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1巻
1-2
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吉瀬さんだ。どこか切羽詰まっているような、それでいてのんびりとした口調が、刺々しくなりかけた場の空気を変える。
「……そうですね。では料理をお願いします」
東馬さんが近くで待機していたホテルの人に、料理を出してくれるように合図した。
確かに頃合いだ。これ以上、こんな男のために、時間が削られるのは腹立たしい。
「申し訳ありません。お引き取りいただけないのでしたら、強硬手段に出させていただきます。よろしいですか?」
東馬さんが、警告するように男に迫った。東馬さんの態度に威圧感が増す。
「そ、そんなことをしていいと思っているのか? メ、メンバーだぞ、俺は」
東馬さんの雰囲気に呑まれたのか、男は気色ばみつつも言葉が尻すぼみになる。
わたしはその様子を見ながら、気が滅入ってきた。どういう形にせよ、こんな男がいる結婚相談所になんて入会したいとは思わないだろう。今日のパーティで新規メンバーは望めないということだ。
母の要請とはいえ、自分がここにいたから引き起こされた事態だ――家のために頑張りたいのに、逆に足を引っぱってしまい、申し訳なく思う。
「――僕は初めてだからよくわからないんだけど、こういうのってまず両者の合意があってされるものだよね?」
横から口を挟んですまないと言いつつ、吉瀬さんが東馬さんに訊いてきた。
「さようでございます。どんなにお望みになられましても相手様があることですので、直接お会いいただくのは、双方合意された場合のみに限らせていただいています」
東馬さんは突然話しかけられたにもかかわらず、背筋をピンと伸ばし、吉瀬さんの質問に紳士然と答えた。
「おい待てよ!! お前、何訊いてんだよ!?」
男の矛先が吉瀬さんに向かう。でも吉瀬さんはそれを気に留めもせず、東馬さんの言うことに頷いていた。
どういう意図があってなのかわからないが、ナイスタイミングで話に割りこんだ吉瀬という男に、好感度が一気に上昇する。
そう思ったのはわたしだけではないようで、ドン引きしていた他の女性陣も表情を緩め、吉瀬さんを熱い目で見詰めていた。
「では、お引き取り願えますか」
「ちょっ!! 俺はただ、春野さんに……。そ、そうだ、連絡先! メアドでも電話番号でもいいから……」
ずいっと東馬さんに前に出られ、男の声は上ずっていた。勝負ありだ。
「よろしいですか。今後もし春野様につき纏うようなことがあれば、当社としてはそれなりの対応をさせていただきます」
これで、とどめ。
頑として譲らない東馬さんの態度は、まるで言い寄られて迷惑している女性を守っているように見えるらしい。女性参加者は吉瀬さんだけでなく、東馬さんにもうっとりとした眼差しを送っている。
これはもしかしてヒョウタンからコマ?
会社の危機かもと、内心かなり焦っていたけど、この反応は悪くない。
「わ、わかったって。そんなおっかない顔して睨むなよ」
顔を引き攣らせ、渋々といった体で男が踵を返し、扉口に向かう。そしてお約束のように振り返ると、忌々しげに「憶えてろよ」と捨てゼリフを残して出ていった。
どこからか、ほうっと吐き出された息が聞こえる。ひとまず一段落か。
「春野様」
「はい」
不意に東馬さんに名を呼ばれたわたしは、ぱちくりと瞬きをして、彼の顔を見る。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。このことは当社の責任であり、春野様にはなんの落ち度もございません。今後もし何かありましたら、すぐに連絡をいただければと思います」
東馬さんはそう言って深々と頭を下げる。アシスタントについていた若いスタッフも同様だ。もちろんわたしは、そのスタッフとも顔見知りなんだけど……
「いえ、そんな……。びっくりしましたけど大丈夫ですから」
わたしは今、「ゲスト」としてここにいるのだ。だから東馬さんは会社の代表として「不快な思いをしたはずのゲスト」に誠意をこめて謝罪したのだろう。
「ではしばらくお食事をお楽しみください」
今度はなりゆきを見守っていた他の参加者に向けて、東馬さんが頭を下げる。
そうして食事が始まった。だけど、一度悪くなってしまった空気を完全に元どおりにすることはできず、ぎこちなさが残っている。
「良かったですね、大ごとにならなくて」
そんな中、吉瀬さんに話しかけられた。わたしと彼の間にはもう一人参加者の男性がいるのだけど、お構いなしだ。そんな彼のマイペースぶりについ苦笑したくなる。
「はい。ええ、まあ……」
「どうしてまたこんなことになったのか、教えてもらえませんか?」
口を開いたのは、向かいに座っている女性参加者だ。
誰もがわたしに詳細を訊きたがっていることは、周囲の視線から察せられた。
「あの……、それはちょっと……」
わたしは言葉を濁し、東馬さんを窺う。
あの男の態度は褒められたものではないが、一応〈プリマヴェーラ・リアン〉の正規会員であるし、本人がいないところで話題にするのは良い感じはしない。あの思いこみがすぎるところがなければ、案外悪い人ではないかもしれないし。
「お見苦しいところをお見せしてしまいましたが、当社に登録されている方ですので、これ以上のお話はご容赦ください」
すかさず東馬さんが間に入ってくれて助かった。
「えー、でもああいう人を紹介されるのは困るし、ヤバい人は知っておきたいんですけど」
女性参加者が食い下がる。まあこれも正論だ。
「ご入会いただき、お相手を紹介する段になりましたら、その都度ご希望をいただくことになります。希望されていない方をこちらから取り持つことは決して致しませんので、ご安心ください。どのような場合でも、優先されるのはご本人様のお気持ちでございます」
「つまり、こちらの春野さんは断った。でも向こうは何か勘違いして、ここに来ちゃったってことかな?」
今度は、はす向かいの男性参加者が質問する。
