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第十三話
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翌日曜日、校長は一人で俺の家にやってきた。自分の部屋から外を何となく見ていた時に遠くの方から歩いてくるスーツ姿の男性が目に入っていたのだが、俺の家にやってくることをあらかじめ聞いていなければ日曜にスーツを着ている不審な男性がいるとしか思わなかったかもしれない。
俺は校長がやってきていることに気付いていたのだけれど、俺と話すよりも親と先に話したいこともあるだろうと思って部屋に閉じこもっていた。校長室に呼ばれた時から校長とは一度も話していないのだけれど、担任の早坂先生から日曜か土曜に校長が俺の家に挨拶に行きたいので両輪の都合の良い日を教えて欲しいと言われてそれの報告をした。その時も校長にではなく早坂先生にしか伝えていなかったのだが、俺の両親はいつの間にか校長とやり取りを交わしていたようであった。
一時間くらい話をしたら呼ばれるのかなと思っていたのだけれど、俺の考えとは裏腹に校長がやってきてからものの五分としないうちに俺もリビングに呼ばれたのだった。
せっかくの日曜だというのでもう少しゆっくりしていたかったという気持ちもあるのだけれど、今日で俺が殴られたという面倒な事件が片付くのならばそれでいい。ただ、俺の両親、特に父親は簡単には済ますことが出来ないと昨日の晩から息巻いていたのが少し気がかりだった。
俺は部屋着のままリビングへと向かったのだけれど、リビングのドアを開けて驚いたのだが、校長はソファにも座らずカーペットも敷いていないフローリングの上で正座をしていたのだった。さすがにこれはやりすぎではないかと思って両親をそれとなく責めたのだけれど、これはウチの両親がやらせたことではなく校長が自ら進んで行った事らしい。
両親も床に正座している校長が気になるらしく、昨日の夜のような悪い意味でイキり散らかそうという気持ちは削がれてしまっているようだ。これが計算だとしたら無駄に年だけを重ねているわけではないという事になるのだろう。
さすがに俺も両親より年上の大人が正座をしているのにソファに座る気にはなれず、校長の目の前に同じく正座をしてみた。俺の行動に驚いた両親ではあったが、それ以上に校長が驚いていた。リビングには座布団が無いので俺の足は早くも悲鳴をあげているのだけれど、俺が目の前で正座をしているのは話しにくかったらしく、フローリングの上で正座をするのをやめてソファに移動してくれた。
俺の足は限界を迎える前に解放されたのだが、この短時間の正座でも足は痺れていたらしく、ソファに移動するのも一苦労だった。俺よりも長い時間正座していた校長が何事も無かったかのように移動している姿を見て、大人って凄いんだなと感じてしまった。
「この度は私の息子がとんでもないことをしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
校長はせっかく座ったソファから立ち上がってその言葉を発すると、そのまま深々と頭を下げた。
俺の視線の先には校長がいて、その奥に時計があるのだが、せっかくなので頭を下げている時間を計ってみることにした。結構長いなと思っていたのだけれど、俺の両親は校長の姿を見てさらに落ち着かなくなっているようなのだが、本当に昨日までイキり散らかしていた人と同じ人間なのかと思うくらい父親が小さく見えていた。時々咳払いをして威厳を出そうとしているのかわからないが、横目に見ても俺の両親はうろたえているようにしか見えなかったのだ。
校長が頭を下げてから三十秒も経っていたのだが、さすがにこれは長すぎるとは思うのだけれど、自分よりも年上の男性がこれだけ長い時間頭を下げている姿を見て両親は完全に意気消沈していた。
「あの、校長先生のお気持ちは分かったのですが、どうしてウチの息子は殴られたのでしょうか」
「それはですね。大変お恥ずかしい話にはなるのですが聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、原因がわかるのなら是非ともお願いいたします」
