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月夜のエトランゼ
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俺は何だってここにいるんだ?
宮野丈太郎は、余りにも見覚えのあるアパートの一室ドアの前ではたと思った。
見覚えがあるのも道理だ。自分の部屋なのだから当たり前だった。だが、問題にしているのはそんなことではない。いったいいつ自分は帰ってきたのかということだ。確か馴染みの店で飲んでいたはずだった。
そうだ、飲んだくれていた。
けど、何で飲んでたんだ、俺は?
ともすれば酔いに任せて曖昧に消えてしまいそうな記憶を、時系列を頼りに呼び覚ます。
ああ、そうだった。
外回りで遅くなった昼食を取っているときに、面倒見ている後輩から話があるとメールがきたのだ。後輩は新規のプロジェクトに抜擢されて、なれない業務に奮闘していた。だからそろそろガス抜きがしたいのだろうと思い、終業後行きつけにしている飲み屋で会うことにしたのだ。
えっと、それから?
約束の時間より多少遅くなってしまったが、店に顔を出した自分を後輩が迎えてくれた。その横には彼女の姿があった。
『何だお前も一緒か?』
『まあね』
彼女とは自分と同期で、会社に入ってからもう十年来のつき合いだった。何かと気が合い、異性とはいえ大切な友人の一人、親友といってもいい女だ。
その彼女がどうして後輩と一緒にいたのかなんて、大して気にも留めなかった。自分たち三人はよく食事もしたし、その席で仕事の愚痴を零し合うこともままあったからだ。今日もそんなところだろうと思った。ただちょっと、自分への二人の雰囲気が、いつになくよそよそしく思いはしたけれど。
向かいの席に腰を落ち着け、まずはビール、とジョッキの生を頼んだ自分に、真面目な顔をした後輩が切り出した。
『先輩にはちゃんと報告しようと思ったんです』
何を改まって。
多少のトラブルはあったようだが、プロジェクトは順調だと上司から聞いていた。自分が担当していたらもっと手間取っただろうとも。
そのとき正直小さなささくれを感じたが、すぐに打ち消した。
分は弁えている。後輩が仕事ができるのは、自分の下についたときから分かっていたし、そのプロジェクト自体、後輩を推薦したのは自分だった。こいつなら誰よりもきっと上手くやれるからと。
『俺たち結婚します』
何だって? 結婚? 結婚と言ったのか?
言われた瞬間、自分は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
『今の仕事もこの調子なら軌道に乗るし、結婚しても十分にやっていけると思って』
二人が顔を見合わせた。彼女はこれまで自分には見せたことのない顔を後輩に向けていた。
そうか、結婚するのか。二人は……。
『先輩には一番に報告したかったんです。俺のこと可愛がってくれてるし、彼女を紹介してくれたのも先輩だし』
『自分で可愛がってくれてるなんて言うな』
『でも事実でしょ?』
突っ込みを入れた自分に、屈託なく後輩が笑う。本当にいいヤツなのだ。それに男前。
彼女を後輩に引き合わせたのは、配属されてきてすぐだ。自分にはもったいないほどの後輩ができたのだと嬉しくて。あとで、とかくミスが多い自分にフォローの意味でつけたと上司に耳打ちされたにしても。
『よかったな。こいつなら間違いねえ』
どこか、取ってつけたような言い方になってしまったが、自分は彼女にそう言った。そう言うしかなかった。
『本当にそう思ってくれるの?』
『もちろんだ。いき遅れる前によかったな』
少し不安そうに自分を見た彼女に、いつものように憎まれ口で返した。
『失礼ね! いき遅れなんて、今どき流行らないのよ。結婚しようと思ったときが適齢期なの』
途端にむっと片頬を膨らませた彼女に苦笑した。
『そうですよ、――は、いつまでも若くてきれいです』
彼女を愛しそうに見る後輩に、自分はなおも軽口を叩いた。
『何だよ、ベタぼれだな。ホントにいいのか? 思い直すなら今のうちだぞ? お前よりも年上の三十すぎより、周りにはもっと若くてだな』
『何、そのセクハラ発言!』
