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1巻
1-2
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これは怒っている。静かに、しかもかなり深く。伊津さんはそれだけのことをやってしまったのだ。
「本当にごめんなさい。わたしができる限り気をつけるから」
居たたまれなくなったわたしは、再び謝罪の言葉を口にして頭を下げた。伊津さんから見たら、わたしがこうして謝罪することも腹立たしいんだろうけど。
「もう、顔を上げてください。瀬理奈さんって、つくづく自虐が好きなんですね」
「えっと、自虐?」
言われた意味がわからなくて、訊き返す。
「普通、自分を嫌っている人を気にかけるなんて、しないと思いますよ? それもかなりの問題物件です」
「も、問題物件……」
言いえて妙だ。確かに彼女の勤務態度には問題がある。伝票を溜めこんでいた件にしても、江原邸の資材見本にしても――
彼女はますますわたしに敵愾心を向けるだろう。正直、上手く指導できる気はしない。しかし立場的に、わたしがやらないといけないのだ。
「今日のところは瀬理奈さんの顔を立てて収めます。でも次、もし何かあったときは、速やかに上の者に報告します。告げ口だと言われようとも」
すっと背筋を伸ばした万由里は、会社のためにならないからときっぱりと言った。
そこにおっとりとしたお嬢様の顔はない。
「それと瀬理奈さん。責任感があるのは美徳かもしれませんけど、あなたの場合はもう少し力を抜いたほうが良いと思うの。たとえば仕事ばかりに気をとられないで、思いきって、自分の優良物件を探すのはどうかしら」
「ぶふっ」
思わず噴き出したわたしは、力業に近い話題転換をした万由里の顔をじっと見てしまう。
が、すぐに口もとを拭おうと、テーブルの上の紙ナプキンに手を伸ばした。
「何よいきなり、優良物件って……」
おそらく万由里は、入社以来――正確に記するならあの散々だった男と切れてから、浮いた話が皆無のわたしを心配しているのだ。
もちろん、優良物件が何を指しているのか、理解している。
生涯をともにするに相応しい最良最善の結婚相手のことだ。ロマンス小説なら、どこかの王子様とか一流企業の御曹司とか、そんな文句なしのヒーロー。
「なんでしたら私、お手伝いしますよ。最近プライベートで男性と知り合う機会があって――」
「だ、男性と知り合う機会!? 万由里、いつそんなっ!?」
わたしは驚いて声を上げる。
深窓というか箱入りというか、そんな万由里に男!?
「大丈夫ですよ、身もとは確かな方ばかりだもの」
ほわりといつもの優しげな笑みを浮かべた彼女の言葉はあまりにも想定外で、わたしは口を開けたまましばし固まる。
「仕事も良いですけど、恋愛も大切だと思いますよ」
万由里は言葉を続ける。
なんでこんな話になっているんだろう。ちょっと問題のある同僚について話をしていたはずだったのに。
「そうですね。会社にもまだ人生の伴侶を得られていない方はたくさんおられます。そちらのほうがいいですか? 身近なところでは山口さんですね。彼は私たちの同期ですし、少々チャラいところもありますが、話は合うと思います。それから――」
万由里はそう言って、彼女のいない独身社員の名を次々挙げていく。
受付をやっていると、人事部さながら、しかもプライベート込みの情報が入ってくるらしい。
「でも、私が瀬理奈さんに一番のおススメだと思うのは、営業二課の室生さん――」
「はあ?」
わたしは思いきり顔を顰めて、万由里の言葉を遮った。
彼のことは苦手に感じている。それに今朝のこともあった。
無口とかクールだとか騒がれているが、わたしに言わせればただの無愛想。それでよく営業が務まるものだ。もっとも実際結果を出しているので、有能さは認める。
でも、ちょいちょい感じる、女性をどこか見下しているような態度が気にくわない。
実際、何人か彼に告白を試みたそうだが、すべてけんもほろろで聞くだけ無駄とバッサリ一刀両断したらしい。あとは冷ややかな目で見られておしまい。
そんな彼を、万由里ってば、わたしに一番のおススメとか!?
「は、はは……、か、彼が、優良物件……?」
わたしの口から、無意識に声が出ていた。
ない。ないないないないっ!! あり得ないっ!!
正直に言ってわたしは恋がしたい。燃え上がるような、悔いのない一生もんの恋だ。そして結婚したい。
その相手となるのは、出会った瞬間、全身に衝撃が走るような、そんな運命の人のはずだ。
室生さんとはこれまで顔を合わせて一度たりともドキドキしたことがないし、ときめきもきらめきも感じたことがない。
……イケメンだとは思うけれど。
わたしたちはそこで話を切り上げ、社に戻った。
ロッカールームで万由里と別れたわたしは四階に行き、営業三課に向かって歩く。
「室生さんっ! 待ってください、話を――」
ひぅっ!?
突然聞こえてきた女性の声に驚いたわたしは、踏み出しかけていた足をぴたりと止めた。
ちょうど廊下を曲がろうとしていたところだ。そのまま足を床に下ろし背を壁につけ、息を潜める。
えっと、何ごと? もしかしてこの先に室生さんが……?
女性の声の雰囲気から察するに、とても仕事の話とは思えない。
これって、アレ? ヤバいところにきちゃった?
ついさっきまで彼のことを考えていたこともあって、わたしの心臓は妙な具合に乱れ打つ。
「どうしてですか? あたしは真剣です」
待って、この声――っ!?
わたしはそっと顔を出して、様子を窺う。
女性はこちらに背を向けていたものの、背格好と、くるっと巻いた明るめの髪から、やっぱり伊津可南子だとわかった。
彼女の昼休みはとっくに終わっているはずなのに……今度は何っ!?
