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【1】
今日も疲れた――
一日の勤めを終え、声にこそ出さないもののどんよりと疲労感に苛まれながら、瑚志岐聖珸は、乗り合わせた電車の中で、吊り革につかまり溜め息を落とした。
正面のガラス窓に映る顔には精彩がなく、どこからどう見てもくたびれたおっさん。結婚する予定もなければ、そういう相手がいた試しもない独り者。これでもまだ三十歳なのに。いや、もう三十歳すぎか。
そういえば先日入社してきた同僚は、颯爽たる姿も若さあふれる確か二十五歳ではなかったか。恩も義理もある大口の取引先社長から、たっての頼みと引き受けることになった令息だ。
おかげでこちらは世話係を仰せつかってしまった。そんなお役目などまったくもって面倒この上ない。
まだその社長令息がロクでもないヤツなら、「世の中、結局金のあるヤツが強いんだよね」と自虐ながら折り合いをつけられたかもしれない。
しかしその同僚、比良井塚彬慶は、そんなコネを使わないと就職できないようなドラ息子にはまったく見えない、とてもじゃないがあり得ない。
容姿端麗に加えて才気煥発。もちろん世話係など不要。むしろ、どうしてわざわざよりにもよって、コネまで使ってこの会社に、と問い詰めたいくらいだった。
瑚志岐は再び溜め息をついた。今の会社に身を置く以上、比良井塚のことは容認しなければならない存在であるのは重々承知。そうとわかっていても、日増しに溜まっていくストレスをどうしたらいいのだろう。
有能優秀な比良井塚は入社からこっち、効率アップ、合理化という名目で業務改善を提案し実行に移していた。
おかげで他の人間とちょっとした行き違いやら認識不足やらで揉めごとをちょいちょい起こしてくれていた。
とはいえこれまで看過されていた悪しき慣習にも物申す比良井塚には、瑚志岐にも頷けるものがあった。
だがそうは言っても性急な改革は、それが正しいことでも賛同が得にくい。表向きはどうあれ、内心では「若造が生意気に」ということだ。それは大手取引先の御曹司でも例外ではない。
だから比良井塚には、是非ともそんなサジ加減を学んで欲しいと思う。ゆくゆくは社長業を継ぐであろう御曹司だし。出すぎた杭は打たれるのだ。
そのサジ加減を教えるのがどうも世話係である自分の役目らしいのだったが。
それにしても――
瑚志岐はまた息を吐く。今度は長く深かった。
先ほどから妙に尻の辺り、もぞもぞと探られているような、撫でられているような、つかまれているような、変な感触がしているのだ。
後ろか横か、ともかく近くの人が身じろぎして触れてしまいましたというレベルではなく、明らかに何か目的を持った動きだ。
つまりこれは痴漢? まさか、自分に?
こんなどう見ても、中肉中背のどこにでもいるような普通の容姿をしたおっさんを触って面白いのか?
いや、待て。
まだ痴漢と決まったわけではない。スリの可能性も考えられる。
だがしかし。
言い様のない気色悪さを覚えた瑚志岐は、その可能性を打ち消す。そしてできるだけさり気なさを装って、まずは吊り革をつかんでいる右腕越しに隣に目をやった。
こっちじゃないな。
そこにいたのはまだ若い、二十代前半と思えるパンツスーツのOLだった。何を考えているのか表情は硬く、唇を噛みながら顔を強張らせている。もしかしたら気分でも悪いのかもしれない。
次に左側に目線を送る。こちらはまた体格もいい強面のいかつい男だった。ぱっと見の年齢は不詳。あまり積極的にお近づきになるのは遠慮したいタイプだ。手の位置を窺えばブリーフケースを右脇に挟み、左は瑚志岐同様吊り革をつかんでいる。いわば両手は塞がっていて、自分を触ってくるのは無理だ。
となると後ろか?