『年なんて関係ないです。俺は――さんを幸せにしますから。先輩は安心してください』
ちょうどそのとき、頼んだ生ジョッキが運ばれてきた。それを手にした自分は一気に煽り、すぐに追加のオーダーをした。
『分かった分かった。よっしゃ、今夜は前祝いといこうぜ。何でも好きなもの頼め。奢ってやる』
自分はいつも以上に飲んだ。どうしてなのか飲まずにはいられなかった。
『丈太郎、飲みすぎじゃない?』
『心配する相手が違うだろ?』
『……私は、もうあんたの心配しちゃいけないの?』
『俺のことはいいんだよ。お前はこれからこいつとの幸せを一番に考えれば』
彼女が幸せになってくれるなら、それで。
嘘偽りない気持ちだった。自分よりも後輩と結婚したほうが、きっと上手くいく。
そう思おうとしたとき、ずきりと胸に抉られるような痛みを覚えた。ようやく自分の気持ちに気づいたのだった。結婚宣言されたこんなときに、やっと。
情けないことに動揺した自分は、二人を残して先に店を出た。今日の仕事の報告書をまとめておきたいからと、心にもないことを言って。
そして家に帰ってきた。こんなところか。
「まあなあ、しょうがねえじゃん? 俺じゃあいつを幸せなんかできねえし」
誰が見ても、自分よりもずっと頼りになる後輩のほうが、似合いで、彼女は幸せになれる。
「ん?」
そこまで思い出した丈太郎は、記憶に違和感を覚えた。
「名前――、あれ? 何だっけ?」
先程から順に思い出していたが、一度も名前が浮かんでこない。毎日のように顔を合わせている二人なのに。
酔いがとんでもないところで回っている。ひどい話もあったものだ。まさか、後輩の名も、まして彼女の名も出てこないなんて。
長年好きだった女を後輩にかっ攫われた格好になってしまい、ショックで一時的に思い出せなくなったのだろうか。気持ちに気づいたのも、ついさっきだというのに。気づいてしまったから反動が大きすぎたのか。度忘れするにもほどがある。
「まあいいや。もう今夜は寝ちまおう」
ドアノブに手をかけた瞬間、くらりとした。相当酔っているようだ。
「あれ? カギ。俺、カギもかけずに出かけたのか?」
ドアは音もなく開いた。
施錠し忘れたのか? いや、そんなはずはない。いくらうっかりしていたとしても。
丈太郎は自分の酔っぱらい具合に溜め息をつく。二人の名前を思い出せないほど飲んだのだ。カギ開けなどという習慣化している所作が記憶にないくらい、大したことではないと慰める。
だが部屋には灯りが点いていた。
電気を消し忘れた? 昨夜からつけたままだった?
いくら自分が、ついついいろいろやらかしてしまうにしても、何かおかしい。
「うっ」
まためまいが襲った。ふらつく体を踏ん張って支え、顔を上げれば、いつの間にか自分は部屋の中にいた。
「やっと帰ってきた」
目の前にいた男が言った。
「誰だ、お前っ!?」
ぞぞっと背筋に冷たいものが走る。
泥棒? こんな独身男の部屋に?
予想もしない事態に酔いも覚めた。下手に抵抗して向かってこられたらどうしよう。もし刃物でも持っていたら? 部屋を出なければ。そうだ、警察に連絡しなければ。
後ずさろうとするが、足は床に吸いついたように動かなかった。
「お帰りなさい、丈太郎さん」
焦り、顔を引きつらせている丈太郎に、男は涼やかな声でそう言った。
「――へ?」
丈太郎。それは自分の名前だ。目の前の男は自分を知っているらしい。
「何をふらふらとほっつき歩いてたんですか。さっさと帰ってこないとダメでしょう」
「ほっつき歩いて? あ、いや、ダメって、何だよ。っていうか、どちら様で?」
もっと慌ててもいいはずだと思った。だがそれよりも目の前の男に目を奪われていた。
こんなむさ苦しい部屋にはとんと不釣り合いな、すこぶるイイ男。男の自分が見ても、だ。きっと女受けもいいだろう。自分と違って――そんなことを思った。
いや待て。今考えなければならないのはそれじゃない。散漫になる思考を叱咤する。
勝手に部屋に上がり込んでいるこの男は誰なのだ。自分は、こんな男の知り合いはない。
「僕は、レンといいます。あなたに恩義があって、それをお返しに来ました」
「はい――!?」
恩義? 返す? 何だ、それは!?
