強烈に焼き付いていた。
急がなければ亜也人が危ない。
一部屋一部屋尋ねるつもりで、まずはすぐ下の階に降りた。
フロアは不気味なほど静まり返っていた。
それもその筈、廊下に置かれた時計のオブジェが、いつの間にか、日付けを変えようとしている。
こんな夜更けにいきなり部屋を訪ねては、王静(ワンシン)の部屋に辿り着く前に、不審者に間違われて警察に突き出されてしまう。
ダメ元で、買収したウエイターに連絡を取ろうとスマホを取り出した。
電話機能を開けようとして、ふと、見慣れないアイコンがあることに気付く。
そう言えば、紀伊田が駐車場にカメラを仕掛けたと言っていた。
紀伊田の言葉を思い出しながら、松岡は、アプリケーションを起動させた。
現れたのは駐車場の映像だった。四分割された画面に、駐車場の出入り口と、黒のベンツが三台。切替ボタンで、それぞれ拡大できるようになっている。
操作していると、後から追いかけて来たハオランが、松岡の手元を覗き込んで、「おお!」と、声を上げた。
「そうだ! 駐車場で張り込めばいいんだよ! やつら、亜也人を船で運ぶって言ってた。部屋を探すよりそっちの方が確実だ!」
ハオランの言う通り、この状況で部屋を探すのは、部屋を見付けるよりも捕まるリスクの方が高い。
先程の、助けを求める亜也人の泣き叫ぶ声を聞き、王静(ワンシン)が、亜也人を取り返されるのを恐れ、予定を早めて船に移す可能性も十二分にあった。
松岡は、直ぐに追いかけられるよう、駐車場の出口に自分の車を移動し、車の中で監視することにした。
松岡の予感は的中し、さほど経たないうちに、接続したカーナビのモニター画面の奥から、肩に大きな荷物を担いだ男が現れた。
上背のある、見るからに屈強そうな男だ。
布で覆われているものの、担がれたシルエットから、肩の荷物が亜也人であることは明らかだった。
男は亜也人を後部座席に押し込むと、後ろに続く、同じく迫力のあるガタイの良い男と共に車に乗り込んだ。
その後、王静(ワンシン)と思われる恰幅の良い男が、三人の護衛に囲まれながら現れ、別の車に乗り込む。
護衛たちが車に収まると、亜也人を乗せた車がゆっくりと発進し、王静(ワンシン)を乗せた車が後に続いた。
松岡はその様子を観察しながら、二台の車が駐車場から出てくるのを確認し、怪しまれないよう距離を取りながら後を追った。
車は埠頭へ向かっているようだった。
高速を下り、市街地を抜け、工場が立ち並ぶ埠頭エリアへと入って行く。
倉庫に連れて行く気なのだろう。
おそらくそこが決戦の場所となる。
相手は六人。王静(ワンシン)が戦力になるかどうかは怪しいが、残りの五人は武闘派に違いない。
ハオランに加勢させようかとも思ったが、相手方の罠である可能性も考え、車に乗せる前に絞め技で落として結束バンドで手足を拘束した。
事実上、五対一。
土地勘の無い場所、閉ざされた空間で、五人の男を相手にどう戦えばよいか。
しかし、状況は、松岡に戦略を立てる時間さえ与えてはくれなかった。
突然、銃声が響き、松岡の車が急回転する。
タイヤに弾丸をぶち込まれたのだ。
咄嗟にハンドルを切ったので壁に激突するのは免れたが、車を止めて顔を上げると、王静(ワンシン)の護衛たちにすっかり周りを取り囲まれていた。
「マツオカ?」
いくら松岡が凄腕の殺し屋の過去を持つ身だからと言って、至近距離でこの人数相手ではさすがに分が悪い。
松岡は、腹を括り、潔くドアを開けた。
その直後、急所を突かれ、意識が朦朧としたところで、武器を取り上げられ、目隠しをされて別の車に乗せられた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
連れて行かれたのはカビ臭い建物だった。
目隠しを外され、下へ続く階段を下り中へ入るよう指示される。
足を踏み入れ、松岡はたちまち絶句した。
僅かな白色灯の明かりしかない薄暗い部屋の中に、猛獣を閉じ込めるよう重厚な檻がそびえ立っている。
中にいたのは亜也人だった。
裸にバスローブを羽織らされただけの格好で、両手を後ろ手に縛られ、捨て置かれるように床に寝転がされている。
首には黒い鉄の首輪がガッチリとはめられ、そこから伸びた太い鎖が、たわみながら檻の柱に繋がっている。
最後に顔を見てからまだ数時間しか経っていないというのに、その目は涙に赤く腫れ上がり、唇は悲鳴を形取ったまま恐怖に凍りついていた。
「亜也人!」
息をしているのかさえも疑いたくなるような痛ましさに、松岡の瞳が、亜也人以外の景色を拒むように亜也人に釘付けになり、悲痛な叫びが無意識のうちに頭のてっぺんから噴き出した。
発作的に駆け寄ったものの、檻の一歩手前で護衛の男に三人掛かりで押さえ付けられ、松岡は、亜也人のいる檻の正面に置かれた椅子に手足を縛られた状態で括り付けられてしまった。
部屋には松岡を取り押さえた男三人と王静(ワンシン)と、お付きの男。その後、護衛の中でも一番ガタイの良い大男が、ハオランを連れて入ってきた。
「まさか自分から出向いてくれるとは。お陰で迎えに行く手間が省けたよ。ありがとうミスター松岡」
ハオランに猿ぐつわをかませ、椅子に縛り付けるよう指示すると、王静(ワンシン)は、松岡の座る椅子の前に立ち、松岡の顔を、からかうように覗き込んだ。
「悪いが、君には、そこの子猫ちゃんを国に送り届けるまでここで大人しくしていてもらう。高い買い物だけに、輸送の邪魔をされては困るのでね」
言いながら、丸めた背中を起こし、反り返り気味に松岡を振り返る。くっきりと刻まれたほうれい線が品の無い笑みを浮かべた口元を強調しながら醜く歪んだ。
「それと、間違っても逃げようなんて思わないことだ。もし変な真似をしたら、そこにいる子猫ちゃんが大変な傷を負うことになる」
「そんな真似が出来るのか」
「おや。まさか君は、この子が大切な商品だから、私がなんの手出しも出来ないと思ってるのかい? 残念だが、世の中には色んな嗜好の人間がいてね、腕や脚の一本や二本無くたって何の問題も無いんだよ。とくにこの子みたいな美しい子はむしろそういう輩の方が良い値を付けてくれる。手足を切り落とし、片目をくり抜き、可愛い歯を一本残らず抜いてやるのも良いかも知れん。いづれにしても、君の態度次第なんだよ、ミスター松岡」
亜也人は檻の中で横たわったまま、ピクリとも動かない。
気を失っているのだろう。身体の具合は気になるが、今のおぞましい会話を聞かせなくて済んだことは松岡に取っては不幸中の幸いだった。
王静(ワンシン)は、亜也人を見詰める松岡を、獲物をいたぶるように薄目を開けて眺めると、突然踵を返し、護衛の男に檻を開けるよう命令した。
ギィィッと、鉄の扉が嫌な音を立てて開くと、男の一人が中に入り、亜也人に気付薬を嗅がせて目覚めさせた。
亜也人は一瞬こそぼんやりしたものの、すぐに悪夢の途中で飛び起きたかのように覚醒した。
「吉祥!」
亜也人は松岡だけを見ていた。
しかしそれも束の間、檻の中の男に首の鎖を引っ張られ、立ち上がった状態で天井に繋がれ苦しそうに顔を歪めた。
悲鳴を上げる亜也人には目もくれず、男は亜也人の脚の拘束を解いて肩幅に開いて立たせると、脚を閉じないよう、足元に跪いて足首を掴んだ。
「さて、糧を荒らすネズミも捕らえたことだし、先ほどの続きをさせてもらおうか……」
亜也人が立ち上がったことを確認し、王静(ワンシン)が、おもむろに檻の扉をくぐる。
うーっ、と大きな唸り声を上げたのはハオランだった。
猿ぐつわをかまされているせいで言葉にはならないが、野獣の咆哮にも似た唸り声は、王静(ワンシン)を立ち止まらせるには充分だった。
「なんだお前は。私に逆らう気か」
ううーっ、と再びハオランが唸り、ジタバタと身体をよじる。反動で椅子が揺れ、護衛の男が倒れないよう二人がかりでハオランを押さえ付けた。
「たかがコールボーイに気を乱されおって。あまり騒ぐと眠らせるぞ!」
ハオランはなおも激しく抵抗したが、王静(ワンシン)は構わず亜也人に向き直った。
「どこまでやったかな。ペニスを扱いて、舐めて、しゃぶって……。そうそう、後ろからだったな」
言うなり、亜也人の背後に回り、バスローブの裾を捲り上げ、亜也人の腰を抱きながらローションを垂らした指を後孔に当てた。
「やだっ! 離せ! 離せったら!」
亜也人の声に、松岡の心臓が破裂しそうな勢いで飛び上がった。
『助けて、吉祥!!』
耳に残った亜也人の悲鳴が、再び頭の中で回り出す。
殺してやる。
頭の奥がギィィンと痺れ出し、野蛮な感情が次から次へと湧き上がる。
強引な方法は避けねばならない。
亜也人を安全に取り戻し、取り戻した後も、命を脅かされることなく平穏に暮らして行けるよう、感情に任せたその場凌ぎの強引な方法は避けねばならない。
そんな考えは瞬時に消え去った。
とにかく今は一刻も早く亜也人を取り戻す。
その後は、自分が守って行けばいい。
手段など選んでいる場合ではない。
松岡は覚悟を決めた。
松岡の怒りを煽るように、王静(ワンシン)は、亜也人の後孔に当てた指をズブズブと中に埋め込み、二本、三本と指を増やして行く。
亜也人は白い脚をガクガクと震わせ、苦悶に歪んだ顔を、イヤイヤ、と激しく横に振った。
「私の指を何本も飲み込んで、本当にいやらしい子だ。入り口はキツいのに中はふんわりと柔らかい。それでいて、ねっとりと熱く絡み付いて、吸い付くように締め付ける。指を入れているだけでこんなに気持ち良くなったのは初めてだ。こいつは女の名器など比べ物にならないほど良い具合かも知れん」
「や、ああっ、あっ、やっ、あぁぁいやぁ、やだ、離せ……」
髪を振り乱して抵抗する亜也人を見ながら、松岡は、後ろ手に縛られた手を開いたり閉じたりしながら、ロープにたゆみを作った。
石破組二代目組長の懐刀として数々の修羅場をくぐり抜けて来た松岡にとって、ロープの拘束を解くなど造作も無いことだ。
椅子に縛りつけられる時も、最初に息を吸い込めるだけ吸い込んで身体を大きくしてから縛られたので、息を吐いて小さくすれば抜け出すことは簡単だった。
松岡は、護衛の目を盗んで手首の拘束を解き、身体を小さくして胸元のロープを緩ませた。
あとはタイミングを狙い一気に外す。
しかしそれは直ぐに訪れた。
「あっ! いやあぁぁっ!! 吉祥ぉぉっ!!」
王静(ワンシン)が亜也人のお尻を割り裂き、自分のモノを後孔に突き立てる。
松岡の身体をは無意識に反応していた。
「ーーヤロウ!」
殺気が全身の気を逆立て、頭の奥を痺れさす。
身体が勝手に動き、手首の拘束を外して胸に巻きついたロープを引き千切り、護衛を頭突きと手刀で黙らせ、ナイフを奪って足首のロープを切った。
王静(ワンシン)は亜也人の腰を掴んだまま硬直している。
亜也人は、赤く腫れ上がった目を見開き、訴えるように松岡を見ていた。
「亜也人!!」
松岡は、護衛から奪ったナイフをかざしながら檻の扉をくぐった。
すると、
「そこまでだ!」
王静(ワンシン)の大声が、松岡から湧き立つ殺気を切り裂くように高圧的に響いた。