ええ、そうです。そのとおりなんですよ、と声に出して言いたいところをわたしはぎこちない笑みで答えた。
「……こちらの配慮が至らず、申し訳ありませんでした」
顔を僅かに曇らせたのを目ざとく東馬さんに見られてしまったようだ。また謝らせてしまった。
わたしは、「仕事増やしてごめんなさい」と、内心でひたすら東馬さんに手を合わせる。
もう、ほとぼりが冷めるまで――いや冷めてもパーティに出ないことにしよう。元々サクラなんて面倒なだけだし、他にもやりようがあるだろう。わたしは改めて決意した。
「でも! カッコ良かったです! すっと間に立って、なんだか暴漢から女性を守るSPみたいで!!」
突然上がった声に、自然に視線が集まる。奥の席の女性――先ほど東馬さんに見惚れていた人だった。キラキラと夢見るような表情を浮かべている。
「そうやって注目してもらえるなら、僕ももう少し頑張れば良かったな。お腹が空いたなんて言ってないで」
今度は吉瀬さんが言う。タイミングよく話を展開させ、彼は空気清浄機のように場の雰囲気を変える。
本気か嘘かわからない残念そうな吉瀬さんの言い方がおかしくて、わたしを始め何人かがクスリと笑みを漏らした。
わたしは、感心せざるを得なかった。ずいぶん巧みな話術だ。彼はいったいどんな仕事をしている人なのだろう。
しかし笑うなんて失礼なことをしてしまったと、わたしは慌てて言い繕う。
「すみません。ちょっと気が緩んでしまって。吉瀬さんを笑ったわけでは……、あの、その……」
「いや、ぜんぜん? そうだな。気になるなら、このあと軽く飲みにつき合ってもらえれば――」
「はあ……、でもそれは」
みんながいる前で堂々と誘ってくるなんて。〈プリマヴェーラ・リアン〉の規約を知っているわたしは面食らった。案内状に、主催を通さない誘いは禁止と明記されているはずなのだ。
「吉瀬様、パーティ後のそのような申し出は、すべて当社を通していただきたいと存じます」
東馬さんが少し困ったように口を開く。
「勝手に誘っちゃ駄目?」
「はい。大変失礼ではございますが、何ごとも万が一のことがございます。当社主催のパーティで出会われた方と次にお会いになりたい場合は、私どもにお知らせください。改めて後日こちらからご連絡をし、場を設けさせていただきます」
メンバー登録がされていないゲストに勝手に振る舞われては、何か起きたときに対応が難しくなる。会社としてできるだけトラブルを避けるための規約だ。
「そうかあ。結婚相手を探して参加してるわけだから、合コンのノリで声かけたらいけないんだな。春野さん、軽く誘ってすまない」
少し大げさに頭を下げた吉瀬さんだったが、にこりと笑みを浮かべた顔に悪びれる様子はない。
普通そんな態度を取られたら、調子がイイだけのヤツと鼻白むところだが、吉瀬さんにはなんというか、かえってそこに親しみやすさがあった。もし、わたしにもお相手を探す権利があったなら、吉瀬さんの名を最初に挙げるだろう。
とは言っても、わたしに男を見る目がないのはこれまでの経験で思い知っている。特にこうしてメイクアップしているときに近寄ってくる男はすべて警戒するに越したことはないのだ。
パーティ終了後、開始前に受付で渡されたナンバープレートの裏面に、気になる人の番号を書きこみ、返却する。なければ、番号なしで返せばいい。――わたしのプレートのように。
これでマッチングしていたら、改めて一対一でのお見合いが双方に打診される。それが〈プリマヴェーラ・リアン〉のアフターサービスだ。だからチャンスは今、この場だけ。
トラブルはあったが、一応それなりに事が運んだパーティを終えて、参加者が帰途に就く。用意した入会案内のパンフレットを持ち帰る人もいれば、さっさと出ていく人もいた。
「今日はありがとうございました」
わたしも、扉口で見送ってくれるスタッフにそう挨拶すると、ひとまず会場をあとにする。
この格好のまま帰宅しても構わないのだが、参加者の姿がなくなったころを見計らい、スタッフ控室に戻って着替えをしようと考えていた。「春野敦子」から「古池梓沙」に戻るのだ。
どこで他の人をやり過ごそうかと考えながらエレベーターホール前まで行くと、そこにはまだ参加者の半数近くが残っていた。エレベーターのボタンは押されていたが、それを待っている風でもない。
「春野さん」
呼ばれた以上返事をしなければ。わたしは「はい」と、顔を向けた。
そこにはしきりに吉瀬さんに秋波を送っていた女性陣が揃っていた。その後ろには男性が三人ほど。
「あのね、パーティの規約はわかってるんだけどね」
意味深に口もとを緩ませている彼女たちに促され視線をやると、向こうに吉瀬さんの姿があった。こちらに背を向け電話をしている。
どうやら、彼を誘って二次会に行かないかということらしい。
主催の与り知らないところでの遣り取りはNGといっても、会場を出てしまえば目の届きようがなく、それこそ勝手に次へ流れていく。
しかしわたしは、話に乗る気はなかった。規約のこともあるし、サクラとしての都合上ゲスト参加者とはパーティ会場だけのつき合いにしている。
もし何かの弾みで身上調査されたら面倒この上ない。身バレしようものなら、〈プリマヴェーラ・リアン〉は社会的信用を失い、すべてが終わってしまうではないか。
「ねえ、二次会どうかしら? 彼も誘ってちょっと行かない?」
「すみません。わたしはもうここで失礼させていただこうかと。門限が十時なんです。今出ないとぎりぎりで」
これまでの経験から、そう言うと大抵の人が引き下がってくれることを知っていた。
「十時に門限って!? あなたいったい、いくつなの?」
時間は九時半に差しかかろうかというところ。彼女らは一様に「はぁ?」と、信じられないものを見たと言わんばかりにのけ反る。
ちなみに十時にしたのは、その時間に観たいドラマがあるからだった。今日は及川さんとスイーツを食べたらすぐ帰るつもりで家を出たので、録画予約をしていない。
「なんだ、そういうことなら――」
突然、わたしは後ろから伸びてきた腕に、肩を抱かれた。
「はい? え? あ、あの」
何事? まさかこの声って――?