どれだけ面倒を――じゃない。もしこの場面がわたしが想像している通りなら、これはプライベートだ。ただの同僚であるわたしには関係ない――んだけど!!
「真剣? いきなり呼び止めて何事かと思えば」
彼女に応じる室生さんの声を聞いた途端、ずくん、と鼓膜に響いた。
少しハスキーで甘い……
うわっ、わたし何考えてるのよ!? あ、甘いだなんて、明らかにムッとした声なのに。
わたしは軽くパニックを起こし、ますます出るに出られなくなる。
「でも室生さん、いつも会社にいないから。あの、あたし本当に、室生さんのことが……」
「聞くだけ無駄だな」
室生さんは冷たい声で言う。これが噂に聞く一刀両断。
「無駄って――、ひ、ひどいっ! あんまりです!」
伊津さんの声は震え、涙混じりになった。まさか泣く? ここで?
「ひどい?」
室生さんの冷ややかな声音から、彼女の言動が迷惑以外の何ものでもないことがわかった。
だからって問答無用の端的な言葉でバッサリいかれちゃうのは、さすがに伊津さんが気の毒になる。同じ女としては、断るにしても、もう少し言葉を選んでほしいところだ。
すっかり立ち聞きモードになってしまったわたしは、伊津さんに同情する。
とはいえ、いつ誰が通るとも限らないこんなところで告白されても困るに違いなかった。室生さんも仕事中だろう。せめて休憩時間だったら、彼の態度ももう少し違ったんじゃないだろうか。
でも室生さんはたいてい商談に出かけていて社にいないことが多く、終業時間になっても自分の席に着いていることは滅多にない。伊津さんは、見かけた今がチャンスと思ったのだろう。なんといっても彼は女子に人気だ。誰よりも先に想いを伝えなければ、という焦りがあったのかも……
などと考えつつ、わたしはポケットに入れていたスマホで時間を確認した。
どうしよう。いつまでもここで身を潜めているわけにはいかない。ただでさえ、今日は想定外のことで仕事が押している。
このままでは残業になりかねなかった。
それはさすがに嫌だ。終業後にデートする相手はいないけど、プライベートな時間は大事にしたい。先週買って積んだままになっている本を読みたいのだ。もちろんロマンス小説だ。
もう、空気を読まずに出ていこうか。たまたま声が聞こえたから立ち止まっただけで、気づかなかったら、通りすがっていた。
決まりだ、行こう。仕事は山積み、早く戻りたい。
よし、とわたしが頷いたとき、それは頭の上から降ってきた。
「また君か。今度は立ち聞きか?」
驚いて顔を上げると、そこに室生さんがいた。
「わ、わ、室生っ、さ、ん」
わたしはごくりと生唾を呑み、喉を鳴らす。
室生さんは、普段の無愛想な表情なんて比じゃない、眉間の皺がいっそう深い顰めっ面だ。さっき甘いと感じてしまったその声は、糖分なんて微塵も入っていない重低音に変わっている。
「ちがっ、そ、そんな、んじゃ……、えっと」
「これのどこが違うと?」
じろりと眇めた目で見られたわたしは、返事に窮する。
いや、どう見ても立ち聞きだ。実際、様子を窺って話を聞いていたのだから。
でもそれは、出るに出れないものがあって――
わたしは室生さんから視線を逸らすように目を泳がせつつも、気になってちらちらと上から下まで全身を眺める。
目の前に立たれると、百八十センチ近い身長を一段と実感した。
シャツの襟にかからないように清潔に切りそろえられた少し癖のある髪。きりっとした男らしい左右の眉、間には縦皺が刻まれているけれどそれも魅力の一つだ。
先ほどから訝しげに細められた眼差しさえ、カッコ良いと思ってしまった。わたし、いったいどうした!?
万由里の言葉が脳裏によみがえる。
『でも、私が瀬理奈さんに一番のおススメだと思うのは、営業二課の室生さん――』
なんてことだ。万由里のせいで、妙に意識をしてしまう。
幸い(?)室生さんを前にしても、雷に打たれたような衝撃はない。彼は運命の人ではないのだ。まずは安心。
どんなにカッコ良くても、彼は駄目だ。だって彼はなんというか――
「君は、彼女と同じ課だな。三課はよほど暇と見える」
ほらね、この小馬鹿にしたような、ひねくれた物言い。
カチンときたわたしは、つい言い返した。
「暇ですって!? どこが暇よ。朝から忙しいわよっ!!」
ここに室生さんがいるということは、伊津さんはこの場を離れたんだろうか――そう考えたのは一瞬で、今朝からのことを思い出したわたしは、声を張り上げる。
「忙しいだと? さっきからここにいたよな。盗み聞きしていた以外、何をしていたと言うんだ」
立ち聞きから盗み聞きに、バージョンアップ。どっちも侮蔑が込められている。
「好きでここにいたんじゃないわ。そっちが話してたから、気まずくて出ていけなくなっちゃったんじゃないの」
「こっちだって、好きでこんなところで話をしていたわけじゃない。まったく、女はどいつもロクでもないな」
忌々しげな口調に、わたしは敏感に反応する。
「ロクでもないってどういう意味かしら? ああ、そうですよね。室生さんからしたら、女は話を聞くのも無駄なんですもんね。でもね、真面目に仕事してる女もいるの。自分が知っている女がすべてだなんて思わないでほしいわっ!!」
うわぁ、わたし何言っちゃってるの!?