「お前の態度次第でこいつがどういう目に遭うかは説明した筈だ。この綺麗な身体に傷がついても良いのか!」
王静(ワンシン)の目が、「これを見ろ」と松岡に訴えながら視線を下げる。
誘導されるように視線を下げ、松岡は目を見張った。
亜也人の足首に細い糸が巻かれている。糸を辿ると、裏側にマッチ箱のような四角い箱状のものがついていた。
「これが何か知りたいか? 小型爆弾だよ。ちなみにスイッチは私のポケットの中にある。殺傷能力は低いが、華奢な足首を使い物にならなくするくらいの威力はある。私がスイッチを押せば、こいつの細くくびれた足首は一瞬にしてペシャンコだ」
「貴様……」
松岡は亜也人の足首に目をむけたまま立ち止まった。
怒りが不安に変わるギリギリのところでかろうじて気を張っている。
何か方法は無いのか。
しかし下手に動けば亜也人の足が潰されてしまう。
『一緒に……いたい』『助けて、吉祥』
ようやく聞けた亜也人の本心。それを、諦めるなと言った張本人が諦めるのか。
しかし、亜也人に取り返しの付かない傷を負わせるわけにはいかない。
万事休す。
クッ、と、口元を歪めながら、松岡は、王静(ワンシン)に向けたナイフをゆっくりと下ろした。
すると、突然、ドタドタと階段を下りる靴音が響き、入り口から、銃やナイフを持った男たちが一斉に駆け込んできた。
「なんだお前たちは!」
十人はいるだろうか。部屋は、乱入してきた男たちでたちまちごった返し、松岡は、そのドサクサに紛れて、男たちに気を取られている王静(ワンシン)の背後に回り込み羽交締めにして首元にナイフを突き付けた。
「じっとしていろ!」
片方の腕を脇の下から回して反対側の首にナイフを当て、もう片方の手で上着のポケットを探り、スイッチを奪い取る。
これでもう爆弾は作動しない。
しかし、ホッとしたのも束の間、男たちの一人が檻をよじ登るのに気付き、松岡は身構えた。
続いて、別の男が檻の中に入っくる。
どこかで見た顔だ。思いながら、男の顔に向かってナイフを構えると、ふいに、辺りがシンと静まり返り、聞き覚えのある声が低く響いた。
「それぐらいにしておけ」
内藤だ。
抑揚の無い冷たい声で言うと、内藤は、松岡に、王静(ワンシン)から離れるよう言い付け、代わりに自分の部下に王静(ワンシン)を捕らえさせた。
予想だにしない展開に、王静(ワンシン)は怒りも露わに内藤を睨み付けた。
「ミスター内藤、これは一体どういうことだ!」
内藤は微塵も動揺すること無く飄々と王静(ワンシン)を見返した。
「それはこちらのセリフです。ここにいる寺田亜也人はうちの事務所の大事なドル箱モデルです。それを何の断りもなく捕らえるとは一体どういう了見か」
「金なら払う。こいつが君から借りている金は私が肩代わりすることで話はついてるんだ。金が入れば彼は君のものでは無くなるだろう? 新たな持ち主で私が彼をどうしようと君には関係ないと思うが」
王静(ワンシン)の言葉に、内藤は、フッ、と口元を緩めた。
「確かに金は貸してますが、私は寺田本人と金銭消費貸借契約をしているわけではありません。私が契約しているのは、そこにいる松岡という男です」
「なんだって?」
「どうしても寺田が欲しいと言うので、金と引き換えに譲る契約をしたんです。ちなみに借入金の半分は既に返済済み。つまり寺田は完全に私のものでは無く、半分はそこの松岡のもんなんです。あなたが寺田を御所望なら、そこの松岡にもきっちり筋を通すのが道理です。もっとも、その男が寺田を手放すとは到底思えませんがね……」
内藤の高慢な物言いに、王静(ワンシン)は、クッ、と悔しげに呻いて口をへの字に曲げた。
「どうしてお前がここに……」
王静(ワンシン)を外へ連れて行くよう部下に命じると、内藤は、亜也人を支えながら呆然とする松岡を振り返った。
「あの、佐伯、っていう若造のせいだ」
「佐伯?」
「あいつ、このままだと、淳……紀伊田が寺田の身代わりに売られることになる、と俺を脅しやがった」
「紀伊田が身代わりに?」
内藤は、憮然とした顔で頷いた。
「紀伊田は今回のことは自分にも責任があると感じていて、寺田に災難が降りかかる前に、自分が身代わりになって寺田の代わりに売られて行くそうだ。ガキの戯言かも知れないとも思ったが、無駄に優しい紀伊田なら本当にやりかねない……」
心なしか穏やかに言うと、内藤はゆっくりと檻を出て行った。
その後、内藤の部下によって亜也人の首輪と天井を繋ぐ鎖がチェーンソーで切断され、手錠と足首の小型爆弾が取り除かれた。
亜也人を胸の前に抱き上げ檻を出ると、拘束を解かれたハオランが悲痛な表情で駆け寄って来た。
「亜也人! 俺……」
亜也人は柔らかな笑みを浮かべた。思わず涙ぐむような慈愛に満ちた優しい目だ。
見た途端、ハオランに対する怒りが込み上げ、松岡は声を荒げた。
「こいつに触るな!」
ハオランは何か言いたげに松岡を見上げたが、言い返しはしなかった。
「もとはと言えば、お前が安易に話を持ちかけたせいでこんなことになったんだ。自分の力じゃ何も出来ないくせにいっぱしの口利きやがって。そういうことは、テメーの力で解決できるようになってから言いやがれ!」
怖気付きながらも、ハオランは、松岡から目を逸らさず、許しを乞うような視線を向けた。
松岡は、ハオランの、自分の非を素直に認める誠実さと、真っ直ぐに向かってくる芯の強さに感心しながらも、わざと冷たくあしらいその場を離れた。
荒削りではあるものの、この男は将来大物になる風格を持っている。
胸によぎった思いをそのまま胸に押し込め、松岡は、亜也人を抱き直して外へ出た。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
亜也人を救出した後、松岡と亜也人は、内藤の手配した車で自宅マンションへ戻った。
紀伊田は、松岡の雇ったボディーガードに身体を拘束されていたが、亜也人を救出した後、松岡の指示で佐伯の元へと送り届けられた。
佐伯から、紀伊田が妙な真似をしないよう見張って欲しいと頼まれた時は、松岡も、まさか佐伯が内藤を脅すつもりだとは思ってもみなかった。
そのお陰で、内藤が動き、亜也人は助けられた。
実際に助けに来たのは内藤だが、内藤が来たのは紀伊田を心配したからだ。
内藤に感謝するのはもちろん、松岡は、紀伊田が責任を感じなくて済むよう、紀伊田のお陰で亜也人が助け出されたように仕向けた佐伯の男気にも感謝した。
何でも一人で解決出来ると思っていたが、今回ばかりは松岡一人の力ではどうにもならなかった。
あのまま亜也人を奪われていたらと思うと心底ゾッとする。
不安が大きすぎただけに、今、亜也人が目の前にいる安心感が、狂おしい愛おしさとなって松岡に覆い被さっていた。
「ほら、もう、こんなグチョグチョになってる……」
悪い記憶を消すように、松岡は、亜也人を胸の中に抱き、身体の隅々を繰り返し入念に愛撫した。
「吉祥、本当にごめん……」
「いいから、もう、黙ってろ……」
「あっ……んぅ……」
亜也人の濡れそぼった後孔が、熱くうねりながら松岡の指を咥え込む。
丹念にほぐされた肉壁は、松岡の指を柔軟に受け入れ、広げられるのを喜んでいるかのように収縮を繰り返す。
心を委ねることで身体も開かれて行くのか、指先に当たる官能のポイントも、いつもよりハッキリと感じられた。
「ここ……亜也人の好きなとこだ」
「はぁっ! やめっ……あっ!」
関節を折り曲げ、厚みを帯びた輪郭を指の腹で擦り上げると、まるで甘い密に吸い寄せられるように、亜也人が腰を浮かせて自ら松岡の指にそこを押し付けた。
自分色に染まった愛おしい身体。
入り口はキツいのに中はふんわりと柔らかく、ねっとりと熱く絡み付き、吸い付くように締め付ける。
王静(ワンシン)の言う通り、女の名器など比べ物にならない、男を惑わす魅惑の肉体だ。
亜也人の脚を開き、膝の裏を両腕で担ぎ上げながら、松岡は、王静(ワンシン)が、この熱い肉壁の感触を味わう前に亜也人を助け出せたことにホッと胸を撫で下ろしていた。
亜也人の身体を味わってしまったら、王静(ワンシン)は、何か何でも亜也人を自分のものにしていただろう。
「そろそろ入れるぞ……」
んっ、と、吐息混じりに頷く亜也人の瞳を見詰め、後孔に男根の先端を当てる。
そのまま前屈みに腰を沈め、膝を担いだ脚を肩の上に乗せ、お尻を持ち上げながら更に腰を突き入れた。
「あっ、あああっ、ダメぇ、当たる、当たっちゃう……」
「気持ち良くするために当ててるんだ……」
「あああ……っ、んはぁぁ、だめ、そんな……したら、すぐにイッちゃ……んんんっ」
唇を塞ぎ、喘ぐ吐息を口の中で受け止め、舌を絡めた。
「んんっ……ん……ふぁ……あっ」
舌の裏から溢れる唾液が、息継ぎの度、唇の端から伝い流れる。
男根を飲み込む後ろの孔同様、亜也人の口の中の粘膜は驚くほど熱く、松岡の舌にねっとりと纏わり付く。
まるで、自分の内側に摂り込んでしまうかのような亜也人の感触に、松岡の男根はさらに硬さを増し、雄々しく反り立った。
「亜也人……すごくいい……」
お尻が上を向くほど亜也人の脚を担ぎ上げ、男根の先だけを小刻みに浅く挿入し、ふいに根元まで突き入れ、ズンズンと奥を突いて、また浅くする。
浅く、深く、亜也人の感じるポイントを緩急をつけながら責め、唇を合わせて、口の中でくぐもる喘ぎ声を楽しんだ。
「んん、んんん、んァ……んふぅ」
両肩を押さえ、胸元に頬をすり寄せて乳首に吸い付くと、亜也人が、身体を跳ね上げ、後孔をキュンと締め付ける。
つられて射精してしまいそうなほどの強烈な締め付けだ。
搾り取るような肉壁の動きに、さすがの松岡も堪らず眉を顰めた。
「きっ……しょう……?」
「バカ。あんま締めんな。イッちまうだろう……」
「や……まだ……やっ……あ、あっ……」
「わかってる。まだまだ気持ち良くさせてやるから安心しな……」
「あっ……ああぁぁぅっ……そこっ……もっと……」
亜也人の背中に腕を回し、男根を埋めたまま、上身体を抱き起こして膝の上に乗せた。
柔らかいお尻を掴んで股間に引き寄せると、亜也人が、あっ、と切なそうに睫毛を震わせる。
何度見ても見慣れることのない、見る度に瞳を奪われ欲望を掻き立てられる妖艶な姿に、松岡の男根が更に大きく反り勃ち、亜也人の肉壁をえぐるように動き出す。
亜也人は、松岡の膝の上で薄い身体をくねらせ、荒い呼吸を繰り返している。
汗ばむ肌が、吐息の湿気を受けて熱い熱気を立ち昇らせ、二人の交わり揺れる身体を官能的な匂いで包み込んだ。
「んんんっ……きっ…しょ……すごいっ……すごくイイっ……」
「気持ちいいか?」
「んっ……もちいっ……すごく……気持ちいィっ……」
お尻の肉を鷲掴みにして股間に引き付け、いきり勃った男根を、下から何度も突き上げ、揺さぶる。
亜也人が、ビクンと背中を跳ね上げ肉壁をヒクヒク痙攣させる。
三回目までは数えていたが、それ以降は夢中になって数えるどころでは無かった。
