ラブギルティ ~あなたに恋していいですか?~

波奈海月

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1巻

1-3

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 きっと彼は、誰もが自分に夢中になってしまうという、ごうまんな考えの男なのだろう。
 そんな彼を否定するようなことを言ったのだ。しかもあえて気にさわるように言葉を選んで。
 つまり室生さんが、わたしに反感を覚えたのは自然な話だ。プライドを傷つけられたと感じたに違いない。
 だからあんなことを――
 どうしよう? 謝っておくべき? そんなつもりはありませんでしたって?
 だけどわたしだってあのとき室生さんに詰め寄られ、しかも立ち聞き、盗み聞きと言いがかりをつけられたのだ。その上、十把一絡じっぱひとからげに女はどうしようもないと見下された。今、思い出しても腹が立つ。
 この怒りを黙って収めろって?
 無理! だいたい、わたしがあそこにいたのは、不可抗力。不、可、抗、力!!
 事前に告白してるってわかっていたら、当然別ルートを探した。

「ふん。だったら、希望通り女を教えてあげるわ」

 メラッと闘争心を燃やし、わたしは残っていたビールを一気にあおった。少しぬるくなっていたそれを飲み干すと、ダンと缶をテーブルに置く。
 今日のこの疲労感の落とし前くらいつけてもらっても、バチは当たらないわよね?

「覚悟しなさい、室生圭佑」

 敵前逃亡はしない。迎え撃つ。
 良くも悪くもある負けん気の強さが、ジリジリと顔を出していた。
 これでもわたしは身の程はわきまえている。自分の器量はわかっているのだ。可もなく不可もなく、取り立てて秀でているわけでもない。せいぜいその他大勢だ。
 それに、男性経験なんて過去の手痛いアレしかなく、ほとんど処女のわたしに、女を教えるなんて大それた真似ができるはずない。
 けれど、それでも教えてやる! わたしという女を、わたしなりの方法で――
 女は恋愛優先で仕事は二の次、全員自分に熱を上げているだなんて、そんな自惚うぬぼれを打ち砕いてやるのだ!
 三課最年長の女子社員をめるなよ。入社してからずっと営業アシスタント、にここまできたわけではない。
 わたしは二本目の缶を手にするとプルトップを引き上げた。


 翌日、少々の寝不足を感じながらも出社したわたしは、自分の席に着くと室生さんの姿を捜した。隣の課と言っても部屋が区切られているわけではなく並べた机の列が違うだけなので、顔を上げて見回せば様子を容易にうかがえる。
 寝不足の原因はもちろん、どうやってあの失礼極まりない無愛想男――室生さんに女を教えるか作戦を立てていたからだ。
 そこで導き出した結論は、まずは相手を知るべし。
 彼を敵と認定した以上は、しっかりとリサーチしよう。そこから目にもの見せるためのアプローチを考えるつもりだ。自称「女嫌い」を治すためにも、まずは彼のわたしに対するイメージアップを図る。
 よくある恋愛シミュレーションゲームなら、挨拶あいさつしたりにっこり微笑んだりで好印象を与えるといったワザを使うのだが……
 口喧くちやかましいおつぼねコースを邁進中まいしんちゅうのわたしが微笑んだところで、効果があるとは思えない。受付嬢の万由里ならまだしも、却って具合が悪くなると言われて引かれる光景が、頭に浮かぶ。
 室生さんの好みを憶えて小休憩のときにお茶をれてみようかとも考えついたが、昼の休憩時すら社にいないのに、午後の休憩で席にいるなんて滅多にない状況だ。それ以上に、課が違うわたしがお茶を出したらおかしい。
 正直なところ、まったく具体的な方法は思いついていない。こんなことで大丈夫なのかな、わたし。
 あ、きた――
 悩んでいるうちに、ターゲットが到来した。
 今日もただのビジネススーツがデザイナーズブランドに見えてしまうほど着こなした室生さんは、始業チャイムが鳴る十分前に席に着く。どうやら彼は、早めに出社してくるタイプではないらしい。
 そのままこっそり見ていると、彼は周囲にいる同僚とこれといって話すこともなく、ひたすら、自分のタブレットに向かっていた。もちろん二課の女子社員との会話はない。彼をこそこそと覗き見ている他部署の女子にいたっては一瞥いちべつたりともしなかった。
 まさに孤高。
 これをクールというか人づき合いが悪いというか判断はそれぞれだろうが、わたしからすると社会人としてのコミュニケーション能力を問いたいくらいの無愛想の極みだ。覗き見している女子はともかく、男性社員とは情報交換なり打ち合わせなりすれば良いだろうに。
 タブレットを使ってメールチェック? それとも時事ニュースサイトの最新情報でも確認しているのだろうか。
 あまり見ていると気づかれるかもしれないと思い、わたしは自分の仕事に意識を戻した。三課の営業の予定を頭に入れながら、今日の段取りを組んでいく。
 山口の出社は明日。それからあの問題児――伊津さんは、まだ出てきていない。せめて始業五分前には出社してほしいのだが、言っても素直に聞いたためしがないため諦めていた。とりあえず他の営業アシスタントと抱えている業務の相互確認をしなければ。
 それらを心のタスクメモに書き終えたわたしは、また室生さんへちらりと目線を走らせた。
 彼はまだタブレットの操作を続けているようだ。
 今、いったい何を思っているのだろう。
 わたしはふと、彼の気持ちが気になった。
 昨日、あれだけのことをかましてくれたのだ。少しはわたしのことを考えてくれた? それとも、その場限りの冗談など思い出しもしないのだろうか?
 けれどすぐにはっとして、目を泳がせる。
 我ながら決まりが悪くなった。これでは、まるで恋するオトメの悩みのようではないか。