わたしだって、仕事中に告白する伊津さんの行為が、褒められたものではないと感じている。ただ、室生さんの態度があんまりだから、少し気の毒になっただけだ。
それに、女性はすべてどうしようもない、と見下すような言葉にもムカついた――
でも、こんな喧嘩腰でものを言うことはない。
ああ、もう!! 今日はいったいなんの厄日よ!!
「自分は違うとでも言いたげだな。だが俺にとっては、仕事中に呼び止めていきなり告白してくるのも、盗み聞きも大して変わらん。違いがあるなら教えてもらいたいものだ」
また盗み聞きと言ったな!?
後悔しているはずなのに、室生さんの口もとが意地悪げに引き上げられるのを見たわたしは、止まらなくなる。
「あら、案外、仕事以外は大したことないのね。仕事中に言い寄ったあの子もあの子だけど、それくらい上手くあしらえないの? 営業部のエースで、難しい商談もまとめちゃうなんて、噂だけなんじゃない?」
彼は先々月、業界大手の企業が仕切る土地再開発プロジェクトの一つ、高層マンションの施工販売を、従来の業者を抑えて請け負ってきた。室生さんの商談力――プレゼンの成果だ。
個人住宅がメインの三課と違って二課はそういった大型物件を扱っている。そのせいもあり、売り上げ額を比較すると、ここ最近、常に二課がトップになっていた。
それでも例の伝票の未処理がなければ、今回はうちの三課が――
ああ、思い出してしまった。早く席に戻って片づけなければ。
わたしは苛立たしげに、ぷいと横を向く。でも再び、室生さんの口が開かれるのを視界の端で捉えた。何か言う気だ。わたしが太刀打ちできないようなことを……
「ふーん、わかった。どうやら君に言わせると、俺は女性のあしらいも満足にできない男らしい。だったらご教授願おうか。俺は常々女に煩わされるのはご免だと感じているんだ。どうすればいい?」
「え、どうすればって……」
そんなこと訊かれても困る。
そりゃ、仕事中に余計な時間を取られるのが鬱陶しいのはわかるけど。
わたしはつい真面目に考えてしまい、慌てて首を横に振った。
室生さんは、わたしを困らせたいだけだ。彼の業績を否定するような言葉を口にしたのが面白くなかったのだろう。
わたしは、ここまできたら彼に一泡吹かせてやりたくなっていた。つくづく負けず嫌いな性格だ。
それにしても、室生さんがこういう人だったとは意外だった。クールで無口という評判通り、こんな感情的なやり取りなんてしないと思っていた。
「どうした、さっきまでの威勢は。君は言われた仕事以上の提案をして営業を驚かせるんだろ?」
「はあ? 言っている意味がよくわからないけど――でもいいわ、とっておきの提案をしてあげる」
わたしは、人の悪い笑みを意識して口もとに浮かべる。
「あなた、適当な彼女とさっさと結婚しちゃいなさい」
「な――っ」
室生さんの取り澄ました顔がみるみる驚愕に変わる。
やった、成功だ。この顔が見たかった。
わたしは内心でほくそ笑む。
どうしてこんな単純なことに気づかないのか不思議だ。特定の女性――彼女、もっといえば妻ができれば、言い寄る女性は減るはず。そんなの関係ないと猛攻する人は少数だ。
「俺に結婚、だと?」
訊き返してくる室生さんの眉間に、新たに皺が一本増える。
「そうよ。いいアイデアでしょ? もちろん振りだけじゃなくて、本物のね」
本当は、偽装で充分だが、それは教えない。
「女に時間に取られるのはご免だと言ったはずだよな」
「ええ。でもそれが自分の奥さんなら別でしょ? 早いところただ一人のための王子様になることをお勧めするわ。そうしたら、周囲から騒がれることも減るわよ」
室生さんはなんとも言い難い顔になった。
「本物の結婚か――。てっきり名ばかりの彼女でも作って、お茶を濁せという話かと思った」
「あら、それじゃあ、あなたに告白してくる子がかわいそうよ。真剣に想っている子もいるでしょうに」
だいたい、その年まで女性とつき合ったことがないとは考えられない。三十二歳だというし、一人や二人、いや三人四人、もしかしたら片手で足りないくらい経験がありそうだ。
だからこういう男は、さっさと結婚してしまえ。こっちは恋人すらままならない、かわいそうな彼氏ナシの三十路前なんだぞ。
「ふうん。人の仕事を邪魔するのが真剣ねえ」
片頬を歪めた室生さんが、暗に伊津さんのことを当てこする。
「だがあいにく、俺には彼女はいない」
「あら残念ね。でも今はそうでも、すぐにできるでしょうよ。なんて言ったって、営業部のエースだもの。交渉は得意でしょ?」
「さっきは、女のあしらいもできない男だと言わなかったか?」
「そう?」
確かにそんなことも言ったけど、蒸し返させたりはしない。わたしはそろそろ話を終わらせたかった。
「……それにしても、王子様か。……悪くないかもな」
「え?」
室生さんは口もとに手をやって、何か思案する顔になった。
やだ、何その顔。
ロクでもないこと考えていそうだけど、少し愁いを含んだその顔はイケメンに相応しく、つい見惚れてしまいそうになる。
「俺に彼女はいない」
室生さんがおもむろに口を開いた。
それを聞くのは二回目ですが、何か。
「もっと言うなら、女が苦手だ」
あらまあ。でも、そうでなければ、あんなにバッサリ拒絶の言葉を吐かない。
「だから、頼むとしよう」
「頼む?」
誰に何を?
