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第十一話 荒妄
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電車が中野駅に到着し、扉が開くと熱風が車内に入り込んできた。
電車を降りた坂上昭二は明和大学までの道のりを考えると、また電車に乗り込んで引き返そうかと思ったくらいだった。しかし、今日から始まる新しい薬を早く試したいという気持ちがそれを押し留めた。
中野駅から徒歩で十分程で明和大学には到着するが、義足を付けた坂上の足では二十分はかかってしまう。五分も歩けば坂上の額からは滝のような汗が流れ出した。
大学が見え、坂上にはオアシスのように見えたが、大学内に入ってみると思ったよりも涼しくなく、彼は誰に向ければいいのかわからない怒りをぐっと堪え、エレベーターで五階へ上がった。
五階に着くとすぐに彼は相談室の受付のドアを開けた。
「こんにちは。二時に予約をしている坂上です」
「坂上さん、こんにちは。板垣先生が来るまで座ってお待ちください」いつもと変わらない受付のおばさんがいつもと同じ言葉を坂上にかけた。
坂上はどさっとソファーに座り、乱暴に荷物を降ろした。受付兼待合室には坂上しかおらず、効いているのかわからないエアコンの音だけが響いていた。
坂上は数年前から明和大学の相談室でカウンセリングを定期的に受けていた。彼は帰宅時で込み合う新宿駅で電車に飛び込んでいた。命は助かったが、その時に左足と左手を失ってしまった。
坂上は自分の見た目にコンプレックスを持っていた。学生の時からずっと体型はぽっちゃりで、顔を含め、その見た目から周りからはカバ男くんと呼ばれていた。
カバ男くん、一見愛されキャラになりそうだが、坂上は違った。彼のどの時代を振り返っても、いい思い出と呼べるものはなかった。彼の人生の大半は怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望が支配していた。しかし、彼は必ず自分のことを見て評価してくれる人が必ずいると信じ、腐らず、真面目に勉強をし、それなりの大学を出て、それなりの会社に就職をした。
社会人になっても彼の人生は劇的に変わることはなかった。坂上は「いつか誰かが評価をしてくれる」という「いつか」を社会人になったその時と期待していた自分がいた。しかし、期待に反してそれは一向にやってくる気配はなかった。
またしても彼の生活の中に怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望といった感情が支配し始めようとした頃、宮前桃花は彼の前に現れた。
ある日、仕事が終わり、唯一職場で気兼ねなく話させる同期の臼田に誘われ、アイドルのライブに行くことになったのだ。最初は乗り気ではなかった坂上だったが、一目、彼女たちのライブを見ると、たちまちファンになってしまったのだった。
坂上は相談室のソファーにもたれながらスマホを取り出し、SNSのアプリを立ち上げた。SNSの検索機能を使い「宮前桃花」と打ち込んだ。すぐに宮前桃花に関するツイートが画面に並んだ。
「宮前桃花、さすがにクビでしょ」
「宮前桃花の相手ってだれ?」
「俳優のSが宮前桃花の彼氏確定?」
宮前桃花に関するツイートを見るたびに坂上は死にたいという気持ちが強くなっていくように感じた。しかし、どうしてもツイートを追ってしまう。そして、死にたくなる。宮前桃花のスキャンダルが出てからというもの、その繰り返しであった。宮前桃花のスキャンダルはこれが初めてではなかった。
「坂上さん」板垣がドアの隙間から声をかけた。
「あ、はい」坂上はスマホをポケットにしまい、待合室を出た。
「今日も暑いですね」
「そうですね」
「すみませんね、そんなに涼しくなくて。大学から節電、節電てうるさくてね」
「そうなんですね」
「最近、何か生活で変化はありましたか。いつもとちょっと様子が違うみたいなので」
「まぁ、なんと言いますか」
「あれですか、追っかけをしてあるアイドルの方の」板垣はそこまで言って、坂上の返答を待った。
「そうですね、まさに」
「ニュース見ましたよ。相当ハマっていますものね。僕も若い頃、ハマってたアイドルがいたんですけどね」
「板垣先生もアイドルとか好きだったんですね。意外です」
「いや、人並みにですよ。その僕が好きだったアイドルが突然結婚しますって会見をしたんですよ。その時はショックを受けましたね。なんかこうクラスの中に好きな女の子がいて、その子に彼氏がいたってわかった時と同じ衝撃を受けたというか。その後は失恋したみたいに落ち込みましたね」
「失恋ですか。確かにそれに似たような感情かもしれませんね。んー、でもなんか違うか」
「どのように違うんですか」
「なんて言うんでしょうね。裏切られた」
「裏切られた」
「はい。裏切られて、悲しい、辛い、そんな感情のような気がします」
「そこに死にたいという気持ちはありますか」
「正直、はい」
「そうですか」
「そういう気持ちがあると新しい薬は服薬できないですか」
「いえ、寧ろ服薬した方がいいです。というのも、今回、試してもらう治験の薬は希死念慮を軽減できる可能性がある薬なんです。だから今、坂上さんが死にたいと思っているなら、服薬をしていただきたいと思っています。いかがでしょうか」
「死にたいとは思っていますが、死にたくないとも思っています。一度、死にかけてますからね。変ですかね」
