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第13章 雨のお山
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◆23
夕方から雨が降り出した。
夜が更けるほどに雨脚は激しくなった。
ヘッドライトにピアノ線のように雨はきらめいた。
車のなかに幾松はひとりだった。
甚六を探そうともしなかった。
たとえ「講中」の命を助けるためでも「友だち」を売る気にはなれなかった。
ただ、亀吉との間にケリをつけたら、それから甚六に会うつもりではいた。
「友だち」にひとつ訊きたいことがある。
亀吉が欲しいのは丙戌の帳元株の譲渡を記した証文のはずで、上総屋に渡した前金三千万円は証文が手に入るのなら、取り返さなくても残金を出さなくてすむ分だけ得になる話だ。
その亀吉が甚六を連れてこいと言っているのだから、証文を持っているのは甚六だと推測できた。
三千万も甚六が持っているのかもしれない。
だが、そうだとすれば、甚六が上総屋のマンションでボストンバッグから証文と札束を持ち出したのだ。
それはたぶんまちがいない――と幾松は夜のどしゃ降りを睨んだ。
しかし、それは上総屋を殺した人間と甚六をイコールで結ぶということでもあった。
信じたくはないが、信じたくない仮説を補強することばかり考えつく。
甚六が上総屋の死体を「帝国鋲螺商会」のバックヤードに運んだのもたしかだろう。
〈ヴァイオレット〉に見せられた死体写真――そこに写っている上総屋は腕時計をしていた。
幾松が死体を見つけたときには時計はなくなっていた。
金色に輝くロレックス――甚六の手首にはまっていたのと同じ物だ。
彼女は「ミッドナイト・サーカス」でそのことに気づいたのだ。
そして――口紅のついた吸殻――甚六を強請るためにあの店をもう一度訪ねて行った。
あの甚六が〈ヴァイオレット〉にシラを切れたとは到底思えない。
しかも、甚六は〈ヴァイオレット〉にカネを払っただけではない。
彼の口から亀吉の名前も出たはずだ。
そうでなければ彼女が亀吉を訪ねることも、殺されることもなかっただろう。
紫色の女が亀吉のところへ行った理由はわからないままだが、しかし、幾松が知りたいのはただひとつ、本当に「友だち」が人を殺したりしたのかということだけだった。
いつもなら車を用意するのは丁子屋の役目だが、今夜は幾松自身で調達した。
ごく普通のサラリーマンをしている講中から、ごく普通の国産車を借りたのだった。
小学生の娘のためにプリンを買ってきてくれというのが貸与条件だった。
すでに後部座席に瓶入りプリンの入った紙箱が置いてあった。
丁子屋が一緒なら、何の歓びも感じられないドライビングだ、と難をつけるだろう。
とはいえ、幾松は車なんて動けばいいと思っているし、運転だって事故を起こさないのがいちばんだと信じていた。
お山が近くなり、舗装してある道路からはずれた。
街灯もない砂利道だった。
あまりに揺れるので幾松は後ろのプリンが心配になったぐらいだった。
暗闇のなか、ヘッドライトの光だけが頼りだった。
山側ならいいが反対側だと田んぼに滑り落ちることになる。
そんなことになったら、車の持ち主はプリンをいくら積んでも許してはくれないだろう。
目的の場所に来ると幾松は車を停めた。
車内灯をつけて、ヘッドライトを消した。
服を黒いタクティカルウェアに着替えた。
パンツは黒いのをはいてきていた。
靴もスニーカーからコンバットブーツに替えた。
ブーツのなかが冷たい。
これを履くのは久しぶりだった。
幾松は黒い5・11のショルダーバッグを肩にかけて、大きくひとつ息を吐くと車内灯を消した。
意を決して車を降りた。
雨が肩を強く叩く。
首筋に冷たい雨が流れ込む。
鼻をつままれてもわからないような闇。
バッグのポケットから暗視スコープを出してスイッチを入れた。
覗き込むと解像度の低いモノトーンの景色。
彼の前には白っぽい道が右へカーブしながら延びている。
この道を行けば、亀吉が待っているだろう。
幾松は低予算のホラー映画を観るような世界を歩き出した。
車のことなら心配はいらない。
こんな人けのないところには自動車泥棒もいないし、駐禁の切符を切りに来るオマワリもいない。
それにそんなに長い時間離れているつもりもなかった。
雨は銀糸のように視界を覆っていた。
雨音のほかには自分の呼吸しか聞こえなかった。
波のような息の音を聞いていると、どこへ向かって歩いているのかわからなくなる。
自分の外と内がたしかな境界線を失って、歩いていく先にあるのはすでに一度は過ぎてしまったはずの時間のように思えてくる。
薄暗い暗視スコープの視界に、記憶が重ね合わされ、ほの白くぬかるんだ道の上へ陰惨な女の死体の映像が浮かんだ。
電話のあと、亀吉からは〈ヴァイオレット〉の死体写真が「帝国鋲螺商会」のサイト宛てにメールで送られてきた。
幾松は保存せずに削除したが、その映像はじかに見る死体よりも記憶に焼きついていた。
一生忘れないかもしれなかった。
明るい白点がふたつ視界の隅に現れた。
その光点は亀吉とその連れが吸う煙草だった。
亀吉が煙草を吸い込むたびに先端が白く輝き、彼らの乗っているレンジローバーのなかが明るく照らし出された。
幾松はスコープの倍率を上げた。