亜也人は、挿入してから何度も軽い絶頂を迎え、それでもなお貪欲に松岡を求めて身体を擦り寄せている。
その姿がいじらしく、ふいに、松岡の胸の内側から泣きたいような愛おしさが込み上げた。
「好きだ……亜也人……」
隠しようもない思いが、素直な言葉となってこぼれていた。
亜也人は、松岡の肩におでこをつけたまま一瞬呼吸を止め、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「俺も……好きっ…吉祥が……んっ、すきっ……」
「本当か……?」
答える代わりに、亜也人が首に腕を巻き付けてキスをねだる。
赤く濡れた唇を見詰めながら、松岡はもう一度囁いた。
「好きだ……亜也人。愛してる…」
「俺も……愛してるよ……吉祥……」
口を開いて唇を近付け、触れる前から互いに舌を突き出し絡め取る。
深く長いキスをしながら、松岡は、絶頂に向けて腰を突き上げた。
「ああああんっ、あぁっ、んんん、んぁん」
「愛してる、亜也人……。離さない……」
「あああぅっ……俺も……も……離れない……」
「本当か?」
「ほんと……ほんとに……もう……んぁっ……離れないからぁぁっ……」
亜也人の熱い粘膜が、松岡を包み、飲み込んで行く。
離さない。
離れない。
絶対に。
自分の手の中で悶え喘ぐ亜也人を全身で受け止めながら、松岡は、心の中で何度も繰り返した。
絶頂まであと少し。
迸る思いが重なり融け合うまで、松岡と亜也人は、お互いを自分の胸にキツく抱き締めた。
松岡の車から飛び出した後、亜也人は、細い路地をがむしゃらに走って松岡を撒いた。
衝動的な行動だった。
怒りというより、ショックで気が動転してしまっていた。
乱暴されたことよりも、浩然との仲を疑われたことが、亜也人の胸を想像以上に深く傷付けた。
これ以上一緒にいたら取り返しのつかない喧嘩に発展してしまう。思った途端、身体が勝手に動き、逃げるように走り出していた。
亜也人は、狭い路地に逃げ込み、息が切れたところで地べたにへたりこんだ。
汗が噴き出し、胃の奥から吐き気が込み上げる。
この前は浩然が薬を飲ませてくれた。
浩然は、ただ、純粋に心配してくれている。それをどうして頭ごなしに悪者だと決め付けるのか、亜也人には松岡の気持ちが全く理解出来なかった。
このまま一生友達が出来ないまま生きて行くのだろうか。
高校時代に出来た唯一の友達は、当時付き合っていた恋人、積川良二の凄惨なリンチに遭い亜也人の前から姿を消した。
その時のことを思い出すと、亜也人は今でも胸が張り裂けそうになる。
『 お前、そいつが好きなのか』『そいつにどこまでやらせた』
良二にそう言われた時の血の引くような思いが、再び亜也人の背筋をゾクゾクと震わせていた。
『そいつに惚れたのか』
松岡は確かにそう言った。
まさか、松岡に限ってそんなバカな真似はしないとは思う。
しかし、絶対か、と言われたら亜也人には自信が無かった。松岡の気持ちは松岡にしか解らない。浩然の身に何も無いという保証はどこにも無かった。
居ても立ってもいられず、亜也人は、慌てて浩然に連絡を取った。
浩然は、亜也人のただならぬ様子を察したのか、すぐに自分の部屋へ来るよう言いつけた。
こうして亜也人は、浩然に言われるまま、タクシーを呼んでホテルへ戻った。
来るまでは混乱していたが、熱いシャワーを浴びるうちに、不安と焦りでこんがらがっていた頭が少しづつほぐれてきた。
冷静になると、途端に松岡のことが気になった。
松岡は良二とは違う。
考えてみれば、松岡がそんな大人気ない真似をするわけが無かった。
それなのに、松岡を信じることが出来ず、一時の感情でこんなところまで来てしまった。
松岡はどうしているだろうか。まだあの路地を走り回っているのだろうか。それとも愛想を尽かして帰ってしまっただろうか。
飲みかけのソーダ水のグラスについた汗がテーブルに連なって落ちて行くさまを見ながら、亜也人は、車を飛び出す直前に見た、松岡の愕然とした顔を思い出していた。
「吉祥……怒ってるかな……」
うっかり声に出してしまいそうになり、亜也人は慌てて咳払いをして誤魔化した。
「どうした浮かない顔して。お前を酷い目に遭わせたヤツが乗り込んでくると思ってるのか? それなら心配いらねぇ。ここへは誰も通すなって、って言ってあっから」
無我夢中で駆け付けたせいで、衣服の乱れにまで気が回らなかったのが原因だった。亜也人を見るなり、浩然は、はだけたシャツから覗く幾つものキスマークにギョッと顔を引きつらせ、亜也人が何者かに乱暴されたと結論付けた。
誰にやられた、と問い詰められ、松岡との関係を正直に打ち明けたものの、亜也人の告白は返って浩然を混乱させ、浩然の中での松岡のイメージを、亜也人を好き放題に扱うヒモ男として位置付けてしまった。
亜也人はもちろん反論したが、それすらも仕返しを恐れて庇っていると受け取られ、松岡の印象をますます悪くした。
松岡のことを悪く言われるのは心苦しかったが、自分が撒いた種だけに浩然を責めるわけにもいかない。
亜也人はただ、自分自身身への情けなさを誤魔化すように、気の抜けた薄ら笑いを浮かべながら俯いた。
「悪いことは言わねぇから、その、松岡ってヤツからはもう離れた方が良い。お前だっていつまでもこんなこと続けるの嫌だろ?」
強い口調で言うと、浩然は、濡れ髪のままソファーに座る亜也人の頭の上にタオルを掛け、「乾かさないと風邪を引く」と、両手でわしゃわしゃと掻き乱した。
次は、「これに着替えろ」と、黒いスウェットの上下を手渡される。
頭から被り、バスローブを脱ぎながら腕を通すと、少し距離を取って見守っていた浩然が目ざとく亜也人の脇腹の傷を見付けた。
「それも、その、松岡、ってヤツにやられたのか……」
脇腹の傷は良二に付けられたものだった。松岡との関係を問いただされた時、激怒した良二に脇腹を食いちぎられるほど強く噛まれたのだ。
一年半も経つと言うのに、それは、良二の存在を知らしめるかのように、亜也人の白い肌にいびつな赤味となって今もなお居座り続けている。
傷痕を見るたびに、良二と過ごした日々が鈍い痛みとなって蘇る。
亜也人にとって良二との記憶は、自分自身の“罪の象徴”だ。
どれだけ月日が経とうとも、それは一瞬にして亜也人を過去へと引きずり戻し、重苦しい感情の渦へと放り込む。
浩然は、他の人へ施すことで過去の罪を消化させる、と言ったが、亜也人は自分の罪を軽くしようとは思っていなかった。亜也人は自分のせいで周りが傷付く姿をあまりにも見過ぎてしまった。自分はそれだけ罪深い。痛みは当然の報いだと思っていた。
浩然の伺うような視線を感じながら、亜也人は浩然の方を振り向かずに答えた。
「これは吉祥にやられたんじゃないよ」
浩然はすぐに反応した。
「じゃあ誰だよ。客か?」
「ううん。でも、相手が全て悪いわけじゃない。俺にも悪いとこはあるんだ。俺、鈍臭いから、上手いこと説明できなくて、いつも相手を怒らせちゃうんだ」
「だからって酷いことして良いわけじゃねーだろ?」
「そうだけど、怒らせてるのはこっちだし、向こうだってツライと思うから……」
「は? なに言ってんの、お前」
実際、叱られている自分よりも、叱っている良二や松岡の方が辛そうな顔をしていることを亜也人は知っている。
昔から、『要領を得ない』をよく言われた。上手く話そうとすればするほど、頭の中に色んな言葉が溢れて収集がつかなくなる。頑張って話せば相手を混乱させ、黙っていればイラつかせる。知らないうちに相手を怒らせるような態度を取っているのだとは思ったが、無意識だけに、亜也人には改めようが無かった。
「怒らせないように出来ればいいんだけど、俺、バカだから、相手の言うこともちゃんと理解してやれないし……。だから、怒られても仕方ない、って言うか、相手だけを責められないとこもあるんだ」
浩然は、もじもじと語尾を細める亜也人を気難しい顔で見ていたが、やがて、何かを決意したように突然ソファーから立ち上がった。
「決めた。やっぱ。そうさせてもらう」
表情の端に確かな自信を覗かせながら言うと、浩然は、スウェットのズボンを広げたまま見上げる亜也人を見詰めながら、亜也人の隣に、飛び込むように腰掛けた。
「やっぱ、お前はヤツのところへは返さない」
「え? なに言って……」
反動でソファーが弾み、スプリングの軋む音で浩然の声が掻き消される。
圧倒される亜也人をよそに、浩然は、よろける亜也人の両腕を掴み、興奮気味に語気を強めた。
「お前は、今すぐ環境を変えるべきだ
「環境を変える……?」
強い感情のこもった口調だった。
「金なら用意した。だからもうヤツのところへは戻るな。俺と一緒に来い!」
亜也人は、何を言われているのか解らず、呆然と浩然を見上げた。
頭が混乱し、心臓が物凄い勢いで鼓動する。
浩然の強い視線に、喉が痙攣したように震え、返事はおろか、声すら出せなくなっていた。
「被害者なのに、自分も悪い、とか、まともな考えじゃねぇよ。お前の今の環境がお前にそんな考えを起こさせてんだ。環境が変わればきっと考えも変わる。俺と一緒に上海へ来いよ。広い屋敷だから部屋はいくらでもあるし、仕事だってたくさんある。お前がその気なら、一緒に勉強して、将来、俺の秘書として働いたっていいんだ」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
言葉を絞り出しながら、喘ぐように、亜也人は言った。
「そ、そ、そんなこと急に言われても困るって!」
「なにが困るんだ」
「だって、吉祥がっ……」
言いかけ、ふと、口ごもる。
自分がいなくなることで松岡がどう困ると言うのか。
もともと松岡は、当時、石破組の若頭であった内藤の命により、ドラッグの横流しをしていた亜也人を捕え、引き渡す予定だったのだ。
それを、一目惚れというチンケな理由で手元に置いた。
松岡が手元に置かなければ、亜也人は今頃、内藤の手によって、今よりももっと酷い仕事を強要され、ヘタをすれば命まで奪われていたかも知れない。
当時は思いもしなかったが、冷静に考えれば、松岡は、亜也人が積川良二と内藤との間に抱えていたトラブルに、無理やり付き合わされているに過ぎないという事実に気付く。
実際、松岡は亜也人とは何の関係も無い人間だった。それが亜也人と関わったことで背負わなくてよい苦労を背負わされた。
松岡と出会ってからのこれまでの二年近くを振り返っても、松岡は亜也人と関わったせいで多くの犠牲を払ってきた。
亜也人のために借金を抱え、辛い仕事を引き受け、暗い表情で思い悩む。全て自分が原因だ。自分がいなくなったところで松岡は何も困らない。むしろ、重荷から解放されて自由になれる。
「だって、吉祥が……吉祥は……」
その先の言葉が続けられず、亜也人は、クッと下唇を噛んだ。
不安、恐れ、悲しみ。受け止めきれない幾つものマイナスの感情が、焼けるような熱さとなって胸を押し上げる。
鼻の奥がツンと痺れ、瞼に溜まった涙が白目を赤く腫らしながら頬へと溢れた。