「変ではないです。それが普通です。しかし、このままその死にたいという気持ちを持ったまま生活を続ければ、いつかまた突然坂上さんはまた死を選んでしまうかもしれません。そうならないように、この薬を服薬してみましょうか」
「そうですね」
坂上は板垣が用意した書類にサインをし、服薬時の注意事項等を聞いた後に、治験用の薬を渡された。
その日から坂上は服薬を開始した。板垣が言っていたように、死にたいと思う気持ちは日に日に軽減していくように感じられた。それから定期的に板垣とのカウセリングがあり、体調の変化等の報告をし、問題がないことが確認されると服薬は継続された。
九月になり、坂上は薬の効果で以前よりも体調がよくなっていることを実感していた。それもあってか、久し振りにライブに行こうと思い立ったのだ。以前までは同じアイドルグループのファンの仲間たちとライブへ行っていたが、宮前桃花の度重なるスキャンダルでファンを辞める仲間たちが多くいた。それもあり、一緒にライブに行く相手は見つからなかった。そこで、坂上は明和大学の相談室が開くピアサポートの会で出会ったまだ大学生だという大和田喜一を誘うことにした。彼は以前からアイドルのライブに行ってみたいと坂上に語っていた。
坂上はいつも決まった時間に薬を飲む。朝起きてからと、仕事が終わった後だ。それは板垣からの指示であった。会社に行っている間に不安を感じないように、そして仕事が終わって何の不安もないまま次の日の朝を迎えられるようにとその時間の服薬を指示された。
夕方六時、仕事を終えていつものように坂上は薬を飲んだ。それから坂上は会社を出た。大和田とはライブ会場で待ち合わせをすることになっていた。
高円寺駅の南口を出て、歩いているとすぐにガールズバーの女の子たちに声をかけられるが、坂上な小声で「大丈夫です」と申し訳なさそうに手振りを付けながら言い、先を急いだ。坂上がそういった客引きの女の子たちの前を通りすぎると必ずくすくすと笑い声が聞こえた。坂上は自分の容姿で笑われているのだとわかっていた。
これまでの人生で異性と話をしたことなんて数えられるくらいしかなかった。自分からは話かけにはいけないし、異性からも話しかけてくることはなかった。その異性と話したというのも、友達同士で話すような内容ではなく、事務的な何かを伝えるだとか、そういう伝達の道具としてそこにコミュニケーションが発生したというものにすぎなかった。
気象神社のある坂を下り、下りきったところで右に曲がる。更に南へ進むと右手に目的地のライブハウスがある。もうすでに物販は始まっていて、客たちが列を成していた。坂上は小走りでライブハウスに向かった。
ライブハウスの入り口横で物販が行われており、サンプルのTシャツなどのグッズには売切れの文字がまだないことに坂上は安堵した。物販の列に並びサンプルのグッズを眺めながら坂上は宮前桃花のことを考えていた。
彼女と初めて話をしたのは、握手会の時であった。会社の同期に連れられて行った初めてのライブの後、「握手会があるからお前も試しに行ってみろ」と誘われ、まあ握手くらいならと軽い気持ちで握手会の列に並んだのだ。
列に並び、握手会の様子を見ていると、握手をするだけではなく、ファンとアイドルが一定時間握手をしながら会話をしていることに気付いた坂上は軽いパニックを起こしていた。これまで異性と実質話したことがない坂上は何を話していいのか頭の中が真っ白になったのだ。前に並ぶ臼田に何を話せばいいのかと助けを求めると、「自己紹介とか、今日のライブよかったですとか話してらすぐ時間になる」とアドバイスなんだかよくわからないことを言われたが、坂上は依然と脳内パニックは続き、列がどんどんアイドルたちに近づいていくと、いよいよ背中に冷たい汗が伝った。
臼田がまずアイドルたちと慣れたように握手をした。その様子を後ろからガチガチに緊張をした坂上が見ていた。
「次の方どうぞ」とスタッフに呼ばれ、坂上は意を決してアイドルたちの方へ足を踏み入れた。
そこにアイドルたちは四人並んでいた。彼女たちは慣れたように緊張している坂上に声を掛けた。
「こんばんは、今日は来てくれてありがと。また来てね」
「初めてですか、また来てくださいね。絶対ですよ」
「臼田さんのお友達ですか? じゃあまた臼田さんと来てくださいね」
坂上は一言も発せず、握手をしながら、やや俯き加減で彼女たちの声を聞くのが精一杯だった。
「あー、なんかカバさんみたいでかわいい」宮前桃花は坂上の顔を覗きながら言った。
坂上ははっとして顔を上げ、宮前桃花の顔を見た。
「また来てくださいね、カバさん」そう言うと宮前は坂上の手を強く握りしめた。坂上には彼女の笑顔は燦然と輝いて見えた。
「また来ます」坂上はそれだけ宮前に伝え、スタッフに剝がされた。
その瞬間、坂上の中で何かが弾けたように感じた。それは、本来ならば青春時代に多くの人が体験するであろう何かを坂上はこの瞬間に感じることができたのだ。
物販で目的の物を購入し終わった頃、漸く大和田喜一が現れた。
「すみません、遅くなりました」
「お疲れ様。ほい、これ」そういうと坂上は大和田にペンライトを渡した。
「何ですかこれ」
「ペンライトだよ。知らないの」
「あー、よくヲタ芸とかで使うやつですね」
「そういうのは知ってるんだ逆に。違くて、これで推しを応援するんだよ」
「あー、そういうやつか。こうやってですか」そう言うと村上はペンライトを光らせて頭の上でペンライトを振った。
「いいよ、今はやらなくて。推しいないだろ、今」
「それもそうですね」
「それで、貸したDVDとかCDで予習してきた」
