運命の人、探します!

波奈海月

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1巻

1-3

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 それなのにどうしたことか、身の危険を感じながらも、わたしは魅入みいられたように吉瀬さんから目がらせなかった。
 サクラだったという後ろめたさがそうさせるのだろうか。
 気になっていた人にほしいと言われて、それこそ乙女のようにときめいてしまったのだろうか。
 正直なところ、自分でもよくわからなくなっていた。
 吉瀬さんは、肩を抱いてわたしを引き寄せると、お腹の奥をきゅんとしびれさせる声でささやく。

「部屋を取っている」
「そ、そ、そんなことを言われても……」

 とろけだした理性でかろうじて抵抗しようとするも、わたしはか細い声を上げるのがやっとだ。
 それでもどうにか、肩に回された吉瀬さんの腕を払いのけて立ち上がる。いや、立ち上がろうとした。

「あれ……?」

 しかし腰を浮かせた途端、ひざからスコンと力が抜けてしまい、わたしは再びソファに身を沈める。

「急に立つんじゃない。酔っ払いが」
「よ、よ、酔っ払って、なんて」

 あわてたわたしは、声が裏返ってしまう。

「それだけ飲んでおいてよく言うな」
「それだけって言われても……」

 飲み干すたびにグラスは下げられてしまうので、何杯飲んだのか定かではない。わたしは気まずげに視線を泳がす。

「無防備なんだよな、君って。考えていることが顔に出るのもそうだけど」
「し、知りませんっ」

 吉瀬さんは手を上げ、ウェイターに水を持ってこさせる。そして――
 席が奥なのを良いことに!
 ソファの背もたれが高く、通路から目隠しになるのを良いことに!
 グラスの水を口に含んだ吉瀬さんは、なんとわたしに口づけて飲ませたのだ。

「だから、俺に任せなさい」

 のどに流しこまれた水は、飲んでいたカクテルよりもずっと甘やかだった――


    ***


「あ、ああん、もう……いやあ……」

 結局わたしは、男にわれるままにホテルの部屋へとついていってしまった。
 ショーツを脱がされ、すぐにたかぶった自身を入れられるのかと思っていたが、吉瀬さんは執拗しつようだった。乳首から下肢かしに移った手は恥毛をかき分け、隠れていた秘芯ひしんさぐりだして、愛撫あいぶを始める。
 女にとって敏感なそこを、彼は指の腹で乳首をいじっていたときのように、さすってねた。

いじればいじるほど、どんどんれてくる。お前、感じやすいんだな」

 いつの間にか、「お前」と呼ばれていた。でも今のわたしには呼び方なんて気にする余裕はない。

「そ、んな、知らな……、ああ……、んんっ!」

 言っているそばからわたしはあえぐ。

「ここ、どうなっているか教えてやろうか? 熟したイチゴみたいに赤くなってる」
「なっ……!? このっ……変態っ!!」

 つい想像したわたしは、恥ずかしくて顔を両手でおおった。まったくどういう例えをするのか、こんなことを言われたら、もうイチゴが食べられなくなりそうだ。

「ひゃあっ!?」

 わたしはいきなりあしの付け根をねっとりと柔らかいもので包まれ、これまでにない声を上げた。

「な……、何、を――っ!?」

 顔をおおった手を外して下腹部に目をやれば、そこに吉瀬さんの頭があった。

「あんまり可愛いからさ、ここ」
「やめっ、そ、そんな、とこっ、きたっ、な……、ああっ、な、めないで……っ」

 あまりの衝撃で、わたしは頭の中が真っ白になる。口でされるなんて初めてだ。指でいじられるのだって、下着をらしてしまうほどの経験はなかった。

「やぁ、んあっ、んんっ」

 指でつままれたあと、飴玉を転がすようにねぶられて吸い上げられる。
 彼は舌先をすぼめ、みつにまみれた秘芯ひしんを突いたかと思えば、すぐにねっとりとめ上げる。
 わたしはたまらず、あられもない声を上げ、何度も腰を浮かせては沈んだ。