信じられない思いで見上げると、端整な横顔が目に入る。
やっぱり吉瀬さん!?
驚いたのはわたしだけでなく、吉瀬さんに声をかけようとしていた彼女たちもだ。
「あの! 吉瀬さん、今から――」
「悪いね。僕は彼女を送って帰るよ。パーティ後の遣り取りは駄目だってプリマの執事さんが言ってたからね」
プリマの執事さんって東馬さんのこと?
確かに、言い得て妙だ。祖母にずっと仕えてきた東馬さんは、それこそ我が家の執事だった。
「でも、せっかくの機会ですし」
「またね」
女性たちの一人が引き留めようとするけれど、吉瀬さんはにべもない。
そして、タイミング良くドアが開いたエレベーターに乗りこんでしまう。もちろん肩を抱かれているわたしも一緒だ。
ドアが閉まる瞬間、こちらに向けられた視線がとんでもなく怖かったが、見なかったことにした。
「離してください」
エレベーターは吉瀬さんとわたしの二人だけだ。
「ああ、ごめんごめん。けどそんなに警戒してほしくないなあ」
言いながら腕を離してくれたが、相変わらず吉瀬さんには、まったく悪びれた様子がない。
人を半ば強引に帰る理由にしておきながら、警戒するなはないだろう。
「僕としては助けたつもりなんだけど?」
「助けた?」
わたしはあからさまに目を眇め、横に立つ男を見上げる。
二次会に誘われて困っていたと思ったのだろうか。
「乱入してきた男、いただろ?」
「え?」
そう言われてわたしはドキリとする。
「あの男、追い出されても君を諦めてなかったみたいなんだよね」
「どういうことですか?」
わたしの胸は嫌な感じに締めつけられ、鼓動を速める。
「気づかなかった? エレベーターの横に階段あっただろ? そこにいたんだよ。パーティが終わるのずっと待ってたんだろうね」
「嘘……」
そんなこと、ちっとも気づかなかったけど。
わたしは、さーっと顔から血の気が引いていくのを感じた。もしそうなら、また絡まれるところだった。ましてや家までつけられでもしたら……
「すごいね、あそこまでするって。よっぽど君のことが気に入ってるんだな」
「そんな」
わたしは眩暈を覚える。
そうだ、化粧を落として元の姿に戻ろう。そうしたらあの男だって気づかないはずだ。
しかし、私服は会場の横のスタッフ控室。そこに行く途中で男に見つからないとは限らないし、見咎められて素のわたしの姿を知られたら、公私ともにつき纏われることに――いや、反対に興味が失せるかもしれない。あの男は化粧しているわたしに執着しているようだから。
ただ、そうなったら、わたしの正体がバレてしまう。スタッフ控室で着替えをするなんて、一般参加者では考えられないことだ。
「おい、大丈夫か? 顔真っ青だぞ?」
「だ、大丈夫……です……」
そうだ。東馬さんに連絡して迎えに来てもらおう。みんなの前で言ってくれたではないか。何かあったらすぐに連絡を、って。こういう事態なら東馬さんを頼っても問題はないはずだ。
そんなことを考えているうちに、エレベーターは一階のロビーに着いた。わたしは吉瀬さんに寄り添われて、エレベーターを降りる。
「あっ」
「え?」
わたしはいきなり吉瀬さんに抱きこまれた。背中に壁が当たり、広い胸がわたしを隠すように立ちはだかる。
「階段で追いかけてきたみたいだ」
「ひっ」
わたしは恐怖で、吉瀬さんにしがみつく。
誰か、嘘だと言って……
喉から飛び出しそうになる悲鳴をぐっとこらえる。下手に声を上げて、目立ってしまうのはまずい。
「このまま出ていったら見つかるな。どうする? パーティでのこともあるし、やっぱり警察かな」
「す、すみません、警察は……」
警察に連絡するのは大ごとすぎる。何より公になって困るのは、こちらもだ。
親切で言ってくれた吉瀬さんに申し訳なくて、わたしは顔を伏せた。
これまでもパーティに出て、参加していた人に言い寄られた経験はあるけど、ここまでされたことはさすがになかった。
バチが当たったのだ。もうサクラなんて絶対しない。誰がなんと言おうと、もうもう絶対――
「――わかった。少しやり過ごそうか。君が出てこないとなれば、諦めるかもしれないし」
わたしの態度から、吉瀬さんは何か察したようだ。そう提案してくれる。
「とはいえ、ここにいつまでも立っているわけにはいかないし、どこかで時間を潰そうか。他のパーティ参加者が来たら面倒だし……。ああ、そうだ。地下のカクテルバーへ行こう。ここのロビーラウンジじゃ隠れようがないからね」
確かに、すぐ近くにあるロビーラウンジは壁がなく、外から誰がいるか丸見えだった。このホテルのカクテルバーを利用したことはないが、きっとそういう心配はないのだろう。
「こっちだよ」
吉瀬さんが慣れた風にわたしの背中に手を回す。
こうして歩くわたしたちは、知らない人たちからすると、きっと週末の夜を楽しむカップルにしか見えないに違いない。
地下にあるバーでは出迎えた店の人に、吉瀬さんがあの男の風体を伝えて、中に入れないようにしてくれと話をした。高級ホテルのスタッフは、こういったことにも応じてくれるらしい。
奥まった席に案内されると、吉瀬さんはホテルのオリジナルだというカクテルをオーダーした。
「大丈夫かい? そろそろ十時だけど、門限はいいの?」
「あ、そ、そうですね。門限はあの場を断るための嘘だったので、いいんですけど……。あの、すみません。こんな面倒に巻きこんでしまって」
東馬さんに連絡をと思うのだが、わたしは男から逃れてここに来た安堵から、いろんな気力が萎えていた。ちらりとドラマのことが横切ったが、それもどうでもよくなっている。
「門限は君のような女の子ならいい理由になるな。……気にしなくていいよ。そのまま知らん顔するのは寝覚めが悪いからね」
目を細めて笑う吉瀬さんに、わたしはつい見惚れた。
小さなグラスに注がれたカクテルが運ばれてくると、「こんなときに乾杯はないけど」と言って、吉瀬さんはグラスを掲げてから口をつける。わたしも彼の目を見ながらグラスを手に取った。