室生さんにじっと見詰められ、わたしはドキリ……じゃない、ゾクリとする。
すぐに回れ右しろ。今ならまだ間に合う。
そんな直感めいた危機意識が頭の中で騒ぎ始めた。
でも動けない。だって、もうわたしは――
室生さんに肩をつかまれていた。
そして、耳もとに唇が寄せられ、糖分百二十パーセント以上の甘い、少しかすれた声で囁かれる。
「君に、女を教えてもらいたい」
今なんて――!?
その瞬間、周囲の音と映像が消えた。
もう室生さんの姿しか見えない。声しか聴こえない。
わたしは急いで息を整える。吸い込んでは、吐いて。呑まれそうになる気を叱咤した。二十歳そこそこの小娘ではない。
「い、意味が……、言っている意味がわからないんですけど?」
声が震えそうになるのを懸命にこらえた。明らかに未熟、経験値が足りないけど、どうにか踏ん張る。
こんなの知らない。
でもこれは――
女をって……
教えるって……
「案外、うぶなんだな、君……、宮原さん?」
「――っ!!」
目の前にあった室生さんの口もとに、勝利の笑みが乗っていた。
「あ、あなたって!!」
「じゃあな、近々連絡する」
あ――、※◎◇■△♯▲▼□〓〆♂♀☆●!!
何が起きたのか理解を拒否する自分の頭を抱えて、わたしは声にならない叫び声を思いきり上げたのだった。
【2】
「うがぁ――、づがれだぁ――」
自宅に帰り着いたわたしは、玄関のドアを開けるなりカエルがひしゃげたような声を上げた。
最寄り駅から徒歩十二分をうたう単身者向けの五階建てマンション。実際には十四分かかるけど、それくらいなら許容範囲内だ。
三階の中部屋の一室がわたしの城。1LDKだがお風呂とトイレが別になっているのが気に入っている。
履いていたローヒールパンプスを脱ぎ捨て、玄関を上がった。五歩もいかないうちに、ダイニングテーブルとは名ばかりの物置台と化しているテーブルに辿り着いてしまう。そこに途中のスーパーで買った缶ビールと今夜の酒のつまみとなる総菜を並べ置く。
そして、そのままビールを飲みたい衝動を抑えて、まずは着替えるべく部屋の奥に向かった。
ベッドの上にたたんで置いておいたピンクのTシャツ風のワンピースを手に取る。先日通販で買ったばかりのこれは、裾にフリルがあしらわれローウエスト切り替えが可愛い、今一番のお気に入りだ。
何を隠そうこう見えて、フェミニンというかプリティというか、可愛いものがわたしは大好きだったりする。ベッドカバーだって、カーテンだって、オトメチックなリバティ調の花柄プリントだ。
いい年してとかキャラじゃないとか似合わないとか、異論はまあ認めよう。だが家にいるときくらい、好きな格好で好きなものに囲まれ寛いだっていいじゃないか。
着替えたわたしは、今度こそはと缶ビールを取り、プルトップをプシュッと引き上げ呷った。
「くはー、んまぁい。疲れて帰ったときはこれよねえ」
ほどよく冷えた苦味と炭酸の刺激が喉を通って、胃をキュウッと刺激する。
わたしは買ってきた総菜の酢豚を皿に移し替えることもせず、レジでもらった割り箸で突き始めた。
可愛いものが好きでも、やっていることがオヤジっぽいのは自覚している。もう少し体に気を使った夕食を用意したいけど、ついつい手軽さには勝てなかった。それだけ今日は疲れていたとも言える。
まったく、あれこれありすぎて締め日明けとは思えない、目まぐるしく過ぎた日だった。幸い残業にはならなかったけれど、ハードの一言に尽きる。
江原邸の資料作成をした流れで課長のアシスタントにはわたしがつくことになってしまったし、溜め込まれていた伝票については、以後そういうことが起きないように、二歳下の同僚を窓口にして、彼女から伊津さんに仕事を振る仕組みに変更した。わたしが仕切ると変に伊津さんが身構えてしまって、角が立つので。
そして、目下一番わたしを悩ませているのは、例の件――
「室生圭佑」
わたしは今日の疲労の最大要因となっている男の名を口にする。
あれから少し、彼について調べてみた。
国内有数の大学の工業デザイン科卒。在学中にオーストラリアに留学。卒業後は個人の建築設計事務所に就職して一級建築士の資格を取り、三年前にうち〈菱澤工務店〉に中途採用された。そして営業所に勤務し、そこで経験を積んだ彼は本社営業に異動。それが二年前だ。
現在、営業部一の売り上げ男、エースと呼ばれている。もちろん名ばかりではなく、そう呼ぶに相応しい結果をともなって。
ビールと総菜――レバニラと酢豚を順番に口に運びながら、彼の情報を脳内で展開させたわたしは、思わず溜め息を漏らす。
「どれだけハイスペックよ」
女子社員がこぞって結婚したいと騒ぐわけだと改めて感じた。これでどこかの御曹司なんていうスペックが加わりでもしたら、それこそロマンス小説にあるヒーローそのままだ。第一条件はとっくにクリアしているイケメンなのだから。
そんな人が女を教えてくれだなんて……
わたしは、行儀が悪いことは承知で箸先に歯を立てた。
耳もとで囁かれた彼の言葉が再生される。
『君に、女を教えてもらいたい』
『案外、うぶなんだな、君……、宮原さん?』
うわぁ――
それまで冷ややかに喋っていたのに、あのときの声はとても甘かった。
正直よろめいた。軽くときめきもしたほどの、艶のあるハスキーな声だ。
「やっぱり、からかわれたのよね?」
いくら、女が苦手で彼女がいないといってもだ。どうしてそこで、『だから、頼むとしよう』ということになるのか、わからない。