「ますますぷっくりしてきた」
「やぁん、息が……」

 口をつけたまましゃべるから、吐息がかかってそれだけで感じてしまう。
 やさしく触られるのは気持ちが良い。でも度を越して刺激が強くなると、愉悦ゆえつを味わうどころではなくなってしまう。もう限界だった。

「おね、がっ、やめ、んんっ、あ、も、もう……そ……それ以上、いじらないで……」

 わたしは息を乱しながら、やめてほしいと懇願する。
 これ以上は耐えられそうもなかった。このまま続けたら、自分がどうにかなってしまいそうで怖い。
 吉瀬さんが体を起こした。一瞬願いを聞き入れてくれたのかと思ったが、これで終わるわけがないことは、わたしだってわかっていた。
 彼は、ベッドのサイドテーブルに置いてあった小さなパッケージを手に取ると、ボクサーパンツを脱いで天をいている自身のたかぶりに避妊具をかぶせる。
 そうして準備を整えると、わたしのあしを左右に大きく割って腰をかかえた。
 わたしは目を閉じる。しかし、来るはずの衝撃は一向に来ない。

「えっ……?」

 わたしは蜜口をまさぐられるのを感じて、そっと目を開けた。

「こんなにれてたら、大丈夫かと思うが、一応念のためな」

 あふれるみつれてぬるぬるになっていても、いきなり突き入れては負担になるだろうと思ってくれたらしい。肉裂の奥に沈めた指を抜き差しし、押し広げるように動いて膣壁をこする。
 彼が見せた些細ささいな気遣いが、変にわたしを戸惑とまどわせていた。一目惚ひとめぼれしただの守ってあげたいだのと甘い言葉を並べても、所詮は抱き合うための口八丁くちはっちょうと心のどこかで疑っていたから。
 おそらく吉瀬さんは本質的にやさしいのだ。困っている人を見過ごせない、そんな思いやりを持っている。
 ストーカーまがいの男にからまれたわたしを、機転をかせて助けてくれた。そんな面倒なことになっている女など、巻きこまれるのはご免とスルーしても良かったのだ。
 もし、吉瀬さんが本気でわたしとの交際を望んでいたら――
 わたしはすべてを正直に話せるだろうか。

「どうした? 指じゃ物足りないのか?」

 わずかにくもらせたわたしの表情から、彼は何か感じ取ったらしい。
 さっきまでさんざんあえいで乱れていたのに、急に甲高かんだかい声を上げなくなったから、そう思ったのかもしれない。
 本当のことを答えようがないわたしは、吉瀬さんを見詰みつめたあと黙って首を横に振る。
 そんな態度をどう思ったのか、彼はわたしの顔をのぞきこんだあとささやくように告げた。

「まだもうちょっと我慢な。ぬるぬるだけど、お前の中、結構きついから」

 言われるのとほぼ同時に、彼の指を呑みこんでいる膣口がさらにれるのを感じた。指が増やされたのだろう。
 彼の指は中でくにくにと動いて、かなり深いところまで掘り進めてくる。でも、乳首や秘芯ひしんいじられていたときほど強い快感はない。
 それが――

「はぅっ!? やっ、ああんっ!!」

 腹側の膣壁を強くこすられたとき、何か言いようのない感覚が刺激され、わたしの体がねた。

「え? な、何? あ、ああっ!!」

 何をされたのか理解できないまま、わたしは身に起きた変化におののいていた。
 指でこすられたところが炎症を起こしたようにじんじんとしびれ、それが下肢かしに広がっていく。

「や、やめ……、い、いや……あっ!! へ、へん……な、のっ、くる……!!」
「変なのってお前……。これが何かわからないのか?」
「そんなの、わかんなっ――!!」

 言いながらもなおそこを指で押しこする彼に、わたしは半泣きになって首を横に振った。
 わかるわけがない。いったいなんなのだ、これは。
 女の体には、奥に感じるところがあることは聞いていたが、ここがそうなのだろうか?