「怖がらなくて大丈夫だ。亜也人は何も心配しなくていいから」
予想外の展開に狼狽る亜也人とはうらはらに、浩然の瞳は自信に輝き、声は、力強さに満ちいていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「すみません。ナンパされたなんて知ったら、松岡さんが、もう、亜也ちゃんを外出させない、なんて言い出すんじゃないかと思って、どうしても言い出せなくて……」
神妙な顔をする紀伊田を、「もういい」と宥め、松岡は、ダイニングテーブルに両肘をついて手の甲を重ねて顎を乗せた。
「それよりも今は、亜也人をどうやって連れ帰るかだ」
インペリアルガーラホテル、最上階のスイートルーム。
亜也人がそこにいることは、紀伊田の報告を受ける前から解っていた。
ならば今すぐにでも連れ戻しに行けば済む話しだが、そうしないのは、相手が王静(ワンシン)の息子であることと、バックに、内藤と、チャイニーズギャング“フェニックス”との闇取り引きが絡んでいるからだ。
後先を考えないのであれば連れ戻す方法はいくらでもある。しかし、亜也人を安全に取り戻し、取り戻した後も、命を脅かされることなく平穏に暮らして行けるようにするためには、その場しのぎの強引な方法は避けなければならない。
「ウエイターを買収してハオランの部屋の様子を伺わせてますが、今のところ外へ出る気配はありません。あと、これ、駐車場の画像です」
「色々すまないな」
「やめて下さい。これぐらいして当然です」
紀伊田は、お礼を言う松岡を胸の前で両手を振りながら見上げると、ここからが本題だと言わんばかりに、姿勢を正して松岡を見た。
「問題なのは、ハオランが亜也ちゃんの借金を肩代わりすると言ったことでしょう。奴らは『やる』と言ったことはどんな些細なことでも絶対にやります。一度口にしたことは必ずやり遂げる。そこが奴らの怖いとこなんです」
日本のヤクザのようなピラミッド形の組織力を持たない彼らは、組織という後ろ盾がないぶん、自分の身は自分で守る、完全実力主義の暴力集団とも言える。その弱肉強食の世界において、有言実行は、自分自身の強さと信頼性の高さを周りに知らしめる証となる。だからこそ、彼らは、自分の宣言したことはどんな手を使っても必ず遂行する。
加えて、フェニックスが人身売買に手を染めているという事実も嫌な予感を増幅させた。
紀伊田の調べによると、フェニックスが扱うのは性的搾取を目的とした売買で、コーディネーターの眼力によって選出された対象は、外見、中身ともに申し分無く、目が飛び出るような高値で取り引きされているという。
ハオランが持ち出した借金返済の話がそれを見込んでの策略だったとしたら、亜也人は返済額以上の高値で取引きされることになり、相手は、オイルマネーで潤うサウジアラビアあたりの富豪と推測される。
内藤から取り戻すのでさえ手こずっていると言うのに、遠い異国の富豪の手に渡ってしまっては、さすがの松岡も手出しは出来ない。仮説が実行される前に取り戻さなければ、亜也人を永遠に失うことになるのは目に見えていた。
それだけは何としても避けなければならない。
居場所を知りながら手も足も出ないジレンマを抱えながらも、松岡は、焦る気持ちを抑えながら努めて冷静に解決策を巡らせた。
「ホテルに張り込んで移動のタイミングを狙うか、内藤に全てを話して王静(ワンシン)に目通りを願うか」
内藤の名前を出すと、紀伊田は、松岡を上目使いチラと見上げ、言いづらそうに眉を顰めた。
「内藤の線は俺も考えましたけど、内藤に全てを話すのはリスクが高い気がします」
「どうしてそう思う」
「松岡さんだからハッキリ言いますけど、内藤は、本当は亜也ちゃんを積川から遠ざけたいんです。ハオランが亜也ちゃんの借金を肩代わりする気でいることを知ったら、内藤は間違いなくハオランの側につくでしょう。金を貰えて、亜也ちゃんを遠くに追いやれる。内藤に取っては一石二鳥です」
内藤が亜也人を疎ましく思っていることは松岡も承知している。
内藤にとって亜也人は、内藤が、石破組の将来を担う幹部候補として可愛がっている積川良二を破滅の道へ引き込む危険因子である。
もっともそれは亜也人のせいではなく、亜也人に異常な執着をみせ、亜也人を傷付けた人間を片っ端から血祭りに上げてしまうほどの凶暴性を持つ積川良二の歪んだ愛情が原因だったが、内藤は、そもそも亜也人さえいなければそんなことにはならないのだと、責任の所在を亜也人に向けた。
ならば、どうしてさっさと手放さないのかと言われたら、それは、亜也人を野放しにすることへの不安だろう。
毒は、管理されていれば何の問題もない。
見えないところで悪さをされるより、自分の目の届くところに置いて監視した方がよほど安全というわけだ。
「確かに、内藤にとっては一石二鳥だな」
「ごめんなさい……」
「なんでお前が謝る。内藤のことはお前とは関係ない。それに俺も悪かったんだ。あいつが、そのハオランって奴をあんまり庇うから、ついカッとしちまって……」
「松岡さん。亜也ちゃんは松岡さんを裏切るような真似はしてないと思いますよ」
「解ってる。ただ、あいつはまだ子供だ。自分の行動が何を招くのかも解ってないし、周りの状況にも流されやすい」
とくに亜也人の場合、優柔不断で流されていると言うよりも、むしろ、解った上で敢えて流されているようなところがある。
ようするに、逃げている。
まるで、その方が楽だから、と言わんばかりに、自分自身で考えることを諦め、自ら進んで周りに従う。
亜也人を見ていると、松岡は、亜也人のこれまでの人生も、ただ周りに流されて今に行き着いてしまったのではないかと思うことがある。
自分の人生なのに、自分で行き先を決めない。
はたして、その中に亜也人の意思は存在しているのだろうか。ひょっとしたら、今、こうして自分と一緒にいることさえ、流された末の結果に過ぎないのではないだろうか。
そんなことを思うたび、松岡は、心に長い針を突き刺されているような痛みに襲われる。
もちろん答えなど出ない。人の気持ちを全て理解することは不可能だ。亜也人の気持ちは亜也人にしか解らない。
松岡の苦悩を感じ取ったのか、黙り込む松岡を元気付けるように、紀伊田は、声のトーンを少し上げて言った。
「大丈夫。亜也ちゃんは流されたりなんかしませんよ」
「だといいが……。今回ばっかりは自信が無い」
「それは、亜也ちゃんを信じる自信が無いってことすか?」
「それもあるが、もし、あいつがハオランって奴の話を受けると決めてしまったら、俺はあいつを説得する自信が無い」
「松岡さん!」
紀伊田の食って掛かるような視線を冷静に交わし、松岡は、部屋の壁を遠い目で眺めた。
「もちろん、そんな真似は絶対にさせない。どんな手を使ってでも、俺は必ずあいつを連れ戻す。だが、そうなったら、俺はあいつを無理やり連れて帰ることになる。あいつの意思なんかお構いなしに無理やりな……」
「でもそれは亜也ちゃんのためじゃないすか」
「そうだが、あいつにとっては余計な世話かも知れん。そもそも俺といること自体、あいつにとって良いことなのかどうか……」
すると、
「それ以上言ったら怒るよ! 松岡さん!」
紀伊田か、バシン、とテーブルを両手で叩き、松岡は遠くへ向けた視線を紀伊田に戻した。
「とにかく今は、亜也ちゃんを助け出すことが先決です! 幸い、内藤にはまだハオランの件は知られていないようだし、知られる前に、俺はフェニックスの方へ探りを入れてみます。松岡さんは今すぐホテルへ向かって下さい」
松岡は、紀伊田の力強い眼差しを見ていた。
「松岡さん。俺の話、聞いてます?」
「ああ……」
「なら、早くホテルへ……」
紀伊田が言うのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。
突然、厳つい男が二人、部屋に押し入り、紀伊田の肩を両側から担ぎ上げた。
「ちょっと! なんだお前ら! 松岡さん、これどういうこと!」
松岡は、唇を苦しそうに歪めて頭を下げた。
「すまない紀伊田。ことが済むまでしばらく大人しくしててくれ」
男たちに抱えられながら連れ出される紀伊田を無言で見送り、静かになったところでスマホを手に取った。
「俺だ。紀伊田は安全な場所に移すから安心しろ、佐伯」
電話口に向かって囁き、薄っすらと頬を緩める。
佐伯が安心しているのを物語るような優しい笑みだ。
しかしそれも束の間、松岡の表情が再び険しく強張った。
紀伊田から取り上げたスマホが、テーブルの上でメールの着信を伝えながら振動している。
送り主は、紀伊田が買収したホテルのウエイターからだ。松岡は、慌てて手に取り、メッセージを確認した。
「悪い。ホテルで動きがあったらしいから俺はそっちへ向かう」
一方的に電話を切り、松岡は、転がるように部屋を出た。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
飲み物を飲んだところまでは覚えていた。
頭が溶けてしまいそうな微睡みの中、聞き覚えのある声が、別の世界から流れてくるように、細く長く響いていた。
『話が違うじゃねーか、このクソ親父!』
目を覚ますと、白い天井が目の前に広がった。
手首が冷たく、ズキズキと痛む。何気に目をやると、黒い金属製の手枷が目に入り、亜也人はいっぺんに目が覚めた。
手枷は、両手首に着けられ、ベッドヘッドに繋がれている。まさかと思い足を動かすと、少し持ち上げたところで下からピンと引っ張られ、ズキンとした痛みが脛を這い上がった。
やはり繋がれている。
しかも全裸で。
『金はもう用意した。実は、あれからすぐ親父に話したんだ。将来、俺の秘書にする、って言ったら喜んでくれたよ。一億、って聞いた時は正直ビビッちまったけど、親父にはお安い御用だったらしい』
浩然から聞かされた後、何の前触れもなく突然部屋のドアが開き、肩幅のある、いかにも強そうな男数人と、恰幅の良い中年男性、その後ろから白衣を着た男がぞろぞろと中に入ってきた。
入って来た時の貫禄のある雰囲気から、中年男性が浩然の父、王静(ワンシン)であることはすぐに解った。
王静(ワンシン)は、ソファーから立ち上がろうとする亜也人を、そのままでいい、と手で静止すると、柔らかい笑みを浮かべながら流暢な日本語で挨拶した。
その後、『お近付きのしるし』と、赤いワインのような飲み物の入った小さなグラスを手渡され、乾杯の後、ひと口で飲み干してから記憶が途切れた。
浩然はどこに行ったのだろう。
思いながら部屋の中をぐるりと見渡すと、 まるで亜也人が目覚めたのを知っていたかのように、ドアノブがガチャリと音を立てて開いた。
「時間ピッタリにお目覚めとは、さすがは白石先生だ」
王静(ワンシン)と白衣の男だった。
二人は意味深な笑みを浮かべながら近付くと、ベッドの上に全裸で繋がれた亜也人を舐めるように見回し、好色そうに目を輝かせた。