「はい。行くなら楽しめた方がいいと思ってしっかり予習してきましたよ。僕、あの歌好きです。夏休みが~なんちゃら~みたいな」
「真夏のココナッツな」
「それですそれ。なんか振り付けも楽しいですよね。DVDで見ましたけど、お客さんもみんなでやるんですね」
「そうそう。きっと今日もやるから大和田も恥ずかしがらずにやれよ、ちゃんと」
「やりますよ、もちろん」
「推しは決まったのか」
「んー、全員かわいいんですけど」
「それはわかる。その中でも」
「その中でも、百田秋奈ちゃんですかね」
「やっぱりな」
「なんで、やっぱりなんですか」
「入り口はあきちゃんなんだよ」
「入り口ってなんですか」
「あの子、目立つというか、人目を引くだろ」
「確かに」
「ほとんどのファンがあきちゃんから好きになって、その後、ファンは他の子の魅力にも気付いて、推し変していくんだよ」
「へぇ。そしたらあきちゃん可哀想じゃないですか」
「それが一番ファンが多いのはあきちゃんなんだよ。さすがだよ、あきちゃんは。アイドルの鏡だね」
「坂上さんもちゃあきんから入ったんですか」
「いや、俺はももりんから」
「そうなんですね。それで、その坂上さんの推しは今日復帰なんでしたっけ」
「ながらく謹慎してたけど、漸く復帰。復帰したってことは世間で言われてることは真実ではないということだ」
「そうなんですね。アイドルも大変ですね。そのことについてライブで話したりもするんですかね」
「どうだろうね。ももりんのことだから話さないんじゃないかな。でも、なんか新曲を発表するってSNSで言ってから、それが彼女からのメッセージなのかもしれないな」
「メッセージですか。深いですね、アイドル」
「沼だよ、沼」
ふたりが話していると、ライブ会場の入り口から開場のアナウンスが聞こえた。
「それでは、これから開場いたします。番号を呼びますので、呼ばれた番号のチケットをお持ちの方からから中にお入りください。では、整理番号一番から五番の方どうぞ」
坂上は自分のチケットを確認した。チケットには二百五十と書かれてある。ライブハウスのキャパは三百人程度なので、坂上がライブ会場の中に入れるのはだいぶ後の方である。一方の大和田はビギナーズラックとでも言うのか、一桁台のチケット持っていて、早々にライブハウスの中へと消えていった。
漸く坂上の番号が呼ばれ中へ入ると、すでにフロアは客で埋め尽くされていた。大和田を探すが見当たらなかったので、坂上はPA卓の横に陣取り、そこで今回はライブを見守ることにした。
ライブ開始定刻になり、会場が暗転すると歓声が上がった。そして、様々な色のペンライトが会場内で波を打っていた。会場内にSEが流れると観客たちは更に歓声を上げた。
坂上はペンライトは振り上げ、推しの名を叫んだ。
「ももりーん!」
すると別の場所からも、ももりんと声があがった。それが連鎖していき、ももりんコールが起こった。みんな、ももりんの帰りを待っていたのだと坂上は感極まった。
ステージ下手からメンバーたちが登場すると、これまでにも増して大きな歓声と拍手が上がった。そして、最後に宮前桃花がステージ上に現れ、すると、会場から「おかえり」という声が多くあがった。坂上も喉が潰れるのではないかというくらいの声で叫んだ。
宮前桃花はステージに立ち、客先をまっすぐ見て、マイクを通さず、「ありがとう」と声に出さず、その口の形だけで感謝を告げた。
1曲目のイントロが会場に響くと、大きな歓声が上がり、そのイントロのリズムに合わせて、客先からは「ウリャ!」「オイ!」とコールが始まった。
アイドルたちは激しく、そして華麗にステージ上で舞っていた。
坂上は宮前桃花から一切目を離さず、彼女の身体の細部にまで目を凝らし、そして、彼女の声にだけ耳を澄ましていた。
一曲目が終わるとすぐに、二曲目へと突入した。一曲目と同様に昔からのファンには馴染みのあるロック調の激しい曲で、ファンたちは激しくペンライトを振り、推しが歌えば、その子の名前をコールし、曲と客がまるで一体化していると言っても過言ではなかった。
そして、畳み掛けるように三曲目のイントロが鳴る。
「まだまだ行けるだろー!」とファンを煽るのはリーダーの玉井凛である。
「おー!」とそれにファンたちが応える。
三曲目も激しいパンクロックナンバーでアイドルたちも時折、滴る汗を拭いながらパフォーマンスを続けた。ファンたちはそれ以上に熱気を出し、Tシャツはすでに汗でびしょ濡れになっていた。
「ありがとうございます」三曲目が終わるとリーダーの玉井凛が深く頭を下げて言った。
会場からは拍手が鳴り、歓声があちらこちらであがっていた。
「今日は来ていただいてありがとうございます」玉井がタオルで汗を拭いながら言った。「ごめん、ちょっと飲むね」そう言うとペットボトルの水を喉に流し込んだ。
「おつかれー!」
「いい飲みっぷりー!」
「りんちゃーん!」
客席から声援が上がる。
「ありがとう。私のことはいいからさ、今日はももの復活祭だから。ね、もも」
玉井がそう言うと、客席の視線が宮前桃花に向いた。
宮前は客席にいるファンを見回し言った。
「ただいま」
「おかえりー!」すぐさまファンたちからの声が上がった。
「みんな、待っててくれてありがとう。もも、今まで以上に頑張るから、そしてみんなのこと幸せにするから。だからこれからも宮前桃花をよろしくお願いします」そう言うと頭が膝に付くくらい深くお辞儀をした。
会場から拍手が起こる。宮前は拍手が止むまでずっとお辞儀をしたまま動かなかった。漸く拍手が止むと、宮前は前を向き言った。
「次の曲は新曲になります。私の再起にかける想いを曲にしてもらいました。歌詞はわたし、ももが書きました。聞いてください、『愛が要る』」
