セラフィムの羽

瀬楽英津子

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疼痛〜永遠に続く終わらない痛み

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「やっぱ染谷の推薦だったみたい、っすね」

  ああ、と答える松岡に、紀伊田がやりきれないという表情を浮かべる。

  「結局、内藤の思惑通り、ってことですよね。寺田にヤクの横流しの罪をなすりつけたのも全て積川を山崎組へ送り込むめの算段だった、ってことでしょ?」

  紀伊田の言う通り、全てが積川を山崎組の部屋住みにする為の内藤の策略であったと考えるのが自然だった。

  見習い修行の場とはいえ、巨大組織である山崎組のましてや本拠地での部屋住みともなれば、もはや選ばれたこと自体が名誉であり、言わずもがな誰でもなれるという訳ではない。
  なるためには、まず、絶対条件として傘下組織の組長からの推薦状がいる。その他、前科がない事。逮捕される心配が無い事。クスリに手を出していない事。車の免許を持っている事。30歳に達していない事。
  積川良二は、内藤の策略により、亜也人に罪を着せて逮捕を免れ、亜也人の性接待により紹介状を手に入れた。そうして山崎組に入り込んだ後は、亜也人という強力なシノギをチラつかせ更に上を狙うつもりだったのだろう。

  「積川は自分のために寺田がどんな目に遭ってるか知ってるんすかね。てめぇの色がてめぇの犠牲んなってめちゃくちゃにされてたら、俺だったら発狂もんですがね」

  「内藤に上手く丸め込まれてるんだろう」

  「にしても、普通は気付くでしょう。神戸に行ったのだって、寺田は何も聞かされて無かったんでしょ?案外、積川も内藤とグルんなって全部承知の上で寺田を利用してるんじゃないんですか?」

  「流石にそれはないだろう…」

  マグカップに入ったコーヒーの最後の一口を飲み干すと、松岡がふと耳を澄まし、「しっ」と唇の前で指を立てる。亜也人の気配を感じたようだ。紀伊田が暗黙の了解で話しをやめると、ほどなくして、リビングと廊下を繋ぐドアが開き、亜也人がふらりと入ってきた。

  「あ、亜也人くん。おはよう。お邪魔してます」

  ドギマギと見上げる紀伊田に軽く会釈すると、亜也人は松岡たちの座るソファーとは反対方向のキッチンへ進み、冷蔵庫から紙パックのジュースを取り出し、ストローを刺しながら戻ってきた。
  ジーンズにオーバーサイズの黒のVネックのトレーナー。ゆったりとしたシルエットから伸びた細い腕と鎖骨の目立つ首元が、亜也人の華奢な身体つきをより細く繊細に見せている。
  すっきりとカットされた襟足を掻き上げながら近付くと、亜也人は、松岡とローテーブルの間の狭い隙間に強引に入り込み、松岡の膝にぶつかりながら崩れるように隣に腰を下ろした。

  「そんなもん飲んでないで、ちゃんと朝飯を食えよ」

  「腹、減ってないし」

  いつも部屋に引っ込んだきりで出て来ない亜也人が目の前にいるのが信じられないのか、紀伊田が、松岡と亜也人を不思議なものでも見るように瞬きもせずに見つめる。
  前回訪れた時とは明らかに違う砕けた雰囲気に紀伊田が戸惑いの表情を浮かべる。砕けたというより親密さを増した気がする。亜也人が幼く甘えた感じに見えるのは髪を切ったせいばかりでは無い。お世辞にも柔和とは言えない松岡の緩みきった表情にも驚かされる。何より、二人の間に漂う空気が違う。ただ隣に座っているだけなのに、まるで秘めごとを孕んだような、甘く思わせぶりなこの空気。これが恋人同士特有の雰囲気であることは、色恋ごとに馴染みの浅い紀伊田でも流石に感付いた。
 
  目の前でいちゃつかれるほどツライものは無い。
  気を紛らせようと、テーブルの上に置かれたテレビのリモコンを手に取り電源を入れた。
  画面の中では朝のワイドショーでお馴染みの司会者がニュースを伝えている。番組を見るというより松岡たちから気を逸らす雑音が欲しくて点けただけだったが、ふいにアナウンサーの口から漏れた言葉に、紀伊田は、反射的に画面を振り返った。