「どうして自分がこんな目に遭うのか解らない、って顔だね。男に吸われた痕をこんなにたくさん残しながら、まるで処女みたいに清純な顔をするんだな君は」
最初に見た柔らかい笑顔とは違う、獲物を前に舌舐めずりするような不気味な笑みだ。
王静(ワンシン)は言うと、亜也人の唇に指先を乗せ、「それにしても美しい顔だ」と輪郭をなぞった。
「私が君のために一億用意したことはハオランから聞いてるね? 私は確かに事業で成功しているが、一億円は決して安い金額じゃない。それだけの金を払うんだから、君の身体はしっかりチェックしておかなきゃならないんだ」
輪郭から徐々に内側の粘膜へ指を這わせ、無理に唇を開いて口の中に入れる。
ささくれだった指が何度も口の中に出し入れされ、卑猥な動きに、亜也人の唇の端から唾液が滴り落ちた。
「柔らかい唇だ。口の中も驚くほど熱い……」
執拗に口を弄ぶと、王静(ワンシン)は、亜也人の唾液の付いた指を自分の口の中に入れてしゃぶり、亜也人を見下ろしながら片方の口角だけをグニャリと歪めた。
「そう驚くな。身体の反応を見てるだけだ。そうそう、君が寝てる間に身体測定させてもらったよ。もう少し体脂肪率があれば言うこと無いんだが、数字が全てではないからね。実際、こうして見ると君の美しさは本当に申し分ないよ。特にこのウエストのラインは見ているだけでそそられる」
言いながら、脇の下の窪みに指先を伸ばし、脇腹に向けてのカーブをツーッとなぞる。
木目の荒い乾燥した指先が、薄い皮膚の上を引っ掻くように伝い降り、腰骨から、更にその下の太ももまで降りていく。
膝まで下がったところで再び上に戻り、ウエストの一番くびれたところで脇腹の肉を摘んで止まった。
不快感が優っているせいだろう。くすぐったさはさほど感じない。それでも、荒れた指先が這い回る感触は亜也人の身体をビクビクと震わせた。
「これだけ派手にキスマークを付けられていたら普通は興ざめなんだろうが、君の場合はむしろ艶めかしく見えるから不思議だよ。白い肌に赤い印が、咲いたばかりの牡丹の花のようだ。私も早くこの細い腰を乱暴に抱いて、君の身体にたくさんの牡丹を散らしてみたいものだよ」
「血液検査の結果はまだですが、現役の高級コールボーイですから性病対策はしっかりされてると思います。なんなら今すぐ試されますか?」
白衣の男に、うむ、と答えると、王静(ワンシン)は、ウエストに置いた指先を横に滑らせ、臍の窪みに添えた。
「あっ……」
臍の中を指先でいじられ、亜也人は思わず声を漏らした。
悩ましい表情の亜也人とはうらはらに、王静(ワンシン)は満足そうに目を細めた。
「それにしても、ようやく君を抱けるのかと思うとそれだけで興奮するよ。君はもともと私の相手をする筈だったんだよ。それがどこで嗅ぎつけたのか、ハオランの奴が土壇場で場所を変更して自分の部屋へ君をよこした。お陰でこっちは待ちぼうけ。ミスター内藤にクレームを入れてやろうと思ったが、部下から事情を聞いて諦めたよ。たかがコールボーイ相手に身内の恥を晒すわけにはいかないからね」
王静(ワンシン)の言いたいことはすぐに解った。
これから何をされるのかも当然予測はついている。
幸か不幸か、亜也人は、こういう場面には慣れていた。
ここまできたらされることは同じ。
亜也人は腹を括り、弱い臍まわりをいじる王静(ワンシン)の愛撫を、瞳を硬く閉じて耐えた。
「我慢する顔も色っぽい。声を出すのが恥ずかしいのかい? やはり、日本人は奥ゆかしくて素敵だねぇ。ハオランに横取りされた時は腹が立ったが、これならあいつが夢中になるのも無理はない」
臍の窪みをいじっていた指を下へ滑らせ、手のひらを広げて下腹に当てる。ザラついた指先とはうらはらに、王静(ワンシン)の手の平は爬虫類の腹のような冷たい湿気を帯びていた。
「薄いが腹筋もちゃんとついてるね。胃の下からなだらかに窪んで薄く盛り上がる。細いが、ギスギスした感じがないところも良い……」
次はペニスに来ると思っていたが、亜也人の予想に反して、王静(ワンシン)の手はみぞおちを上がって胸元へ伸びた。
「あっ……やぁっ!」
いきなり乳首を摘まれ、亜也人が堪らず悲鳴を上げる。
ベッドがぐらりと揺れ、思わず目を開けると、王静(ワンシン)の顔が間近に迫っているのに気付き、亜也人はヒッと喉を引きつらせた。
「すまないね。声が聞きたかったからちょっと乱暴にしてしまったよ」
王静(ワンシン)は、近付けた顔を一旦離すと、おもむろにベッドの上に乗り上がり、亜也人の足の間に両膝を滑り込ませて亜也人の身体に覆い被さった。
「乳首も何という可愛いらしさだ。小ぶりで、綺麗で、色もいい。今からこの可愛らしい乳首をたくさん舐めてあげるから、遠慮しないで泣きなさい」
「んあぁっ!」
ねっとりとした舌の感触に、全身の皮膚がぞわぞわと鳥肌を立てる。
加減を知らない子供のような雑な愛撫だ。
ジュル、ズッ、チュパッ、ジュル。
一心不乱に乳首を舐めしゃぶる音が、吐息とともに胸元で渦を巻く。
王静(ワンシン)の舌にひねり潰され、捻じ曲げられ、亜也人の乳首が、悲鳴を上げるように赤く腫れ上がった。
「君の反応は素直で良いねぇ。ちょっと触っただけでもうこんなに硬く尖って、まるで、食べてくれ、って言ってるみたいじゃないか……」
お前の泣いてるみたいな喘ぎ声は男の征服欲をそそるからむやみやたらに声を出すな。
松岡に言われたことを思い出し、唇を真一文字結んで堪えていたが、王静(ワンシン)の執拗な舌使いに、亜也人の我慢はすぐに限界を迎えた。
「あっ、ああ……あああっ、んっ……あっ」
「本当に良い声を出すなぁ君は。耳がとろけてしまいそうだよ」
乳首を吸っていた唇が、みぞおちから臍へと降りていく。
先程の指先での愛撫の反応から、王静(ワンシン)は、ここが亜也人の弱いポイントであることを見抜いていたらしい。舌先を尖らせて臍の穴の中をまさぐる王静(ワンシン)の舌使いは、乳首を弄んでいた時よりしつこく、いやらしかった。
「いやぁっ! ダメですっ。そこ……やめっ……んあぁっ!」
「こらこら、そんなに腰をくねらせるんじゃない。たっぷり可愛いがってやろうと思ってるのに我慢が出来なくなるだろう?」
薄い窪みにピッタリと唇を付けて吸い、舌先で奥をつついて舐め回す。吸われるたび、お腹の奥に電気が流れるようなビリっとした衝撃が走り、お尻に甘い疼きが沸き起こる。
腰を捻ったところで、剥き出しのペニスが熱く勃ち上がり始めていることは隠しようが無かった。
「ほほう。こっちも元気になってきたな。さて、こっちはどうしてやろうか。舐めて欲しいか、扱いて欲しいか。君はどちらが好きだ? どうして欲しい?」
脚を左右に大きく開いて固定されているせいで、逃げることも出来ない。
答えなど何の意味も無かった。王静(ワンシン)は、うろたえる亜也人をニヤニヤと眺め、返事も聞かずに、根元を掴み、先の部分を唇でなぞった。
「んぁっ! や……」
反射的に身体がビクンと跳ね、鼻に抜けるような甘ったるい悲鳴が亜也人の口から漏れた。
「あっあっ……あああ、や……んんっ」
「んん? なんだ、これがいいのか。欲張りな奴だ」
わざとそうしたわけでは無かったが、亜也人の反応は王静(ワンシン)を喜ばせ、愛撫に没頭させた。
「やっ……やぁ……ダメっ……そんな……しないでぇっ……」
「こんなに気持ち良さそうなのに、やめても良いのかい? ほら、いやらしい蜜がこんなに溢れて、舐めても舐めても追いつかない……」
根元を激しく扱きながら、カリ首から先端までの間を上から横から色んな角度で舐めしゃぶり、亜也人のペニスが完全に勃ち上がると、おもむろに口に含み、真上から唇がお腹につくほど深く飲み込み、しぼり取るように吸い上げた。
気が遠くなりそうな快楽に、亜也人はこれ以上ないほどギュッと眉を顰め、押し殺したような悲鳴を漏らした。
「んんっ……や……やめ……んぁっ、んん……」
ほどなくして亜也人が、あっ、と泣き声を上げて絶頂を迎えると、王静(ワンシン)は、亜也人が口の中に吐き出した精液を美味しそうに飲み干し、満足げに笑った。
「若いだけあって精液もみずみずしいね。イッた後の顔も最高に艶めかしい。売り飛ばすのが惜しくなってきたよ……」
「売り飛ばす?」
亜也人は咄嗟に聞き返した。
王静(ワンシン)の言葉を聞いた途端、朦朧とした意識が一瞬にして覚醒した。
「あの…売り飛ばすって一体……」
浩然は、一緒に上海に行こうと言っていたのでは無かったか。
もちろん、最初から行く気など無い。
そもそも、浩然の申し出を受け入れたつもりも、正式に返事をしたわけでも無い。
しかし王静(ワンシン)は、唖然と見上げる亜也人を、陰険さの漂う目付きで見返した。
「なんだ、まさか、本当にハオランの秘書になれるとでも思ったのか? あいつが何を言ったのかは知らないが、お前をあいつの側に置くわけにはいかない。お前は確かに類い希な美人だが、所詮は卑しい男娼だ。そんな奴が、将来、上海スターリーグループを背負って立つ大事な後継者の側にいられるわけが無いだろう? それに私はお前のために一億用意したんだ。それに見合っただけの働きはしてもらわねば困る」
恐ろしさと焦りに、亜也人の身体に戦慄が走る。
「お金なんていらない……」
ガチガチと震える口を開き、やっとの思いで言葉を絞り出した。
「お金はいらない。だから、家に帰して」
王静(ワンシン)は首を横に振った。
「ダメだ。お前は、私が一億で買うと決めたんだ。今だって色んな男に抱かれてるんだ。所有者が変わったところで何の問題も無いだろう?」
「い、嫌です。お、俺は、行かない。家に帰る……」
「家? 松岡とかいう男のところか。松岡吉祥、元、石破組構成員。お前の後見人、いや、恋人……と言ったほうが良かったかな」
「どうしてそれを……」
「お前のことは色々と調べてさせて貰った。私はハオランと違ってお前の私生活になど全く興味は無い。ただ……」
亜也人の股間から上半身を起こして言うと、王静(ワンシン)は、亜也人の頭の両側に手をついて身を乗り出し、視線を合わせて意味深な笑みを浮かべた。
「ただ、私は一度口にしたことを撤回するつもりは無い。私がその気になれば、松岡を地獄の底に突き落とすことなど造作ない。何が言いたいかはもう解るな?」
瞬間、亜也人の心臓が、ドクン、と跳ね上がった。
全身の血を抜かれるような説明のつかない恐ろしさが込み上げ、出かかった悲鳴が喉の奥にへばりついたまま固まる。
狼狽えながら見上げた先で、王静(ワンシン)の渇いた艶のない瞳が不気味に光っていた。
「お前の返事次第で、お前の大事な恋人が大変な災難に遭うことになるんだ」
「きっ、吉祥に何する気だ……」
「さぁな。海に沈めて魚のエサにしてやってもいいし、苛性ソーダで跡形もなく溶かしてやってもいい。どちらにせよ、お前の一言で松岡はこの世から消えていなくなる。さあ、お前はどうする? お前の返事を聞かせてくれ」
亜也人は何も答えず硬く目を閉じた。