『でも、私が瀬理奈さんに一番のおススメだと思うのは、営業二課の室生さん――』

 おまけにここで万由里の言葉までよみがえってくる。
 まさか、策を考えるあまり、しなくてもいい意識をし始めてしまったというの?
 そうなの? わたし!?
 いやっ!! いやいやいやっ!! そんなはずはないっ!!
 わたしは室生さんに一瞬たりとも運命を感じていない。二年前、こっちに異動してきたときだって、イケメンだなとは思ったけれど、それだけだ。
 今だって同じ。彼のことはアウトオブ眼中。運命の人じゃない。
 昨日、耳もとで意味深な言葉をささやかれて、ついドギマギしてしまったが、あれはときめいたのではない。耳が……そう! くすぐったかったのだ。つまり生理現象で、決して室生さんに胸を高鳴らせたわけではない。
 わたしは、知らず詰めていた息を「ふぅ」と吐き出した。
 女という存在を認めさせるのが目的であって、彼に好かれたいのではないと、自分に言い聞かせる。
 だいたい初めから結果が見えている。
 もしも万が一、仮に、わたしが室生さんに恋をしたとしても、迎える結末は、これまでの女性たちのように玉砕だろう。
 わたしなど足もとにも及ばない、いわゆる「女性的」な人からの告白はこれまでにあったのだ。「魅惑的」だったり、「蠱惑こわく的」だったりはもちろんのこと、良妻間違いなしと評判の「家庭的」な総務部の女子社員が去年退社したのは、室生さんに振られて居づらくなったからだなんていう噂も耳にしたことがある。
 これといって魅力のないわたしが、彼にどんな恋愛アプローチができるというのだ。
 保護欲をそそるようなドジッキャラになって意外性で攻めるという案が思い浮かばなかったこともなかったが、すぐに却下する。これまで見聞きした話と実際昨日話した室生さんの印象は「S」。それも「ド」をつけてもいいくらいだ。そういう男は、「征服欲」が強くて「保護欲」は弱い。ゆえに、これもない、ないのだ。
 だいたい「ドジっ」なんて、わたし自身が無理。
 ――なんだか話がれてしまった。急いで、意識を根本に戻す。
 わたしが、あの無愛想無礼千万な男に知らしめてやりたいのは、女だって責任を持って仕事に取り組んでいるんだってことだ――
 始業チャイムが鳴り、営業部の朝礼が始まる。
 前月の売り上げについて部長から話があった。売り上げ達成率トップは二課。惜しくもわずかに届かなかったのが一課で、大きく引き離されたのが三課だ。最終的に確定するのは来週だが、細かな数字の変動はあっても、この順位は変わらない。
 いつもの通りと言えばそうだけど、あの伝票さえ回っていれば、と思うと今回は複雑だ。
 その分今月は三課がトップを取らせてもらう。昨日入力した分が今月の売り上げとして計上されれば、それなりにアドバンテージとなるはずだ。
 朝礼が終了すると、室生さんは席を立った。取り引き先に出かけるようだ。
 わたしは室生さんの姿が完全に見えなくなるのを待ってから、資料室に行く通りすがりをよそおって、何気なく二課の行動予定が書かれたホワイトボードに目をやった。
 室生さんの行き先は、〈常磐ときわ物産〉。彼が大口の契約を取ったという例の再開発事業を仕切る会社だ。帰社時間は書かれていないので、もしかすると終業まで戻ってこないのかもしれない。
 まったく忙しい人だ。それに比べて、うちの課は――
 三課を見ると、のんびりしたものだった。おもむろに電話をかけ始める者や資材見本帳をめくりながら何か書きだす者ばかりで、がつがつと仕事を始める様子はない。
 そんな光景を目にすると、売り上げ目標を達成できないのは仕方がないように感じてくる。少しは、悔しいとか残念とか、ないのだろうか。
 もっとも、室生さん以外の二課の面々ものんびりしていて、大差なかった。エースとそうでない者の差なのかと、変に納得してしまう。
 しかしまだ始業して三十分だ。さすがに昼まで席を温めてはいないだろう。
 わたしも仕事に取りかかろう。それをおろそかにしてまで室生さんにかまけては、本末転倒だ。いずれ、女だってきちんとした仕事ができるのだと彼に教える機会はある。
 そして、事件は起きるのだった。