「私にはですね、今回信寛君に暴行を働いた息子のほかに三人の息子もおりました」
「あの、おりましたというのはどういう意味でしょうか?」
「少し長くなってはしまいますが、お付き合いお願いいたします。私は今でこそ息子と二人暮らしをしているのですが、ほんの二十年ほど前までは六人家族だったのです。今回事件を起こした末っ子の竜司は小さい頃は体が弱く入退院を繰り返すような子供でした。男四人兄弟で育ってくれればもう少し自制の利く大人になれたのかもしれないのですが、竜司のお見舞いに家内が他の息子たちを連れて病院に向かっている最中に、スリップした大型車に跳ねられて全員亡くなってしまいました。まだ小さかった竜司は家族がいなくなったことを理解することも出来ず、母親代わりに身の回りの世話を手伝ってくれていた私の両親にも懐いてくれませんでした。自分の母親と兄妹が事故で亡くなった事を知った竜司は、いつしか母親や兄弟に会えない寂しさから非行に走るようになってしまいました。竜司が補導されるたびに私も何度も何度も注意をしたのですが、体が弱かった子供が元気になっている姿が嬉しくてついつい甘やかしてしまったのでした。それはいけないこととわかってはいたのですが、私も仕事に追われていたという事もありなあなあで済ますこともあったのは事実です。竜司が暴走族に入っているのはよくない事だとはわかっていますし、許されないことをたくさんしているという事も分かっております。ただ、竜司が多くの友達に囲まれて楽しそうにしている姿を見ると、小さかった頃に兄妹で遊んでいた姿を思い出して何も言えなくなってしまうのです。そんな事は信寛君を殴ったことの理由にはならないとは重々承知しているのですが、ご配慮のほどよろしくお願いいたします」
校長は身の上話をした後にさりげなく許してくれと言っているようなのだが、ウチの両親はその作戦にまんまと乗ってしまったようだった。母親にいたっては被害者の俺の気持ちを考えていないのか、校長の家族が事故で無くなっていたという事実を知って涙ぐんでいた。
俺はこの町で起こった大型車による母子の死亡事故を何となく検索してみたのだが、校長と同じ井上という名字の方が亡くなっている記事が出てきたので校長の話は嘘ではなかったという事は確認できた。
俺の父親も泣いてはいないが、校長の気持ちを共感しているらしく、俺にどうするか聞いて来ていた。
「そうでした。遅くなってしまいましたが、こちらはご迷惑をおかけしたお詫びですのでどうかお受け取りください」
校長が持参していた紙袋から母親の好きな和菓子屋の包みが出てきた。俺の母親はそこの和菓子が大好きなので今にも飛びつきそうではあるのだけれど、それだけは自生しているようだ。ただ、先ほどまで目に貯まっていた大粒の涙はすっかり引いてしまってるのが気になってしまう。
そして、校長は紙袋から封筒を三つ取り出すと、それをウチの父親の前に綺麗に並べた。
父親は封筒の中を確認したのだが、三つ全部の中身を確認するたびにたいそう驚いていたのがとても面白かった。
「こういったものは受け取れません」
「いえいえ、これは今回の件の迷惑料という事でお納めください」
「いやいや、本当に困りますので」
「いえ、こちらも一度出したものを戻すことなど出来ませんので」
そんなやり取りを何度も繰り返していたのだが、結局は俺の父親が折れてその封筒を受け取っていた。きっと中身は現金だったんだろうな。
「で、信寛はどう思う?」
「どうって?」
「その、だ。校長先生の息子の竜司君の件だが」
「俺は別にどうでもいいと思ってるよ」
「どうでもいいって、どういうことだ?」
「多少頭は痛かったけど、今は何ともないし」
「本当に何ともないのか?」
「ああ、最初に目が覚めた時は頭も痛かったけど、今は何ともないよ。それよりもさ、被害届って誰が出したんだろうね?」
「それは父さんが出したんだが」
「それってさ、今から取り下げることとかって出来るのかな?」
「どうなんだろうな。父さんは被害届なんて出したのも初めてだったからわからないぞ」
「じゃあさ、俺は別に気にしてないからもういいよ。取り下げちゃってよ」
「そんな事をしたら同じ事件で被害届を出せなくなるけどいいのか?」