「あ、これ美味しい」
フルーティで口当たりが良く、軽めの炭酸が喉をすっきり通っていく。あの男に絡まれるかもしれないという恐怖で喉が渇いていたわたしはつい一気に飲み干してしまった。
「口に合ったようだね。……同じものを」
吉瀬さんはすっと手を上げ、ウェイターに合図する。
本当に彼はどういった人なのだろう。
一杯目のカクテルを頼んだときの慣れた様子から、何度かこの店を利用している気がした。思い返すと、お店の人と話していたときも落ち着いていて、初めてという感じはしなかった。
それを確かめたいと思い、わたしは口を開く。ちょっとした話のきっかけのつもりだ。
「あの……、もしかして吉瀬さんは……」
「悪い。ここで名前を出さないでくれるかな? このホテル、仕事で利用していて、たまに知り合いが来てたりするんだ。さっきのパーティのような関係者以外入ってこない会場ならいいけど、週末だし誰かに会ったら、ちょっとね」
「そういうことでしたら、わたしと一緒にいるのはまずいんじゃないですか?」
「だから人目につき難い席にしてもらったんだ」
そう言って、いたずらっぽく吉瀬さんは片目を瞑る。
慣れているように感じたのは、仕事で利用していたからだとわかった。
人にはそれぞれ何かしらの事情があるものだ。踏みこんではいけないラインは弁えておかなければ、とわたしは詮索しないことにする。
「わかりました。……でしたら、なんとお呼びすればいいですか?」
しかし名なしでは呼び方に困ると思い、訊いてみる。名字が駄目なら、当然下の名前も駄目だろう。
「名前さえ言わないでくれたらなんでも。『おい』でも、『お前』でも」
「えっ、それは……」
いくらなんでも、「おい」とか「お前」はないでしょう。
わたしは困惑気味に吉瀬さんを窺った。彼はにこりと微笑む。
そこで、まだちゃんと礼を言っていなかったことに気づき、慌てて口を開いた。
「あの、きつ、あ、いえ、――さっきは、ありがとうございました。いろいろ助けていただいて」
名前を呼んではいけないんだった、と口ごもりながら感謝の気持ちを伝えた。吉瀬さんの機転がなかったら、どうなっていたことやら。
「いやいや、役に立てて良かったよ。それで、今からなんだけど」
顔を覗きこむようにして言われ、ドキッとする。
図らずもムードたっぷりに照明を絞った店の雰囲気。その上、つい呷ってしまったカクテルでわたしはほんのり酔い出していた。それなのに吉瀬さんは、わたしが飲み干すたびに次のカクテルを注文してしまう。
まずい。理性が溶けかけている。
こういうときほど気を引き締めなければ。
わたしは、しっかりしろと自分に言い聞かせる。
「あの、ここで少し時間を潰したら、タクシー呼んで帰ります」
これ以上、吉瀬さんに迷惑をかけるわけにはいかない。ましてや酔っ払って醜態をさらすようなことになっては……
「僕は――いや俺は、今夜は君と過ごしたいと思っているんだけどな」
「は?」
何? いきなり何、言われたの?
自分のことを「僕」から「俺」と言い直した吉瀬さんは、とんでもない爆弾発言を投下した。
わたしと今夜を過ごすって、どういう意味!?
わたしはあんぐりと口を開けたまま、瞬きを数回、いや数十回した。
つまりそれって、大人の男と女、性的な意味で、ってこと?
そう思い至った途端、動揺する。それを意志の力で抑え、わたしはなんとか冷静を装った。
清純ぶる気はないし、そういった誘いは初めてではないけれど、ここで言うことではないだろう。こっちは気のない男に押しかけられ、さらには待ち伏せされて気分が悪いのに。
いや違う。わたしは今、吉瀬さんに裏切られた気がしてムカついたのだ。
結局、男とはそういうものなのか。助けてくれて良い人だと思ったのに、そういう機会を狙っていたなんて。
「君さ、結構感情が顔に出るよね。今は、『何言ってんだこいつ』かな?」
わたしの心の中を読んだように言う吉瀬さんは、変わらず笑みを浮かべていて、その表情にも態度にも悪びれた様子がない。
まったく、男ってどいつもこいつも……
「わかっていらっしゃるなら、話が早いです。一応うかがいますが、どうしてそうなるんですか?」
わたしはすっと背筋を伸ばし、カクテルを呷ると毅然と問い返した。
「君に一目惚れしたといったら信じるかな? 遅れて行ったあのとき、思いきり怯えた顔した君が立っていたんだ。それを見た瞬間、俺は恋に堕ちた」
「え? は? 一目惚れって……? あのとき?」
頭の中に疑問符を飛び交わせながら、わたしは言われたことを脳内で反芻する。
入ってきた男を見てびっくりしたし、まずいとも思ったけど、怯えていたなんて――
もしかしたら、無意識にそんな顔をしてしまったのかもしれない。本当に驚いたし、正直言えば、怖かったのは事実だ。
「だから俺は、守ってあげたいと思った」
「そんな……。からかわないでください」
先ほどのムカつきはどこへ行ったのか、トクントクンと鼓動が加速を始める。
さらに端整な顔をずいっと近づけられて、わたしは息を呑んだ。
どんなに素顔の自分を認めてくれる人でなければ恋をしないと思っていても、ときめきは止められない。
元々、吉瀬さんのことをちょっと良いかもと思っていたのだ。
だからこんなことを言われたら、ほわりほわりと心が揺れ出してしまう。
「からかってなんかないよ。あの番号を書くプレートに君の番号を書いたから、本当は連絡が来るのを待っていればいいんだろうけど」
「え……」
わたしは顔を僅かに引き攣らせた。ナンバープレートには、誰の番号も書かずに返却している。
「その顔……、君は、俺の番号を書いてくれなかったのか?」
わたしはさらに目もとを強張らせ、吉瀬さんの眼差しから逃れるように顔を伏せる。
「君の番号しか書かなかった俺には、このまま待っていても、プリマの執事さんからの連絡は来ないということか……」
確かに、そういうことになる。
それにしても、本当に、わたしの番号を書いてくれたというの?