車内には五人。
煙草を吸っているのは亀吉ともうひとりで、それ以外に仲間がひとり。
それからぐったりしている萬蔵と、まっすぐ前を向いている粂太郎がいた。
幾松は立ち止まり、落ち着いてレンジローバーの周りを確認した。
車の外には亀吉の仲間はいなかった。
一瞬反対側の林のなかに光が見えたが、どうやら緊張が見せた錯覚だったようだ。
車までの距離はおよそ一〇〇メートル。
幾松は歩いて山のなかへ入っていった。
斜面は足が滑ったが、生えている樹木に手をかけて登った。
そのまま斜面の半ばを進んでレンジローバーの背後に回った。
幾松のスマートフォンが左胸のポケットのなかで振動した。
シートのヘッドレストのせいで見にくいが亀吉がかけているようだった。
暗視スコープをショルダーバッグに入れ、スマートフォンを出した。
モニターに表示されているのは登録されていない番号だった。
幾松は通話を拒否してスマートフォンを胸ポケットに戻した。
またすぐに震えだしたが放っておいた。
亀吉はだいぶ焦れているようだった。
もう約束の午前二時を五分ばかり過ぎていた。
亀吉はいま、さんざん迷っている最中にちがいない。
幾松が彼の申し出を無視してここにはやって来ないつもりなのか。
それとも、すでに到着していて暗闇からじっと自分を監視しているのか――。
車のドアが開いた。
ふたり降りてくる。
焦れた亀吉が見回りを命じたらしい。
幾松が期待していた展開に進んでいた。
ふたりは別れてレンジローバーから左右に離れて行った。
手にしているマグライトから伸びた白い光線が斜面の樹々を刺していく。
あのふたりはピックアップに乗っていたゾンビなのだろうか。
そうだとしたら銃を持っている可能性がある。
マグライトの光が近づいてきて、幾松は太い木の根元に身を伏せた。
光線は頭上を薙いでいった。
光が向きを変えた瞬間に幾松は身体を起こし、斜面を降りた。
多少の音は強い雨が消してくれた。
闇のなかを死角から元ゾンビに近づいていった。
シルエットではやはり右手には銃を持っているように見えた。
胃が絞られるような緊張。
しかし、ためらうことなく間を詰めていった。
〈怖がるな、前へ出ろ〉――幼いころ、先代から稽古でさんざん言われたことだ。
幾松は左後方から接近してサカナデをかけた。
意識を失った相手から素早く銃とマグライトを奪った。
灯りを消して、走りながら銃をたしかめた。
グロック36。
ゾンビが持っていた銃だ。
安全装置ははずれていた。
灯りがひとつ消えたことに亀吉はすぐに気づいた。
助手席側のドアを開けて半身を出し、「どうした?」と大声を出した。
幾松は大きく迂回して、亀吉からは車のドアで死角になる側から近づいて行った。
助走をつけてドアに体当たりする。
亀吉の身体がドアのあいだに挟まれる。
亀吉はカエルが踏み潰されたような声を出した。
すかさず幾松はドアを思い切り引っ張った。
左手をドアにかけていた亀吉はそのままぬかるみへ落下した。
ひざで相手の背中を押さえ、首筋に銃を突きつける。
突然、光に照らされた。
異変に気づいたもうひとりの元ゾンビが車の反対側から回り込んできていた。
ありがたいことに幾松の背後ではなく正面のほうへ現れた。
「銃を捨てろ。亀吉を撃つぞ」
幾松は怒鳴った。
雨音に邪魔されているとはいえ、元ゾンビに聞こえないはずがなかった。
しかし、元ゾンビは銃を撃った。
弾丸は幾松の耳をかすめ、開いている車のドアに当たった。
どうやら元ゾンビは亀吉のことなどどうでもいいらしい。
亀吉の部下ではなかったということだ。
二発目が来る前に幾松も撃ち返した。
弾はどこへ飛んでいったかわからなかった。
相手の二発目は泥の地面で跳ねて亀吉のどこかをかすめたらしい。
亀吉が情けない声を出した。
幾松はもう一度引き金を引こうとして手のなかのグロックがおかしくなっていることに気づいた。
スライドが後退したままだった。
薬莢が詰まっている。
幾松は銃を相手に投げつけてそのまま前へ跳び出した。亀吉より目の前の銃を持った人間のほうが優先問題だった。三発目がタクティカルウェアの二の腕をかすめたと同時に、幾松は元ゾンビの腰へタックルした。
仰向けに相手を倒し馬乗りになり、目を狙って拳を振り下ろした。そこに生じた敵の一瞬の怯みをついて、銃を握っている手首を両手でつかみ内側へ捩じった。グロックをもぎ取ると遠くへ放り投げた。そして、体勢を入れ替えようと半身を起こした相手の背後に回ってサカナデをかけた。
元ゾンビを無力化させるまで数秒とかかっていないはずなのに、何十分も取っ組み合っていたかのように疲れた。
ふだんの稽古不足のせいかもしれないが、一生に何度もないこんなことのために毎日稽古してどうするというのだ。
幾松は息を切らしながら立ち上がり、振り返った。
「大丈夫ですか」
車と幾松のちょうど真ん中あたりに粂太郎がいた。
彼女がどうしてそんなところに出てきているのか、幾松には理解できなかった。
「何で出てくるんだ?」
「だって、助けようと思って――」
「はあ?」
「はあ、じゃないですよ。いま、幾松さん、危なかったじゃないですか。だから、助けようと思ったんですよ」
幾松はもう粂太郎の考えをわかろうとする努力を放棄した。
こっちへ来い、と腕を上げたときだった。
ドアの開いているレンジローバーから漏れだした淡い光のなか、粂太郎の小さな影の上にもうひと回り大きな影が覆い被さった。