「俺にはまったく覚えがないんですが? 人違いじゃないですか?」
落ち着け、と自身に言い聞かせながら丈太郎は言葉を返す。普通に考えて、それが一番ありえそうだ。
本当にこんな男に覚えはないのだ。
「人違いじゃないです。あなたです、丈太郎さん。僕はあなたに命を助けてもらったんです」
命を助けた、だと?
レン、と名乗った男は真剣な顔で丈太郎を見つめてくる。
イイ男のそんな顔は様になりすぎる。見惚れかけている自分に気づいた丈太郎は、即座に首を振って幾分声を荒げた。
「俺には覚えがねえんだっ。憚りながら言うとだな。俺は誰かに助けられることはあっても、助けるなんてことねえんだよ。まして命をだなんて」
そんな人助けをしたというなら、記憶にないはずがない。いくら今酔っぱらっているにしても。
いや酔いは醒めている。この男を見た瞬間に。
「だから帰ってくれ。今俺は誰とも話をする気分じゃねえんだ」
「そういうわけにはいきません。僕はあなたに助けられた。その恩をお返しするために、あなたの望みを一つ叶えるために来たんですから」
やばい。言っている意味が分からない。
命の恩人の望みを叶えると言っているように聞こえるのだが、そもそも望みを叶えるとは、何をもって言うのだ。そんな魔法使いみたいなことを。
こんな深夜に人の家に上がり込んでいる奴だ。頭のネジがぶっ飛んでいるのかもしれない。まだ若そうなのに、それもこんなに顔もいいのに、いろいろ残念だ。
「順にお話ししますとですね。今夜――」
「あ、あのー、レンさん、といいましたね」
丈太郎は、話そうとする男の言葉を遮った。聞いてしまったら後戻りできない。これまで当たり障りなく生きてきた自分の危機回避能力がそう告げている。外れることも多々あるが、丈太郎は自分の直感にかける。穏便にお引き取りいただかなくては。
「はい」
男は目を細めて返事をした。それまで、横を向いたり後ろに向いたりしていた耳も、正面を向いた。
「え、……耳? あの、頭にあるのは……?」
耳。耳だ。耳が――?
言いながら丈太郎は、目を擦った。
宮野丈太郎は、余りにも見覚えのあるアパートの一室ドアの前ではたと思った。
見覚えがあるのも道理だ。自分の部屋なのだから当たり前だった。だが、問題にしているのはそんなことではない。いったいいつ自分は帰ってきたのかということだ。確か馴染みの店で飲んでいたはずだった。
そうだ、飲んだくれていた。
けど、何で飲んでたんだ、俺は?
ともすれば酔いに任せて曖昧に消えてしまいそうな記憶を、時系列を頼りに呼び覚ます。
ああ、そうだった。
外回りで遅くなった昼食を取っているときに、面倒見ている後輩から話があるとメールがきたのだ。後輩は新規のプロジェクトに抜擢されて、なれない業務に奮闘していた。だからそろそろガス抜きがしたいのだろうと思い、終業後行きつけにしている飲み屋で会うことにしたのだ。
えっと、それから?
約束の時間より多少遅くなってしまったが、店に顔を出した自分を後輩が迎えてくれた。その横には彼女の姿があった。
『何だお前も一緒か?』
『まあね』
彼女とは自分と同期で、会社に入ってからもう十年来のつき合いだった。何かと気が合い、異性とはいえ大切な友人の一人、親友といってもいい女だ。
その彼女がどうして後輩と一緒にいたのかなんて、大して気にも留めなかった。自分たち三人はよく食事もしたし、その席で仕事の愚痴を零し合うこともままあったからだ。今日もそんなところだろうと思った。ただちょっと、自分への二人の雰囲気が、いつになくよそよそしく思いはしたけれど。
向かいの席に腰を落ち着け、まずはビール、とジョッキの生を頼んだ自分に、真面目な顔をした後輩が切り出した。
『先輩にはちゃんと報告しようと思ったんです』
何を改まって。
多少のトラブルはあったようだが、プロジェクトは順調だと上司から聞いていた。自分が担当していたらもっと手間取っただろうとも。
そのとき正直小さなささくれを感じたが、すぐに打ち消した。
分は弁えている。後輩が仕事ができるのは、自分の下についたときから分かっていたし、そのプロジェクト自体、後輩を推薦したのは自分だった。こいつなら誰よりもきっと上手くやれるからと。
『俺たち結婚します』
何だって? 結婚? 結婚と言ったのか?