「……仕方ないな。指が三本呑みこめたから、慣らすのはもういいか」

 吉瀬さんはどこか未練を残すように体を起こすと、ぬるっと指を抜いた。
 膣口のれる感覚がなくなったわたしは、ほぅっと息を吐く。あの変な感覚も不思議なことに落ち着いた。

「一息ついているようだが、入れるぞ? 俺もそろそろ限界だし」
「……ん」

 今度こそ来るのだと、わたしは先ほどの余韻がまだ残っているのを感じながら、小さくうなずいた。

「つらかったら言ってくれ。善処はする」

 吉瀬さんがわたしの腰をかかえて浮かせると、秘裂にぬぷりとたかぶりの尖端せんたんあてがった。そのままぐっと押しこむようにして、わたしの中に沈めていく。

「ああ……」

 指よりもずっと質量のあるものが、周囲の肉を押し広げながらゆっくりと入ってくる。膣口がぎりぎりまで広がって、れ感も半端はんぱない。

「んっ。……やっぱり、きつい、な。中がきゅうきゅう吸いついてくる。少し、ゆるめられないか?」

 彼は苦しいのか片頬かたほおゆがめ、途切れがちに言う。

「そん……、ああ……っ」

 中をゆるめる方法なんてあるのだろうか。少なくともわたしは知らない。そんなことを言うなら、このかためたものをどうにかしてほしい。

「あ、あ……、ああ……、あっ、あっ、あ」

 しかし言い返す余裕があるはずがなく、開かれていく感覚に震えながらわたしはあえぐしかなかった。
 吉瀬さんはときおり小刻みに腰を動かし、自身のたかぶりを揺らしつつ、ぐい、ぐい、と押しこむ。
 指が届くことのなかった深いところまで屹立きつりつ尖端せんたんでずんと穿うがたれ、わたしは衝撃で息がまった。

「動くぞ」
「やっ……ま、待って……」

 まだ少し、体が馴染なじむまでのゆうがほしかった。
 ようやく収められた男のものは、圧倒的な存在感でわたしの内部を押し広げ、たかぶる熱でチリチリと周囲を焼いている。
 こんな状態で動かれたら、どんなわずかな刺激でも悲鳴を上げてしまいそうだ。

「悪いが、待てない」
「で、でも、つ、つらかったら……い、言って、って……ああっ……」

 彼が、さらに腰をねじこんだ。おかげでわたしの体はシーツをすべってずり上がる。

「できないこともある」
「なっ!? はあぁ……、んぁ、……ああ、あぁっ……ぁ……」

 抗議をしようとしたものの、吉瀬さんに腰を揺らされ、口から出るのはいやらしいよがり声ばかり。

「ほら大丈夫だろ? またれてきてるぞ」
「あ、ああ……、あぁ、んっ、んぁ……やぁ……ああ……」

 彼に動かれたら耐えられないと思ったのに、欲熱のかたまりくわえこんだ体は、いっそうみつあふれさせたらしい。彼が突き入れるたび、ぐちゅり、ぐちゅ、ぐちゅん、と粘りをびた水音を響かせる。

「くっ、ぬるぬるなのに締めつけてくる」

 気持ちが良いのか彼はえつに入った表情を浮かべ、わたしの中でさらに律動を刻み始めた。

「あ、ああ……、はぁ……ああ、ん、ん、あぁ……」

 ずぶりと押しこんだかと思うと腰を引き、膣口の浅いところをたかぶりの尖端せんたんこする。しばらくそんな抜き差しを繰り返していた。
 わたしは、何かさぐるようなその動きに揺さぶられながら、快感をやり過ごす。