 わたしが室生さんを観察するようになってから、そろそろ一週間が経とうとしていた。
 彼は相変わらず、忙しい。朝礼後、すぐに出ていく。行き先はもちろん担当する取り引き先だ。午前中社にいたのは二日ほどだった。
 結局、女を教えるどころか、接触すらしていない。彼のほうから連絡するとか言っていたけれど、それもなかった。
 もう、あのときのあれは、ちょっとしたその場の冗談だったのだから、なかったことにしようかと考え始めていたときだ。

「伊津さん? あら、コーヒー?」

 行きつけの洋食屋で昼食を済ませて戻ってくると、珍しい光景を目にした――そう言うと失礼だとは思うけれど、あまり見たことがないのは確かだ。
 あの伊津さんが、お盆に紙コップに入ったコーヒーを載せて給湯室から出てきたのだ。

「部長に頼まれたんですよ。ショールームまで持ってきてほしいって」

 ちらりとこちらを見て、これぐらいできると胸を張る伊津さんに、わたしはなんだか微笑ましいものを覚える。
 そうかそうか、いろいろ言いたくないことも言ったけど、ようやくわかってくれたんだね。
 女子社員がお茶汲みをする慣習がなく基本セルフの会社だけど、頼まれてしまうことはある。
 それを、これまでの彼女は、パワハラだと言いかねない勢いであれこれ文句をつらね、ガンとして拒否していたのだ。

「そうなんだ、部長に。何か打ち合わせなのかな。珍しいわよね、ショールームでなんて」

 伊津さんが運んでいるカップの数は四つ――あれ? 今、何時だっけ? 昼休みがもうすぐ終わるから……

「ショールーム?」

 わたしは伊津さんにたずねる。

「ショールームです」

 オウム返しされた。
 普通そこでするのは、社員同士の打ち合わせではなくて、取り引き先との商談だ。

「ちょっと待って、伊津さんっ」

 わたしの脳裏のうりによぎったのは、室生さんの予定だった。今日は珍しく朝から社内にいて、出かける様子がなかったのだ。それもそのはずで、昼一番、一時から来客と予定表に書き込まれていた。

「なんですか? いちゃもんつける気ですか?」

 焦って伊津さんを引き留めると、見る見るうちに彼女は目をすがめ、不機嫌な表情になる。

「いちゃもんなんてないわ。でもちょっと待って。確認するから」

 わたしは近くの内線電話に手を伸ばし、受付の番号を押した。
 すぐに聞き慣れた友人の声が聞こえる。

「忙しいところ、ごめんなさい。今、どこか来社された?」
『ええ、常磐葉様がいらしてます。部長の栗林くりばやし様と担当のぎわ様。今から八分ほど前ですね』

 万由里は、すらすらと名前と来社時間まで答えた。

「ありがとう。もう一つ頼まれて。コーヒーを四つ、ショールームまで出してくれる?」
『承知しました。実は連絡がないので、お客様の分だけでも出そうかとこっちも困ってたんですよ』
「ごめんね。できるだけ急いでもらえたら嬉しい」

 了解、との明るい声を聞いたわたしは受話器を置いた。

「宮原さんっ! どうしていつもそうやって邪魔するんですっ!? 頼まれたのはあたしなのに、受付に何言ってるんですか!?」

 ホッとしたのもつかの間で、わたしは頭を抱えたくなった。彼女のためにもきちんと説明しておかなければならない。

「伊津さん、部長がどういう頼み方をしたのかわからないけど、来社されたお客様には自動販売機のコーヒーは出さないの。受付に頼めば手配してくれるから」

 明文化されてはいないが、来客時のお茶出しについては、受付に頼むことになっている。受付嬢たちが、きちんとドリップしたものを出してくれるのだ。

「はあ!? なんですかそれ。部長、客なんて言ってませんでしたよ!? コーヒー四つ、ショールームにって」
「うん、そうね。言ってなかったのね。でも、ショールームって、部長は言ったのでしょう?」

