月猫

波奈海月

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月夜のエトランゼ

6.

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「なあ、小腹が空いたっつーか、何か食べたいつーか。お前の耳と尻尾触りてえっつーか」
「何ですか、それ」
 部屋に戻ってきた丈太郎は、ベッドに腰を下ろし、足元に控えるように座ったレンを見下ろす。
 レンの耳と尻尾。公園で昼間餌をやっているとき、撫でたくて何度か手を伸ばしては失敗に終わっていた。いろいろ忘れてしまっているくせに、公園猫のレンのことは不思議と思い出せた。
「だってよ、お前撫でさせてくれねえんだもん。ふわふわの毛並み、触ると気持ちいいだろうなって、さ」
「そんなに触りたいんですか? 仕方ないですね」
 レンが身を乗り出し、丈太郎の膝に頭を乗せる。
「僕は基本的に触られるのは嫌いです。だから上手に撫でてくださいね」
「何つープレッシャーだ、それ。っても、今のお前は人だからな。毛並みは耳と尻尾と髪の毛だけか」
 さわり、と耳の被毛を撫でて感触を味わう。
「ホントに猫の耳だ。もちろん聞こえるんだろ?」
「当たり前のことを言わないでください。撫でるなら耳のつけ根をうにうにしてください」
「うにうに? こ、こうか」
 揉めということか、と言われた耳のつけ根辺りを丈太郎はマッサージするように揉む。ぐるぐると喉を鳴らす音はなかったが、レンは気持ちいいのか、うっとりと目を閉じた。
「こういうのも俺の望みに入る?」
「入りませんよ」
 耳から髪に手を差し込む。猫のときにはない長さのある髪が指に絡みついてさらりと抜ける。
「なあ、お前、何モンなんだ?」
「僕はあなたに命を助けられた猫です」
「けど、俺にはお前を助けたつー覚えがねえんだぞ?」
「……あなたになくても、僕が覚えています。だからあなたは僕に叶えるべき望みを言えばいい」
「その望みが思いつかねえって言ってるだろうが。まあ、こういう生活もいいかなって、今思ったけど」
「こういう生活?」
 きょとんとレンが顔を上げた。
「おう。猫がいる生活。でもこのアパート、ペット禁止だから。生活したきゃ引っ越ししないとな。そうだ、じゃあさ望みはペットが飼える豪華マンション、っていうのはどうだ?」
「却下です。そういうのは僕がわざわざ叶えなくても自分でやれるでしょ」
「何か望み事って面倒だな。その叶える叶えないの基準は何なの?」
 これを聞いておけばいいのだ。丈太郎は我ながらいいことを思いついたと内心にんまりする。
「あなたが、自分の力だけでは叶えることができないこと。どうにもならないこと」
「具体的には?」
「猫を人の姿のまま留めて、一緒に暮らす――」
「へ……え……、そりゃまた、俺自身じゃどうにもできないこったな」
 レンがはっと顔を引き攣らせた。察するに、触る丈太郎の手が気持ちよくてつい口を滑らせたという感じだった。
「じょ、冗談です。さっきあなたが言った彼女のとの結婚の件、そういうことです。あなたが現実に受け入れていなければ、僕はそれを、心からの望みと叶えたでしょう」
 澄ました顔になって言ったレンに、丈太郎は頭をかく。
「現実に受け入れてるって、それの意味が分かんねえんだよな。でも、彼女って誰のことだ?」
「え、丈太郎……さん?」
 レンが目を見開いた。何かまずいことを言ったのだろうか。
「俺、また何か忘れちまったのか?」
「いえ。大丈夫です。でも急いで望みを言ってくれないと。手遅れにだけはなりたくありません」
「あれ? 時間なかったんだっけ?」
 そんな話も聞いた気がする。だがいつ聞いたのだろう。
「悪い。眠いってわけじゃねえんだけど、何か引っ張られる感じでさ。ちょっと横になるわ」
 言いながら、ずるりと体はすでにベッドの上で転がっていた。