「この辺りだったかな……」

 そう言って彼が慎重に腰を揺すった。たかぶりを突き入れる角度が変わって、尖端せんたんがわたしの内壁をこする。
 その瞬間、自分でも思わぬほどの大声が出た。

「え……、あぁ!? ……ああぁっ、やぁ、あ、ああ、あああ――っ!!」
「当たりか? その感じだと。指よりこっちのほうがイイらしいな」

 そこが先ほど指でこすられた箇所だと教えられた。

「ああんっ、んあ――」

 つんと突くように腰を使われ、わたしはまた一段と高い声を上げる。

「気持ちいいか? そんなに腰を揺らして」
「んんっ……、あ、あん……、はあ、あ……はぁっ……」

 あえぎながらでは舌がもつれてまともにしゃべれず、上がるのは嬌声きょうせいばかりだ。腰を揺らしていると吉瀬さんは言うが、自分には動かしているという意識がない。
 ただこすられるたびに甘い疼痛とうつうが広がり、このままではおかしくなると思った。
 これはいったい何?
 やっぱりここが、女が感じるイイところなの?
 これまで膣中であまり感じたことがなかったわたしが、初めて覚える感覚だ。
 困惑したわたしは、すがるように彼を見上げる。

「色っぽい顔するなよ。お前がもっとほしくなるだろ」

 もっとほしいって――? 色っぽいなんて言われても困るのだけど……
 どこかうっとりしたようにかすれた声で言った吉瀬さんは、ニヤリと笑んで見せた。
 そんな悪ぶった表情が、やんちゃな男の子のようだ。

「だったら……、奪って……」

 何かが心の奥底に触れ、わたしは自分でも予想だにしなかったことを口にしていた。言ってから、自分の大胆さに驚いて身震いする。

「へえ――」

 彼の眼差まなざしが変わったように感じた。わたしの腰をかかえなおし、そろりと中のものを引いていく。

「あっ……」

 わたしは咄嗟とっさに追いすがろうとしてしまう。

「抜きやしないから安心しろ。――望みどおり、今から奪ってやる」

 宣言すると、彼はぬちゃりと音をさせながら奥まで押しこんだ。
 そのときの表情が、今日一番悪そうなもので、わたしはごくりとのどらす。
 彼の動きは徐々じょじょに速さと執拗しつようさを増し、大きくうねる。肉の熱棒でがつんがつんとわたしの中を、奥を手前を、左右も縦横も、届くところはすべてかき回して暴れた。

「や、あ、ああ……、あっ、あ、あ……」
「くうっ、たまらないな」

 彼は感嘆めいたうめき声をらすと、最奥の肉壁を突き破らんばかりの勢いでさらに激しく打ちつける。
 わたしは、のどからほとばし嬌声きょうせいを止められず、揺さぶられるまま声を上げ続けた。熱くたぎる情欲のたかぶりに攻められ、翻弄ほんろうされていく。

「あっ! あっ、あっ、ああ――っ!!」

 そしてついには、解き放たれたように真っ白い世界に包まれた――



   2 うちの会社には王子が二人いる?


 わたしの勤め先である〈江杏堂〉の本社ビルは、商業施設街の端にある。一階に店舗と喫茶、二階が物流部と倉庫。三階は、新製品開発のための器材をそろえた調理室と製造企画部。四階が営業部で、五階には総務部と役員室があった。工場は本社とはまた別のところにある。
 わたしは部内朝礼のあと、あせる気持ちを抑えつつ四階フロアのすみにあるコピー機に向かった。これから始まる営業会議の資料のコピーを頼まれていたことを、すっかり失念していたのだ。