「話してて、君も満更じゃなさそうだった。だからてっきり俺の番号を書いてくれたと思っていたよ。でも連絡をただ待っているのがもどかしくて」
わたしだってサクラという立場でなければ、吉瀬さんの番号を書いただろう。
吉瀬さんの声はどこか気落ちしているように聞こえ、わたしは申し訳なさで一杯になった。
今彼はどういう顔をしているのだろう。俯いているわたしにはわからないけれど……
わたしは、吉瀬さんの様子が気になり、おずおずと顔を上げた。
吉瀬さんは、それを待っていたかのようにわたしを見ると、ニヤリとどこか人の悪そうな笑みを浮かべた。
声音と表情が違うでしょ、それ!?
わたしは思わず目を瞠る。けれど気づいてしまった。表情こそ笑っていても、吉瀬さんの目は、ゾクリとするほど真剣だ。
「俺は本気だ。良かったよ、声をかけられて。こういうパーティは初めてだし、実を言うとあまり期待してなかった。でも君がいた。本気で、君がほしいと思っている」
吉瀬さんの、まるで獲物を前にした肉食獣のような表情。それを見て、わたしの脳内に最大出力のアラートが鳴り響く。
ヤバい。マズい。このままでは――
「……そうですね。では料理をお願いします」
東馬さんが近くで待機していたホテルの人に、料理を出してくれるように合図した。
確かに頃合いだ。これ以上、こんな男のために、時間が削られるのは腹立たしい。
「申し訳ありません。お引き取りいただけないのでしたら、強硬手段に出させていただきます。よろしいですか?」
東馬さんが、警告するように男に迫った。東馬さんの態度に威圧感が増す。
「そ、そんなことをしていいと思っているのか? メ、メンバーだぞ、俺は」
東馬さんの雰囲気に呑まれたのか、男は気色ばみつつも言葉が尻すぼみになる。
わたしはその様子を見ながら、気が滅入ってきた。どういう形にせよ、こんな男がいる結婚相談所になんて入会したいとは思わないだろう。今日のパーティで新規メンバーは望めないということだ。
母の要請とはいえ、自分がここにいたから引き起こされた事態だ――家のために頑張りたいのに、逆に足を引っぱってしまい、申し訳なく思う。
「――僕は初めてだからよくわからないんだけど、こういうのってまず両者の合意があってされるものだよね?」
横から口を挟んですまないと言いつつ、吉瀬さんが東馬さんに訊いてきた。
「さようでございます。どんなにお望みになられましても相手様があることですので、直接お会いいただくのは、双方合意された場合のみに限らせていただいています」
東馬さんは突然話しかけられたにもかかわらず、背筋をピンと伸ばし、吉瀬さんの質問に紳士然と答えた。
「おい待てよ!! お前、何訊いてんだよ!?」
男の矛先が吉瀬さんに向かう。でも吉瀬さんはそれを気に留めもせず、東馬さんの言うことに頷いていた。
どういう意図があってなのかわからないが、ナイスタイミングで話に割りこんだ吉瀬という男に、好感度が一気に上昇する。
そう思ったのはわたしだけではないようで、ドン引きしていた他の女性陣も表情を緩め、吉瀬さんを熱い目で見詰めていた。
「では、お引き取り願えますか」
「ちょっ!! 俺はただ、春野さんに……。そ、そうだ、連絡先! メアドでも電話番号でもいいから……」
ずいっと東馬さんに前に出られ、男の声は上ずっていた。勝負ありだ。
「よろしいですか。今後もし春野様につき纏うようなことがあれば、当社としてはそれなりの対応をさせていただきます」
これで、とどめ。
頑として譲らない東馬さんの態度は、まるで言い寄られて迷惑している女性を守っているように見えるらしい。女性参加者は吉瀬さんだけでなく、東馬さんにもうっとりとした眼差しを送っている。
これはもしかしてヒョウタンからコマ?