気の緩みだった。
幾松は一歩も動けなかった。
できたのはウェアのポケットに手を突っ込んで、そこに入れていた六角ナット――1種鋼鉄製M30――をつかみ出すことだけだった。
凶暴な二二〇グラム。
「形勢逆転だな、幾松」
粂太郎の首に腕を回した亀吉が言った。
彼の手にはナイフがあった。
「おまえは詰めが甘いんだよ。お友だちをそんなに守りたかったか。可哀想に、この娘と萬蔵の祖父さんは見殺しだな」
「大丈夫だ、クメ」
幾松は雨にかき消されないように怒鳴った。
「おまえは人質だ。その男は人質に手を出したら終わりだってわかっている。だから、おとなしくしていな」
粂太郎は亀吉につかまれたまま小さくうなずいたようだった。
表情は見えなかったが、あの、他人に文句を言い出すときのへの字口をしているような気がした。
「あの女のロクジも店に置いてきたのか。雨ざらしにしておくとカラスにつつかれるぜ」
「いや、ロクジはもうない」
「運河に放り込んだのか」
「そんなことするかよ。サツマが運んで行った」
「いま何て言った? おれの聞きまちがいじゃないだろうな」
「いや、あんたが聞いたとおりだよ。ロクジはサツマに持って行ってもらった――」
◆24
ふたり組の刑事の名刺は、「帝国鋲螺商会」の机の引き出しにゼムクリップで二枚重ねて放り込んであった。
どちらもゴリラに似ていたのは覚えていたが、どっちが右でどっちが左かわからなくなっていた。
幾松は上になっていたほうの名刺を見て、S**署に電話をかけ、そこにあった名前を告げた。
すぐに右だか左だかわからないゴリラにつながった。
「帝国鋲螺商会」の大野だと名乗ると、相手は短く「ほう」と言った。
バックヤードに死体があると言うと、疑っているかのように「本当ですか」と訊いてきた。
本当だと答えると、ゴリラは「すぐに伺います」と電話を切った。
そして、言葉どおりすぐに左右のゴリラいっしょに店へ現れた。
今回はふたりだけでなく、鑑識職員など大人数を引き連れていた。
「ふたり目ですね」
右ゴリラは死体を見るなりそう言った。
幾松はやんわり「初めてですよ」と訂正した。
「被害者をご存知ですか」
幾松はうなずいた。
否定しても意味がない。
いずれ〈ヴァイオレット〉の身元は判明するだろう。
そのときには雑居ビルの屋上のペントハウスも捜索される。
あそこには幾松の指紋がいくつも残っていた。
それから認めたのでは自分から犯人にしてくれと言うようなものだ。
「どんな関係ですか」
と言いながら、右ゴリラの顔には聞くまでもないという表情が浮かんでいた。
「よくわかりません。知り合ったばかりで。その人のほうから近づいてきたんです。直接ウチの店に来たんです。ええ、この前刑事さんたちが来たあとですよ。それから二回ぐらい会ったかな。一度彼女の家にも誘われて行きました」
「ほう。被害者の自宅にですか。ちなみにどこですか」
幾松は腕を上げて対岸の雑居ビルの屋上を指差した。
ゴリラたちは身体を反転させて、幾松の人差し指の先を見た。
「あそこ?」
「屋上にペントハウスがあるんです。子どものころから、そこでお祖父さんと暮らしていたそうです。あそこからずっとぼくを見ていたと言っていました。ぼくも子どものころからここにいましたが、見られていたなんて全然知りませんでした」
「なるほど。幼いころからあなたを見て憧れていた――と」
「そうは言っていませんでしたけどね」
幾松は苦笑した。
「でも、そうだったのかもしれません」
右ゴリラは一瞬の躊躇のあと、わざとらしいさりげなさで「で、実際のところ、深い関係はありましたか」と訊いてきた。
「ええ、酔った勢いで、そのペントハウスに行ったときに一度だけ。それきり会っていませんでした」
本当は電気ショックを食らった挙句に無理矢理何度もです、とは言えなかった。
言ったところで、そういうプレイだと思われるのがオチだ。
刑事たちの馬鹿話のタネぐらいにしかならないだろう。
死者と幾松自身双方の名誉のため、彼は嘘をついた。
「ここに死体があるということは、あなたにも関係があると考えざるをえません。あなたと被害者が関係を持ったことで腹を立てる人がいたんじゃありませんか」
幾松は首を振った。
「わかりません。いたかもしれませんが、そんな人の話は彼女から聞かなかった。ほかの男の話なんて出ませんでしたから」
「じゃあ、心当たりはまるでないと?」
「ええ、全然ありません」
「そうですか。では、質問が前後しますが、改めて基本的なことからお聞きしたいと思います。まず、被害者のお名前は何というんでしょう?」
「知りません」
「知らない?」
右ゴリラと左ゴリラが同時に幾松の顔を見た。
そんなことはありえない、という顔だった。
「彼女はヴァイオレットと呼んでくれと言っていました」
刑事たちは死体を振り返った。
全身紫色の死体に見入った。
左ゴリラが小さな声で「ヴァイオレット」と反唱した。
それから半日、幾松は刑事たちに拘束された。
聴取が終わっても現場の処理が終わるまでは、「帝国鋲螺商会」を離れることは許されなかった。
刑事たちは幾松をどう扱っていいか戸惑っているようだった。
いまのところは最重要参考人という位置づけらしかった。
「被害者は殺されてからここに運ばれてきたようです。ここが殺害現場ではありませんね」