王静(ワンシン)は、苦悶の表情で睫毛を震わせる亜也人を、「いい子だ」と宥めると、ゆっくりと上体を起こし、部屋の隅で控えていた白衣の男に目を向けた。
男は示し合わせたように王静(ワンシン)に近付き、何かを手渡した。
王静(ワンシン)は、それを受け取ると、亜也人の腰の上に馬乗りになり、男から受け取った物を亜也人の目の前に差し出した。
「これは……」
「見ての通りお前の携帯だ。お前はこのまま船に乗って中国本土へ連れ帰る。だから、これで松岡に電話を掛けろ。『俺はワンシン様のところへ行く』と松岡にそう伝えるんだ」
液晶画面の冷たい感触が耳たぶをピリリと硬直させる。
松岡を呼び出す音が、葬送の鐘のように亜也人の頭に重く響いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
実際に見るハオランは、送られてきた画像より、ずいぶん雄々しく、若々しく見えた。
ウエイターから、ハオランが部屋に監禁されているとの情報を受け、松岡は急いでホテルに向かった。
ルームサービスを装い部屋に入り込み、クローゼットの中で、手足を縛られ、口枷を付けられたハオランを発見した。
薬を嗅がされていたのだろう。ぐったりとしていたが、松岡が抱き起こして身体を揺さぶると、カッと目を見開き、敵意を剥き出しにして松岡を睨み付けた。
その目。
ハオランの、突き刺すような鋭い視線に、松岡は不覚にも一瞬たじろいだ。
強いだけでは無い、激しく憎々しく残忍な、睨み殺してやると言わんばかりの強い意志を込めた視線。
それは、松岡がこれまで何度も目にしてきた闇社会のカリスマたちの瞳と同じ色をしていた。
どうりで紀伊田が内緒にしていた訳だ。思いながらも、松岡は怯むわけにはいかなかった。
「お前がハオランだな。亜也人は何処だ! 亜也人の居場所を言え!」
ハオランは、最初こそ敵意を剥き出しにしたものの、松岡が亜也人の名前を出すと、たちまち、堅く強張った表情を崩し、狼狽えたように松岡に迫った。
「あんた、ひょっとして松岡か!」
表情豊か、と言うより、気性の激しさを思わせる、一瞬にして変わる表情。
切迫詰まった様子で松岡の腕を掴み、松岡が頷くと、今度は今にも泣き出しそうな表情で松岡に縋り付いた。
「あ、亜也人が……亜也人が大変なんだ!」
「落ち着け。亜也人はどこにいるんだ」
ハオランは、王静(ワンシン)が亜也人を自分の部屋に連れ去ったこと、亜也人の借金を肩代わりする見返りに、亜也人を他国へ売り飛ばすつもりでいることを話した。
「俺、こんなことになるなんて思って無かったんだ……。俺はただ、あいつがツラそうだったから助けてやろうと思って……なのにあのクソ親父……」
「感傷は後にしろ! それより、王静(ワンシン)の部屋はどこだ! 早く言え!」
「解らない。刺客の目を眩ますために一日ごとに部屋を移動してるんだ。このホテルのどこかにはいる筈だけど、でも、解ったところで見張りがいるから近付けねぇ」
「見張りは何人だ」
「部屋の中に三人、両サイドに三人づつ。部屋はモニターで監視されてて何かあったらマスターキーですぐ駆け付けることになってる」
「解った……」
「解った、って、まさかあんた、俺と二人だけで行くつもりか?」
松岡が頷くと、ハオランは、ギョッと顔を痙攣らせた。
「待てよ! 息子の俺ですらこんな目に遭わせる野郎だぜ? 応援も無しに行くなんていくらなんでも無謀だよ!」
「だったらお前はここにいろ」
揺るぎない決意を見せつけるかのように、松岡は、ハオランを振り払い、立ち上がった。
恐れていたことが現実になろうとしている。衝撃を受けなかったと言えば嘘になるが、既に覚悟は出来ていた。
松岡は、持参した改造スタンガンとサバイバルナイフをベルトに装着し、ジャケットの内ポケットに入れたアイスピックを生地の上から手でなぞった。
そして、ドアに向かって走り出したその時だった。
突然スマホの着信音か鳴り、松岡はふと足を止めた。
亜也人からだ。
「き……吉祥……?」
亜也人の声は、これまで亜也人とともに過ごし、誰よりもその声を身近で聞いてきた松岡ですら一度も聞いたことの無い、本当に亜也人の声なのかと疑いたくなるような、ひどく悲しく、か細く、不安げな声だった。
「亜也人! どこにいるんだ! 無事か!」
意識を集中しなければ上手く聞き取れないほど弱々しい声に、松岡の語気が自然と荒くなる。
亜也人がどんな様子でこんな悲壮な声を出しているのかと想像すると、あまりの痛々しさに目を開けていられないほどの息苦しさに襲われる。
声を抑えられない自分とはうらはらに、あからさまに弱々しくなっていく亜也人の声に、松岡は、言いようのない不安を覚えた。
「吉祥……俺……俺……」
「なんだ! どうした! ハッキリ言え!」
「俺……俺ね……もう、吉祥のところには戻れない……」
「おい! 何言ってんだ! 今すぐ行くから場所を言え!」
「無理だよ……」
ギリッ、と心臓に爪を立てられたような痛みが走る。
「諦めるな!!」
痛みが引き金となり、怒りにも似た衝動が、身体の内側から松岡の心の中心を突き抜けた。
「吉祥……」
「諦めるな! 必ず助けるから、諦めるんじゃない!」
亜也人の声は、言葉を伝えるにはあまりにも怯え、震えすぎていた。
「も……無理……だよ。俺……」
「何が無理なんだ!」
「だって……俺、もう……。吉祥だってその方が……」
「俺が? 俺が何だって言うんだ!」
「お、俺なんかいない方が……吉祥だって、その方が……」
亜也人の声が泣き声に変わったのが先か、松岡の心を縛り付けていた糸がプツリと切れたのが先か、ふいに、叫ばずにはいられないような激しい衝動が胸の底から突き上げ、松岡は感情のままがなり立てた。
「その方が何だって言うんだ! 俺が、いつお前を、いない方が良いだなんて思ったよ! 人の気持ちを勝手に決めつけんじゃねー!」
亜也人がこれまでどんなふうに生きてきたのか直接側で見て来たわけではない。
しかし、松岡は、亜也人の過去の調査資料や共に暮らした二年近くの月日から、亜也人がどういう人間であるかは理解しているつもりだった。
『自分の周りの人間が不機嫌だったり落ち込んでいたりすると全部自分が悪いと思ってしまうんです』
亜也人のかつての先輩、山下は、亜也人を、相手を責めるより、自分が悪いと思ったほうが楽、自分が苦しむより周りが苦しむ姿を見る方が辛いと思う優しい性格だと言った。
確かに亜也人は、自分より周りを優先させる傾向があった。周りの空気に敏感で、周りが自分に酷いことをするのでさえ、自分にも悪いところはあるのだからと捉えているところもある。
自分が周りを不快にさせ、怒らせる。
悪いのは全部自分。
だから、自分を殺し、相手に従い、全てを受け入れる。
ようは、他人本意。
自分よりも他人が優先。
しかし、それが“ラク”かと言われれば、松岡は決してそうではないと思っていた。
ラクならば、もっとラクそうな顔をしている筈だ。
しかし亜也人は、こういう場面に出食わすたび、いつも悲しい顔をする。
今も、端正な顔を絶望に歪め悲しみに打ちひしがれているに違いない。
それは、本当は嫌だからではないのか。
それなのに、この後に及んで何をまだ我慢する。
自分自身の気持ちは一体何処だ。
「もうたくさんだ!」
切なさ、悲しさ、不甲斐なさ、そうした抑え切れない幾つもの思いがごちゃまぜになって襲い掛かり、松岡に感情的な言葉を吐かせた。
「訳わかんねーことばっかり言いやがって、俺は、助けると言ったら助けるんだ! 部屋が解らないなら、部屋の特徴を言え!」
「ダメだよ……そんなことしたら吉祥が……」
「てめぇはまだそんな……」
「無駄だよ」
答えたのはハオランだった。
「多分、あんたを殺す、って脅されてんだ。あいつらのやり方はよぉく知ってる。何がそいつに一番ダメージを与えるか知ってやがるのさ」
「そうなのか……?」
問いただすと、ハオランの言葉を証明するかのように、亜也人が声を上げて泣き始めた。
まるで、親に置き去りにされた子供が、身体中の力を振り絞って泣いているかのようだった。
松岡は、吼えるように泣く亜也人の悲痛な泣き声を頭の中に響かせていた。
「大丈夫……」
亜也人に言っているのか、自分自身に言っているのか、大丈夫、という言葉が自然と口から漏れた。
「俺は大丈夫だからお前の気持ちを言ってみろ……」
亜也人は涙に声を詰まらせるだけで言葉らしい言葉は何も言わない。
それでも松岡は更に言った。
「亜也人。俺のことは考えなくて良い。俺はお前の気持ちが聞きたいんだ」
「で……でも……」
「頼むから、お前の本当の気持ちを教えてくれ。周りに合わせるんじゃなく、諦めるんじゃなく、お前が本当に思ってることを聞かせてくれ」
吉祥、と、震えて声にならない吐息のような声が確かに松岡の名を呼んだ。
「お前は、本当は、どうしたいんだ。もう俺には会いたくないのか? もう俺とは一緒にいたくないのか? 俺のこと、嫌なのか? 俺には助けてもらいたく無いのか?」
言ってくれ! と、松岡は電話越しに叫んだ。
亜也人は小さく口を開いた。
「……たい……」
「どうした、ちゃんと言ってみろ」
「一緒に……いたい。たすけ……て……」
亜也人はハッキリと叫んだ。
「助けて、吉祥!!」
亜也人の絶叫が終わらないうちに、一方的に電話は切れた。
松岡の頭の中には、亜也人の、喉を引き裂かんばかりの、高い、ひび割れた悲鳴が強烈に焼き付いていた。
急がなければ亜也人が危ない。
一部屋一部屋尋ねるつもりで、まずはすぐ下の階に降りた。
フロアは不気味なほど静まり返っていた。
それもその筈、廊下に置かれた時計のオブジェが、いつの間にか、日付けを変えようとしている。
こんな夜更けにいきなり部屋を訪ねては、王静(ワンシン)の部屋に辿り着く前に、不審者に間違われて警察に突き出されてしまう。
ダメ元で、買収したウエイターに連絡を取ろうとスマホを取り出した。
電話機能を開けようとして、ふと、見慣れないアイコンがあることに気付く。
そう言えば、紀伊田が駐車場にカメラを仕掛けたと言っていた。
紀伊田の言葉を思い出しながら、松岡は、アプリケーションを起動させた。
現れたのは駐車場の映像だった。四分割された画面に、駐車場の出入り口と、黒のベンツが三台。切替ボタンで、それぞれ拡大できるようになっている。
操作していると、後から追いかけて来たハオランが、松岡の手元を覗き込んで、「おお!」と、声を上げた。
「そうだ! 駐車場で張り込めばいいんだよ! やつら、亜也人を船で運ぶって言ってた。部屋を探すよりそっちの方が確実だ!」
ハオランの言う通り、この状況で部屋を探すのは、部屋を見付けるよりも捕まるリスクの方が高い。
先程の、助けを求める亜也人の泣き叫ぶ声を聞き、王静(ワンシン)が、亜也人を取り返されるのを恐れ、予定を早めて船に移す可能性も十二分にあった。
松岡は、直ぐに追いかけられるよう、駐車場の出口に自分の車を移動し、車の中で監視することにした。
松岡の予感は的中し、さほど経たないうちに、接続したカーナビのモニター画面の奥から、肩に大きな荷物を担いだ男が現れた。