会社の危機かもと、内心かなり焦っていたけど、この反応は悪くない。
「わ、わかったって。そんなおっかない顔して睨むなよ」
顔を引き攣らせ、渋々といった体で男が踵を返し、扉口に向かう。そしてお約束のように振り返ると、忌々しげに「憶えてろよ」と捨てゼリフを残して出ていった。
どこからか、ほうっと吐き出された息が聞こえる。ひとまず一段落か。
「春野様」
「はい」
不意に東馬さんに名を呼ばれたわたしは、ぱちくりと瞬きをして、彼の顔を見る。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。このことは当社の責任であり、春野様にはなんの落ち度もございません。今後もし何かありましたら、すぐに連絡をいただければと思います」
東馬さんはそう言って深々と頭を下げる。アシスタントについていた若いスタッフも同様だ。もちろんわたしは、そのスタッフとも顔見知りなんだけど……
「いえ、そんな……。びっくりしましたけど大丈夫ですから」
わたしは今、「ゲスト」としてここにいるのだ。だから東馬さんは会社の代表として「不快な思いをしたはずのゲスト」に誠意をこめて謝罪したのだろう。
「ではしばらくお食事をお楽しみください」
今度はなりゆきを見守っていた他の参加者に向けて、東馬さんが頭を下げる。
そうして食事が始まった。だけど、一度悪くなってしまった空気を完全に元どおりにすることはできず、ぎこちなさが残っている。
「良かったですね、大ごとにならなくて」
そんな中、吉瀬さんに話しかけられた。わたしと彼の間にはもう一人参加者の男性がいるのだけど、お構いなしだ。そんな彼のマイペースぶりについ苦笑したくなる。
「はい。ええ、まあ……」
「どうしてまたこんなことになったのか、教えてもらえませんか?」
口を開いたのは、向かいに座っている女性参加者だ。
誰もがわたしに詳細を訊きたがっていることは、周囲の視線から察せられた。
「あの……、それはちょっと……」
わたしは言葉を濁し、東馬さんを窺う。
あの男の態度は褒められたものではないが、一応〈プリマヴェーラ・リアン〉の正規会員であるし、本人がいないところで話題にするのは良い感じはしない。あの思いこみがすぎるところがなければ、案外悪い人ではないかもしれないし。
「お見苦しいところをお見せしてしまいましたが、当社に登録されている方ですので、これ以上のお話はご容赦ください」
すかさず東馬さんが間に入ってくれて助かった。
「えー、でもああいう人を紹介されるのは困るし、ヤバい人は知っておきたいんですけど」
女性参加者が食い下がる。まあこれも正論だ。
「ご入会いただき、お相手を紹介する段になりましたら、その都度ご希望をいただくことになります。希望されていない方をこちらから取り持つことは決して致しませんので、ご安心ください。どのような場合でも、優先されるのはご本人様のお気持ちでございます」
「つまり、こちらの春野さんは断った。でも向こうは何か勘違いして、ここに来ちゃったってことかな?」
今度は、はす向かいの男性参加者が質問する。
ええ、そうです。そのとおりなんですよ、と声に出して言いたいところをわたしはぎこちない笑みで答えた。
「……こちらの配慮が至らず、申し訳ありませんでした」
顔を僅かに曇らせたのを目ざとく東馬さんに見られてしまったようだ。また謝らせてしまった。
わたしは、「仕事増やしてごめんなさい」と、内心でひたすら東馬さんに手を合わせる。
もう、ほとぼりが冷めるまで――いや冷めてもパーティに出ないことにしよう。元々サクラなんて面倒なだけだし、他にもやりようがあるだろう。わたしは改めて決意した。
「でも! カッコ良かったです! すっと間に立って、なんだか暴漢から女性を守るSPみたいで!!」
突然上がった声に、自然に視線が集まる。奥の席の女性――先ほど東馬さんに見惚れていた人だった。キラキラと夢見るような表情を浮かべている。
「そうやって注目してもらえるなら、僕ももう少し頑張れば良かったな。お腹が空いたなんて言ってないで」
今度は吉瀬さんが言う。タイミングよく話を展開させ、彼は空気清浄機のように場の雰囲気を変える。
本気か嘘かわからない残念そうな吉瀬さんの言い方がおかしくて、わたしを始め何人かがクスリと笑みを漏らした。
わたしは、感心せざるを得なかった。ずいぶん巧みな話術だ。彼はいったいどんな仕事をしている人なのだろう。
しかし笑うなんて失礼なことをしてしまったと、わたしは慌てて言い繕う。
「すみません。ちょっと気が緩んでしまって。吉瀬さんを笑ったわけでは……、あの、その……」
「いや、ぜんぜん? そうだな。気になるなら、このあと軽く飲みにつき合ってもらえれば――」
「はあ……、でもそれは」
みんながいる前で堂々と誘ってくるなんて。〈プリマヴェーラ・リアン〉の規約を知っているわたしは面食らった。案内状に、主催を通さない誘いは禁止と明記されているはずなのだ。
「吉瀬様、パーティ後のそのような申し出は、すべて当社を通していただきたいと存じます」
東馬さんが少し困ったように口を開く。
「勝手に誘っちゃ駄目?」
「はい。大変失礼ではございますが、何ごとも万が一のことがございます。当社主催のパーティで出会われた方と次にお会いになりたい場合は、私どもにお知らせください。改めて後日こちらからご連絡をし、場を設けさせていただきます」
メンバー登録がされていないゲストに勝手に振る舞われては、何か起きたときに対応が難しくなる。会社としてできるだけトラブルを避けるための規約だ。
「そうかあ。結婚相手を探して参加してるわけだから、合コンのノリで声かけたらいけないんだな。春野さん、軽く誘ってすまない」
少し大げさに頭を下げた吉瀬さんだったが、にこりと笑みを浮かべた顔に悪びれる様子はない。
普通そんな態度を取られたら、調子がイイだけのヤツと鼻白むところだが、吉瀬さんにはなんというか、かえってそこに親しみやすさがあった。もし、わたしにもお相手を探す権利があったなら、吉瀬さんの名を最初に挙げるだろう。