歪みの効いたギターの切れ味の良いカッティングからイントロが始まると、すぐに歓声が上がった。アイドルたちは下を向いて微動だにしない。ギターが四分休符し、一瞬無音になるが、すぐにベース、ドラム、シンセサイザーが加わり、その爆音と共にアイドルたちの激しいダンスが始まった。
アイドルたちはステージ上で荒々しさと可憐さをバランスよく組み合わながらせパフォーマンスを見せた。
坂上は『愛が要る』が始まり、曲が最初のサビを終えた頃に自分に異変が起こっていると感じた。宮前桃花のパフォーマンスを目を逸らさず見ているはずなのにも関わらず、彼女が一瞬にして違う場所に移動していたり、曲が飛んで聞こえたりするのだ。二回目のサビが終わりギターソロが始まった時だった。坂上は誰かに頭を何か硬い重たい物で殴られたような衝撃を受けた。そして、目の前が真っ暗になり、何の音も聞こえなくなってしまった。
ギターソロに合わせてアイドルたちはステージ上を愛らしく、そして、激しいダンスを見せた。ファンたちも絶妙なコンビネーションで「ウリャ!」「オイ!」とコールを入れている。
そんな盛り上がる中、突然、客のひとりが後にいた誰かに勢いよく押されたのか、その場に倒れた。その反動でその客の前にいた客も倒れ、数名がドミノ倒しのように倒れていった。どうした? と他の客たちが倒れた客たちの方を見ると、今度はステージ上で悲鳴が上がった。
坂上がステージ上に上がり、宮前桃花の両肩を掴んでいた。
宮前桃花は坂上と対峙し恐懼に満ちた表情をしていた。
「ごめんなさい」宮前がか細い声でそう言った。
その瞬間、坂上は宮前の首に噛み付いた。坂上は彼女の首の皮を噛みちぎると、さらに首の筋肉を噛み、首の外に引き摺り出すかのように引っ張った。限界まで伸びた首の筋肉はパチンという音を立てて切れた。
宮前桃花の首から大量の血が噴水のごとく飛び散り、他のメンバーや客が彼女の真っ赤な血を浴びた。
ステージ袖から体格の良いマネージャーの男がステージに勢いよく飛び出し、その勢いのまま坂上に体当たりをした。坂上と宮前は飛ばされ、ステージに転がった。床に叩きつけられたことで坂上の義足と義手が外れた。しかし、坂上は宮前を掴んだまま離さなかった。マネージャーの男は宮前を掴む坂上の腕を取り、引き離そうとするが、彼の力が強く、まったく動じなかった。坂上は構わず宮前の首に食らいついた。ぶちぶちぶちと不気味で耳障りな音がマネージャーの聴覚を不快にした。マネージャーは宮前の首に噛み付く坂上の頭を踏みつけた。それでも彼は食べることをやめなかった。
マネージャーは近くにあったマイクスタンドを手に取り、マイクスタンドのマイクホルダーを取り外した。そして、マイクスタンドの先端を坂上の頭目がけて振り下ろした。
マイクスタンドは坂上の頭を貫通したが、それでも彼は宮前の首に噛みつこうともがいていた。
マネージャーは坂上の頭に突き刺さったマイクスタンドを引き抜いた。すると、マイクスタンドを引き抜いた頭の穴からどす黒い血が溢れ出てきた。
マネージャーは今度は穴の空いていない部分を目がけてマイクスタンドを振り下ろした。マイクスタンドはまた彼の頭を貫通した。すると、坂上の動きが鈍くなり、いよいよ動かなくなった。
マネージャーは息を荒くし、頭に刺さったマイクスタンドを強く握りしめた。
坂上はまったく動かなくなっていた。同じように宮前桃花も指先ひとつ動かなかった。
ライブハウスの外からパトカーのサイレンの音が鳴っていた。その音に気付き、マネージャーが周りを見るとライブハウスの中にはもう誰も残っていなかった。
マネージャーはステージ上から誰もいなくなった客席に降りた。その時、勢いよく客席の入り口の扉が開き、警察数人が突入してきた。警察はマネージャーに拳銃を突き付けて言った。
「動くな!」
マネージャーは反射的に両手を挙げた。
警察はジリジリとマネージャーに近づき、腕一本分の距離に近づいたと思った瞬間にマネージャーの膝の裏に蹴りを入れ、体制が崩れたところをそのまま床に倒れ込ませた。
「容疑者確保しました」
「俺、犯人じゃないです。犯人はステージの上です」
「ステージの上」警察がステージの方を見ると、倒れている男がごそこそと動いていた。
「こいつを頼む」警察のひとりが別の警察にそう伝えると、ステージへ近づいていった。
そこには頭にマイクスタンドが刺さった男がもぞもぞと動いていた。その男の隣には血まみれの女が倒れていた。警察はさらに男に近づくと信じられないものを見たかのような表情をした。それもそうである。頭にマイクスタンドが突き刺さった男が血まみれの女を食っていたのだから。
「やめろ! 何をしている!」警察が男に向かって叫ぶが男は構わず女の首の肉を自らの口で剥ぎ取っていた。
警察は男を女から引き離した。脳が損傷しているからだろうか、先ほどよりも男の力は弱っていた。
警察は倒れている女に近づき、脈と呼吸を確かめた。しかし、彼女は息絶えていた。
「先輩、うしろ!」
警察がその声に反応し、振り向くと頭にマイクスタンドが突き刺さったまま立ち上がっている男が警察の前に立ちはだかっていった。
殺られる、そう思った警察は咄嗟に拳銃を取り出し、男の顔を目かげて発砲をした。弾丸が男の顔を貫通すると、男はそのまま後ろに倒れ、動かなくなった。
ライブハウスの入口付近は騒然としていた。何人かの客やアイドルの子たちが警察に事業を聞かれている姿も見られた。その中に大和田の姿もあり、困惑と何かに怯えているような表情で警察に何かを伝えていた。