上背のある、見るからに屈強そうな男だ。
布で覆われているものの、担がれたシルエットから、肩の荷物が亜也人であることは明らかだった。
男は亜也人を後部座席に押し込むと、後ろに続く、同じく迫力のあるガタイの良い男と共に車に乗り込んだ。
その後、王静(ワンシン)と思われる恰幅の良い男が、三人の護衛に囲まれながら現れ、別の車に乗り込む。
護衛たちが車に収まると、亜也人を乗せた車がゆっくりと発進し、王静(ワンシン)を乗せた車が後に続いた。
松岡はその様子を観察しながら、二台の車が駐車場から出てくるのを確認し、怪しまれないよう距離を取りながら後を追った。
車は埠頭へ向かっているようだった。
高速を下り、市街地を抜け、工場が立ち並ぶ埠頭エリアへと入って行く。
倉庫に連れて行く気なのだろう。
おそらくそこが決戦の場所となる。
相手は六人。王静(ワンシン)が戦力になるかどうかは怪しいが、残りの五人は武闘派に違いない。
ハオランに加勢させようかとも思ったが、相手方の罠である可能性も考え、車に乗せる前に絞め技で落として結束バンドで手足を拘束した。
事実上、五対一。
土地勘の無い場所、閉ざされた空間で、五人の男を相手にどう戦えばよいか。
しかし、状況は、松岡に戦略を立てる時間さえ与えてはくれなかった。
突然、銃声が響き、松岡の車が急回転する。
タイヤに弾丸をぶち込まれたのだ。
咄嗟にハンドルを切ったので壁に激突するのは免れたが、車を止めて顔を上げると、王静(ワンシン)の護衛たちにすっかり周りを取り囲まれていた。
「マツオカ?」
いくら松岡が凄腕の殺し屋の過去を持つ身だからと言って、至近距離でこの人数相手ではさすがに分が悪い。
松岡は、腹を括り、潔くドアを開けた。
その直後、急所を突かれ、意識が朦朧としたところで、武器を取り上げられ、目隠しをされて別の車に乗せられた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
連れて行かれたのはカビ臭い建物だった。
目隠しを外され、下へ続く階段を下り中へ入るよう指示される。
足を踏み入れ、松岡はたちまち絶句した。
僅かな白色灯の明かりしかない薄暗い部屋の中に、猛獣を閉じ込めるよう重厚な檻がそびえ立っている。
中にいたのは亜也人だった。
裸にバスローブを羽織らされただけの格好で、両手を後ろ手に縛られ、捨て置かれるように床に寝転がされている。
首には黒い鉄の首輪がガッチリとはめられ、そこから伸びた太い鎖が、たわみながら檻の柱に繋がっている。
最後に顔を見てからまだ数時間しか経っていないというのに、その目は涙に赤く腫れ上がり、唇は悲鳴を形取ったまま恐怖に凍りついていた。
「亜也人!」
息をしているのかさえも疑いたくなるような痛ましさに、松岡の瞳が、亜也人以外の景色を拒むように亜也人に釘付けになり、悲痛な叫びが無意識のうちに頭のてっぺんから噴き出した。
発作的に駆け寄ったものの、檻の一歩手前で護衛の男に三人掛かりで押さえ付けられ、松岡は、亜也人のいる檻の正面に置かれた椅子に手足を縛られた状態で括り付けられてしまった。
部屋には松岡を取り押さえた男三人と王静(ワンシン)と、お付きの男。その後、護衛の中でも一番ガタイの良い大男が、ハオランを連れて入ってきた。
「まさか自分から出向いてくれるとは。お陰で迎えに行く手間が省けたよ。ありがとうミスター松岡」
ハオランに猿ぐつわをかませ、椅子に縛り付けるよう指示すると、王静(ワンシン)は、松岡の座る椅子の前に立ち、松岡の顔を、からかうように覗き込んだ。
「悪いが、君には、そこの子猫ちゃんを国に送り届けるまでここで大人しくしていてもらう。高い買い物だけに、輸送の邪魔をされては困るのでね」
言いながら、丸めた背中を起こし、反り返り気味に松岡を振り返る。くっきりと刻まれたほうれい線が品の無い笑みを浮かべた口元を強調しながら醜く歪んだ。
「それと、間違っても逃げようなんて思わないことだ。もし変な真似をしたら、そこにいる子猫ちゃんが大変な傷を負うことになる」
「そんな真似が出来るのか」
「おや。まさか君は、この子が大切な商品だから、私がなんの手出しも出来ないと思ってるのかい? 残念だが、世の中には色んな嗜好の人間がいてね、腕や脚の一本や二本無くたって何の問題も無いんだよ。とくにこの子みたいな美しい子はむしろそういう輩の方が良い値を付けてくれる。手足を切り落とし、片目をくり抜き、可愛い歯を一本残らず抜いてやるのも良いかも知れん。いづれにしても、君の態度次第なんだよ、ミスター松岡」
亜也人は檻の中で横たわったまま、ピクリとも動かない。
気を失っているのだろう。身体の具合は気になるが、今のおぞましい会話を聞かせなくて済んだことは松岡に取っては不幸中の幸いだった。
王静(ワンシン)は、亜也人を見詰める松岡を、獲物をいたぶるように薄目を開けて眺めると、突然踵を返し、護衛の男に檻を開けるよう命令した。
ギィィッと、鉄の扉が嫌な音を立てて開くと、男の一人が中に入り、亜也人に気付薬を嗅がせて目覚めさせた。
亜也人は一瞬こそぼんやりしたものの、すぐに悪夢の途中で飛び起きたかのように覚醒した。
「吉祥!」
亜也人は松岡だけを見ていた。
しかしそれも束の間、檻の中の男に首の鎖を引っ張られ、立ち上がった状態で天井に繋がれ苦しそうに顔を歪めた。
悲鳴を上げる亜也人には目もくれず、男は亜也人の脚の拘束を解いて肩幅に開いて立たせると、脚を閉じないよう、足元に跪いて足首を掴んだ。
「さて、糧を荒らすネズミも捕らえたことだし、先ほどの続きをさせてもらおうか……」
亜也人が立ち上がったことを確認し、王静(ワンシン)が、おもむろに檻の扉をくぐる。
うーっ、と大きな唸り声を上げたのはハオランだった。
猿ぐつわをかまされているせいで言葉にはならないが、野獣の咆哮にも似た唸り声は、王静(ワンシン)を立ち止まらせるには充分だった。
「なんだお前は。私に逆らう気か」
ううーっ、と再びハオランが唸り、ジタバタと身体をよじる。反動で椅子が揺れ、護衛の男が倒れないよう二人がかりでハオランを押さえ付けた。
「たかがコールボーイに気を乱されおって。あまり騒ぐと眠らせるぞ!」
ハオランはなおも激しく抵抗したが、王静(ワンシン)は構わず亜也人に向き直った。
「どこまでやったかな。ペニスを扱いて、舐めて、しゃぶって……。そうそう、後ろからだったな」
言うなり、亜也人の背後に回り、バスローブの裾を捲り上げ、亜也人の腰を抱きながらローションを垂らした指を後孔に当てた。
「やだっ! 離せ! 離せったら!」
亜也人の声に、松岡の心臓が破裂しそうな勢いで飛び上がった。
『助けて、吉祥!!』
耳に残った亜也人の悲鳴が、再び頭の中で回り出す。
殺してやる。
頭の奥がギィィンと痺れ出し、野蛮な感情が次から次へと湧き上がる。
強引な方法は避けねばならない。
亜也人を安全に取り戻し、取り戻した後も、命を脅かされることなく平穏に暮らして行けるよう、感情に任せたその場凌ぎの強引な方法は避けねばならない。
そんな考えは瞬時に消え去った。
とにかく今は一刻も早く亜也人を取り戻す。
その後は、自分が守って行けばいい。
手段など選んでいる場合ではない。
松岡は覚悟を決めた。
松岡の怒りを煽るように、王静(ワンシン)は、亜也人の後孔に当てた指をズブズブと中に埋め込み、二本、三本と指を増やして行く。
亜也人は白い脚をガクガクと震わせ、苦悶に歪んだ顔を、イヤイヤ、と激しく横に振った。
「私の指を何本も飲み込んで、本当にいやらしい子だ。入り口はキツいのに中はふんわりと柔らかい。それでいて、ねっとりと熱く絡み付いて、吸い付くように締め付ける。指を入れているだけでこんなに気持ち良くなったのは初めてだ。こいつは女の名器など比べ物にならないほど良い具合かも知れん」
「や、ああっ、あっ、やっ、あぁぁいやぁ、やだ、離せ……」
髪を振り乱して抵抗する亜也人を見ながら、松岡は、後ろ手に縛られた手を開いたり閉じたりしながら、ロープにたゆみを作った。
石破組二代目組長の懐刀として数々の修羅場をくぐり抜けて来た松岡にとって、ロープの拘束を解くなど造作も無いことだ。
椅子に縛りつけられる時も、最初に息を吸い込めるだけ吸い込んで身体を大きくしてから縛られたので、息を吐いて小さくすれば抜け出すことは簡単だった。
松岡は、護衛の目を盗んで手首の拘束を解き、身体を小さくして胸元のロープを緩ませた。
あとはタイミングを狙い一気に外す。
しかしそれは直ぐに訪れた。
「あっ! いやあぁぁっ!! 吉祥ぉぉっ!!」
王静(ワンシン)が亜也人のお尻を割り裂き、自分のモノを後孔に突き立てる。
松岡の身体をは無意識に反応していた。
「ーーヤロウ!」
殺気が全身の気を逆立て、頭の奥を痺れさす。
身体が勝手に動き、手首の拘束を外して胸に巻きついたロープを引き千切り、護衛を頭突きと手刀で黙らせ、ナイフを奪って足首のロープを切った。
王静(ワンシン)は亜也人の腰を掴んだまま硬直している。
亜也人は、赤く腫れ上がった目を見開き、訴えるように松岡を見ていた。
「亜也人!!」
松岡は、護衛から奪ったナイフをかざしながら檻の扉をくぐった。
すると、
「そこまでだ!」
王静(ワンシン)の大声が、松岡から湧き立つ殺気を切り裂くように高圧的に響いた。
「お前の態度次第でこいつがどういう目に遭うかは説明した筈だ。この綺麗な身体に傷がついても良いのか!」
王静(ワンシン)の目が、「これを見ろ」と松岡に訴えながら視線を下げる。
誘導されるように視線を下げ、松岡は目を見張った。
亜也人の足首に細い糸が巻かれている。糸を辿ると、裏側にマッチ箱のような四角い箱状のものがついていた。
「これが何か知りたいか? 小型爆弾だよ。ちなみにスイッチは私のポケットの中にある。殺傷能力は低いが、華奢な足首を使い物にならなくするくらいの威力はある。私がスイッチを押せば、こいつの細くくびれた足首は一瞬にしてペシャンコだ」
「貴様……」
松岡は亜也人の足首に目をむけたまま立ち止まった。
怒りが不安に変わるギリギリのところでかろうじて気を張っている。
何か方法は無いのか。
しかし下手に動けば亜也人の足が潰されてしまう。
『一緒に……いたい』『助けて、吉祥』
ようやく聞けた亜也人の本心。それを、諦めるなと言った張本人が諦めるのか。
しかし、亜也人に取り返しの付かない傷を負わせるわけにはいかない。
万事休す。
クッ、と、口元を歪めながら、松岡は、王静(ワンシン)に向けたナイフをゆっくりと下ろした。
すると、突然、ドタドタと階段を下りる靴音が響き、入り口から、銃やナイフを持った男たちが一斉に駆け込んできた。
「なんだお前たちは!」
十人はいるだろうか。部屋は、乱入してきた男たちでたちまちごった返し、松岡は、そのドサクサに紛れて、男たちに気を取られている王静(ワンシン)の背後に回り込み羽交締めにして首元にナイフを突き付けた。