そもそも、どう考えたって、あれだけのスペック持ちが女を知らないはずがない。放っておいても寄ってくる。もちろん性的な意味を含めて。
「本当にごめんなさい。わたしができる限り気をつけるから」
居たたまれなくなったわたしは、再び謝罪の言葉を口にして頭を下げた。伊津さんから見たら、わたしがこうして謝罪することも腹立たしいんだろうけど。
「もう、顔を上げてください。瀬理奈さんって、つくづく自虐が好きなんですね」
「えっと、自虐?」
言われた意味がわからなくて、訊き返す。
「普通、自分を嫌っている人を気にかけるなんて、しないと思いますよ? それもかなりの問題物件です」
「も、問題物件……」
言いえて妙だ。確かに彼女の勤務態度には問題がある。伝票を溜めこんでいた件にしても、江原邸の資材見本にしても――
彼女はますますわたしに敵愾心を向けるだろう。正直、上手く指導できる気はしない。しかし立場的に、わたしがやらないといけないのだ。
「今日のところは瀬理奈さんの顔を立てて収めます。でも次、もし何かあったときは、速やかに上の者に報告します。告げ口だと言われようとも」
すっと背筋を伸ばした万由里は、会社のためにならないからときっぱりと言った。
そこにおっとりとしたお嬢様の顔はない。
「それと瀬理奈さん。責任感があるのは美徳かもしれませんけど、あなたの場合はもう少し力を抜いたほうが良いと思うの。たとえば仕事ばかりに気をとられないで、思いきって、自分の優良物件を探すのはどうかしら」
「ぶふっ」
思わず噴き出したわたしは、力業に近い話題転換をした万由里の顔をじっと見てしまう。
が、すぐに口もとを拭おうと、テーブルの上の紙ナプキンに手を伸ばした。
「何よいきなり、優良物件って……」
おそらく万由里は、入社以来――正確に記するならあの散々だった男と切れてから、浮いた話が皆無のわたしを心配しているのだ。
もちろん、優良物件が何を指しているのか、理解している。
生涯をともにするに相応しい最良最善の結婚相手のことだ。ロマンス小説なら、どこかの王子様とか一流企業の御曹司とか、そんな文句なしのヒーロー。
「なんでしたら私、お手伝いしますよ。最近プライベートで男性と知り合う機会があって――」
「だ、男性と知り合う機会!? 万由里、いつそんなっ!?」
わたしは驚いて声を上げる。
深窓というか箱入りというか、そんな万由里に男!?
「大丈夫ですよ、身もとは確かな方ばかりだもの」
ほわりといつもの優しげな笑みを浮かべた彼女の言葉はあまりにも想定外で、わたしは口を開けたまましばし固まる。
「仕事も良いですけど、恋愛も大切だと思いますよ」
万由里は言葉を続ける。
なんでこんな話になっているんだろう。ちょっと問題のある同僚について話をしていたはずだったのに。
「そうですね。会社にもまだ人生の伴侶を得られていない方はたくさんおられます。そちらのほうがいいですか? 身近なところでは山口さんですね。彼は私たちの同期ですし、少々チャラいところもありますが、話は合うと思います。それから――」
万由里はそう言って、彼女のいない独身社員の名を次々挙げていく。
受付をやっていると、人事部さながら、しかもプライベート込みの情報が入ってくるらしい。
「でも、私が瀬理奈さんに一番のおススメだと思うのは、営業二課の室生さん――」
「はあ?」
わたしは思いきり顔を顰めて、万由里の言葉を遮った。
彼のことは苦手に感じている。それに今朝のこともあった。
無口とかクールだとか騒がれているが、わたしに言わせればただの無愛想。それでよく営業が務まるものだ。もっとも実際結果を出しているので、有能さは認める。
でも、ちょいちょい感じる、女性をどこか見下しているような態度が気にくわない。
実際、何人か彼に告白を試みたそうだが、すべてけんもほろろで聞くだけ無駄とバッサリ一刀両断したらしい。あとは冷ややかな目で見られておしまい。
そんな彼を、万由里ってば、わたしに一番のおススメとか!?
「は、はは……、か、彼が、優良物件……?」
わたしの口から、無意識に声が出ていた。
ない。ないないないないっ!! あり得ないっ!!
正直に言ってわたしは恋がしたい。燃え上がるような、悔いのない一生もんの恋だ。そして結婚したい。
その相手となるのは、出会った瞬間、全身に衝撃が走るような、そんな運命の人のはずだ。
室生さんとはこれまで顔を合わせて一度たりともドキドキしたことがないし、ときめきもきらめきも感じたことがない。
……イケメンだとは思うけれど。
わたしたちはそこで話を切り上げ、社に戻った。
ロッカールームで万由里と別れたわたしは四階に行き、営業三課に向かって歩く。
「室生さんっ! 待ってください、話を――」
ひぅっ!?
突然聞こえてきた女性の声に驚いたわたしは、踏み出しかけていた足をぴたりと止めた。
ちょうど廊下を曲がろうとしていたところだ。そのまま足を床に下ろし背を壁につけ、息を潜める。
えっと、何ごと? もしかしてこの先に室生さんが……?
女性の声の雰囲気から察するに、とても仕事の話とは思えない。
これって、アレ? ヤバいところにきちゃった?
ついさっきまで彼のことを考えていたこともあって、わたしの心臓は妙な具合に乱れ打つ。
「どうしてですか? あたしは真剣です」
待って、この声――っ!?
わたしはそっと顔を出して、様子を窺う。
女性はこちらに背を向けていたものの、背格好と、くるっと巻いた明るめの髪から、やっぱり伊津可南子だとわかった。
彼女の昼休みはとっくに終わっているはずなのに……今度は何っ!?