野次馬も増え、ちらほらとマスコミも集まってきていた。その様子を人混みに紛れて浦沢彩月は微笑を浮かべていた。
電車を降りた坂上昭二は明和大学までの道のりを考えると、また電車に乗り込んで引き返そうかと思ったくらいだった。しかし、今日から始まる新しい薬を早く試したいという気持ちがそれを押し留めた。
中野駅から徒歩で十分程で明和大学には到着するが、義足を付けた坂上の足では二十分はかかってしまう。五分も歩けば坂上の額からは滝のような汗が流れ出した。
大学が見え、坂上にはオアシスのように見えたが、大学内に入ってみると思ったよりも涼しくなく、彼は誰に向ければいいのかわからない怒りをぐっと堪え、エレベーターで五階へ上がった。
五階に着くとすぐに彼は相談室の受付のドアを開けた。
「こんにちは。二時に予約をしている坂上です」
「坂上さん、こんにちは。板垣先生が来るまで座ってお待ちください」いつもと変わらない受付のおばさんがいつもと同じ言葉を坂上にかけた。
坂上はどさっとソファーに座り、乱暴に荷物を降ろした。受付兼待合室には坂上しかおらず、効いているのかわからないエアコンの音だけが響いていた。
坂上は数年前から明和大学の相談室でカウンセリングを定期的に受けていた。彼は帰宅時で込み合う新宿駅で電車に飛び込んでいた。命は助かったが、その時に左足と左手を失ってしまった。
坂上は自分の見た目にコンプレックスを持っていた。学生の時からずっと体型はぽっちゃりで、顔を含め、その見た目から周りからはカバ男くんと呼ばれていた。
カバ男くん、一見愛されキャラになりそうだが、坂上は違った。彼のどの時代を振り返っても、いい思い出と呼べるものはなかった。彼の人生の大半は怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望が支配していた。しかし、彼は必ず自分のことを見て評価してくれる人が必ずいると信じ、腐らず、真面目に勉強をし、それなりの大学を出て、それなりの会社に就職をした。
社会人になっても彼の人生は劇的に変わることはなかった。坂上は「いつか誰かが評価をしてくれる」という「いつか」を社会人になったその時と期待していた自分がいた。しかし、期待に反してそれは一向にやってくる気配はなかった。
またしても彼の生活の中に怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望といった感情が支配し始めようとした頃、宮前桃花は彼の前に現れた。
ある日、仕事が終わり、唯一職場で気兼ねなく話させる同期の臼田に誘われ、アイドルのライブに行くことになったのだ。最初は乗り気ではなかった坂上だったが、一目、彼女たちのライブを見ると、たちまちファンになってしまったのだった。
坂上は相談室のソファーにもたれながらスマホを取り出し、SNSのアプリを立ち上げた。SNSの検索機能を使い「宮前桃花」と打ち込んだ。すぐに宮前桃花に関するツイートが画面に並んだ。
「宮前桃花、さすがにクビでしょ」
「宮前桃花の相手ってだれ?」
「俳優のSが宮前桃花の彼氏確定?」
宮前桃花に関するツイートを見るたびに坂上は死にたいという気持ちが強くなっていくように感じた。しかし、どうしてもツイートを追ってしまう。そして、死にたくなる。宮前桃花のスキャンダルが出てからというもの、その繰り返しであった。宮前桃花のスキャンダルはこれが初めてではなかった。
「坂上さん」板垣がドアの隙間から声をかけた。
「あ、はい」坂上はスマホをポケットにしまい、待合室を出た。
「今日も暑いですね」
「そうですね」
「すみませんね、そんなに涼しくなくて。大学から節電、節電てうるさくてね」
「そうなんですね」
「最近、何か生活で変化はありましたか。いつもとちょっと様子が違うみたいなので」
「まぁ、なんと言いますか」
「あれですか、追っかけをしてあるアイドルの方の」板垣はそこまで言って、坂上の返答を待った。
「そうですね、まさに」
「ニュース見ましたよ。相当ハマっていますものね。僕も若い頃、ハマってたアイドルがいたんですけどね」
「板垣先生もアイドルとか好きだったんですね。意外です」
「いや、人並みにですよ。その僕が好きだったアイドルが突然結婚しますって会見をしたんですよ。その時はショックを受けましたね。なんかこうクラスの中に好きな女の子がいて、その子に彼氏がいたってわかった時と同じ衝撃を受けたというか。その後は失恋したみたいに落ち込みましたね」
「失恋ですか。確かにそれに似たような感情かもしれませんね。んー、でもなんか違うか」
「どのように違うんですか」
「なんて言うんでしょうね。裏切られた」
「裏切られた」
「はい。裏切られて、悲しい、辛い、そんな感情のような気がします」
「そこに死にたいという気持ちはありますか」
「正直、はい」
「そうですか」
「そういう気持ちがあると新しい薬は服薬できないですか」
「いえ、寧ろ服薬した方がいいです。というのも、今回、試してもらう治験の薬は希死念慮を軽減できる可能性がある薬なんです。だから今、坂上さんが死にたいと思っているなら、服薬をしていただきたいと思っています。いかがでしょうか」
「死にたいとは思っていますが、死にたくないとも思っています。一度、死にかけてますからね。変ですかね」
「変ではないです。それが普通です。しかし、このままその死にたいという気持ちを持ったまま生活を続ければ、いつかまた突然坂上さんはまた死を選んでしまうかもしれません。そうならないように、この薬を服薬してみましょうか」
「そうですね」