瑚志岐はどうしたものかと思案しながら、吊り革を握る手に力が入る。後ろはさり気なく見るというわけにもいかない。
だが足のつけ根辺りから尻の間を撫でられ、ズボン越しでもぞっとした瑚志岐は、たまらず振り返って声を上げる。
「誰だよ、さっきからオレのケツ触ってんのは!?」
言った瞬間、尻に貼りついていた手の感触はなくなった。だが周囲の人から何とも言えない生温かな視線を浴びせられる。
男が痴漢されていると声を上げたのだから、仕方がないかもしれない。
内心で「ちっ」と舌打ちし、背後にいた者を順に見ていけば、瑚志岐の右後ろに立っていたサラリーマン風の男と目が合った。だがすぐに逸らされる。
「てめえか? さっきから気色の悪いことしてるのは」
「そ、そんな……、ち、ちがっ……、お、おと、男、なんか、触るはずないだろ」
ぎろりと目一杯の険を込めて睨めつければ、しどろもどろに言い訳をする男は、顔を引き攣らせ額から汗を噴き出した。瑚志岐は「こいつか」と確信する。
そのとき電車が駅に着き、ホームに滑り込んだ。緩やかに停車し、当たり前のようにドアが開く。
「あ、おいっ!」
痴漢男が付近の客を突き飛ばすように押し退け、降車していった。
「――行っちまった」
その慌てぶりに呆気に取られた瑚志岐は、ホームを走っていく男を見ながら、「あーあ」と呟く。追いかけて捕まえてやるという気力までは持ち合わせていなかった。不本意に触られるという要因はなくなったことだし、とそれで良しとする。
発車ベルが鳴りドアが閉まると、車両が動き出した。乗客たちは、ひとまず何事もなかった態で、電車に揺られ始める。
「あの……」
「ん?」
瑚志岐の右側にいた女性が声をかけてきた。見下ろし窺うと、先ほどまでの気鬱さはなく、どこかすっきり安堵した表情をしている。
「ありがとうございます。私、ずっと触られていて……。ああして声を上げてくれたおかげで助かりました」
女性は瑚志岐を見上げ、心底ほっとしたように笑みを浮かべた。
「え……」
まさかそんなことになっていたとは。あの男、自分だけでなく彼女も触っていたのか。
「お手柄ですね。最初何ごとかと思いましたが、彼女が恥ずかしい思いをしないように、自分が被害に遭ったように言ったんですね」
今度は左隣の強面の男からも話しかけられた。男の発言を受けて、瑚志岐を胡乱げに見ていた周囲の目も一気に和んでしまう。
「あ、いや、それは……」
間違いなくあの痴漢は自分の尻を触っていた。だが「それは誤解だ」と言い出せる雰囲気ではなかった。
「いやいや。そもそも見て見ぬ振りをする者が多いというのに、声を上げることができること自体、大したものです。本当に、このご時世見上げた心の持ち主だ」
「……はあ」
右隣の彼女からはキラキラした眼差しを向けられ、左の男からは善行だと称えられ、瑚志岐は何とも居た堪れない。
さっさと逃げ出した痴漢を恨めしく思いながら、こうなったらあとはもう早く降車駅について欲しいと願うしかなかった。
今日も疲れた――
一日の勤めを終え、声にこそ出さないもののどんよりと疲労感に苛まれながら、瑚志岐聖珸は、乗り合わせた電車の中で、吊り革につかまり溜め息を落とした。
正面のガラス窓に映る顔には精彩がなく、どこからどう見てもくたびれたおっさん。結婚する予定もなければ、そういう相手がいた試しもない独り者。これでもまだ三十歳なのに。いや、もう三十歳すぎか。
そういえば先日入社してきた同僚は、颯爽たる姿も若さあふれる確か二十五歳ではなかったか。恩も義理もある大口の取引先社長から、たっての頼みと引き受けることになった令息だ。
おかげでこちらは世話係を仰せつかってしまった。そんなお役目などまったくもって面倒この上ない。
まだその社長令息がロクでもないヤツなら、「世の中、結局金のあるヤツが強いんだよね」と自虐ながら折り合いをつけられたかもしれない。
しかしその同僚、比良井塚彬慶は、そんなコネを使わないと就職できないようなドラ息子にはまったく見えない、とてもじゃないがあり得ない。
容姿端麗に加えて才気煥発。もちろん世話係など不要。むしろ、どうしてわざわざよりにもよって、コネまで使ってこの会社に、と問い詰めたいくらいだった。
瑚志岐は再び溜め息をついた。今の会社に身を置く以上、比良井塚のことは容認しなければならない存在であるのは重々承知。そうとわかっていても、日増しに溜まっていくストレスをどうしたらいいのだろう。
有能優秀な比良井塚は入社からこっち、効率アップ、合理化という名目で業務改善を提案し実行に移していた。
おかげで他の人間とちょっとした行き違いやら認識不足やらで揉めごとをちょいちょい起こしてくれていた。
とはいえこれまで看過されていた悪しき慣習にも物申す比良井塚には、瑚志岐にも頷けるものがあった。
だがそうは言っても性急な改革は、それが正しいことでも賛同が得にくい。表向きはどうあれ、内心では「若造が生意気に」ということだ。それは大手取引先の御曹司でも例外ではない。
だから比良井塚には、是非ともそんなサジ加減を学んで欲しいと思う。ゆくゆくは社長業を継ぐであろう御曹司だし。出すぎた杭は打たれるのだ。
そのサジ加減を教えるのがどうも世話係である自分の役目らしいのだったが。
それにしても――
瑚志岐はまた息を吐く。今度は長く深かった。
先ほどから妙に尻の辺り、もぞもぞと探られているような、撫でられているような、つかまれているような、変な感触がしているのだ。
後ろか横か、ともかく近くの人が身じろぎして触れてしまいましたというレベルではなく、明らかに何か目的を持った動きだ。
つまりこれは痴漢? まさか、自分に?