右ゴリラが教えてくれた。
それからこうもつけ足した。
「死体には殺害前に乱暴された形跡があります。監察医の話では体液が残っているそうです。DNA鑑定をすれば決定的な証拠になりますね」
そう言えば幾松が観念して、わたしがやりました、と自白すると思ったのかもしれない。
幾松は思わず亀吉の名前を上げそうになった。
しかし、そうあわてる必要はない。
警察へ電話をする前に〈ヴァイオレット〉のペントハウスへ行って化粧台の上に亀吉の本業の名刺を置いてきていた。
いずれ「彼女が最後に会ったのは亀吉だ」という匿名の密告電話も入るだろう。
そして、遅かれ早かれ刑事が訪ねていくことになる。
「じゃあ、ぼくが犯人じゃないという証拠にもなりますよね?」
右ゴリラの目に残念そうな色が一瞬浮かんだのを、幾松は見逃さなかった。
「アリバイもありますよ」
「ほう? アリバイですか」
右ゴリラの目がまた輝いた。
アリバイとは破るものと信じ込んでいるらしい。
「そいつをひとつ、うかがわせていただきましょうかね――」
幾松はある老夫婦の名前と電話番号を伝えた。
ろくでなしの息子の身を案じながら、ひっそりと暮らしている元乾物屋の夫婦だった。
幾松はときどき馬鹿息子の代わりに彼らを訪ねて話し相手になっていた。
実際、きのうもどこかに身を隠している甚六の代わりにその両親を訪ねて夕飯をごちそうになり、ひと晩泊まってきたのだった。
〈ヴァイオレット〉の死体は警察によって運び去られた。
許可が下りるまではバックヤードに入ってはいけない、と言われた。
しかし、警察がひとり残らず帰ってしまうとすぐに、幾松はそこへ行って煙草を吸った。
◆25
亀吉は粂太郎の首を左腕で抱え込み、右手のナイフの刃先を彼女の目の下に向けていた。
勢いをさらに強めた雨が、粂太郎の頬に海藻のように髪を貼りつかせていた。
――まったく!
幾松は舌打ちした。
目の前で展開されているのは、テレビや映画で見慣れた陳腐なシーンだった。
そして、聞かされるセリフまで手垢でピカピカになった代物だった。
「動くな! 動いたらこの女を殺すぞ」
捕まっているのがあの若い講中でなかったら、背中を向けてこの場から立ち去ってしまいたい。
幾松は掌のなかのナットを握り直した。
濡れているのは雨のせいか汗のせいかわからなくなっていた。
「逃げ切れるもんじゃない。そんなことあんたなら承知しているはずだがな」
「うるさい! おまえは何にもわかっちゃいないんだ」
亀吉は粂太郎を抱えたまま後退し始めた。
粂太郎が抗うのでナイフが何度か肌を傷つけそうになった。
「逆らうな、クメ!」
幾松が叫んだ。
その声で粂太郎は従順になって、亀吉に合わせて退がり始めた。
ふたりの進行方向にはレンジローバーがあった。
車に乗られてしまったら終わりだ。
自分が乗ってきた車に戻る前に亀吉は逃げ去ってしまうだろう。
バックヤードに転がされていた無惨な〈ヴァイオレット〉が目に浮かんだ。
粂太郎が生きて解放されるとは思えなかった。
「おれがわかっていないってどういうことだ?」
いまはとにかく亀吉に話を続けさせてなんとか隙を作らせることだった。
「おれの親父が誰かわかっているのか、庄之助だぞ。あんたがあの男以上にわかっているなんて信じられないな。そりゃあれの知らないこともあるだろうが、庄之助にとっての講は、蜘蛛にとっての蜘蛛の巣みたいなもんだよ」
「いや、おまえは何にもわかっちゃいない。自分が踊らされているってことがわからないんだ」
隙はなかった。
亀吉はさらに後退した。
車までもうあと数メートルだった。
「おれが踊らされてるって? どういうことだよ?」
亀吉は答えなかった。
ぐいぐいと粂太郎を引きずって退がっていく。
ただ、幾松に注意を向けすぎていた。
足もとにレンジローバーの後部座席から転がり降りた萬蔵がいることに気づいていなかった。
萬蔵は亀吉の脚にしがみついた。
バランスこそ崩さなかったが、亀吉の視線が足もとへ落ちた。
幾松はその隙を逃さなかった。
六角ナットを握った手を振った。
幾松の指先を離れた二二〇グラムの鉄の塊が、亀吉のこめかみを打った。
亀吉はのけぞって転倒し、粂太郎はその腕から逃れ出た。
「クメ!」
声に弾かれるように粂太郎は走り出し、幾松の腕のなかに飛び込んだ。
ナットの当たりどころが甘かったのか、亀吉を転倒させはしたものの、昏倒させることはできなかった。
彼は泥に両手をついて起き上がった。
立ち上がり、ふらふら身体を揺らしている。
幾松は粂太郎の身体を背後に押しやって「走れ」と言った。
亀吉は幾松のほうへ歩き出そうとして、まだ脚をつかんでいる老人に気づいた。
振り上げたナイフが淡い光を反射して鈍く輝いた。
幾松の身体は動き出していたが、頭は間に合わないとあきらめていた。
胸に渋い絶望が広がっていった。
そして、ナイフが振り下ろされる瞬間へ、時間も空間も収束していった。
肉が破裂する独特の音がして、それに重ねて三度銃声が響いた。
亀吉の胸が血を噴いていた。
右腕を上げたまま亀吉の身体はぬかるみへ倒れた。
幾松は自分の目が信じられなかった。
長々と延びた身体へ、幾松は引き寄せられるように近づいていった。
亀吉は目を開けて息絶えていた。
その傍らで萬蔵が胎児のように身体を丸めていた。
「大丈夫ですか」
幾松はひざまずき声をかけた。