坂上は板垣が用意した書類にサインをし、服薬時の注意事項等を聞いた後に、治験用の薬を渡された。
その日から坂上は服薬を開始した。板垣が言っていたように、死にたいと思う気持ちは日に日に軽減していくように感じられた。それから定期的に板垣とのカウセリングがあり、体調の変化等の報告をし、問題がないことが確認されると服薬は継続された。
九月になり、坂上は薬の効果で以前よりも体調がよくなっていることを実感していた。それもあってか、久し振りにライブに行こうと思い立ったのだ。以前までは同じアイドルグループのファンの仲間たちとライブへ行っていたが、宮前桃花の度重なるスキャンダルでファンを辞める仲間たちが多くいた。それもあり、一緒にライブに行く相手は見つからなかった。そこで、坂上は明和大学の相談室が開くピアサポートの会で出会ったまだ大学生だという大和田喜一を誘うことにした。彼は以前からアイドルのライブに行ってみたいと坂上に語っていた。
坂上はいつも決まった時間に薬を飲む。朝起きてからと、仕事が終わった後だ。それは板垣からの指示であった。会社に行っている間に不安を感じないように、そして仕事が終わって何の不安もないまま次の日の朝を迎えられるようにとその時間の服薬を指示された。
夕方六時、仕事を終えていつものように坂上は薬を飲んだ。それから坂上は会社を出た。大和田とはライブ会場で待ち合わせをすることになっていた。
高円寺駅の南口を出て、歩いているとすぐにガールズバーの女の子たちに声をかけられるが、坂上な小声で「大丈夫です」と申し訳なさそうに手振りを付けながら言い、先を急いだ。坂上がそういった客引きの女の子たちの前を通りすぎると必ずくすくすと笑い声が聞こえた。坂上は自分の容姿で笑われているのだとわかっていた。
これまでの人生で異性と話をしたことなんて数えられるくらいしかなかった。自分からは話かけにはいけないし、異性からも話しかけてくることはなかった。その異性と話したというのも、友達同士で話すような内容ではなく、事務的な何かを伝えるだとか、そういう伝達の道具としてそこにコミュニケーションが発生したというものにすぎなかった。
気象神社のある坂を下り、下りきったところで右に曲がる。更に南へ進むと右手に目的地のライブハウスがある。もうすでに物販は始まっていて、客たちが列を成していた。坂上は小走りでライブハウスに向かった。
ライブハウスの入り口横で物販が行われており、サンプルのTシャツなどのグッズには売切れの文字がまだないことに坂上は安堵した。物販の列に並びサンプルのグッズを眺めながら坂上は宮前桃花のことを考えていた。
彼女と初めて話をしたのは、握手会の時であった。会社の同期に連れられて行った初めてのライブの後、「握手会があるからお前も試しに行ってみろ」と誘われ、まあ握手くらいならと軽い気持ちで握手会の列に並んだのだ。
列に並び、握手会の様子を見ていると、握手をするだけではなく、ファンとアイドルが一定時間握手をしながら会話をしていることに気付いた坂上は軽いパニックを起こしていた。これまで異性と実質話したことがない坂上は何を話していいのか頭の中が真っ白になったのだ。前に並ぶ臼田に何を話せばいいのかと助けを求めると、「自己紹介とか、今日のライブよかったですとか話してらすぐ時間になる」とアドバイスなんだかよくわからないことを言われたが、坂上は依然と脳内パニックは続き、列がどんどんアイドルたちに近づいていくと、いよいよ背中に冷たい汗が伝った。
臼田がまずアイドルたちと慣れたように握手をした。その様子を後ろからガチガチに緊張をした坂上が見ていた。
「次の方どうぞ」とスタッフに呼ばれ、坂上は意を決してアイドルたちの方へ足を踏み入れた。
そこにアイドルたちは四人並んでいた。彼女たちは慣れたように緊張している坂上に声を掛けた。
「こんばんは、今日は来てくれてありがと。また来てね」
「初めてですか、また来てくださいね。絶対ですよ」
「臼田さんのお友達ですか? じゃあまた臼田さんと来てくださいね」
坂上は一言も発せず、握手をしながら、やや俯き加減で彼女たちの声を聞くのが精一杯だった。
「あー、なんかカバさんみたいでかわいい」宮前桃花は坂上の顔を覗きながら言った。
坂上ははっとして顔を上げ、宮前桃花の顔を見た。
「また来てくださいね、カバさん」そう言うと宮前は坂上の手を強く握りしめた。坂上には彼女の笑顔は燦然と輝いて見えた。
「また来ます」坂上はそれだけ宮前に伝え、スタッフに剝がされた。
その瞬間、坂上の中で何かが弾けたように感じた。それは、本来ならば青春時代に多くの人が体験するであろう何かを坂上はこの瞬間に感じることができたのだ。
物販で目的の物を購入し終わった頃、漸く大和田喜一が現れた。
「すみません、遅くなりました」
「お疲れ様。ほい、これ」そういうと坂上は大和田にペンライトを渡した。
「何ですかこれ」
「ペンライトだよ。知らないの」
「あー、よくヲタ芸とかで使うやつですね」
「そういうのは知ってるんだ逆に。違くて、これで推しを応援するんだよ」
「あー、そういうやつか。こうやってですか」そう言うと村上はペンライトを光らせて頭の上でペンライトを振った。
「いいよ、今はやらなくて。推しいないだろ、今」
「それもそうですね」
「それで、貸したDVDとかCDで予習してきた」
「はい。行くなら楽しめた方がいいと思ってしっかり予習してきましたよ。僕、あの歌好きです。夏休みが~なんちゃら~みたいな」
「真夏のココナッツな」
「それですそれ。なんか振り付けも楽しいですよね。DVDで見ましたけど、お客さんもみんなでやるんですね」