「またここか」
 公園の噴水の前だった。部屋で寝たはずが、どうしてこんなところにいるのか、やはり思い出せなかった。
「さっきはレンに邪魔されちゃったけど、お兄さんの望みを叶えてあげるね」
「お前はさっきのガキ」
 声をかけてきたのは、さきほどの催眠術にかけられたような幻覚を見せた少年だ。
「ルイ、だよ。さっき名前教えたでしょ? ちゃんと呼んでよ」
「ガキで十分だ。で、今度はどういう幻覚見せんだ?」
「何それ。レンが言ったの? やだな、幻覚って決めてかからないでよ。幻覚にするのか、現実っていうにはちょっと微妙なところだけど、どうするのかはお兄さん次第なんだから」
「お前も意味不明なことばかり言うな。そういや、レンと知り合いなのか、お前」
 ルイは普通にレンの名を口にしていた。
「そうだよ。ほらね?」
 ルイが頭に被っていたニット帽を取る。途端にぴょこんと黒い被毛の三角の耳が現れる。
「お前も猫かよ。ったく、何だ今夜は」
 得体の知れない人の姿をした猫が二匹だ。いや人の姿をしているなら二人か。
「じゃあね、そういうことで、ヨロシク。お兄さんの望みはこれでいいんだよね?」
 くふふ、とルイが笑い、丈太郎はめまいに襲われた。
 目を開ければ、自分の前に女がいた。その女が言う。
『あなたと結婚するわ、私』
 俺と結婚するって? 本気で言っているのか?
 俄かに信じられるはずもない丈太郎は、確かめるように聞き返す。
『もう、本気に決まってるじゃないの、丈太郎』
 でもお前には、あいつが……。いいのか俺となんかで?
 笑みを浮かべている女に、なおも問う。
『あなたと結婚したいのよ、私。彼のことなんか知らないわ』
 知らないって、何を言っているんだ、お前。
 心が騒ぎ始める。ざらざらとした違和感に、丈太郎はようやく今見ているものが虚構であることに気づいた。自分の心にある身勝手な欲が見せる世界。
『だって、知らないもの。私はあなたのことがずっと好きだったのよ。でもあなたは、なかなか気づいてくれなくて。だから私、――と。でももういいの。――のことなんて知らない。あなたが好きよ、丈太郎』
 違うだろ。無理して俺を好きだと言うな。
『あなたが好きなの。本当よ』
 もう止めてくれ。
 泣きながら、俺を好きだと言うのは止めてくれ。
『お前はあいつのことを好きなんだよな』
 悪かった。ずっと気がついてやれなくて、俺が悪かったよ。だからお前はあいつと。お前に甘えていたんだ。ただでさえ面倒ばかりかけているというのに。
 丈太郎は女に向かって手を伸ばした。その頬を濡らす涙を拭ってやりたかった。
『俺のことはもう、いいんだ』
 その瞬間、女の姿がかき消える。
「あーあ、せっかく望みを叶えてやるっていうのに、何やってんだよ、おっさん」
「え…? お、おっさん?」
 すぐ近くで、きん、とかん高い子供の声がした。くらりとする頭を押さえて、声がしたほうを見れば、思い切りふて腐れた顔をした少年がいた。名前は確か、ルイ。
「そうじゃん? おっさんだろ、いい年した。無理してお兄さんって呼んでやっただけだよ」
 ルイの口調ががらりと変わっていた。
「てめえ、どういうつもりであんな幻覚見せたんだ」
「幻覚で片づけるなって言っただろ。あれをおっさんにとって本当にすることもできるんだって」
「レンは女との結婚は叶えられないって言ったぞ? 俺が受け入れているからと言って」
「だからね、この世界でなら、っていう意味さ。おっさんは、現実世界で彼女が後輩と結婚するのを認めちゃったからね」
 ルイが言い放つ。
 この世界なら? 現実世界で? まるでここが現実ではないような物言いだ。
 丈太郎には何を言っているのか、まったく理解不能だった。もっと分かり易く言ってくれ。
「あ、さっぱりワケ分かんないって顔してる。もっとさあ、フレキシブルに考えようよ」
「いや、シンプルで頼む」
「オーケー。つまりね、おっさんは今、現実世界で死にかけてるってこと」
「俺が死にかけてる、だと!? おい、どういうこった、そりゃ」
 十トントラックに跳ね飛ばされたような衝撃だった。
「この世界でのことは、全部おっさんの妄想。今際の際の願望さ」
「お前らも妄想だというのか、俺の願望の産物って」
「違うよ。オレはたまたまその場に居合わせちゃって、おっさんの妄想世界にお邪魔してるだけだ。時間がきたら現実世界に戻るよ。レンと一緒に――ちっ、レンだ。じゃあな、おっさん。オレはもう行くから。あいつとはケンカ中だからな」
 ルイが身を翻した。同時に辺りに見えていたものが闇に飲まれる。丈太郎は独りぽつんと残された。
「俺が死にかけてる、だと?」
 そんなバカな話。あって堪るか。
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