「何やってんだろ、わたし」

 吸いこんだ息をそのまま吐き出すと、項垂うなだれる。
 わたしはこの一週間、かつてない悔恨にさいなまれていた。理由はもちろんあれだ。会ったばかりの男と関係を持ってしまったこと。自分がこんなにも軽い女だったとは思わなかった。
 そりゃ、あの男の見目は良かった。話し方も仕草もスマートで、じっと見詰みつめられたらもうどきどきそわそわ、ときめかない女子はいないっていうくらいのイケメンだ。
 だからって、ほいほいついて行っちゃうって、どうなのだ。男がそういう目的だったのはわかっていたじゃないか。あのときはアルコールを飲んでいたし、ちょっと心神喪失しんしんそうしつ中で冷静な判断ができなかったとか、気がたかぶぶっていたとか言い訳できるものならしたい。
 その上、プライベートの失敗を仕事にまで影響させてしまうのは、いかがなものだろう。
 あれ以来、ゴミ箱につまずいて周囲にゴミをばらいたり、通勤定期を忘れたり、ミスを連発しているのがなんとも情けない。

「はあ……」

 わたしは、トレイに排出される用紙を見ながら、もう何度目なのかわからないめ息をつく。
 どんなになげいても、事実は消えないし、すべて自分が招いたことだとわかっている。
 もう忘れよう、考えるんじゃないと強く思えば思うほど、彼のことを思い出してしまうし、あの夜経験したことをなぞってしまうのだ。
 耳に心地よく響く彼の声。かばうように背中に手を回されたときのぬくもり。触れた唇の柔らかさと舌をからめとられて吸われる息の苦しさ。彼に胸のふくらみを触れられ、尖端せんたんの突起をすりつぶさんばかりにねられて。それから、わたしの中に――……
 ちょっと思い出しただけで、どきどきと鼓動こどうが速くなってしまう。
 だって、初めてだったのだ。セックスであんなに我を忘れるほど感じてしまったのは。挙句の果てには、彼の熱情に翻弄ほんろうされ、もっとほしいと求めていた。
 そんなわたしに応えてか、彼は体がバラバラになるほどの激しさで突き上げ揺さぶった。わたしはこれまで経験したことのない快感にさらに乱れて、それが女のよろこびなのだと知ったのだ。
 まったく、会ったばかりの男とそんなことになるなんて。体の関係は互いに想いを重ねてから、というわたしの倫理観が全否定ではないか。
 それに、彼はわたしを好きになったようなことを話していたが、場の雰囲気に流されただけに違いない。
 その証拠が、金だ。
 ことを終え、ふらつきながらもシャワーをびてわたしが部屋に戻ると、彼に金を突きつけられた。タクシー代にしろと言っていたが、何を意味する金なのか理解できないほどわたしは世間知らずではない。一夜限りの遊びの報酬だ。
 そのときのショックは大きかった。なんだかんだと彼には好感を持ち、かれていたのだ。だから、金でどうにかできる女だと思われたのが悔しくて腹立たしくて、気づいたときには手でそれを払いのけ部屋を飛び出していた。
 だけどあのお金を受け取っていたら、そういう一度限りの関係だったと割り切れたかも。こんなに引きずらずに済んだ気もする。
 そう思うかたわら、胸の奥がちくんとしてしまう。なんなのだ、これは。
 忘れてはいけないといういましめ? むやみに男に気を許してはいけないと……

「あー、古池さん、いたー」
「えっ? あっ」

 不意に後ろから二つ年上の先輩、及川さんに声をかけられ、わたしははたと我に返る。
 壁の時計を見ると、会議開始まであと八分とせまっていた。あわてて止まっていたコピー機に次の原稿をセットすると、スタートボタンを押す。
 ぼんやりしすぎだ。ただでさえぎりぎりなのに、こんなことで時間を取られてしまうなんて。これでは会議に間に合わないではないか。

「課長が呼んでるわ。すぐに来てくれって」
「でもわたし、まだコピーが終わってなくて。会議に必要なのに」

 わたしはガーガーと排出される用紙を手に取り、すでに終わっていた分に重ねていく。

「会議は午後に変更だって」

 及川さんが小さく肩をすくめた。その拍子にゆるめのウェーブがかかった髪が、ふわりと揺れる。髪を一つにまとめているわたしとは違い、とても可愛らしい。

「午後に変更ですか?」

 すぐには信じられない思いでわたしはき返した。
 まさかコピーが遅いから時間変更を余儀なくされて……なんてことはないと思うが、珍しい。定例会議なので、ほとんどの営業が会議のあと商談に出かける予定を組んでいる。それなのに時間の変更をするなんて、よっぽど優先しなければならないことが出てきたのだろうか。