「大丈夫だよ」
校長をチラッと見たところ、俺の言葉を受けて涙をこらえているようだった。嬉し涙なのか悲し涙なのか知らないけど、今日は大人の涙をよく見る日だなと思ってしまった。
「あの、少しだけで結構ですので、信寛君と二人で話す時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「私達は構いませんが、信寛は大丈夫か?」
「ああ、俺は大丈夫だよ」
両親はなぜか好調に頭を下げてからリビングを出て仏間へと向かっていった。どうせなら二階に行けばいいのにと思ったのだけれど、ドアを閉めてしまえば声も聞こえにくいのだろうから問題ないのかもしれない。
「この度は誠に申し訳ない。そして、寛大なご配慮を賜り誠に感謝いたしております」
「いえいえ、そんなに何度も頭を下げなくてもいいですよ。悪いのは校長先生じゃないですし。かと言って、竜司君に頭を下げてもらいたいってわけでもないんですよね。最初は頭が痛くてイライラもしたんですけど、そのおかげで少しだけ良い事もあったんで、結果的にはそんなに悪くないなって思っただけなんですよ」
「本当かね。信寛君がそう思ってくれるのなら私も嬉しいよ。だが、被害届を取り下げると竜司の件では被害届を出せなくなってしまうが、本当にそれでいいのかね?」
「ええ、別に、今の俺は気にしてないですからね。それよりも、校長室にいた知らない人って誰だったんですか?」
「ああ、あの方は竜司が学生の頃からお世話になっていた警察の方だよ。今では退職して元警察官という形なんだが、今でも色々とこの辺りの警察には顔が効くみたいでね。今回の事件は殺人未遂という事で警察も捜査に本腰を入れるような姿勢を見せていたのだけれど、信寛君が被害届を取り下げてくれるみたいなので、それの相談をしにこれから向かうと思うのだよ。そうそう、信寛君にもこれを渡しておくね。この封筒の事はご両親には内緒にしてもらえるとありがたいな」
校長は先ほど父親に渡したものを同じ封筒を俺に手渡してきた。中身を確認すると、帯のついた一万円札の束が入っていた。こんなものを受け取ることは出来ないよなと思って返そうとしたのだけれど、校長はかたくなに返されることを拒んだ。
「今は必要としないお金かもしれないけれど、いつか必要になった時のために使ってくれると嬉しい。ただ、一度渡したお金を君が好きに使ってくれてもかまわないけどね」
校長にとってお金はそれほど大切なものではないのだろうか。父親に渡したものの中身がこれと一緒だとしたら、結構な金額になると思うのだが。これが慰謝料なのか示談金なのか俺にはわからないけれど、校長も俺の両親も何の書面にもサインをしていないのだからこれは見舞金というやつなのだろうか。俺にはその辺はさっぱりわからないのだ。
俺との話し合いも終わり、校長は両親に挨拶をして帰っていった。校長は去り際にも深々と頭を下げていたのだが、頭をあげた後の表情はずっと神妙な表情をしていた人とは思えないくらい明るくなっていた。
母親は校長に何度も昼食の誘いをしていたのだが、校長はそれを固辞していた。これから校長が会いに行かないといけない人がいるのだから、それは当然だろう。
「なあ、本当に良かったのか?」
「なにが?」
「被害届の件だよ。取り下げてもう一度出したいってわけにはいかないみたいだぞ」
「それなら気にしなくていいよ。俺の事件は殺人未遂で調べてるらしいんだけど、さすがに殺人未遂で逮捕されるってのはかわいそうかなって思ったんだよね」
「そうか。確かにな。校長先生の気持ちが息子さんに伝わるといいんだけどな」
「それはどうだろうね。俺は校長の奥さんってみた事ないんだけど、俺を殴った竜司君って校長に全然似てない気がするんだよね。もしかしたら、校長の本当の子供じゃ無かったりしてね」
「そんなわけないじゃないか。あんまり変な事を言うもんじゃないぞ」
実際に校長と竜司君に血縁関係があるのかはどうでもいい事だし、俺が被害届を取り下げたって何の問題も無い。校長が俺にまでお金を用意していたのは予想外だったけれど、今更返せと言われても返すことは出来ないよな。
それに、竜司君の被害に遭っているのは俺だけじゃないって校長は気付いていないのかな?