「ああ……」
萬蔵はそれだけ言った。
少しも大丈夫そうには見えなかった。
夕方から雨が降り出した。
夜が更けるほどに雨脚は激しくなった。
ヘッドライトにピアノ線のように雨はきらめいた。
車のなかに幾松はひとりだった。
甚六を探そうともしなかった。
たとえ「講中」の命を助けるためでも「友だち」を売る気にはなれなかった。
ただ、亀吉との間にケリをつけたら、それから甚六に会うつもりではいた。
「友だち」にひとつ訊きたいことがある。
亀吉が欲しいのは丙戌の帳元株の譲渡を記した証文のはずで、上総屋に渡した前金三千万円は証文が手に入るのなら、取り返さなくても残金を出さなくてすむ分だけ得になる話だ。
その亀吉が甚六を連れてこいと言っているのだから、証文を持っているのは甚六だと推測できた。
三千万も甚六が持っているのかもしれない。
だが、そうだとすれば、甚六が上総屋のマンションでボストンバッグから証文と札束を持ち出したのだ。
それはたぶんまちがいない――と幾松は夜のどしゃ降りを睨んだ。
しかし、それは上総屋を殺した人間と甚六をイコールで結ぶということでもあった。
信じたくはないが、信じたくない仮説を補強することばかり考えつく。
甚六が上総屋の死体を「帝国鋲螺商会」のバックヤードに運んだのもたしかだろう。
〈ヴァイオレット〉に見せられた死体写真――そこに写っている上総屋は腕時計をしていた。
幾松が死体を見つけたときには時計はなくなっていた。
金色に輝くロレックス――甚六の手首にはまっていたのと同じ物だ。
彼女は「ミッドナイト・サーカス」でそのことに気づいたのだ。
そして――口紅のついた吸殻――甚六を強請るためにあの店をもう一度訪ねて行った。
あの甚六が〈ヴァイオレット〉にシラを切れたとは到底思えない。
しかも、甚六は〈ヴァイオレット〉にカネを払っただけではない。
彼の口から亀吉の名前も出たはずだ。
そうでなければ彼女が亀吉を訪ねることも、殺されることもなかっただろう。
紫色の女が亀吉のところへ行った理由はわからないままだが、しかし、幾松が知りたいのはただひとつ、本当に「友だち」が人を殺したりしたのかということだけだった。
いつもなら車を用意するのは丁子屋の役目だが、今夜は幾松自身で調達した。
ごく普通のサラリーマンをしている講中から、ごく普通の国産車を借りたのだった。
小学生の娘のためにプリンを買ってきてくれというのが貸与条件だった。
すでに後部座席に瓶入りプリンの入った紙箱が置いてあった。
丁子屋が一緒なら、何の歓びも感じられないドライビングだ、と難をつけるだろう。
とはいえ、幾松は車なんて動けばいいと思っているし、運転だって事故を起こさないのがいちばんだと信じていた。
お山が近くなり、舗装してある道路からはずれた。
街灯もない砂利道だった。
あまりに揺れるので幾松は後ろのプリンが心配になったぐらいだった。
暗闇のなか、ヘッドライトの光だけが頼りだった。
山側ならいいが反対側だと田んぼに滑り落ちることになる。
そんなことになったら、車の持ち主はプリンをいくら積んでも許してはくれないだろう。
目的の場所に来ると幾松は車を停めた。
車内灯をつけて、ヘッドライトを消した。
服を黒いタクティカルウェアに着替えた。
パンツは黒いのをはいてきていた。
靴もスニーカーからコンバットブーツに替えた。
ブーツのなかが冷たい。
これを履くのは久しぶりだった。
幾松は黒い5・11のショルダーバッグを肩にかけて、大きくひとつ息を吐くと車内灯を消した。
意を決して車を降りた。
雨が肩を強く叩く。
首筋に冷たい雨が流れ込む。
鼻をつままれてもわからないような闇。
バッグのポケットから暗視スコープを出してスイッチを入れた。
覗き込むと解像度の低いモノトーンの景色。
彼の前には白っぽい道が右へカーブしながら延びている。
この道を行けば、亀吉が待っているだろう。
幾松は低予算のホラー映画を観るような世界を歩き出した。
車のことなら心配はいらない。
こんな人けのないところには自動車泥棒もいないし、駐禁の切符を切りに来るオマワリもいない。
それにそんなに長い時間離れているつもりもなかった。
雨は銀糸のように視界を覆っていた。
雨音のほかには自分の呼吸しか聞こえなかった。
波のような息の音を聞いていると、どこへ向かって歩いているのかわからなくなる。
自分の外と内がたしかな境界線を失って、歩いていく先にあるのはすでに一度は過ぎてしまったはずの時間のように思えてくる。
薄暗い暗視スコープの視界に、記憶が重ね合わされ、ほの白くぬかるんだ道の上へ陰惨な女の死体の映像が浮かんだ。
電話のあと、亀吉からは〈ヴァイオレット〉の死体写真が「帝国鋲螺商会」のサイト宛てにメールで送られてきた。
幾松は保存せずに削除したが、その映像はじかに見る死体よりも記憶に焼きついていた。
一生忘れないかもしれなかった。
明るい白点がふたつ視界の隅に現れた。
その光点は亀吉とその連れが吸う煙草だった。
亀吉が煙草を吸い込むたびに先端が白く輝き、彼らの乗っているレンジローバーのなかが明るく照らし出された。
幾松はスコープの倍率を上げた。
車内には五人。
煙草を吸っているのは亀吉ともうひとりで、それ以外に仲間がひとり。
それからぐったりしている萬蔵と、まっすぐ前を向いている粂太郎がいた。