  ーーー土木作業員、山下國男さん19歳と判明。11日午前七時頃、川崎市の建設会社所有のアパートの一室で首に刃物が刺さった状態で死亡している山下さんを訪ねて来た同僚が発見。死後一ヶ月以上経過しているとみられ、鍵は施錠されており、県警は、自殺と他殺の両面で捜査しています。

  あっ、と紀伊田が声を上げるのが早いか、松岡が動くのが早いか、突然、紀伊田の手からリモコンが引き剥がされテレビの電源がプツリと切れた。

  「今の…山下さん…」

  松岡が電源を切ったのだ。亜也人への配慮だろうが残念ながら間に合わなかった。

  「死亡、って…。どうして山下さんが…」

  「お前は余計なことは考えるな…」

  不安げな亜也人を肩を抱いて落ち着かせ、部屋に戻るよう促す。
  亜也人は、一人になりたくない、と駄々をこねていたが、松岡が、詳細を調べてちゃんと教えると伝えると、しぶしぶ承諾して部屋へ戻って行った。
  
  「なんか、すんません。俺がタイミング悪くて…」

  遅かれ早かれ耳に入っていた事だ。紀伊田に罪はない。
  それよりも松岡は内藤の動きが気になった。内藤が山下の死に関わっていないとしても、警察が他殺も視野に入れている以上、当然石破組にも捜査の手は及ぶ。
石破組だけではない。山下は積川とも交流があったので、いずれは積川と亜也人にも辿り着く。
  積川を神戸に送るためにあれだけ画策した内藤が、それをみすみす棒に振るような真似をするとは思えなかった。

  「死後一ヶ月以上って言やぁ、積川がまだこっちにいた頃ですよね」

  「だな…」

  「…ってことはやっぱり…」

  松岡は何も答えずソファーから立ち上がった。紀伊田を残して一人でリビングを出、玄関を入ってすぐにある、事務所として使用している洋室に向かう。
  部屋に入るとすぐに内藤に連絡を取った。内藤は、松岡からの電話を待っていたかのように、ほぼワンコールで応答した。

  「掛かってくると思ってましたよ。山下國男の件ですよね。もう手は打ってありますからご心配無く…」

  内藤の声は、少しの動揺も感じられない、いつもの冷静沈着な声だった。

  「そんなことより寺田は元気にしてますか?」

  「何をもって元気と言うかは解らんが、普通に生活はしてるさ」

  「それは良かった」

  ただの返答にしては妙に粘り気のある言い方だった。内藤の言葉には、「近々仕事の依頼をするから楽しみに待っておけ」という含みがあった。

  「あいつに何をやらせる気だ」

  「それを考えるのはあなたでしょう?私は松岡さんに仕事を依頼するんだ。寺田をどう使うかはあなたの判断でしょ?
  幸い良二も近くにいないことですし、多少手荒に扱ってもあなたに危害は及びませんよ」

  「どういう意味だ」

  「仕事がしやすい、って意味ですよ。あいつは寺田のこととなるとどうも抑えが効かなくなるみたいでしてね…。そうでなくてもあなたは良二に嫌われてるんですから充分用心してもらわないと…」

  お前が嫌うように仕向けているんだろう。松岡は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。内藤は松岡の気持ちなどお見通しとばかり鼻で笑った。

  「とにかく、山下國男の件は心配してくださらなくて結構です」

  声色一つ変えずに言うと、内藤は、「では近々」と一方的に電話を切った。

  内藤の口ぶりからも、山下國男を殺したのが積川良二である事はもはや疑いようの無い事実だった。全てにおいて抜かりの無い内藤が警察沙汰になる前に片付けられなかったことからも、今回の一件が積川良二の単独行動である事は間違い無い。結果的に内藤にケツを持ってもらう格好にはなってしまったが、あの内藤の監視の目を掻い潜って犯行を起こすとは積川良二も大したものだと松岡は思った。
  冷酷非道で、キレたら手がつけられない。若くて、パワーがあって、あの内藤をもってしても手懐けられない、まさにモンスター。