俺は校長がやってきていることに気付いていたのだけれど、俺と話すよりも親と先に話したいこともあるだろうと思って部屋に閉じこもっていた。校長室に呼ばれた時から校長とは一度も話していないのだけれど、担任の早坂先生から日曜か土曜に校長が俺の家に挨拶に行きたいので両輪の都合の良い日を教えて欲しいと言われてそれの報告をした。その時も校長にではなく早坂先生にしか伝えていなかったのだが、俺の両親はいつの間にか校長とやり取りを交わしていたようであった。
一時間くらい話をしたら呼ばれるのかなと思っていたのだけれど、俺の考えとは裏腹に校長がやってきてからものの五分としないうちに俺もリビングに呼ばれたのだった。
せっかくの日曜だというのでもう少しゆっくりしていたかったという気持ちもあるのだけれど、今日で俺が殴られたという面倒な事件が片付くのならばそれでいい。ただ、俺の両親、特に父親は簡単には済ますことが出来ないと昨日の晩から息巻いていたのが少し気がかりだった。
俺は部屋着のままリビングへと向かったのだけれど、リビングのドアを開けて驚いたのだが、校長はソファにも座らずカーペットも敷いていないフローリングの上で正座をしていたのだった。さすがにこれはやりすぎではないかと思って両親をそれとなく責めたのだけれど、これはウチの両親がやらせたことではなく校長が自ら進んで行った事らしい。
両親も床に正座している校長が気になるらしく、昨日の夜のような悪い意味でイキり散らかそうという気持ちは削がれてしまっているようだ。これが計算だとしたら無駄に年だけを重ねているわけではないという事になるのだろう。
さすがに俺も両親より年上の大人が正座をしているのにソファに座る気にはなれず、校長の目の前に同じく正座をしてみた。俺の行動に驚いた両親ではあったが、それ以上に校長が驚いていた。リビングには座布団が無いので俺の足は早くも悲鳴をあげているのだけれど、俺が目の前で正座をしているのは話しにくかったらしく、フローリングの上で正座をするのをやめてソファに移動してくれた。
俺の足は限界を迎える前に解放されたのだが、この短時間の正座でも足は痺れていたらしく、ソファに移動するのも一苦労だった。俺よりも長い時間正座していた校長が何事も無かったかのように移動している姿を見て、大人って凄いんだなと感じてしまった。
「この度は私の息子がとんでもないことをしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
校長はせっかく座ったソファから立ち上がってその言葉を発すると、そのまま深々と頭を下げた。
俺の視線の先には校長がいて、その奥に時計があるのだが、せっかくなので頭を下げている時間を計ってみることにした。結構長いなと思っていたのだけれど、俺の両親は校長の姿を見てさらに落ち着かなくなっているようなのだが、本当に昨日までイキり散らかしていた人と同じ人間なのかと思うくらい父親が小さく見えていた。時々咳払いをして威厳を出そうとしているのかわからないが、横目に見ても俺の両親はうろたえているようにしか見えなかったのだ。
校長が頭を下げてから三十秒も経っていたのだが、さすがにこれは長すぎるとは思うのだけれど、自分よりも年上の男性がこれだけ長い時間頭を下げている姿を見て両親は完全に意気消沈していた。
「あの、校長先生のお気持ちは分かったのですが、どうしてウチの息子は殴られたのでしょうか」
「それはですね。大変お恥ずかしい話にはなるのですが聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、原因がわかるのなら是非ともお願いいたします」
「私にはですね、今回信寛君に暴行を働いた息子のほかに三人の息子もおりました」
「あの、おりましたというのはどういう意味でしょうか?」