言われた瞬間、自分は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
『今の仕事もこの調子なら軌道に乗るし、結婚しても十分にやっていけると思って』
二人が顔を見合わせた。彼女はこれまで自分には見せたことのない顔を後輩に向けていた。
そうか、結婚するのか。二人は……。
『先輩には一番に報告したかったんです。俺のこと可愛がってくれてるし、彼女を紹介してくれたのも先輩だし』
『自分で可愛がってくれてるなんて言うな』
『でも事実でしょ?』
突っ込みを入れた自分に、屈託なく後輩が笑う。本当にいいヤツなのだ。それに男前。
彼女を後輩に引き合わせたのは、配属されてきてすぐだ。自分にはもったいないほどの後輩ができたのだと嬉しくて。あとで、とかくミスが多い自分にフォローの意味でつけたと上司に耳打ちされたにしても。
『よかったな。こいつなら間違いねえ』
どこか、取ってつけたような言い方になってしまったが、自分は彼女にそう言った。そう言うしかなかった。
『本当にそう思ってくれるの?』
『もちろんだ。いき遅れる前によかったな』
少し不安そうに自分を見た彼女に、いつものように憎まれ口で返した。
『失礼ね! いき遅れなんて、今どき流行らないのよ。結婚しようと思ったときが適齢期なの』
途端にむっと片頬を膨らませた彼女に苦笑した。
『そうですよ、――は、いつまでも若くてきれいです』
彼女を愛しそうに見る後輩に、自分はなおも軽口を叩いた。
『何だよ、ベタぼれだな。ホントにいいのか? 思い直すなら今のうちだぞ? お前よりも年上の三十すぎより、周りにはもっと若くてだな』
『何、そのセクハラ発言!』
『年なんて関係ないです。俺は――さんを幸せにしますから。先輩は安心してください』
ちょうどそのとき、頼んだ生ジョッキが運ばれてきた。それを手にした自分は一気に煽り、すぐに追加のオーダーをした。
『分かった分かった。よっしゃ、今夜は前祝いといこうぜ。何でも好きなもの頼め。奢ってやる』
自分はいつも以上に飲んだ。どうしてなのか飲まずにはいられなかった。
『丈太郎、飲みすぎじゃない?』
『心配する相手が違うだろ?』
『……私は、もうあんたの心配しちゃいけないの?』
『俺のことはいいんだよ。お前はこれからこいつとの幸せを一番に考えれば』
彼女が幸せになってくれるなら、それで。
嘘偽りない気持ちだった。自分よりも後輩と結婚したほうが、きっと上手くいく。
そう思おうとしたとき、ずきりと胸に抉られるような痛みを覚えた。ようやく自分の気持ちに気づいたのだった。結婚宣言されたこんなときに、やっと。
情けないことに動揺した自分は、二人を残して先に店を出た。今日の仕事の報告書をまとめておきたいからと、心にもないことを言って。
そして家に帰ってきた。こんなところか。
「まあなあ、しょうがねえじゃん? 俺じゃあいつを幸せなんかできねえし」
誰が見ても、自分よりもずっと頼りになる後輩のほうが、似合いで、彼女は幸せになれる。
「ん?」
そこまで思い出した丈太郎は、記憶に違和感を覚えた。
「名前――、あれ? 何だっけ?」
先程から順に思い出していたが、一度も名前が浮かんでこない。毎日のように顔を合わせている二人なのに。
酔いがとんでもないところで回っている。ひどい話もあったものだ。まさか、後輩の名も、まして彼女の名も出てこないなんて。
長年好きだった女を後輩にかっ攫われた格好になってしまい、ショックで一時的に思い出せなくなったのだろうか。気持ちに気づいたのも、ついさっきだというのに。気づいてしまったから反動が大きすぎたのか。度忘れするにもほどがある。
「まあいいや。もう今夜は寝ちまおう」
ドアノブに手をかけた瞬間、くらりとした。相当酔っているようだ。
「あれ? カギ。俺、カギもかけずに出かけたのか?」
ドアは音もなく開いた。
施錠し忘れたのか? いや、そんなはずはない。いくらうっかりしていたとしても。
丈太郎は自分の酔っぱらい具合に溜め息をつく。二人の名前を思い出せないほど飲んだのだ。カギ開けなどという習慣化している所作が記憶にないくらい、大したことではないと慰める。
だが部屋には灯りが点いていた。
電気を消し忘れた? 昨夜からつけたままだった?