どれだけ面倒を――じゃない。もしこの場面がわたしが想像している通りなら、これはプライベートだ。ただの同僚であるわたしには関係ない――んだけど!!
「真剣? いきなり呼び止めて何事かと思えば」
彼女に応じる室生さんの声を聞いた途端、ずくん、と鼓膜に響いた。
少しハスキーで甘い……
うわっ、わたし何考えてるのよ!? あ、甘いだなんて、明らかにムッとした声なのに。
わたしは軽くパニックを起こし、ますます出るに出られなくなる。
「でも室生さん、いつも会社にいないから。あの、あたし本当に、室生さんのことが……」
「聞くだけ無駄だな」
室生さんは冷たい声で言う。これが噂に聞く一刀両断。
「無駄って――、ひ、ひどいっ! あんまりです!」
伊津さんの声は震え、涙混じりになった。まさか泣く? ここで?
「ひどい?」
室生さんの冷ややかな声音から、彼女の言動が迷惑以外の何ものでもないことがわかった。
だからって問答無用の端的な言葉でバッサリいかれちゃうのは、さすがに伊津さんが気の毒になる。同じ女としては、断るにしても、もう少し言葉を選んでほしいところだ。
すっかり立ち聞きモードになってしまったわたしは、伊津さんに同情する。
とはいえ、いつ誰が通るとも限らないこんなところで告白されても困るに違いなかった。室生さんも仕事中だろう。せめて休憩時間だったら、彼の態度ももう少し違ったんじゃないだろうか。
でも室生さんはたいてい商談に出かけていて社にいないことが多く、終業時間になっても自分の席に着いていることは滅多にない。伊津さんは、見かけた今がチャンスと思ったのだろう。なんといっても彼は女子に人気だ。誰よりも先に想いを伝えなければ、という焦りがあったのかも……
などと考えつつ、わたしはポケットに入れていたスマホで時間を確認した。
どうしよう。いつまでもここで身を潜めているわけにはいかない。ただでさえ、今日は想定外のことで仕事が押している。
このままでは残業になりかねなかった。
それはさすがに嫌だ。終業後にデートする相手はいないけど、プライベートな時間は大事にしたい。先週買って積んだままになっている本を読みたいのだ。もちろんロマンス小説だ。
もう、空気を読まずに出ていこうか。たまたま声が聞こえたから立ち止まっただけで、気づかなかったら、通りすがっていた。
決まりだ、行こう。仕事は山積み、早く戻りたい。
よし、とわたしが頷いたとき、それは頭の上から降ってきた。
「また君か。今度は立ち聞きか?」
驚いて顔を上げると、そこに室生さんがいた。
「わ、わ、室生っ、さ、ん」
わたしはごくりと生唾を呑み、喉を鳴らす。
室生さんは、普段の無愛想な表情なんて比じゃない、眉間の皺がいっそう深い顰めっ面だ。さっき甘いと感じてしまったその声は、糖分なんて微塵も入っていない重低音に変わっている。
「ちがっ、そ、そんな、んじゃ……、えっと」
「これのどこが違うと?」
じろりと眇めた目で見られたわたしは、返事に窮する。
いや、どう見ても立ち聞きだ。実際、様子を窺って話を聞いていたのだから。
でもそれは、出るに出れないものがあって――
わたしは室生さんから視線を逸らすように目を泳がせつつも、気になってちらちらと上から下まで全身を眺める。
目の前に立たれると、百八十センチ近い身長を一段と実感した。
シャツの襟にかからないように清潔に切りそろえられた少し癖のある髪。きりっとした男らしい左右の眉、間には縦皺が刻まれているけれどそれも魅力の一つだ。
先ほどから訝しげに細められた眼差しさえ、カッコ良いと思ってしまった。わたし、いったいどうした!?
万由里の言葉が脳裏によみがえる。
『でも、私が瀬理奈さんに一番のおススメだと思うのは、営業二課の室生さん――』
なんてことだ。万由里のせいで、妙に意識をしてしまう。
幸い(?)室生さんを前にしても、雷に打たれたような衝撃はない。彼は運命の人ではないのだ。まずは安心。
どんなにカッコ良くても、彼は駄目だ。だって彼はなんというか――
「君は、彼女と同じ課だな。三課はよほど暇と見える」
ほらね、この小馬鹿にしたような、ひねくれた物言い。
カチンときたわたしは、つい言い返した。
「暇ですって!? どこが暇よ。朝から忙しいわよっ!!」
ここに室生さんがいるということは、伊津さんはこの場を離れたんだろうか――そう考えたのは一瞬で、今朝からのことを思い出したわたしは、声を張り上げる。
「忙しいだと? さっきからここにいたよな。盗み聞きしていた以外、何をしていたと言うんだ」
立ち聞きから盗み聞きに、バージョンアップ。どっちも侮蔑が込められている。
「好きでここにいたんじゃないわ。そっちが話してたから、気まずくて出ていけなくなっちゃったんじゃないの」
「こっちだって、好きでこんなところで話をしていたわけじゃない。まったく、女はどいつもロクでもないな」
忌々しげな口調に、わたしは敏感に反応する。
「ロクでもないってどういう意味かしら? ああ、そうですよね。室生さんからしたら、女は話を聞くのも無駄なんですもんね。でもね、真面目に仕事してる女もいるの。自分が知っている女がすべてだなんて思わないでほしいわっ!!」
うわぁ、わたし何言っちゃってるの!?
わたしだって、仕事中に告白する伊津さんの行為が、褒められたものではないと感じている。ただ、室生さんの態度があんまりだから、少し気の毒になっただけだ。
それに、女性はすべてどうしようもない、と見下すような言葉にもムカついた――
でも、こんな喧嘩腰でものを言うことはない。
ああ、もう!! 今日はいったいなんの厄日よ!!