「さっき会った製造企画部の同期が言ってたんだけど、朝から上、すっごいバタバタしてるんだって」
「バタバタ?」

 上と言うのは、五階の総務部だ。役員室の可能性もあるが、両者とも営業の会議には関係ない気がするのだけど。

「どうも二の王子がらみみたい。その影響で会議が午後からになったようよ」
「えっ、そうなんですか?」

 うちの会社には社長の孫である御曹司、通称「王子」が二人いる。彼らは従兄弟いとこ同士で、江原えはら社長の二人の娘をそれぞれ母に持つ。
 一の王子、もりさとひろ氏は姉の子で、専務の森里氏が父親だ。営業部をて製造企画部で製品企画課長の職にいており、新製品の開発に心血を注いでいる。そんな仕事熱心さゆえか生真面目きまじめな元来の性格ゆえか、御年三十四歳ながら一向に浮いた話がなく、独身。本当か嘘か知らないけれど、女性とつき合ったこともないという。陰ではゲイではないかとのうわさもあるらしい。しかし周囲の人望は厚く、社長の跡を継ぐのは深紘氏だともくされていた。
 そしてすでに他界している妹のほうを母に持つのが二の王子、あきしまゆうすけ氏だ。二十七歳でこちらも独身。彼についてあまり良い話は聞かない。それというのも母を亡くした裕典氏を不憫ふびんに思った社長に猫可愛がりされていて、我がままなのだそうだ。会社運営にも口出しするとかしないとか、深紘氏の父で伯父の専務も困っているとかいないとか。その上、女性の影が絶えないらしい。
 母親を亡くしている裕典氏には同情はするけれど、それとこれとは別だろう。

「でも、二の王子って、なんで……」
「んー、その子が言うには、なんかね、二の王子のために新部署を設立するんだって。ずっと社長秘書をやってたのに、社長の鶴の一声で部署を持たせることになったらしいの。一の王子はいつもどおり、〈製造企画部〉の調理室にこもってるらしいけど」
「――新部署って、何をするんですかね?」

 内容まではわからないと及川さんはまた肩をすくめた。
 わたしはふと工場勤務時代に古参のパートさんから聞いた話を思い出す。後継者候補として一の王子が本社で確かな役職にいているのに、社長秘書というだけで役職もない二の王子はあせっているらしいというものだ。
 まさかそれで新部署を? 今のままでは深紘氏に大きく水をあけられているから?
 なんてはた迷惑な話だ。我がまま御曹司のおりは大変だろうと上の人たちに同情する。

「ねえ、あともうそれをコピーしたら終わりなんでしょ? 私がやっておくから、古池さんは行って。課長、なんかすごく難しそうな顔してたから」

 及川さんは、いつもながら面倒見良く言う。
 これでなぜ彼氏がいないのか不思議だ。彼女とは食べ物の好みが似ていることもあり退社後、スイーツなど美味しいものを楽しむシングル同士だった。もっともわたしにつき合ってくれているだけなのかもしれないけれど。

「わかりました。すみませんがよろしくお願いします」

 先輩に押しつけるようで申し訳なく思ったが、ここはお言葉に甘えることにする。
 わたしは及川さんに頭を下げると、課長のもとに急いだ。
 同じフロアだと言っても、コピー機があるここから課長の席までは割と距離がある。わたしはゴミ箱をっ飛ばさないように注意しながら、早足で向かう。

「課長、お呼びでしょうか」

 わたしがそう言って机の前に立つと、課長が顔を上げた。なるほど及川さんが言ったとおり、気鬱きうつそうな表情をしている。

「古池さん。突然だが、辞令だ。今日をもって君は総務部の〈広報メディア企画課〉に異動だ」
「え……」


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