「そうそう。きっと今日もやるから大和田も恥ずかしがらずにやれよ、ちゃんと」
「やりますよ、もちろん」
「推しは決まったのか」
「んー、全員かわいいんですけど」
「それはわかる。その中でも」
「その中でも、百田秋奈ちゃんですかね」
「やっぱりな」
「なんで、やっぱりなんですか」
「入り口はあきちゃんなんだよ」
「入り口ってなんですか」
「あの子、目立つというか、人目を引くだろ」
「確かに」
「ほとんどのファンがあきちゃんから好きになって、その後、ファンは他の子の魅力にも気付いて、推し変していくんだよ」
「へぇ。そしたらあきちゃん可哀想じゃないですか」
「それが一番ファンが多いのはあきちゃんなんだよ。さすがだよ、あきちゃんは。アイドルの鏡だね」
「坂上さんもちゃあきんから入ったんですか」
「いや、俺はももりんから」
「そうなんですね。それで、その坂上さんの推しは今日復帰なんでしたっけ」
「ながらく謹慎してたけど、漸く復帰。復帰したってことは世間で言われてることは真実ではないということだ」
「そうなんですね。アイドルも大変ですね。そのことについてライブで話したりもするんですかね」
「どうだろうね。ももりんのことだから話さないんじゃないかな。でも、なんか新曲を発表するってSNSで言ってから、それが彼女からのメッセージなのかもしれないな」
「メッセージですか。深いですね、アイドル」
「沼だよ、沼」
ふたりが話していると、ライブ会場の入り口から開場のアナウンスが聞こえた。
「それでは、これから開場いたします。番号を呼びますので、呼ばれた番号のチケットをお持ちの方からから中にお入りください。では、整理番号一番から五番の方どうぞ」
坂上は自分のチケットを確認した。チケットには二百五十と書かれてある。ライブハウスのキャパは三百人程度なので、坂上がライブ会場の中に入れるのはだいぶ後の方である。一方の大和田はビギナーズラックとでも言うのか、一桁台のチケット持っていて、早々にライブハウスの中へと消えていった。
漸く坂上の番号が呼ばれ中へ入ると、すでにフロアは客で埋め尽くされていた。大和田を探すが見当たらなかったので、坂上はPA卓の横に陣取り、そこで今回はライブを見守ることにした。
ライブ開始定刻になり、会場が暗転すると歓声が上がった。そして、様々な色のペンライトが会場内で波を打っていた。会場内にSEが流れると観客たちは更に歓声を上げた。
坂上はペンライトは振り上げ、推しの名を叫んだ。
「ももりーん!」
すると別の場所からも、ももりんと声があがった。それが連鎖していき、ももりんコールが起こった。みんな、ももりんの帰りを待っていたのだと坂上は感極まった。
ステージ下手からメンバーたちが登場すると、これまでにも増して大きな歓声と拍手が上がった。そして、最後に宮前桃花がステージ上に現れ、すると、会場から「おかえり」という声が多くあがった。坂上も喉が潰れるのではないかというくらいの声で叫んだ。
宮前桃花はステージに立ち、客先をまっすぐ見て、マイクを通さず、「ありがとう」と声に出さず、その口の形だけで感謝を告げた。
1曲目のイントロが会場に響くと、大きな歓声が上がり、そのイントロのリズムに合わせて、客先からは「ウリャ!」「オイ!」とコールが始まった。
アイドルたちは激しく、そして華麗にステージ上で舞っていた。
坂上は宮前桃花から一切目を離さず、彼女の身体の細部にまで目を凝らし、そして、彼女の声にだけ耳を澄ましていた。
一曲目が終わるとすぐに、二曲目へと突入した。一曲目と同様に昔からのファンには馴染みのあるロック調の激しい曲で、ファンたちは激しくペンライトを振り、推しが歌えば、その子の名前をコールし、曲と客がまるで一体化していると言っても過言ではなかった。
そして、畳み掛けるように三曲目のイントロが鳴る。
「まだまだ行けるだろー!」とファンを煽るのはリーダーの玉井凛である。
「おー!」とそれにファンたちが応える。
三曲目も激しいパンクロックナンバーでアイドルたちも時折、滴る汗を拭いながらパフォーマンスを続けた。ファンたちはそれ以上に熱気を出し、Tシャツはすでに汗でびしょ濡れになっていた。
「ありがとうございます」三曲目が終わるとリーダーの玉井凛が深く頭を下げて言った。
会場からは拍手が鳴り、歓声があちらこちらであがっていた。
「今日は来ていただいてありがとうございます」玉井がタオルで汗を拭いながら言った。「ごめん、ちょっと飲むね」そう言うとペットボトルの水を喉に流し込んだ。
「おつかれー!」
「いい飲みっぷりー!」
「りんちゃーん!」
客席から声援が上がる。
「ありがとう。私のことはいいからさ、今日はももの復活祭だから。ね、もも」
玉井がそう言うと、客席の視線が宮前桃花に向いた。
宮前は客席にいるファンを見回し言った。
「ただいま」
「おかえりー!」すぐさまファンたちからの声が上がった。
「みんな、待っててくれてありがとう。もも、今まで以上に頑張るから、そしてみんなのこと幸せにするから。だからこれからも宮前桃花をよろしくお願いします」そう言うと頭が膝に付くくらい深くお辞儀をした。
会場から拍手が起こる。宮前は拍手が止むまでずっとお辞儀をしたまま動かなかった。漸く拍手が止むと、宮前は前を向き言った。
「次の曲は新曲になります。私の再起にかける想いを曲にしてもらいました。歌詞はわたし、ももが書きました。聞いてください、『愛が要る』」
歪みの効いたギターの切れ味の良いカッティングからイントロが始まると、すぐに歓声が上がった。アイドルたちは下を向いて微動だにしない。ギターが四分休符し、一瞬無音になるが、すぐにベース、ドラム、シンセサイザーが加わり、その爆音と共にアイドルたちの激しいダンスが始まった。