「自分は違うとでも言いたげだな。だが俺にとっては、仕事中に呼び止めていきなり告白してくるのも、盗み聞きも大して変わらん。違いがあるなら教えてもらいたいものだ」
また盗み聞きと言ったな!?
後悔しているはずなのに、室生さんの口もとが意地悪げに引き上げられるのを見たわたしは、止まらなくなる。
「あら、案外、仕事以外は大したことないのね。仕事中に言い寄ったあの子もあの子だけど、それくらい上手くあしらえないの? 営業部のエースで、難しい商談もまとめちゃうなんて、噂だけなんじゃない?」
彼は先々月、業界大手の企業が仕切る土地再開発プロジェクトの一つ、高層マンションの施工販売を、従来の業者を抑えて請け負ってきた。室生さんの商談力――プレゼンの成果だ。
個人住宅がメインの三課と違って二課はそういった大型物件を扱っている。そのせいもあり、売り上げ額を比較すると、ここ最近、常に二課がトップになっていた。
それでも例の伝票の未処理がなければ、今回はうちの三課が――
ああ、思い出してしまった。早く席に戻って片づけなければ。
わたしは苛立たしげに、ぷいと横を向く。でも再び、室生さんの口が開かれるのを視界の端で捉えた。何か言う気だ。わたしが太刀打ちできないようなことを……
「ふーん、わかった。どうやら君に言わせると、俺は女性のあしらいも満足にできない男らしい。だったらご教授願おうか。俺は常々女に煩わされるのはご免だと感じているんだ。どうすればいい?」
「え、どうすればって……」
そんなこと訊かれても困る。
そりゃ、仕事中に余計な時間を取られるのが鬱陶しいのはわかるけど。
わたしはつい真面目に考えてしまい、慌てて首を横に振った。
室生さんは、わたしを困らせたいだけだ。彼の業績を否定するような言葉を口にしたのが面白くなかったのだろう。
わたしは、ここまできたら彼に一泡吹かせてやりたくなっていた。つくづく負けず嫌いな性格だ。
それにしても、室生さんがこういう人だったとは意外だった。クールで無口という評判通り、こんな感情的なやり取りなんてしないと思っていた。
「どうした、さっきまでの威勢は。君は言われた仕事以上の提案をして営業を驚かせるんだろ?」
「はあ? 言っている意味がよくわからないけど――でもいいわ、とっておきの提案をしてあげる」
わたしは、人の悪い笑みを意識して口もとに浮かべる。
「あなた、適当な彼女とさっさと結婚しちゃいなさい」
「な――っ」
室生さんの取り澄ました顔がみるみる驚愕に変わる。
やった、成功だ。この顔が見たかった。
わたしは内心でほくそ笑む。
どうしてこんな単純なことに気づかないのか不思議だ。特定の女性――彼女、もっといえば妻ができれば、言い寄る女性は減るはず。そんなの関係ないと猛攻する人は少数だ。
「俺に結婚、だと?」
訊き返してくる室生さんの眉間に、新たに皺が一本増える。
「そうよ。いいアイデアでしょ? もちろん振りだけじゃなくて、本物のね」
本当は、偽装で充分だが、それは教えない。
「女に時間に取られるのはご免だと言ったはずだよな」
「ええ。でもそれが自分の奥さんなら別でしょ? 早いところただ一人のための王子様になることをお勧めするわ。そうしたら、周囲から騒がれることも減るわよ」
室生さんはなんとも言い難い顔になった。
「本物の結婚か――。てっきり名ばかりの彼女でも作って、お茶を濁せという話かと思った」
「あら、それじゃあ、あなたに告白してくる子がかわいそうよ。真剣に想っている子もいるでしょうに」
だいたい、その年まで女性とつき合ったことがないとは考えられない。三十二歳だというし、一人や二人、いや三人四人、もしかしたら片手で足りないくらい経験がありそうだ。
だからこういう男は、さっさと結婚してしまえ。こっちは恋人すらままならない、かわいそうな彼氏ナシの三十路前なんだぞ。
「ふうん。人の仕事を邪魔するのが真剣ねえ」
片頬を歪めた室生さんが、暗に伊津さんのことを当てこする。
「だがあいにく、俺には彼女はいない」
「あら残念ね。でも今はそうでも、すぐにできるでしょうよ。なんて言ったって、営業部のエースだもの。交渉は得意でしょ?」
「さっきは、女のあしらいもできない男だと言わなかったか?」
「そう?」
確かにそんなことも言ったけど、蒸し返させたりはしない。わたしはそろそろ話を終わらせたかった。
「……それにしても、王子様か。……悪くないかもな」
「え?」
室生さんは口もとに手をやって、何か思案する顔になった。
やだ、何その顔。
ロクでもないこと考えていそうだけど、少し愁いを含んだその顔はイケメンに相応しく、つい見惚れてしまいそうになる。
「俺に彼女はいない」
室生さんがおもむろに口を開いた。
それを聞くのは二回目ですが、何か。
「もっと言うなら、女が苦手だ」
あらまあ。でも、そうでなければ、あんなにバッサリ拒絶の言葉を吐かない。
「だから、頼むとしよう」
「頼む?」
誰に何を?
室生さんにじっと見詰められ、わたしはドキリ……じゃない、ゾクリとする。
すぐに回れ右しろ。今ならまだ間に合う。
そんな直感めいた危機意識が頭の中で騒ぎ始めた。
でも動けない。だって、もうわたしは――
室生さんに肩をつかまれていた。
そして、耳もとに唇が寄せられ、糖分百二十パーセント以上の甘い、少しかすれた声で囁かれる。
「君に、女を教えてもらいたい」
今なんて――!?