「少し長くなってはしまいますが、お付き合いお願いいたします。私は今でこそ息子と二人暮らしをしているのですが、ほんの二十年ほど前までは六人家族だったのです。今回事件を起こした末っ子の竜司は小さい頃は体が弱く入退院を繰り返すような子供でした。男四人兄弟で育ってくれればもう少し自制の利く大人になれたのかもしれないのですが、竜司のお見舞いに家内が他の息子たちを連れて病院に向かっている最中に、スリップした大型車に跳ねられて全員亡くなってしまいました。まだ小さかった竜司は家族がいなくなったことを理解することも出来ず、母親代わりに身の回りの世話を手伝ってくれていた私の両親にも懐いてくれませんでした。自分の母親と兄妹が事故で亡くなった事を知った竜司は、いつしか母親や兄弟に会えない寂しさから非行に走るようになってしまいました。竜司が補導されるたびに私も何度も何度も注意をしたのですが、体が弱かった子供が元気になっている姿が嬉しくてついつい甘やかしてしまったのでした。それはいけないこととわかってはいたのですが、私も仕事に追われていたという事もありなあなあで済ますこともあったのは事実です。竜司が暴走族に入っているのはよくない事だとはわかっていますし、許されないことをたくさんしているという事も分かっております。ただ、竜司が多くの友達に囲まれて楽しそうにしている姿を見ると、小さかった頃に兄妹で遊んでいた姿を思い出して何も言えなくなってしまうのです。そんな事は信寛君を殴ったことの理由にはならないとは重々承知しているのですが、ご配慮のほどよろしくお願いいたします」
校長は身の上話をした後にさりげなく許してくれと言っているようなのだが、ウチの両親はその作戦にまんまと乗ってしまったようだった。母親にいたっては被害者の俺の気持ちを考えていないのか、校長の家族が事故で無くなっていたという事実を知って涙ぐんでいた。
俺はこの町で起こった大型車による母子の死亡事故を何となく検索してみたのだが、校長と同じ井上という名字の方が亡くなっている記事が出てきたので校長の話は嘘ではなかったという事は確認できた。
俺の父親も泣いてはいないが、校長の気持ちを共感しているらしく、俺にどうするか聞いて来ていた。
「そうでした。遅くなってしまいましたが、こちらはご迷惑をおかけしたお詫びですのでどうかお受け取りください」
校長が持参していた紙袋から母親の好きな和菓子屋の包みが出てきた。俺の母親はそこの和菓子が大好きなので今にも飛びつきそうではあるのだけれど、それだけは自生しているようだ。ただ、先ほどまで目に貯まっていた大粒の涙はすっかり引いてしまってるのが気になってしまう。
そして、校長は紙袋から封筒を三つ取り出すと、それをウチの父親の前に綺麗に並べた。
父親は封筒の中を確認したのだが、三つ全部の中身を確認するたびにたいそう驚いていたのがとても面白かった。
「こういったものは受け取れません」
「いえいえ、これは今回の件の迷惑料という事でお納めください」
「いやいや、本当に困りますので」
「いえ、こちらも一度出したものを戻すことなど出来ませんので」
そんなやり取りを何度も繰り返していたのだが、結局は俺の父親が折れてその封筒を受け取っていた。きっと中身は現金だったんだろうな。
「で、信寛はどう思う?」
「どうって?」
「その、だ。校長先生の息子の竜司君の件だが」
「俺は別にどうでもいいと思ってるよ」
「どうでもいいって、どういうことだ?」
「多少頭は痛かったけど、今は何ともないし」
「本当に何ともないのか?」
「ああ、最初に目が覚めた時は頭も痛かったけど、今は何ともないよ。それよりもさ、被害届って誰が出したんだろうね?」
「それは父さんが出したんだが」
「それってさ、今から取り下げることとかって出来るのかな?」
「どうなんだろうな。父さんは被害届なんて出したのも初めてだったからわからないぞ」
「じゃあさ、俺は別に気にしてないからもういいよ。取り下げちゃってよ」
「そんな事をしたら同じ事件で被害届を出せなくなるけどいいのか?」
「大丈夫だよ」
校長をチラッと見たところ、俺の言葉を受けて涙をこらえているようだった。嬉し涙なのか悲し涙なのか知らないけど、今日は大人の涙をよく見る日だなと思ってしまった。