 長くこの会社にいる部長は、「ショールーム」だけで判断できると思ったのだろう。来客かどうか迷ったとしても、受付にたずねれば済むことだ。

「それがなんなんですか」

 言い返され、わたしは内心で小さく溜め息をつく。

「ショールーム、イコール、たいてい来客なの。だからお茶を頼まれたときは、受付に連絡すればやってくれるから」

 まったく部長も、「来客」の一言をつけ加えておいてくれたら良かったのに。そうしたらいくら伊津さんでも……

「そんな話、聞いていません」
「え……?」

 わたしは、口が半開きになった状態で固まった。いったいなんなのよ、どんだけなのよ、この娘。ああもう面倒くさい。
 わたしは三課をあずかる営業アシスタントの先輩として、彼女が配属になった日にこの話をちゃんと教えていた。それに、少し周囲を気にしていれば他の社員の動きからでもわかるだろう。
 彼女はもうここにきて一年になる。だからわたしはもう少し自覚を持ってもらいたくて、強めにさとす。

「だったら今憶えて。もう新人じゃないわ」
「わかりました。でしたら、もうやりません。そのほうが間違いがないでしょうから。宮原さんていつもそうですよね。何かっていうとイヤミったらしくグチグチ言って」
「は?」

 やらないってどういうことよ!? だいたい、ここまでのどこが嫌みなのだ。
 のどもとまでせり上がってきた言葉をわたしはすんでのところで嚥下えんげする。
 頭痛が痛い。
 表現が間違っているのは承知だ。しかしそう言いたくなってしまう、このもやもや感いっぱいの気持ちをどうしたらいいんだろう。
 言葉が通じない。これが世代の差? ジェネレーションギャップ?

「おい、何してる。常磐葉様はもうショールームにみえているんだぞ。コーヒーはどうした」

 そんなところに、営業部長が幾分きつめの口調で声をかけてきた。伊津さんにコーヒーを用意するように言った、その人だ。

「なんだ、それは。まさかそれを出す気か? 相手は客、それも業界大手の常磐葉様だぞ」

 部長が、伊津さんが手にしていたお盆に載った紙コップのコーヒーに気づいて眉間にしわを寄せる。

「いえ、違います。コーヒー、四つですよね。受付にショールームまで出してくれるよう頼みましたので、大丈夫です」

 わたしは、顔をらせた伊津さんを背にかばい、笑みを貼りつけて答える。

「そうか。ならいい」

 納得顔で去っていった部長の背中を、伊津さんは憤然として忌々いまいましげににらむ。

「部長は言葉が足りないときがあるの。腹が立つだろうけど、わからないときはいて」

 わたしはわずかに肩をすくめ、お盆にコーヒー代を置く。たまたま洋食屋で払ったランチのお釣りがポケットに入っていて、その金額がコーヒー四つ分に近かったのだ。

「なんですか、これ」

 怪訝けげんそうにかれたわたしは、素っ気なく答える。

「自腹なんでしょ。ポケットに入ってたの。それより、戻るわよ」

 浮いてしまった自動販売機のコーヒーは、ちょうど居合わせた三課の営業アシスタント四人でいただく。少しぬるくなっていたが、猫舌のわたしにはちょうど良かった。
 そうしてその後、担当する顧客への礼状をずっと書いていたわたしは、一息つきたくなり、手を止めた。通路を挟んだ隣の課の机から内線電話の音が聞こえてくる。

(早く誰か、取りなさいよ)

 そう思い、音がするほうに顔を向けると、一向に鳴りやまない電話の近くには、取るべき者がいない。
 そういえば、さっき二課の女子が席を立っていた。多分トイレだろうが、少し離れたところにいる二課の営業は別の電話に対応していて、出ようにも出られない。
 電話が鳴り続けるのに我慢ならず、わたしは立ち上がると電話を取った。

「はい、三課の宮原です」
『……二課の内線じゃないのか?』

 案の定、受話器から怪訝けげんそうな声が聞こえる。その声に、わたしはドキリとした。

(室生さん!?)