アイドルたちはステージ上で荒々しさと可憐さをバランスよく組み合わながらせパフォーマンスを見せた。
坂上は『愛が要る』が始まり、曲が最初のサビを終えた頃に自分に異変が起こっていると感じた。宮前桃花のパフォーマンスを目を逸らさず見ているはずなのにも関わらず、彼女が一瞬にして違う場所に移動していたり、曲が飛んで聞こえたりするのだ。二回目のサビが終わりギターソロが始まった時だった。坂上は誰かに頭を何か硬い重たい物で殴られたような衝撃を受けた。そして、目の前が真っ暗になり、何の音も聞こえなくなってしまった。
ギターソロに合わせてアイドルたちはステージ上を愛らしく、そして、激しいダンスを見せた。ファンたちも絶妙なコンビネーションで「ウリャ!」「オイ!」とコールを入れている。
そんな盛り上がる中、突然、客のひとりが後にいた誰かに勢いよく押されたのか、その場に倒れた。その反動でその客の前にいた客も倒れ、数名がドミノ倒しのように倒れていった。どうした? と他の客たちが倒れた客たちの方を見ると、今度はステージ上で悲鳴が上がった。
坂上がステージ上に上がり、宮前桃花の両肩を掴んでいた。
宮前桃花は坂上と対峙し恐懼に満ちた表情をしていた。
「ごめんなさい」宮前がか細い声でそう言った。
その瞬間、坂上は宮前の首に噛み付いた。坂上は彼女の首の皮を噛みちぎると、さらに首の筋肉を噛み、首の外に引き摺り出すかのように引っ張った。限界まで伸びた首の筋肉はパチンという音を立てて切れた。
宮前桃花の首から大量の血が噴水のごとく飛び散り、他のメンバーや客が彼女の真っ赤な血を浴びた。
ステージ袖から体格の良いマネージャーの男がステージに勢いよく飛び出し、その勢いのまま坂上に体当たりをした。坂上と宮前は飛ばされ、ステージに転がった。床に叩きつけられたことで坂上の義足と義手が外れた。しかし、坂上は宮前を掴んだまま離さなかった。マネージャーの男は宮前を掴む坂上の腕を取り、引き離そうとするが、彼の力が強く、まったく動じなかった。坂上は構わず宮前の首に食らいついた。ぶちぶちぶちと不気味で耳障りな音がマネージャーの聴覚を不快にした。マネージャーは宮前の首に噛み付く坂上の頭を踏みつけた。それでも彼は食べることをやめなかった。
マネージャーは近くにあったマイクスタンドを手に取り、マイクスタンドのマイクホルダーを取り外した。そして、マイクスタンドの先端を坂上の頭目がけて振り下ろした。
マイクスタンドは坂上の頭を貫通したが、それでも彼は宮前の首に噛みつこうともがいていた。
マネージャーは坂上の頭に突き刺さったマイクスタンドを引き抜いた。すると、マイクスタンドを引き抜いた頭の穴からどす黒い血が溢れ出てきた。
マネージャーは今度は穴の空いていない部分を目がけてマイクスタンドを振り下ろした。マイクスタンドはまた彼の頭を貫通した。すると、坂上の動きが鈍くなり、いよいよ動かなくなった。
マネージャーは息を荒くし、頭に刺さったマイクスタンドを強く握りしめた。
坂上はまったく動かなくなっていた。同じように宮前桃花も指先ひとつ動かなかった。
ライブハウスの外からパトカーのサイレンの音が鳴っていた。その音に気付き、マネージャーが周りを見るとライブハウスの中にはもう誰も残っていなかった。
マネージャーはステージ上から誰もいなくなった客席に降りた。その時、勢いよく客席の入り口の扉が開き、警察数人が突入してきた。警察はマネージャーに拳銃を突き付けて言った。
「動くな!」
マネージャーは反射的に両手を挙げた。
警察はジリジリとマネージャーに近づき、腕一本分の距離に近づいたと思った瞬間にマネージャーの膝の裏に蹴りを入れ、体制が崩れたところをそのまま床に倒れ込ませた。
「容疑者確保しました」
「俺、犯人じゃないです。犯人はステージの上です」
「ステージの上」警察がステージの方を見ると、倒れている男がごそこそと動いていた。
「こいつを頼む」警察のひとりが別の警察にそう伝えると、ステージへ近づいていった。
そこには頭にマイクスタンドが刺さった男がもぞもぞと動いていた。その男の隣には血まみれの女が倒れていた。警察はさらに男に近づくと信じられないものを見たかのような表情をした。それもそうである。頭にマイクスタンドが突き刺さった男が血まみれの女を食っていたのだから。
「やめろ! 何をしている!」警察が男に向かって叫ぶが男は構わず女の首の肉を自らの口で剥ぎ取っていた。
警察は男を女から引き離した。脳が損傷しているからだろうか、先ほどよりも男の力は弱っていた。
警察は倒れている女に近づき、脈と呼吸を確かめた。しかし、彼女は息絶えていた。
「先輩、うしろ!」
警察がその声に反応し、振り向くと頭にマイクスタンドが突き刺さったまま立ち上がっている男が警察の前に立ちはだかっていった。
殺られる、そう思った警察は咄嗟に拳銃を取り出し、男の顔を目かげて発砲をした。弾丸が男の顔を貫通すると、男はそのまま後ろに倒れ、動かなくなった。
ライブハウスの入口付近は騒然としていた。何人かの客やアイドルの子たちが警察に事業を聞かれている姿も見られた。その中に大和田の姿もあり、困惑と何かに怯えているような表情で警察に何かを伝えていた。
野次馬も増え、ちらほらとマスコミも集まってきていた。その様子を人混みに紛れて浦沢彩月は微笑を浮かべていた。
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