「あの、少しだけで結構ですので、信寛君と二人で話す時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「私達は構いませんが、信寛は大丈夫か?」
「ああ、俺は大丈夫だよ」
両親はなぜか好調に頭を下げてからリビングを出て仏間へと向かっていった。どうせなら二階に行けばいいのにと思ったのだけれど、ドアを閉めてしまえば声も聞こえにくいのだろうから問題ないのかもしれない。
「この度は誠に申し訳ない。そして、寛大なご配慮を賜り誠に感謝いたしております」
「いえいえ、そんなに何度も頭を下げなくてもいいですよ。悪いのは校長先生じゃないですし。かと言って、竜司君に頭を下げてもらいたいってわけでもないんですよね。最初は頭が痛くてイライラもしたんですけど、そのおかげで少しだけ良い事もあったんで、結果的にはそんなに悪くないなって思っただけなんですよ」
「本当かね。信寛君がそう思ってくれるのなら私も嬉しいよ。だが、被害届を取り下げると竜司の件では被害届を出せなくなってしまうが、本当にそれでいいのかね?」
「ええ、別に、今の俺は気にしてないですからね。それよりも、校長室にいた知らない人って誰だったんですか?」
「ああ、あの方は竜司が学生の頃からお世話になっていた警察の方だよ。今では退職して元警察官という形なんだが、今でも色々とこの辺りの警察には顔が効くみたいでね。今回の事件は殺人未遂という事で警察も捜査に本腰を入れるような姿勢を見せていたのだけれど、信寛君が被害届を取り下げてくれるみたいなので、それの相談をしにこれから向かうと思うのだよ。そうそう、信寛君にもこれを渡しておくね。この封筒の事はご両親には内緒にしてもらえるとありがたいな」
校長は先ほど父親に渡したものを同じ封筒を俺に手渡してきた。中身を確認すると、帯のついた一万円札の束が入っていた。こんなものを受け取ることは出来ないよなと思って返そうとしたのだけれど、校長はかたくなに返されることを拒んだ。
「今は必要としないお金かもしれないけれど、いつか必要になった時のために使ってくれると嬉しい。ただ、一度渡したお金を君が好きに使ってくれてもかまわないけどね」
校長にとってお金はそれほど大切なものではないのだろうか。父親に渡したものの中身がこれと一緒だとしたら、結構な金額になると思うのだが。これが慰謝料なのか示談金なのか俺にはわからないけれど、校長も俺の両親も何の書面にもサインをしていないのだからこれは見舞金というやつなのだろうか。俺にはその辺はさっぱりわからないのだ。
俺との話し合いも終わり、校長は両親に挨拶をして帰っていった。校長は去り際にも深々と頭を下げていたのだが、頭をあげた後の表情はずっと神妙な表情をしていた人とは思えないくらい明るくなっていた。
母親は校長に何度も昼食の誘いをしていたのだが、校長はそれを固辞していた。これから校長が会いに行かないといけない人がいるのだから、それは当然だろう。
「なあ、本当に良かったのか?」
「なにが?」
「被害届の件だよ。取り下げてもう一度出したいってわけにはいかないみたいだぞ」
「それなら気にしなくていいよ。俺の事件は殺人未遂で調べてるらしいんだけど、さすがに殺人未遂で逮捕されるってのはかわいそうかなって思ったんだよね」
「そうか。確かにな。校長先生の気持ちが息子さんに伝わるといいんだけどな」
「それはどうだろうね。俺は校長の奥さんってみた事ないんだけど、俺を殴った竜司君って校長に全然似てない気がするんだよね。もしかしたら、校長の本当の子供じゃ無かったりしてね」
「そんなわけないじゃないか。あんまり変な事を言うもんじゃないぞ」
実際に校長と竜司君に血縁関係があるのかはどうでもいい事だし、俺が被害届を取り下げたって何の問題も無い。校長が俺にまでお金を用意していたのは予想外だったけれど、今更返せと言われても返すことは出来ないよな。
それに、竜司君の被害に遭っているのは俺だけじゃないって校長は気付いていないのかな?
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