 鼓膜を震わせる低音に騒ぐ胸をどうにか落ち着かせて、努めて平静に返す。

「タイミングが悪かったわ。ちょうど今、二課に出られる人がいなかったのよ」

 耳の奥がどんなにジンとしびれても、それを態度に出して、ところ構わずキャーキャー言う年齢じゃない。今は仕事中だ。

『そうか……』
「わたしでわかることなら言ってください」

 受話口から聞こえた室生さんの声に逡巡しゅんじゅんめいたものを感じたわたしは、うながしてみる。
 部長も同席している商談を中座して電話をかけてきたのは、何か必要あってのことに違いない。

『――コピーを二十枚ほど頼みたかったんだが』
「コピーですね。では今からそちらに行きます」
『君が?』

 わたしが二課の誰かにことづけるとでも思っていたのか、室生さんは意外そうな声を出す。

「ええ、わたしが。必要なんですよね?」
『そう……、君は――』
「これくらい構いませんよ。今なら手が空いてますから」

 室生さんは三課のわたしに用を頼むことを気にしていた。だが、トイレに立った女子はまだ戻ってきそうにないし、その程度のコピーを取るくらい大したことではない。何より、困ったときはお互い様だ。
 わたしはちょっとした気分転換になりそうだと気安く応じて、受話器を置く。三課の同僚に席を外すことを伝え、ショールームに向かった。
 モデルルームのように美しく家具が展示されたブースの一つで、部長と室生さん、〈常磐葉物産〉の二人が向かい合って話をしていた。
 わたしは「失礼します」と声をかけてから中に入る。すると強く、香水の甘ったるいにおいがした。
 このにおい――おそらく、有名ブランドのあれだ。わたしも海外土産みやげでもらったことがある。甘さが苦手で使っていないけれど。

「すまないな、これを頼む。常磐葉様にお渡しする分と部長とで二部だ」

 わたしの声で室生さんが立ち上がり、コピーする十ページほどのレジュメを手渡してくれた。表紙には、再開発におけるなんたらとあるので、プレゼンの資料だろう。

「わかりました。二部ですね」

 返事をしながら、室生さんの陰に隠れて、ささっとテーブルの上をうかがった。
 広がった書類に資材サンプルがいくつか、スマートフォンとタブレット、それとコーヒーカップ。ついでにこの、においの主であろう常磐葉の女性部長も視界の端でとらえる。結構、化粧が濃い。

(カップは空のようね)

 わたしの目線の先に気づき、室生さんが一瞬怪訝けげんそうに眉根を寄せる。それを無視して頭を下げると、わたしは書類を手にその場をあとにした。商談はまだ続きそうな雰囲気だ。
 営業部と同じフロアにあるコピー室に向かう途中で、手近な電話から受付に連絡する。

「営業三課の宮原ですが、ショールームにお茶を四つお願いします。先ほどコーヒーを出してもらったので、今度は緑茶で」

 内線電話に出たのは万由里ではなかったが、これだけ伝えれば大丈夫なはずだ。
 わたしは、コピーに取りかかった。コピー機から吐き出されてくる用紙を、預かった書類と同じようにじて、ショールームに戻り室生さんに渡す。
 再びテーブルをうかがうと大差なく書類は広がっていたが、コーヒーカップが湯呑み茶碗に置き換わっていた。
 さすが受付。きっちり頼んだ通りやってくれる。しかも茶菓子まで添えてあった。
 わたしは、達成感にも似た満足を覚えて、つい口もとを緩めてしまう。それを急いで引き締めると、室生さんに目礼してきびすを返した。
 ともかく、これで用事は終わりだ。時間は小休憩に入ろうとしていた。

(今日中に発送の下準備までやってしまいたいな)

 十五分の休憩を取り、自分の業務を再開したわたしは、また礼状書きを続けた。
 お礼状なんてパソコンで作って一律で印刷してしまえば楽だけれど、「家」という高額な買い物をしてくれたお客様への、ちょっとした感謝の気持ちで、うちの課では手書きにこだわっている。
 非効率だとか、無駄とかいう声もなくはないが、メンテナンスやリフォームの際に、引き続き声をかけてもらえる理由の一つだと思いたい。営業として直接お客様の相手をするわけではないアシスタントができる後方支援のつもりだ。
 そんなことを考えていたとき、ふと二課から声が聞こえた。

「ショールームの片づけですか? 今ちょっと手が離せないので、あとでやっておきます」

 わたしは、動かしていた手を止める。隣の課の女子社員が内線電話に出ていた。察するに、商談が終わったのだろう。つまり相手は室生さんだ。
 でも、あとでって。ショールームは、いつでも人を迎えられるよう、常に片づけられているべきで……
 気にはなったが、そうそう三課のわたしが出張ることはない。人がいないなら手伝うのもやぶさかではないが、今は二課のアシスタントが席にいる。
 ちらりとうかがうように目をやると、バッチリ目が合ってしまった。


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