  ふと、以前、紀伊田に亜也人の素行調査をさせた時の報告書で見た積川の横顔が松岡の脳裏にチラついた。じっくり見てみたくなり、確かこの辺にあった筈だとスチールキャビネットの中を探り報告書を引っ張り出す。
  報告書の中の積川は、どれも亜也人の隣にぴったりと貼り付き、眼光鋭く周りを睨みつけていた。
  力関係だけで言えば、亜也人が積川に従っていると考えるのが自然だが、報告書の中の写真を見る限り、むしろ積川の方が亜也人を守り従っているように見える。
  もっとも、亜也人に近付く輩を病院送りにしてまで排除してきたくらいだ。積川がどれほど亜也人を心配し、周りに目を光らせ、亜也人を危険から遠ざけてきたかはその常軌を逸した行動からもよく解る。
  それは、積川がいなくなった今も、生徒でごった返す下校風景の中、亜也人の周りだけポッカリと空間が空き、誰も近付かないという特異な現象となって松岡の目の前に現れた。
  
  まるで、亜也人の方が積川を従わせているかのようだ。
  従っているようで実は従わせている。
  もとは積川の方が亜也人を選んで手に入れた筈が、気付けば、亜也人に選ばれ、従わされている。もとは自分のものにしたくて手に入れた筈が、気付けば、自分が亜也人のものになりたがっている。

  俺と同じだ。

  確かな根拠は無かったが、松岡は不思議と確信が持てた。敵対する相手ではあるものの、亜也人に心を寄せる者同士、積川の行動には僅かながらだが理解出来る部分もある。
  詰まる所、動機はどちらも同じなのだ。違うのは、亜也人がそれを望むか否か。

  亜也人は山下がこの世から消える事を望んでいたのだろうか。

  ふと頭に浮かんだことを、松岡は慌てて打ち消した。

  報告書をラックに戻して部屋を出ると、帰り支度をした紀伊田と鉢合わせた。

  「何、勝手に帰ろうとしてるんだ」

  「内藤の動き、気になってるんでしょ?早いとこ調べますんで任せといて下さいよ」

  松岡の考えなどお見通しとばかり、紀伊田は得意げに答えた。

  「それより寺田のとこに行ってやって下さい。きっと凄く動揺してると思うんで…」

    紀伊田に追い立てられるようにリビングに戻され、松岡は、ろくに見送りもしないまま、一番奥の亜也人の部屋の扉を開けた。

  亜也人はベッドの上でシーツを頭まですっぽり被って身体を丸めていた。
  小さく折り畳んだ手脚が緊張の強さを伝える。松岡が近付いてベッドの端に腰を降ろすと、亜也人は、弾かれたようにシーツを捲り上げ、藁をも掴む形相で松岡に抱きついた。

  「どうしよう…。俺なんてこと…」

  松岡の腹部に爪が食い込むほどにしがみ付き、膝の上に身体を乗り上げお腹に顔を埋めながら亜也人は喚き散らした。興奮しているせいか、息が荒く発熱しているかのように身体が熱い。
  華奢とは言え、男に力任せに抱きつかれて苦しくないわけは無かったが、今、亜也人を振りほどいたら亜也人が壊れてしまいそうで松岡は黙って亜也人に身を任せた。

  「俺のせいだ…。俺のせいで山下さんが死んじゃった…」 

  「お前のせいじゃない」

  亜也人は犯人が積川良二であることはもちろん、まるでこうなることを予測していたような、悪い予感が的中したとでもいうような口ぶりで訴えた。

  「俺が山下さんとあんなことしたから…だから良二が山下さんを…」

  それは違う、と言ったところで、長年染み付いた自分を悪者にする癖が都合よく引っ込んでくれるわけではない。何をどう説得しようが、亜也人が聞く耳持たないことは目に見えていた。
  松岡に出来る事は、ただ、亜也人の訴えを受け止め、落ち着くのを待つことだけだった。

  「俺、どうしよう。俺、どうすれば…」

  泣き狼狽える亜也人を、「大丈夫だから」と宥め、ひたすら頭を撫でる。このまま泣き疲れて眠ってくれればいいと思ったが、松岡の意に反し、亜也人はますます声を荒げ、松岡の身体をずり上がってシャツの襟を掴み上げた。

