月猫

波奈海月

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真昼のストレンジャー

第三章 1

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 目が覚めてからどれくらい時間が経っているのか、まったく見当がつかない。空では太陽が柔らかな光を放っていた。
 これから先、どうしたものか。噴水塔の前のベンチの上で庄野は、ぷるると身を震わせると息を吐いた。
 目が覚めたら猫だった。一般的男子の平均身長だった背はみごとに縮み、全身灰色の毛に被われている。尻には当然のように長い尻尾がついていて、指の先には収納可能な爪。その掌、足の裏には肉球。頭の上には突き出した三角の耳、口の横にはぴんとしたヒゲ。
 どこをどう見ても猫。噴水塔を囲む塀に上がって溜め水を覗き込んだとき、映った猫の顔に神様の気まぐれを呪うしかなかった。たとえ自らが猫になりたいと願ったことであっても。
 何で自分ばかりこんな不運に遭うのだろう。仕事でもそうだ。
 上手くいくはずだった商談は、いきなりの白紙。会社の損失は免れず、社長に報告してどうするか今後を考えなければならないのに、今自分はこんなところにいる。
 人間に戻らなければ。戻らなければ、元の生活に。
 庄野の脳裏に、実家の親や兄弟、学生時代の友人に、世話になっている社長や同僚の顔が浮かんで、そして消えていく。このまま自分の行方が分からなくなったら、きっと心配して探すだろう。
 でもどうしたら戻れるんだ? ルイは望みを叶えてやると言ったくせに、人間に戻すことはできないと言う。自分の心からの望みではないからって……。
 人間に戻りたいと思っていないなんて、そんなことあるか。自分は人間なんだぞ。けれど猫のほうが楽なんじゃないかと、悪魔のような囁きが耳の奥で響く。
 猫なら仕事に行かなくてもいい? 無情な取引先に頭を下げることも? 会社が潰れたとしても、猫の自分には関係ない。日々ここでゆったりとすごせばいいのだ。好きな時間に寝て、起きて。気ままな生活?
 何を考えている。自分の気持ちが分からなくなってくる。元の生活に戻らないといけないはずなのに、心のどこかでは戻りたくないと思ってしまっているのか。
 だからルイは、こんな惑いばかりの心を見透かしたのだ。以前から不思議と人の気持ちが分かる猫だった。
 庄野は前足を突き出し、ぐぐっと伸びした。それから折りたたんで胸の下に入れ腹這いになる。何だか急に眠気を感じた。穏やかに降りそそぐ日差しが気持ちいい。季節は今何だったっけ。
「ナーオ」
「うわっ、ル、ルイっ!?」
 どこから来たのか気配もなく、ルイが背に飛び乗ってきた。庄野の心拍数は突然のことに跳ね上がる。
「お前、いきなり何すんだよ」
 体をねじって振り払えば、ルイはしなやかに飛んで庄野の前に座った。そしてにやりとする。
「あんた、猫の仕草が様になってんじゃん。どこからどう見ても猫そのものだな」
「な……、そんなワケあるか。俺は人間だぞ」
 猫そのものだと? 自分がいつ――。
「えー、気づいてなかったのか? その座り方さ、人間が香箱こうばこ座りって呼んでる座り方なんだぜ。咄嗟に身動きできないから周囲に敵がいなくてゆったりできるときにやるんだけどさ」
「うっ」
 言われてみれば。前足を体の下に入れていてはすぐさま立ち上がれない。
「ナオ、オレがいないときにそんなポーズするんじゃねえぞ。ここが安全だっていう保証はねえんだからな」
 ルイは、襲われても知らねえぞ、と物騒なことを言う。
「襲われるって、誰にだよ」
「もちろん猫さ。縄張りに知らないのが入ってきたら警戒して攻撃するヤツもいるからな。つまりあんたみたいなのな。ボスぐらいになれば、何がきても動じないけど」
「よそ者ってことか。つまり俺はストレンジャーって?」
 ここの猫たちから見れば、よそ者以外なかった。もともと温和な気質なのかもしれないが、ミイナがすんなり自分を受け入れたのは、ルイが仲介したからだろう。
「ナオ、ストレンジャーって、ビリー・ジョエル知ってんのか?」
 ルイの反応は意外だった。尻尾を大きくゆっくり振っていた。犬のようにぱたぱたとした動きではないが、どうも機嫌がいいようだった。
「はあ? いきなりだな。名前くらいなら聞いたことあるよ。ああ、そういうタイトルの曲、歌ってたんだっけか?」
 猫のルイからそんな話が出るとは思いもしていなかった。
「いや、おっさんが好きでさ、よく口ずさんでんだよ。元の曲と比べたらずいぶん調子っぱずれてっけど」
 けけっとルイが思い出したように笑った。
「――おっさんって誰?」
 ビリー・ジョエルを口ずさむということは人間だろうか?
「あっと、おっさんのことはいいんだ。それよりもあんたにいろいろ聞かなくちゃいけないことがあんだよ。ナオ、記憶あるか?」
「記憶って、何のだよ。人間だったっていう記憶なら有り余ってるけど?」
「ふーん。やっぱりおっさんのときとは違うな。ここも夜じゃねえし」
 空には明るく太陽が照っている。昼だ。
「だからそのおっさんって誰? それに夜じゃないって?」
「何であんたは猫になりたいって思ったんだ?」
「おい、答えろよ。だから、どうしてそんなことを聞くんだよ」
 ルイは庄野の質問に答える気はないようで、聞いてくるばかりだった。
「ち、面倒だな。原因の究明なんだとよ。猫になりたいっていう気持ちがあんたにあったから、こうなったわけだけど。そもそも、何でだってことで」
 自分には口止めをしたくせに、まるでルイの口振りは他にも人間の庄野が猫になっていることを知っている者がいるみたいだった。
「知るかよ。ただあのとき、猫はいいなあって思ったんだ。いろいろ煩わしいこと考えなくてもいいのかなって」
「猫の生活もそんなにいいもんじゃねえぞ? 日々のメシ得るために必死だ」
「そんなこと言ったって、いいなって思ったんだから仕方ないだろ」
 深く考えて願ったわけでは、きっとない。いきなり見舞われてしまった不運に、すべて投げ出してしまいたかっただけだ。逃げ出してしまいたいと……。
「あのさ、あんたに何かあったんだってことは分かってるんだ。本当にあのときもう人生の終わりって顔してたもんな。いつもさ、会うたびそりゃ疲れた顔はしてたけど、あんなにひどくはなかったからな」
「疲れた顔か――」
『大丈夫か? あんた、人生の終わりって顔してる』
 不意に脳裏によみがえった声。あのとき聞こえた声はルイ?
「ルイの声だったんだ。あれ」
「オレの声? いつ?」
「俺が倒れる前。若い男にお前抱かれてただろ? 『人生の終わりって顔してる』って声が聞こえた」
「うそ。あのとき、あんたまだ人間だったじゃねえか。なのに聞こえた?」
 驚いた顔をしたルイは、ぷるぷると首を振った。
「あんたはとっくに月の魔法にかかってたんだな」
「月の魔法? 何だよ、それ。分かるように話せ」
「ああもう。そう急かすなよ」
 ルイはがしがしと耳の後ろを後ろ足でかいたあと、前足を嘗めて顔を洗い出した。
「何毛づくろいしてんだ、お前」
「猫特有のリラックス行為だ。これすると気分、落ち着くんだよ」
 ふっ、と息を吐いたルイはそれから背筋をぴんと張った。


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