幾松は立ち止まり、落ち着いてレンジローバーの周りを確認した。
車の外には亀吉の仲間はいなかった。
一瞬反対側の林のなかに光が見えたが、どうやら緊張が見せた錯覚だったようだ。
車までの距離はおよそ一〇〇メートル。
幾松は歩いて山のなかへ入っていった。
斜面は足が滑ったが、生えている樹木に手をかけて登った。
そのまま斜面の半ばを進んでレンジローバーの背後に回った。
幾松のスマートフォンが左胸のポケットのなかで振動した。
シートのヘッドレストのせいで見にくいが亀吉がかけているようだった。
暗視スコープをショルダーバッグに入れ、スマートフォンを出した。
モニターに表示されているのは登録されていない番号だった。
幾松は通話を拒否してスマートフォンを胸ポケットに戻した。
またすぐに震えだしたが放っておいた。
亀吉はだいぶ焦れているようだった。
もう約束の午前二時を五分ばかり過ぎていた。
亀吉はいま、さんざん迷っている最中にちがいない。
幾松が彼の申し出を無視してここにはやって来ないつもりなのか。
それとも、すでに到着していて暗闇からじっと自分を監視しているのか――。
車のドアが開いた。
ふたり降りてくる。
焦れた亀吉が見回りを命じたらしい。
幾松が期待していた展開に進んでいた。
ふたりは別れてレンジローバーから左右に離れて行った。
手にしているマグライトから伸びた白い光線が斜面の樹々を刺していく。
あのふたりはピックアップに乗っていたゾンビなのだろうか。
そうだとしたら銃を持っている可能性がある。
マグライトの光が近づいてきて、幾松は太い木の根元に身を伏せた。
光線は頭上を薙いでいった。
光が向きを変えた瞬間に幾松は身体を起こし、斜面を降りた。
多少の音は強い雨が消してくれた。
闇のなかを死角から元ゾンビに近づいていった。
シルエットではやはり右手には銃を持っているように見えた。
胃が絞られるような緊張。
しかし、ためらうことなく間を詰めていった。
〈怖がるな、前へ出ろ〉――幼いころ、先代から稽古でさんざん言われたことだ。
幾松は左後方から接近してサカナデをかけた。
意識を失った相手から素早く銃とマグライトを奪った。
灯りを消して、走りながら銃をたしかめた。
グロック36。
ゾンビが持っていた銃だ。
安全装置ははずれていた。
灯りがひとつ消えたことに亀吉はすぐに気づいた。
助手席側のドアを開けて半身を出し、「どうした?」と大声を出した。
幾松は大きく迂回して、亀吉からは車のドアで死角になる側から近づいて行った。
助走をつけてドアに体当たりする。
亀吉の身体がドアのあいだに挟まれる。
亀吉はカエルが踏み潰されたような声を出した。
すかさず幾松はドアを思い切り引っ張った。
左手をドアにかけていた亀吉はそのままぬかるみへ落下した。
ひざで相手の背中を押さえ、首筋に銃を突きつける。
突然、光に照らされた。
異変に気づいたもうひとりの元ゾンビが車の反対側から回り込んできていた。
ありがたいことに幾松の背後ではなく正面のほうへ現れた。
「銃を捨てろ。亀吉を撃つぞ」
幾松は怒鳴った。
雨音に邪魔されているとはいえ、元ゾンビに聞こえないはずがなかった。
しかし、元ゾンビは銃を撃った。
弾丸は幾松の耳をかすめ、開いている車のドアに当たった。
どうやら元ゾンビは亀吉のことなどどうでもいいらしい。
亀吉の部下ではなかったということだ。
二発目が来る前に幾松も撃ち返した。
弾はどこへ飛んでいったかわからなかった。
相手の二発目は泥の地面で跳ねて亀吉のどこかをかすめたらしい。
亀吉が情けない声を出した。
幾松はもう一度引き金を引こうとして手のなかのグロックがおかしくなっていることに気づいた。
スライドが後退したままだった。
薬莢が詰まっている。
幾松は銃を相手に投げつけてそのまま前へ跳び出した。亀吉より目の前の銃を持った人間のほうが優先問題だった。三発目がタクティカルウェアの二の腕をかすめたと同時に、幾松は元ゾンビの腰へタックルした。
仰向けに相手を倒し馬乗りになり、目を狙って拳を振り下ろした。そこに生じた敵の一瞬の怯みをついて、銃を握っている手首を両手でつかみ内側へ捩じった。グロックをもぎ取ると遠くへ放り投げた。そして、体勢を入れ替えようと半身を起こした相手の背後に回ってサカナデをかけた。
元ゾンビを無力化させるまで数秒とかかっていないはずなのに、何十分も取っ組み合っていたかのように疲れた。
ふだんの稽古不足のせいかもしれないが、一生に何度もないこんなことのために毎日稽古してどうするというのだ。
幾松は息を切らしながら立ち上がり、振り返った。
「大丈夫ですか」
車と幾松のちょうど真ん中あたりに粂太郎がいた。
彼女がどうしてそんなところに出てきているのか、幾松には理解できなかった。
「何で出てくるんだ?」
「だって、助けようと思って――」
「はあ?」
「はあ、じゃないですよ。いま、幾松さん、危なかったじゃないですか。だから、助けようと思ったんですよ」
幾松はもう粂太郎の考えをわかろうとする努力を放棄した。
こっちへ来い、と腕を上げたときだった。
ドアの開いているレンジローバーから漏れだした淡い光のなか、粂太郎の小さな影の上にもうひと回り大きな影が覆い被さった。
気の緩みだった。
幾松は一歩も動けなかった。
できたのはウェアのポケットに手を突っ込んで、そこに入れていた六角ナット――1種鋼鉄製M30――をつかみ出すことだけだった。