とは言っても、わたしに男を見る目がないのはこれまでの経験で思い知っている。特にこうしてメイクアップしているときに近寄ってくる男はすべて警戒するに越したことはないのだ。
パーティ終了後、開始前に受付で渡されたナンバープレートの裏面に、気になる人の番号を書きこみ、返却する。なければ、番号なしで返せばいい。――わたしのプレートのように。
これでマッチングしていたら、改めて一対一でのお見合いが双方に打診される。それが〈プリマヴェーラ・リアン〉のアフターサービスだ。だからチャンスは今、この場だけ。
トラブルはあったが、一応それなりに事が運んだパーティを終えて、参加者が帰途に就く。用意した入会案内のパンフレットを持ち帰る人もいれば、さっさと出ていく人もいた。
「今日はありがとうございました」
わたしも、扉口で見送ってくれるスタッフにそう挨拶すると、ひとまず会場をあとにする。
この格好のまま帰宅しても構わないのだが、参加者の姿がなくなったころを見計らい、スタッフ控室に戻って着替えをしようと考えていた。「春野敦子」から「古池梓沙」に戻るのだ。
どこで他の人をやり過ごそうかと考えながらエレベーターホール前まで行くと、そこにはまだ参加者の半数近くが残っていた。エレベーターのボタンは押されていたが、それを待っている風でもない。
「春野さん」
呼ばれた以上返事をしなければ。わたしは「はい」と、顔を向けた。
そこにはしきりに吉瀬さんに秋波を送っていた女性陣が揃っていた。その後ろには男性が三人ほど。
「あのね、パーティの規約はわかってるんだけどね」
意味深に口もとを緩ませている彼女たちに促され視線をやると、向こうに吉瀬さんの姿があった。こちらに背を向け電話をしている。
どうやら、彼を誘って二次会に行かないかということらしい。
主催の与り知らないところでの遣り取りはNGといっても、会場を出てしまえば目の届きようがなく、それこそ勝手に次へ流れていく。
しかしわたしは、話に乗る気はなかった。規約のこともあるし、サクラとしての都合上ゲスト参加者とはパーティ会場だけのつき合いにしている。
もし何かの弾みで身上調査されたら面倒この上ない。身バレしようものなら、〈プリマヴェーラ・リアン〉は社会的信用を失い、すべてが終わってしまうではないか。
「ねえ、二次会どうかしら? 彼も誘ってちょっと行かない?」
「すみません。わたしはもうここで失礼させていただこうかと。門限が十時なんです。今出ないとぎりぎりで」
これまでの経験から、そう言うと大抵の人が引き下がってくれることを知っていた。
「十時に門限って!? あなたいったい、いくつなの?」
時間は九時半に差しかかろうかというところ。彼女らは一様に「はぁ?」と、信じられないものを見たと言わんばかりにのけ反る。
ちなみに十時にしたのは、その時間に観たいドラマがあるからだった。今日は及川さんとスイーツを食べたらすぐ帰るつもりで家を出たので、録画予約をしていない。
「なんだ、そういうことなら――」
突然、わたしは後ろから伸びてきた腕に、肩を抱かれた。
「はい? え? あ、あの」
何事? まさかこの声って――?
信じられない思いで見上げると、端整な横顔が目に入る。
やっぱり吉瀬さん!?
驚いたのはわたしだけでなく、吉瀬さんに声をかけようとしていた彼女たちもだ。
「あの! 吉瀬さん、今から――」
「悪いね。僕は彼女を送って帰るよ。パーティ後の遣り取りは駄目だってプリマの執事さんが言ってたからね」
プリマの執事さんって東馬さんのこと?
確かに、言い得て妙だ。祖母にずっと仕えてきた東馬さんは、それこそ我が家の執事だった。
「でも、せっかくの機会ですし」
「またね」
女性たちの一人が引き留めようとするけれど、吉瀬さんはにべもない。
そして、タイミング良くドアが開いたエレベーターに乗りこんでしまう。もちろん肩を抱かれているわたしも一緒だ。
ドアが閉まる瞬間、こちらに向けられた視線がとんでもなく怖かったが、見なかったことにした。
「離してください」
エレベーターは吉瀬さんとわたしの二人だけだ。
「ああ、ごめんごめん。けどそんなに警戒してほしくないなあ」
言いながら腕を離してくれたが、相変わらず吉瀬さんには、まったく悪びれた様子がない。
人を半ば強引に帰る理由にしておきながら、警戒するなはないだろう。
「僕としては助けたつもりなんだけど?」
「助けた?」
わたしはあからさまに目を眇め、横に立つ男を見上げる。
二次会に誘われて困っていたと思ったのだろうか。
「乱入してきた男、いただろ?」
「え?」
そう言われてわたしはドキリとする。
「あの男、追い出されても君を諦めてなかったみたいなんだよね」
「どういうことですか?」
わたしの胸は嫌な感じに締めつけられ、鼓動を速める。
「気づかなかった? エレベーターの横に階段あっただろ? そこにいたんだよ。パーティが終わるのずっと待ってたんだろうね」
「嘘……」
そんなこと、ちっとも気づかなかったけど。
わたしは、さーっと顔から血の気が引いていくのを感じた。もしそうなら、また絡まれるところだった。ましてや家までつけられでもしたら……
「すごいね、あそこまでするって。よっぽど君のことが気に入ってるんだな」
「そんな」
わたしは眩暈を覚える。
そうだ、化粧を落として元の姿に戻ろう。そうしたらあの男だって気づかないはずだ。
しかし、私服は会場の横のスタッフ控室。そこに行く途中で男に見つからないとは限らないし、見咎められて素のわたしの姿を知られたら、公私ともにつき纏われることに――いや、反対に興味が失せるかもしれない。あの男は化粧しているわたしに執着しているようだから。
ただ、そうなったら、わたしの正体がバレてしまう。スタッフ控室で着替えをするなんて、一般参加者では考えられないことだ。
「おい、大丈夫か? 顔真っ青だぞ?」
「だ、大丈夫……です……」