  「もう嫌だ。死にたい。殺してほしい…」

  松岡は一瞬呆気に取られた。

  「お前、いきなり何を…」

  「もう嫌なんだ。胸が苦しい。頭がどうにかなりそうなんだ…」

  亜也人の言葉の意味が解らなかった。松岡はどう反応したら良いのか解らず、目の前で訴える亜也人をおろおろと見た。

  「ねぇ、頼むよ。あんた俺のこと好きなんだろ? なら俺の頼み聞いてよ。こんなのもう嫌なんだ。胸が張り裂けそうでツラい。もう死にたい。もう何も考えたくない!」

  「バカなことを言うな」

  「俺は本気だ!苦しくて苦しくて堪らないんだ!どうして解ってくれないんだよぉ!」

  手荒な真似はしたくなかったが、頭を冷やすのが先決だ。松岡は、引き千切らんばかりにシャツの襟を引っ張る亜也人の拳を上から握って止め、そのまま後ろに押し倒してベッドに仰向けに押さえつけた。
  確か医者にもらった安定剤が残っていた筈だ。亜也人を片手で押さえつけながら、もう片方の手でサイドテーブルの引き出しをまさぐり錠剤をシートをから外して口に放り込む。水分が無いので、仕方なく、自分の口の中で噛み砕き亜也人の顎を掴んで唇を開かせて口移しに中へ押し込んだ。 

  「んんっ…」

  吐き出そうとするのを舌で押し戻し、唾液を垂らして飲み込ませる。十分溶けたのを確認し、大人しくなったところで唇を離した。

 「なんだよ、これ…」

  「いいからちょっと冷静になれ」

  「俺は冷静だよ」

  息が止まりそうなほど張り詰めた顔をして亜也人は松岡を見上げた。

  「殺せないならせめて痛くしてよ。噛んでも殴ってもいいからめちゃめちゃにして。このままじゃツライんだ。胸が張り裂けそうで苦しいよ。お願いだから助けて。俺をめちゃめちゃにして」

  めちゃめちゃにする事が、どうして助ける事になるんだ。松岡は疑問に思ったが、次の瞬間、亜也人が突然松岡の首に両手を巻き付けねだるように唇を合わせ、松岡の疑問を掻き消した。

  「助けて、お願い…」

  湿った吐息とともに、亜也人の濡れた唇が、粘つきながら松岡の唇に重なる。何という熱さだ。触れた途端、身体中の全神経が亜也人の唇が触れた部分に注がれるのを感じる。敏感になった唇を弄ぶように、亜也人が、少し口を開いて重ねた隙間から強引に舌を捻じ込み、噛み付くように乱暴に舐め啜る。
  いつもの受け身な亜也人とはまるで別人だ。
  戸惑いながらも舌を受け止め、自分の舌の上で転がすと、亜也人がふいに唇を離し、怒ったような困ったような、懇願するような視線を向けた。

  「優しくしないで、もっと酷くして…。もっと乱暴に、喰い千切るぐらいにして…」

  乱暴にしろと言いながら、松岡は、亜也人が優しくしてと言っているような気がして、更に優しく口付けた。
  暴れ回る亜也人の舌を絡め取り、宥めるように自分の舌に包み込む。反発して逃げていく舌を追い掛けて包み、ゆっくり丁寧に奥深くまで舌を差し込み舐め溶かした。

  松岡の思いとはうらはらに、亜也人は、まどろっこしい口付けを責めるように松岡の背中を力任せに叩き爪を立てた。

「酷くしろって言ってんだろ!殴れよ!頭が痺れるぐらい痛くしろよ!」

  「そんなことはしない!」

  手当たり次第に拳を振り上げる亜也人の手首を掴んで頭の横で押さえつけ、松岡は、亜也人を威圧するように睨み付けた。亜也人もまた噛み付くような目で松岡を睨んだ。血の涙でも流しそうな壮絶な怒りを感じさせる目だった。

  「なんで助けてくれないんだよ!俺のこと好きなんじゃないのかよ!」

  「酷いことするのがどうして助けることになるんだ!傷付いてる人間をこれ以上傷付けるバカが何処にいる!」

  クソっ、と深く眉間を歪め、しかし次の瞬間、感情のタガが外れたかのように、亜也人はボロボロと涙をこぼし始めた。

  「なんでだよ!なんで解ってくれないんだよ!」

  「亜也人…」

  「あんたなんか嫌いだ。この役立たず…」

  大切な人を傷付けるくらいなら役立たずで構わないと松岡は思った。

  「気を紛らせたいなら優しく抱いてやる。柔らかく溶かしてやるから安心しろ」
  
  頬を伝う涙を口付けで拭い、松岡は、亜也人のトレーナーの裾を捲り上げて、素肌の上に重なった。
  亜也人は最初こそ抵抗していたものの、安定剤が効き始めたのか、やがて大人しく身体を開いた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