いくら自分が、ついついいろいろやらかしてしまうにしても、何かおかしい。
「うっ」
まためまいが襲った。ふらつく体を踏ん張って支え、顔を上げれば、いつの間にか自分は部屋の中にいた。
「やっと帰ってきた」
目の前にいた男が言った。
「誰だ、お前っ!?」
ぞぞっと背筋に冷たいものが走る。
泥棒? こんな独身男の部屋に?
予想もしない事態に酔いも覚めた。下手に抵抗して向かってこられたらどうしよう。もし刃物でも持っていたら? 部屋を出なければ。そうだ、警察に連絡しなければ。
後ずさろうとするが、足は床に吸いついたように動かなかった。
「お帰りなさい、丈太郎さん」
焦り、顔を引きつらせている丈太郎に、男は涼やかな声でそう言った。
「――へ?」
丈太郎。それは自分の名前だ。目の前の男は自分を知っているらしい。
「何をふらふらとほっつき歩いてたんですか。さっさと帰ってこないとダメでしょう」
「ほっつき歩いて? あ、いや、ダメって、何だよ。っていうか、どちら様で?」
もっと慌ててもいいはずだと思った。だがそれよりも目の前の男に目を奪われていた。
こんなむさ苦しい部屋にはとんと不釣り合いな、すこぶるイイ男。男の自分が見ても、だ。きっと女受けもいいだろう。自分と違って――そんなことを思った。
いや待て。今考えなければならないのはそれじゃない。散漫になる思考を叱咤する。
勝手に部屋に上がり込んでいるこの男は誰なのだ。自分は、こんな男の知り合いはない。
「僕は、レンといいます。あなたに恩義があって、それをお返しに来ました」
「はい――!?」
恩義? 返す? 何だ、それは!?
「俺にはまったく覚えがないんですが? 人違いじゃないですか?」
落ち着け、と自身に言い聞かせながら丈太郎は言葉を返す。普通に考えて、それが一番ありえそうだ。
本当にこんな男に覚えはないのだ。
「人違いじゃないです。あなたです、丈太郎さん。僕はあなたに命を助けてもらったんです」
命を助けた、だと?
レン、と名乗った男は真剣な顔で丈太郎を見つめてくる。
イイ男のそんな顔は様になりすぎる。見惚れかけている自分に気づいた丈太郎は、即座に首を振って幾分声を荒げた。
「俺には覚えがねえんだっ。憚りながら言うとだな。俺は誰かに助けられることはあっても、助けるなんてことねえんだよ。まして命をだなんて」
そんな人助けをしたというなら、記憶にないはずがない。いくら今酔っぱらっているにしても。
いや酔いは醒めている。この男を見た瞬間に。
「だから帰ってくれ。今俺は誰とも話をする気分じゃねえんだ」
「そういうわけにはいきません。僕はあなたに助けられた。その恩をお返しするために、あなたの望みを一つ叶えるために来たんですから」
やばい。言っている意味が分からない。
命の恩人の望みを叶えると言っているように聞こえるのだが、そもそも望みを叶えるとは、何をもって言うのだ。そんな魔法使いみたいなことを。
こんな深夜に人の家に上がり込んでいる奴だ。頭のネジがぶっ飛んでいるのかもしれない。まだ若そうなのに、それもこんなに顔もいいのに、いろいろ残念だ。
「順にお話ししますとですね。今夜――」
「あ、あのー、レンさん、といいましたね」
丈太郎は、話そうとする男の言葉を遮った。聞いてしまったら後戻りできない。これまで当たり障りなく生きてきた自分の危機回避能力がそう告げている。外れることも多々あるが、丈太郎は自分の直感にかける。穏便にお引き取りいただかなくては。
「はい」
男は目を細めて返事をした。それまで、横を向いたり後ろに向いたりしていた耳も、正面を向いた。
「え、……耳? あの、頭にあるのは……?」
耳。耳だ。耳が――?
言いながら丈太郎は、目を擦った。
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