「じっとしていろ!」
片方の腕を脇の下から回して反対側の首にナイフを当て、もう片方の手で上着のポケットを探り、スイッチを奪い取る。
これでもう爆弾は作動しない。
しかし、ホッとしたのも束の間、男たちの一人が檻をよじ登るのに気付き、松岡は身構えた。
続いて、別の男が檻の中に入っくる。
どこかで見た顔だ。思いながら、男の顔に向かってナイフを構えると、ふいに、辺りがシンと静まり返り、聞き覚えのある声が低く響いた。
「それぐらいにしておけ」
内藤だ。
抑揚の無い冷たい声で言うと、内藤は、松岡に、王静(ワンシン)から離れるよう言い付け、代わりに自分の部下に王静(ワンシン)を捕らえさせた。
予想だにしない展開に、王静(ワンシン)は怒りも露わに内藤を睨み付けた。
「ミスター内藤、これは一体どういうことだ!」
内藤は微塵も動揺すること無く飄々と王静(ワンシン)を見返した。
「それはこちらのセリフです。ここにいる寺田亜也人はうちの事務所の大事なドル箱モデルです。それを何の断りもなく捕らえるとは一体どういう了見か」
「金なら払う。こいつが君から借りている金は私が肩代わりすることで話はついてるんだ。金が入れば彼は君のものでは無くなるだろう? 新たな持ち主で私が彼をどうしようと君には関係ないと思うが」
王静(ワンシン)の言葉に、内藤は、フッ、と口元を緩めた。
「確かに金は貸してますが、私は寺田本人と金銭消費貸借契約をしているわけではありません。私が契約しているのは、そこにいる松岡という男です」
「なんだって?」
「どうしても寺田が欲しいと言うので、金と引き換えに譲る契約をしたんです。ちなみに借入金の半分は既に返済済み。つまり寺田は完全に私のものでは無く、半分はそこの松岡のもんなんです。あなたが寺田を御所望なら、そこの松岡にもきっちり筋を通すのが道理です。もっとも、その男が寺田を手放すとは到底思えませんがね……」
内藤の高慢な物言いに、王静(ワンシン)は、クッ、と悔しげに呻いて口をへの字に曲げた。
「どうしてお前がここに……」
王静(ワンシン)を外へ連れて行くよう部下に命じると、内藤は、亜也人を支えながら呆然とする松岡を振り返った。
「あの、佐伯、っていう若造のせいだ」
「佐伯?」
「あいつ、このままだと、淳……紀伊田が寺田の身代わりに売られることになる、と俺を脅しやがった」
「紀伊田が身代わりに?」
内藤は、憮然とした顔で頷いた。
「紀伊田は今回のことは自分にも責任があると感じていて、寺田に災難が降りかかる前に、自分が身代わりになって寺田の代わりに売られて行くそうだ。ガキの戯言かも知れないとも思ったが、無駄に優しい紀伊田なら本当にやりかねない……」
心なしか穏やかに言うと、内藤はゆっくりと檻を出て行った。
その後、内藤の部下によって亜也人の首輪と天井を繋ぐ鎖がチェーンソーで切断され、手錠と足首の小型爆弾が取り除かれた。
亜也人を胸の前に抱き上げ檻を出ると、拘束を解かれたハオランが悲痛な表情で駆け寄って来た。
「亜也人! 俺……」
亜也人は柔らかな笑みを浮かべた。思わず涙ぐむような慈愛に満ちた優しい目だ。
見た途端、ハオランに対する怒りが込み上げ、松岡は声を荒げた。
「こいつに触るな!」
ハオランは何か言いたげに松岡を見上げたが、言い返しはしなかった。
「もとはと言えば、お前が安易に話を持ちかけたせいでこんなことになったんだ。自分の力じゃ何も出来ないくせにいっぱしの口利きやがって。そういうことは、テメーの力で解決できるようになってから言いやがれ!」
怖気付きながらも、ハオランは、松岡から目を逸らさず、許しを乞うような視線を向けた。
松岡は、ハオランの、自分の非を素直に認める誠実さと、真っ直ぐに向かってくる芯の強さに感心しながらも、わざと冷たくあしらいその場を離れた。
荒削りではあるものの、この男は将来大物になる風格を持っている。
胸によぎった思いをそのまま胸に押し込め、松岡は、亜也人を抱き直して外へ出た。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
亜也人を救出した後、松岡と亜也人は、内藤の手配した車で自宅マンションへ戻った。
紀伊田は、松岡の雇ったボディーガードに身体を拘束されていたが、亜也人を救出した後、松岡の指示で佐伯の元へと送り届けられた。
佐伯から、紀伊田が妙な真似をしないよう見張って欲しいと頼まれた時は、松岡も、まさか佐伯が内藤を脅すつもりだとは思ってもみなかった。
そのお陰で、内藤が動き、亜也人は助けられた。
実際に助けに来たのは内藤だが、内藤が来たのは紀伊田を心配したからだ。
内藤に感謝するのはもちろん、松岡は、紀伊田が責任を感じなくて済むよう、紀伊田のお陰で亜也人が助け出されたように仕向けた佐伯の男気にも感謝した。
何でも一人で解決出来ると思っていたが、今回ばかりは松岡一人の力ではどうにもならなかった。
あのまま亜也人を奪われていたらと思うと心底ゾッとする。
不安が大きすぎただけに、今、亜也人が目の前にいる安心感が、狂おしい愛おしさとなって松岡に覆い被さっていた。
「ほら、もう、こんなグチョグチョになってる……」
悪い記憶を消すように、松岡は、亜也人を胸の中に抱き、身体の隅々を繰り返し入念に愛撫した。
「吉祥、本当にごめん……」
「いいから、もう、黙ってろ……」
「あっ……んぅ……」
亜也人の濡れそぼった後孔が、熱くうねりながら松岡の指を咥え込む。
丹念にほぐされた肉壁は、松岡の指を柔軟に受け入れ、広げられるのを喜んでいるかのように収縮を繰り返す。
心を委ねることで身体も開かれて行くのか、指先に当たる官能のポイントも、いつもよりハッキリと感じられた。
「ここ……亜也人の好きなとこだ」
「はぁっ! やめっ……あっ!」
関節を折り曲げ、厚みを帯びた輪郭を指の腹で擦り上げると、まるで甘い密に吸い寄せられるように、亜也人が腰を浮かせて自ら松岡の指にそこを押し付けた。
自分色に染まった愛おしい身体。
入り口はキツいのに中はふんわりと柔らかく、ねっとりと熱く絡み付き、吸い付くように締め付ける。
王静(ワンシン)の言う通り、女の名器など比べ物にならない、男を惑わす魅惑の肉体だ。
亜也人の脚を開き、膝の裏を両腕で担ぎ上げながら、松岡は、王静(ワンシン)が、この熱い肉壁の感触を味わう前に亜也人を助け出せたことにホッと胸を撫で下ろしていた。
亜也人の身体を味わってしまったら、王静(ワンシン)は、何か何でも亜也人を自分のものにしていただろう。
「そろそろ入れるぞ……」
んっ、と、吐息混じりに頷く亜也人の瞳を見詰め、後孔に男根の先端を当てる。
そのまま前屈みに腰を沈め、膝を担いだ脚を肩の上に乗せ、お尻を持ち上げながら更に腰を突き入れた。
「あっ、あああっ、ダメぇ、当たる、当たっちゃう……」
「気持ち良くするために当ててるんだ……」
「あああ……っ、んはぁぁ、だめ、そんな……したら、すぐにイッちゃ……んんんっ」
唇を塞ぎ、喘ぐ吐息を口の中で受け止め、舌を絡めた。
「んんっ……ん……ふぁ……あっ」
舌の裏から溢れる唾液が、息継ぎの度、唇の端から伝い流れる。
男根を飲み込む後ろの孔同様、亜也人の口の中の粘膜は驚くほど熱く、松岡の舌にねっとりと纏わり付く。
まるで、自分の内側に摂り込んでしまうかのような亜也人の感触に、松岡の男根はさらに硬さを増し、雄々しく反り立った。
「亜也人……すごくいい……」
お尻が上を向くほど亜也人の脚を担ぎ上げ、男根の先だけを小刻みに浅く挿入し、ふいに根元まで突き入れ、ズンズンと奥を突いて、また浅くする。
浅く、深く、亜也人の感じるポイントを緩急をつけながら責め、唇を合わせて、口の中でくぐもる喘ぎ声を楽しんだ。
「んん、んんん、んァ……んふぅ」
両肩を押さえ、胸元に頬をすり寄せて乳首に吸い付くと、亜也人が、身体を跳ね上げ、後孔をキュンと締め付ける。
つられて射精してしまいそうなほどの強烈な締め付けだ。
搾り取るような肉壁の動きに、さすがの松岡も堪らず眉を顰めた。
「きっ……しょう……?」
「バカ。あんま締めんな。イッちまうだろう……」
「や……まだ……やっ……あ、あっ……」
「わかってる。まだまだ気持ち良くさせてやるから安心しな……」
「あっ……ああぁぁぅっ……そこっ……もっと……」
亜也人の背中に腕を回し、男根を埋めたまま、上身体を抱き起こして膝の上に乗せた。
柔らかいお尻を掴んで股間に引き寄せると、亜也人が、あっ、と切なそうに睫毛を震わせる。
何度見ても見慣れることのない、見る度に瞳を奪われ欲望を掻き立てられる妖艶な姿に、松岡の男根が更に大きく反り勃ち、亜也人の肉壁をえぐるように動き出す。
亜也人は、松岡の膝の上で薄い身体をくねらせ、荒い呼吸を繰り返している。
汗ばむ肌が、吐息の湿気を受けて熱い熱気を立ち昇らせ、二人の交わり揺れる身体を官能的な匂いで包み込んだ。
「んんんっ……きっ…しょ……すごいっ……すごくイイっ……」
「気持ちいいか?」
「んっ……もちいっ……すごく……気持ちいィっ……」
お尻の肉を鷲掴みにして股間に引き付け、いきり勃った男根を、下から何度も突き上げ、揺さぶる。
亜也人が、ビクンと背中を跳ね上げ肉壁をヒクヒク痙攣させる。
三回目までは数えていたが、それ以降は夢中になって数えるどころでは無かった。
亜也人は、挿入してから何度も軽い絶頂を迎え、それでもなお貪欲に松岡を求めて身体を擦り寄せている。
その姿がいじらしく、ふいに、松岡の胸の内側から泣きたいような愛おしさが込み上げた。
「好きだ……亜也人……」
隠しようもない思いが、素直な言葉となってこぼれていた。
亜也人は、松岡の肩におでこをつけたまま一瞬呼吸を止め、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「俺も……好きっ…吉祥が……んっ、すきっ……」
「本当か……?」
答える代わりに、亜也人が首に腕を巻き付けてキスをねだる。
赤く濡れた唇を見詰めながら、松岡はもう一度囁いた。
「好きだ……亜也人。愛してる…」
「俺も……愛してるよ……吉祥……」
口を開いて唇を近付け、触れる前から互いに舌を突き出し絡め取る。
深く長いキスをしながら、松岡は、絶頂に向けて腰を突き上げた。
「ああああんっ、あぁっ、んんん、んぁん」
「愛してる、亜也人……。離さない……」
「あああぅっ……俺も……も……離れない……」
「本当か?」
「ほんと……ほんとに……もう……んぁっ……離れないからぁぁっ……」
亜也人の熱い粘膜が、松岡を包み、飲み込んで行く。
離さない。
離れない。
絶対に。
自分の手の中で悶え喘ぐ亜也人を全身で受け止めながら、松岡は、心の中で何度も繰り返した。
絶頂まであと少し。
迸る思いが重なり融け合うまで、松岡と亜也人は、お互いを自分の胸にキツく抱き締めた。
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