  物心ついた時から、亜也人は、この世には二種類の痛みがあると思っていた。

  一つは目に見える痛み。もう一つは目に見えない痛み。

  目に見える痛みは、時にグロテスクな見てくれで、より痛く悲惨に訴えかけるものの、治癒していく過程が見れるぶん、穏やかな気持ちで見守る事ができる。

  出血が止まり、ぱっくりと開いた傷口が乾燥して新しい皮膚が張るのを見ていると、自分は生きているのだと実感する。治そうと頑張っている自分の身体がいじらしくなる。自分の身体が愛おしくて、泣きたくなる。

  一方、見えない痛みは、グロテスクでも悲惨でもない代わりに、見えないという不安が付きまとう。
  見えないから、傷の深さも大きさも解らない。そもそも、痛みの種類すらも解らない。
  切り刻まれる痛みなのか、裂かれる痛みなのか。打たれる痛みなのか、押しつぶされる痛みなのか。鋭い痛みなのか鈍い痛みなのか。どんな痛みなのかも解らないくせに、それでもどこかが確実に痛い。痛くて、苦しくて、息が出来ない。痛みの種類が解らない。どういう痛みか実感できない。痛みの正体が解らない。

  正体不明の痛みと対峙するのは恐ろしさとの戦いだ。
  治癒する過程が見えないから、終わりも見えない。治っているのか悪化しているのかも解らない。
  そして多分、解らないからぶり返す。治ったのが見えないからぶり返す。治ったという実感が無いから、いつまでもいつまでもぶり返す。

  痛みが永遠に続いて終わらない気がする。

  見えないから直せない。消毒液もガーゼも役に立たない。
  直す方法はただ一つ。
  痛み、そのものではなく、痛みを感じる自分自身を取り除くこと。

  死にたい。

  死ね、死ね、と誰かに囁かれているような気がする。

  死ねば痛みも消えて無くなる。

  でもどうやって。

  どうすれば死ねるのか解らない。

  自分で死ぬのは怖い。

  
  だから、見えない痛みを見える痛みに変換する。
  見えない傷を見える傷にして、痛みを感じ、治癒する過程を見届ける。

  方法は良二が教えてくれた。

  もっとも、良二に自覚があったかどうかは定かでは無い。
  偶然と言えば偶然、亜也人が目に見えない痛みを感じて苦しくなった時、たまたま良二が肉体的苦痛を亜也人に与えただけなのかも知れない。
  しかし亜也人は、良二の行為によって見えない痛みを身体の痛みにすり替え、実感出来る痛みに変えることに成功した。
  その痛みは亜也人の身体を傷つけ、痛め付けたが、痛みがおさまっていくのを感じるさまは、傷口が治癒していく過程を見るのと同じように、亜也人を心穏やかにした。

  身体の痛みは怖くない。
  怖いのは見えない痛み。
  痛みの種類も実感も無い、けれども胸が引き裂かれそうになる心の痛み。

  だから亜也人は良二が必要なのだった。 

  良二だけが自分を理解してくれる。
  良二だけが心の痛みを身体の痛みにすり替えてくれる。
  良二だけが、心の痛みを取り除いてくれる。

  しかし、良二は側にいなかった。

  今、亜也人の側にいるのは松岡だ。

  松岡といると、亜也人は自分がどんどん我儘になっていくような気がする。
  松岡のことは好きだ。
  松岡には良二とは違う安心感がある。
  大人は信用出来ないが、松岡のことは信用したいとは思う。

  しかし、松岡は痛みを取り除いてはくれなかった。 
 
  松岡は解ってくれない。

  松岡は優しすぎる。

  その優しさが、亜也人をたまらなく不安にさせる。
  亜也人に取って優しさは違和感だ。

  優しくされると胸がザワザワする。

  気味が悪い。落ち着かない。

  乱暴にされていた方が気が楽だ。
  ぞんざいに扱われていた方が落ち着く。

  その方が慣れているから。


  ほらな、と言われた気がして、亜也人はハッと目を開けた。

  柔らかい寝息がおでこに掛かる。松岡のキリリと結ばれた唇がすぐそこにあった。

  松岡は、信用しても良いと思えた唯一の大人だ。
  松岡となら、ずっとこのまま一緒にいてもいいかも知れないと思った。
  
  しかし、松岡は痛みを取り除いてはくれない。 

  身体が引き裂かれるようなこの痛み。

  ふたたび、正体不明の痛みに襲われ、亜也人は身体を折り曲げた。
  
  これを抱えて生きていくのか。

  冗談じゃない、と亜也人は思った。

  だから良二が必要なのだ。良二だけが方法を知っている。

  でも…。

  今は松岡の温もりが心地良かった。松岡に触れていると心地よくて、痛くて、涙が出る。

  自分の中の何かが、松岡を離したくないと泣いているような気がした。

  痛い、けれども心地よい。

  松岡の温もりを感じながら亜也人は再び目を閉じた。


  