凶暴な二二〇グラム。
「形勢逆転だな、幾松」
粂太郎の首に腕を回した亀吉が言った。
彼の手にはナイフがあった。
「おまえは詰めが甘いんだよ。お友だちをそんなに守りたかったか。可哀想に、この娘と萬蔵の祖父さんは見殺しだな」
「大丈夫だ、クメ」
幾松は雨にかき消されないように怒鳴った。
「おまえは人質だ。その男は人質に手を出したら終わりだってわかっている。だから、おとなしくしていな」
粂太郎は亀吉につかまれたまま小さくうなずいたようだった。
表情は見えなかったが、あの、他人に文句を言い出すときのへの字口をしているような気がした。
「あの女のロクジも店に置いてきたのか。雨ざらしにしておくとカラスにつつかれるぜ」
「いや、ロクジはもうない」
「運河に放り込んだのか」
「そんなことするかよ。サツマが運んで行った」
「いま何て言った? おれの聞きまちがいじゃないだろうな」
「いや、あんたが聞いたとおりだよ。ロクジはサツマに持って行ってもらった――」
◆24
ふたり組の刑事の名刺は、「帝国鋲螺商会」の机の引き出しにゼムクリップで二枚重ねて放り込んであった。
どちらもゴリラに似ていたのは覚えていたが、どっちが右でどっちが左かわからなくなっていた。
幾松は上になっていたほうの名刺を見て、S**署に電話をかけ、そこにあった名前を告げた。
すぐに右だか左だかわからないゴリラにつながった。
「帝国鋲螺商会」の大野だと名乗ると、相手は短く「ほう」と言った。
バックヤードに死体があると言うと、疑っているかのように「本当ですか」と訊いてきた。
本当だと答えると、ゴリラは「すぐに伺います」と電話を切った。
そして、言葉どおりすぐに左右のゴリラいっしょに店へ現れた。
今回はふたりだけでなく、鑑識職員など大人数を引き連れていた。
「ふたり目ですね」
右ゴリラは死体を見るなりそう言った。
幾松はやんわり「初めてですよ」と訂正した。
「被害者をご存知ですか」
幾松はうなずいた。
否定しても意味がない。
いずれ〈ヴァイオレット〉の身元は判明するだろう。
そのときには雑居ビルの屋上のペントハウスも捜索される。
あそこには幾松の指紋がいくつも残っていた。
それから認めたのでは自分から犯人にしてくれと言うようなものだ。
「どんな関係ですか」
と言いながら、右ゴリラの顔には聞くまでもないという表情が浮かんでいた。
「よくわかりません。知り合ったばかりで。その人のほうから近づいてきたんです。直接ウチの店に来たんです。ええ、この前刑事さんたちが来たあとですよ。それから二回ぐらい会ったかな。一度彼女の家にも誘われて行きました」
「ほう。被害者の自宅にですか。ちなみにどこですか」
幾松は腕を上げて対岸の雑居ビルの屋上を指差した。
ゴリラたちは身体を反転させて、幾松の人差し指の先を見た。
「あそこ?」
「屋上にペントハウスがあるんです。子どものころから、そこでお祖父さんと暮らしていたそうです。あそこからずっとぼくを見ていたと言っていました。ぼくも子どものころからここにいましたが、見られていたなんて全然知りませんでした」
「なるほど。幼いころからあなたを見て憧れていた――と」
「そうは言っていませんでしたけどね」
幾松は苦笑した。
「でも、そうだったのかもしれません」
右ゴリラは一瞬の躊躇のあと、わざとらしいさりげなさで「で、実際のところ、深い関係はありましたか」と訊いてきた。
「ええ、酔った勢いで、そのペントハウスに行ったときに一度だけ。それきり会っていませんでした」
本当は電気ショックを食らった挙句に無理矢理何度もです、とは言えなかった。
言ったところで、そういうプレイだと思われるのがオチだ。
刑事たちの馬鹿話のタネぐらいにしかならないだろう。
死者と幾松自身双方の名誉のため、彼は嘘をついた。
「ここに死体があるということは、あなたにも関係があると考えざるをえません。あなたと被害者が関係を持ったことで腹を立てる人がいたんじゃありませんか」
幾松は首を振った。
「わかりません。いたかもしれませんが、そんな人の話は彼女から聞かなかった。ほかの男の話なんて出ませんでしたから」
「じゃあ、心当たりはまるでないと?」
「ええ、全然ありません」
「そうですか。では、質問が前後しますが、改めて基本的なことからお聞きしたいと思います。まず、被害者のお名前は何というんでしょう?」
「知りません」
「知らない?」
右ゴリラと左ゴリラが同時に幾松の顔を見た。
そんなことはありえない、という顔だった。
「彼女はヴァイオレットと呼んでくれと言っていました」
刑事たちは死体を振り返った。
全身紫色の死体に見入った。
左ゴリラが小さな声で「ヴァイオレット」と反唱した。
それから半日、幾松は刑事たちに拘束された。
聴取が終わっても現場の処理が終わるまでは、「帝国鋲螺商会」を離れることは許されなかった。
刑事たちは幾松をどう扱っていいか戸惑っているようだった。
いまのところは最重要参考人という位置づけらしかった。
「被害者は殺されてからここに運ばれてきたようです。ここが殺害現場ではありませんね」
右ゴリラが教えてくれた。
それからこうもつけ足した。
「死体には殺害前に乱暴された形跡があります。監察医の話では体液が残っているそうです。DNA鑑定をすれば決定的な証拠になりますね」