その瞬間、周囲の音と映像が消えた。
もう室生さんの姿しか見えない。声しか聴こえない。
わたしは急いで息を整える。吸い込んでは、吐いて。呑まれそうになる気を叱咤した。二十歳そこそこの小娘ではない。
「い、意味が……、言っている意味がわからないんですけど?」
声が震えそうになるのを懸命にこらえた。明らかに未熟、経験値が足りないけど、どうにか踏ん張る。
こんなの知らない。
でもこれは――
女をって……
教えるって……
「案外、うぶなんだな、君……、宮原さん?」
「――っ!!」
目の前にあった室生さんの口もとに、勝利の笑みが乗っていた。
「あ、あなたって!!」
「じゃあな、近々連絡する」
あ――、※◎◇■△♯▲▼□〓〆♂♀☆●!!
何が起きたのか理解を拒否する自分の頭を抱えて、わたしは声にならない叫び声を思いきり上げたのだった。
【2】
「うがぁ――、づがれだぁ――」
自宅に帰り着いたわたしは、玄関のドアを開けるなりカエルがひしゃげたような声を上げた。
最寄り駅から徒歩十二分をうたう単身者向けの五階建てマンション。実際には十四分かかるけど、それくらいなら許容範囲内だ。
三階の中部屋の一室がわたしの城。1LDKだがお風呂とトイレが別になっているのが気に入っている。
履いていたローヒールパンプスを脱ぎ捨て、玄関を上がった。五歩もいかないうちに、ダイニングテーブルとは名ばかりの物置台と化しているテーブルに辿り着いてしまう。そこに途中のスーパーで買った缶ビールと今夜の酒のつまみとなる総菜を並べ置く。
そして、そのままビールを飲みたい衝動を抑えて、まずは着替えるべく部屋の奥に向かった。
ベッドの上にたたんで置いておいたピンクのTシャツ風のワンピースを手に取る。先日通販で買ったばかりのこれは、裾にフリルがあしらわれローウエスト切り替えが可愛い、今一番のお気に入りだ。
何を隠そうこう見えて、フェミニンというかプリティというか、可愛いものがわたしは大好きだったりする。ベッドカバーだって、カーテンだって、オトメチックなリバティ調の花柄プリントだ。
いい年してとかキャラじゃないとか似合わないとか、異論はまあ認めよう。だが家にいるときくらい、好きな格好で好きなものに囲まれ寛いだっていいじゃないか。
着替えたわたしは、今度こそはと缶ビールを取り、プルトップをプシュッと引き上げ呷った。
「くはー、んまぁい。疲れて帰ったときはこれよねえ」
ほどよく冷えた苦味と炭酸の刺激が喉を通って、胃をキュウッと刺激する。
わたしは買ってきた総菜の酢豚を皿に移し替えることもせず、レジでもらった割り箸で突き始めた。
可愛いものが好きでも、やっていることがオヤジっぽいのは自覚している。もう少し体に気を使った夕食を用意したいけど、ついつい手軽さには勝てなかった。それだけ今日は疲れていたとも言える。
まったく、あれこれありすぎて締め日明けとは思えない、目まぐるしく過ぎた日だった。幸い残業にはならなかったけれど、ハードの一言に尽きる。
江原邸の資料作成をした流れで課長のアシスタントにはわたしがつくことになってしまったし、溜め込まれていた伝票については、以後そういうことが起きないように、二歳下の同僚を窓口にして、彼女から伊津さんに仕事を振る仕組みに変更した。わたしが仕切ると変に伊津さんが身構えてしまって、角が立つので。
そして、目下一番わたしを悩ませているのは、例の件――
「室生圭佑」
わたしは今日の疲労の最大要因となっている男の名を口にする。
あれから少し、彼について調べてみた。
国内有数の大学の工業デザイン科卒。在学中にオーストラリアに留学。卒業後は個人の建築設計事務所に就職して一級建築士の資格を取り、三年前にうち〈菱澤工務店〉に中途採用された。そして営業所に勤務し、そこで経験を積んだ彼は本社営業に異動。それが二年前だ。
現在、営業部一の売り上げ男、エースと呼ばれている。もちろん名ばかりではなく、そう呼ぶに相応しい結果をともなって。
ビールと総菜――レバニラと酢豚を順番に口に運びながら、彼の情報を脳内で展開させたわたしは、思わず溜め息を漏らす。
「どれだけハイスペックよ」
女子社員がこぞって結婚したいと騒ぐわけだと改めて感じた。これでどこかの御曹司なんていうスペックが加わりでもしたら、それこそロマンス小説にあるヒーローそのままだ。第一条件はとっくにクリアしているイケメンなのだから。
そんな人が女を教えてくれだなんて……
わたしは、行儀が悪いことは承知で箸先に歯を立てた。
耳もとで囁かれた彼の言葉が再生される。
『君に、女を教えてもらいたい』
『案外、うぶなんだな、君……、宮原さん?』
うわぁ――
それまで冷ややかに喋っていたのに、あのときの声はとても甘かった。
正直よろめいた。軽くときめきもしたほどの、艶のあるハスキーな声だ。
「やっぱり、からかわれたのよね?」
いくら、女が苦手で彼女がいないといってもだ。どうしてそこで、『だから、頼むとしよう』ということになるのか、わからない。
そもそも、どう考えたって、あれだけのスペック持ちが女を知らないはずがない。放っておいても寄ってくる。もちろん性的な意味を含めて。
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【オレンジとシェリー】
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