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


  山下國男の事件は、その後、地元の不良グループのメンバーの自殺体と遺書が発見され、怨恨による殺害として被疑者死亡のまま書類送検されて終結した。

「内藤が手を回して死体を用意したんでしょう。内藤の手の者が焼き場の兼松と接触してます。死体もおそらくダミーでしょう。警察から流れてくる身元不明の死体なんてごまんとありますから、年恰好さえ伝えれば本人に似たのを見繕うことは可能です」

  「確かに、兼松なら死体の扱いには慣れてるし、鑑識にも顔が効くからな」

  「ええ。おおかた内藤から涎もんの報酬が出たんでしょう。今回発見された自殺体だって問題なく本人と断定されてますからね。警察官と言えど所詮は人間、ってとこでしょうね」

  早口で話し終えると、紀伊田は、「そんなことより」と、とっておきの情報を仕入れたとばかり得意げに身を乗り出した。

  「まだ公にはなってませんが、実は染谷の秘書が行方不明になってるんです」

  「秘書?」

  「ええ。それも、寺田の件があった直後。それと奇妙なのは、最近になって内藤が自分とこの所属モデルを5人ばかり解雇してます。男ばかり。しかも内3人はフィリピンへ送ってる。変でしょ?」

  「これじゃまるで…」

  「逃した、と考えるのが妥当でしょう。皆、寺田の性接待の現場にいた人間です。その内、山下は刺されて死亡、秘書は行方不明。タチ要員のモデルは揃って解雇。まだ確定した訳じゃありませんが、おそらく…」

  「積川が動いてる…」

  「多分…」

  「だが、積川は今、神戸にいる」

  「今はね。でも、休みが無いわけじゃない」

  「まさか、その時を恐れて今から逃したのか!?」

  「あの内藤がそこまでビビるとは思えませんが、状況だけ見るとその可能性が高いっすね」
  
  松岡は自分の膝が徐々に震え始めるのを感じていた。

  積川良二が怖くて震えているわけではない。怖いのは、積川に亜也人を奪われることだった。

  積川が動いていると知った瞬間、松岡の本能が、亜也人を奪われる、と警鐘を鳴らした。

  状況から考えて、紀伊田の話した内容は積川の復讐と考えるのが妥当だ。積川は、おそらくあの時に居合わせた人間を片っ端から殺すつもりなのだろう。
  それならそれで構わないし、松岡は、自分が積川に殺されるとは思っていなかった。曲がりなりにも〝東の殺し屋〟と呼ばれた身なのだ。喧嘩の戦術には長けているし、力でも負ける気はしない。
  しかし、亜也人を傷付けた者への報復とあらば人殺しすら厭わない情念は恐ろしいと思った。
  その凶器とも言える強い思いを前に自分は太刀打ちできるのか。松岡がいくら離さないと言ったところで、当の亜也人が積川の元へ帰りたいと言ったらどうなるのか。

  松岡は、積川が亜也人に何も告げずに神戸に行った時点で、亜也人を捨てたものだとばかり思っていた。
  自分の読みが外れていたのもショックなら、積川の思いがこれほど強いこともショックだった。 

  気を引き締めなければ寝首を掻かれる。

  膝から始まった震えは、やがて悪寒となって背筋を駆け抜けた。 
  気を取り直して顔を上げると、異変に気付いたのか、紀伊田が神妙な面持ちで松岡を観ていた。

  「松岡さん、まさか、寺田を積川に返したりしませんよね?」

  「まさか…」

  「良かった」

  紀伊田の顔に僅かに安堵が浮かぶ。しかし次の瞬間、松岡のスマホがテーブルの上で激しく振動し、紀伊田の表情が再び強張った。

  「内藤から!?」

  松岡は、冷静さを装い応答ボタンを押した。

  呼吸を整え、耳に押し当てる。ほどなくして、内藤の、抑揚のない冷たい声が響いた。

  「寺田亜也人に合わせて下さい。これからすぐに」

  松岡の背筋を再び悪寒が走り抜けた。
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