こんなどう見ても、中肉中背のどこにでもいるような普通の容姿をしたおっさんを触って面白いのか?
いや、待て。
まだ痴漢と決まったわけではない。スリの可能性も考えられる。
だがしかし。
言い様のない気色悪さを覚えた瑚志岐は、その可能性を打ち消す。そしてできるだけさり気なさを装って、まずは吊り革をつかんでいる右腕越しに隣に目をやった。
こっちじゃないな。
そこにいたのはまだ若い、二十代前半と思えるパンツスーツのOLだった。何を考えているのか表情は硬く、唇を噛みながら顔を強張らせている。もしかしたら気分でも悪いのかもしれない。
次に左側に目線を送る。こちらはまた体格もいい強面のいかつい男だった。ぱっと見の年齢は不詳。あまり積極的にお近づきになるのは遠慮したいタイプだ。手の位置を窺えばブリーフケースを右脇に挟み、左は瑚志岐同様吊り革をつかんでいる。いわば両手は塞がっていて、自分を触ってくるのは無理だ。
となると後ろか?
瑚志岐はどうしたものかと思案しながら、吊り革を握る手に力が入る。後ろはさり気なく見るというわけにもいかない。
だが足のつけ根辺りから尻の間を撫でられ、ズボン越しでもぞっとした瑚志岐は、たまらず振り返って声を上げる。
「誰だよ、さっきからオレのケツ触ってんのは!?」
言った瞬間、尻に貼りついていた手の感触はなくなった。だが周囲の人から何とも言えない生温かな視線を浴びせられる。
男が痴漢されていると声を上げたのだから、仕方がないかもしれない。
内心で「ちっ」と舌打ちし、背後にいた者を順に見ていけば、瑚志岐の右後ろに立っていたサラリーマン風の男と目が合った。だがすぐに逸らされる。
「てめえか? さっきから気色の悪いことしてるのは」
「そ、そんな……、ち、ちがっ……、お、おと、男、なんか、触るはずないだろ」
ぎろりと目一杯の険を込めて睨めつければ、しどろもどろに言い訳をする男は、顔を引き攣らせ額から汗を噴き出した。瑚志岐は「こいつか」と確信する。
そのとき電車が駅に着き、ホームに滑り込んだ。緩やかに停車し、当たり前のようにドアが開く。
「あ、おいっ!」
痴漢男が付近の客を突き飛ばすように押し退け、降車していった。
「――行っちまった」
その慌てぶりに呆気に取られた瑚志岐は、ホームを走っていく男を見ながら、「あーあ」と呟く。追いかけて捕まえてやるという気力までは持ち合わせていなかった。不本意に触られるという要因はなくなったことだし、とそれで良しとする。
発車ベルが鳴りドアが閉まると、車両が動き出した。乗客たちは、ひとまず何事もなかった態で、電車に揺られ始める。
「あの……」
「ん?」
瑚志岐の右側にいた女性が声をかけてきた。見下ろし窺うと、先ほどまでの気鬱さはなく、どこかすっきり安堵した表情をしている。
「ありがとうございます。私、ずっと触られていて……。ああして声を上げてくれたおかげで助かりました」
女性は瑚志岐を見上げ、心底ほっとしたように笑みを浮かべた。
「え……」
まさかそんなことになっていたとは。あの男、自分だけでなく彼女も触っていたのか。
「お手柄ですね。最初何ごとかと思いましたが、彼女が恥ずかしい思いをしないように、自分が被害に遭ったように言ったんですね」
今度は左隣の強面の男からも話しかけられた。男の発言を受けて、瑚志岐を胡乱げに見ていた周囲の目も一気に和んでしまう。
「あ、いや、それは……」
間違いなくあの痴漢は自分の尻を触っていた。だが「それは誤解だ」と言い出せる雰囲気ではなかった。
「いやいや。そもそも見て見ぬ振りをする者が多いというのに、声を上げることができること自体、大したものです。本当に、このご時世見上げた心の持ち主だ」
「……はあ」
右隣の彼女からはキラキラした眼差しを向けられ、左の男からは善行だと称えられ、瑚志岐は何とも居た堪れない。
さっさと逃げ出した痴漢を恨めしく思いながら、こうなったらあとはもう早く降車駅について欲しいと願うしかなかった。
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【オレンジとシェリー】
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