そう言えば幾松が観念して、わたしがやりました、と自白すると思ったのかもしれない。
幾松は思わず亀吉の名前を上げそうになった。
しかし、そうあわてる必要はない。
警察へ電話をする前に〈ヴァイオレット〉のペントハウスへ行って化粧台の上に亀吉の本業の名刺を置いてきていた。
いずれ「彼女が最後に会ったのは亀吉だ」という匿名の密告電話も入るだろう。
そして、遅かれ早かれ刑事が訪ねていくことになる。
「じゃあ、ぼくが犯人じゃないという証拠にもなりますよね?」
右ゴリラの目に残念そうな色が一瞬浮かんだのを、幾松は見逃さなかった。
「アリバイもありますよ」
「ほう? アリバイですか」
右ゴリラの目がまた輝いた。
アリバイとは破るものと信じ込んでいるらしい。
「そいつをひとつ、うかがわせていただきましょうかね――」
幾松はある老夫婦の名前と電話番号を伝えた。
ろくでなしの息子の身を案じながら、ひっそりと暮らしている元乾物屋の夫婦だった。
幾松はときどき馬鹿息子の代わりに彼らを訪ねて話し相手になっていた。
実際、きのうもどこかに身を隠している甚六の代わりにその両親を訪ねて夕飯をごちそうになり、ひと晩泊まってきたのだった。
〈ヴァイオレット〉の死体は警察によって運び去られた。
許可が下りるまではバックヤードに入ってはいけない、と言われた。
しかし、警察がひとり残らず帰ってしまうとすぐに、幾松はそこへ行って煙草を吸った。
◆25
亀吉は粂太郎の首を左腕で抱え込み、右手のナイフの刃先を彼女の目の下に向けていた。
勢いをさらに強めた雨が、粂太郎の頬に海藻のように髪を貼りつかせていた。
――まったく!
幾松は舌打ちした。
目の前で展開されているのは、テレビや映画で見慣れた陳腐なシーンだった。
そして、聞かされるセリフまで手垢でピカピカになった代物だった。
「動くな! 動いたらこの女を殺すぞ」
捕まっているのがあの若い講中でなかったら、背中を向けてこの場から立ち去ってしまいたい。
幾松は掌のなかのナットを握り直した。
濡れているのは雨のせいか汗のせいかわからなくなっていた。
「逃げ切れるもんじゃない。そんなことあんたなら承知しているはずだがな」
「うるさい! おまえは何にもわかっちゃいないんだ」
亀吉は粂太郎を抱えたまま後退し始めた。
粂太郎が抗うのでナイフが何度か肌を傷つけそうになった。
「逆らうな、クメ!」
幾松が叫んだ。
その声で粂太郎は従順になって、亀吉に合わせて退がり始めた。
ふたりの進行方向にはレンジローバーがあった。
車に乗られてしまったら終わりだ。
自分が乗ってきた車に戻る前に亀吉は逃げ去ってしまうだろう。
バックヤードに転がされていた無惨な〈ヴァイオレット〉が目に浮かんだ。
粂太郎が生きて解放されるとは思えなかった。
「おれがわかっていないってどういうことだ?」
いまはとにかく亀吉に話を続けさせてなんとか隙を作らせることだった。
「おれの親父が誰かわかっているのか、庄之助だぞ。あんたがあの男以上にわかっているなんて信じられないな。そりゃあれの知らないこともあるだろうが、庄之助にとっての講は、蜘蛛にとっての蜘蛛の巣みたいなもんだよ」
「いや、おまえは何にもわかっちゃいない。自分が踊らされているってことがわからないんだ」
隙はなかった。
亀吉はさらに後退した。
車までもうあと数メートルだった。
「おれが踊らされてるって? どういうことだよ?」
亀吉は答えなかった。
ぐいぐいと粂太郎を引きずって退がっていく。
ただ、幾松に注意を向けすぎていた。
足もとにレンジローバーの後部座席から転がり降りた萬蔵がいることに気づいていなかった。
萬蔵は亀吉の脚にしがみついた。
バランスこそ崩さなかったが、亀吉の視線が足もとへ落ちた。
幾松はその隙を逃さなかった。
六角ナットを握った手を振った。
幾松の指先を離れた二二〇グラムの鉄の塊が、亀吉のこめかみを打った。
亀吉はのけぞって転倒し、粂太郎はその腕から逃れ出た。
「クメ!」
声に弾かれるように粂太郎は走り出し、幾松の腕のなかに飛び込んだ。
ナットの当たりどころが甘かったのか、亀吉を転倒させはしたものの、昏倒させることはできなかった。
彼は泥に両手をついて起き上がった。
立ち上がり、ふらふら身体を揺らしている。
幾松は粂太郎の身体を背後に押しやって「走れ」と言った。
亀吉は幾松のほうへ歩き出そうとして、まだ脚をつかんでいる老人に気づいた。
振り上げたナイフが淡い光を反射して鈍く輝いた。
幾松の身体は動き出していたが、頭は間に合わないとあきらめていた。
胸に渋い絶望が広がっていった。
そして、ナイフが振り下ろされる瞬間へ、時間も空間も収束していった。
肉が破裂する独特の音がして、それに重ねて三度銃声が響いた。
亀吉の胸が血を噴いていた。
右腕を上げたまま亀吉の身体はぬかるみへ倒れた。
幾松は自分の目が信じられなかった。
長々と延びた身体へ、幾松は引き寄せられるように近づいていった。
亀吉は目を開けて息絶えていた。
その傍らで萬蔵が胎児のように身体を丸めていた。
「大丈夫ですか」
幾松はひざまずき声をかけた。
「ああ……」
萬蔵はそれだけ言った。
少しも大丈夫そうには見えなかった。
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