そうだ。東馬さんに連絡して迎えに来てもらおう。みんなの前で言ってくれたではないか。何かあったらすぐに連絡を、って。こういう事態なら東馬さんを頼っても問題はないはずだ。
そんなことを考えているうちに、エレベーターは一階のロビーに着いた。わたしは吉瀬さんに寄り添われて、エレベーターを降りる。
「あっ」
「え?」
わたしはいきなり吉瀬さんに抱きこまれた。背中に壁が当たり、広い胸がわたしを隠すように立ちはだかる。
「階段で追いかけてきたみたいだ」
「ひっ」
わたしは恐怖で、吉瀬さんにしがみつく。
誰か、嘘だと言って……
喉から飛び出しそうになる悲鳴をぐっとこらえる。下手に声を上げて、目立ってしまうのはまずい。
「このまま出ていったら見つかるな。どうする? パーティでのこともあるし、やっぱり警察かな」
「す、すみません、警察は……」
警察に連絡するのは大ごとすぎる。何より公になって困るのは、こちらもだ。
親切で言ってくれた吉瀬さんに申し訳なくて、わたしは顔を伏せた。
これまでもパーティに出て、参加していた人に言い寄られた経験はあるけど、ここまでされたことはさすがになかった。
バチが当たったのだ。もうサクラなんて絶対しない。誰がなんと言おうと、もうもう絶対――
「――わかった。少しやり過ごそうか。君が出てこないとなれば、諦めるかもしれないし」
わたしの態度から、吉瀬さんは何か察したようだ。そう提案してくれる。
「とはいえ、ここにいつまでも立っているわけにはいかないし、どこかで時間を潰そうか。他のパーティ参加者が来たら面倒だし……。ああ、そうだ。地下のカクテルバーへ行こう。ここのロビーラウンジじゃ隠れようがないからね」
確かに、すぐ近くにあるロビーラウンジは壁がなく、外から誰がいるか丸見えだった。このホテルのカクテルバーを利用したことはないが、きっとそういう心配はないのだろう。
「こっちだよ」
吉瀬さんが慣れた風にわたしの背中に手を回す。
こうして歩くわたしたちは、知らない人たちからすると、きっと週末の夜を楽しむカップルにしか見えないに違いない。
地下にあるバーでは出迎えた店の人に、吉瀬さんがあの男の風体を伝えて、中に入れないようにしてくれと話をした。高級ホテルのスタッフは、こういったことにも応じてくれるらしい。
奥まった席に案内されると、吉瀬さんはホテルのオリジナルだというカクテルをオーダーした。
「大丈夫かい? そろそろ十時だけど、門限はいいの?」
「あ、そ、そうですね。門限はあの場を断るための嘘だったので、いいんですけど……。あの、すみません。こんな面倒に巻きこんでしまって」
東馬さんに連絡をと思うのだが、わたしは男から逃れてここに来た安堵から、いろんな気力が萎えていた。ちらりとドラマのことが横切ったが、それもどうでもよくなっている。
「門限は君のような女の子ならいい理由になるな。……気にしなくていいよ。そのまま知らん顔するのは寝覚めが悪いからね」
目を細めて笑う吉瀬さんに、わたしはつい見惚れた。
小さなグラスに注がれたカクテルが運ばれてくると、「こんなときに乾杯はないけど」と言って、吉瀬さんはグラスを掲げてから口をつける。わたしも彼の目を見ながらグラスを手に取った。
「あ、これ美味しい」
フルーティで口当たりが良く、軽めの炭酸が喉をすっきり通っていく。あの男に絡まれるかもしれないという恐怖で喉が渇いていたわたしはつい一気に飲み干してしまった。
「口に合ったようだね。……同じものを」
吉瀬さんはすっと手を上げ、ウェイターに合図する。
本当に彼はどういった人なのだろう。
一杯目のカクテルを頼んだときの慣れた様子から、何度かこの店を利用している気がした。思い返すと、お店の人と話していたときも落ち着いていて、初めてという感じはしなかった。
それを確かめたいと思い、わたしは口を開く。ちょっとした話のきっかけのつもりだ。
「あの……、もしかして吉瀬さんは……」
「悪い。ここで名前を出さないでくれるかな? このホテル、仕事で利用していて、たまに知り合いが来てたりするんだ。さっきのパーティのような関係者以外入ってこない会場ならいいけど、週末だし誰かに会ったら、ちょっとね」
「そういうことでしたら、わたしと一緒にいるのはまずいんじゃないですか?」
「だから人目につき難い席にしてもらったんだ」
そう言って、いたずらっぽく吉瀬さんは片目を瞑る。
慣れているように感じたのは、仕事で利用していたからだとわかった。
人にはそれぞれ何かしらの事情があるものだ。踏みこんではいけないラインは弁えておかなければ、とわたしは詮索しないことにする。
「わかりました。……でしたら、なんとお呼びすればいいですか?」
しかし名なしでは呼び方に困ると思い、訊いてみる。名字が駄目なら、当然下の名前も駄目だろう。
「名前さえ言わないでくれたらなんでも。『おい』でも、『お前』でも」
「えっ、それは……」
いくらなんでも、「おい」とか「お前」はないでしょう。
わたしは困惑気味に吉瀬さんを窺った。彼はにこりと微笑む。
そこで、まだちゃんと礼を言っていなかったことに気づき、慌てて口を開いた。
「あの、きつ、あ、いえ、――さっきは、ありがとうございました。いろいろ助けていただいて」
名前を呼んではいけないんだった、と口ごもりながら感謝の気持ちを伝えた。吉瀬さんの機転がなかったら、どうなっていたことやら。
「いやいや、役に立てて良かったよ。それで、今からなんだけど」
顔を覗きこむようにして言われ、ドキッとする。
図らずもムードたっぷりに照明を絞った店の雰囲気。その上、つい呷ってしまったカクテルでわたしはほんのり酔い出していた。それなのに吉瀬さんは、わたしが飲み干すたびに次のカクテルを注文してしまう。
まずい。理性が溶けかけている。
こういうときほど気を引き締めなければ。
わたしは、しっかりしろと自分に言い聞かせる。
「あの、ここで少し時間を潰したら、タクシー呼んで帰ります」
これ以上、吉瀬さんに迷惑をかけるわけにはいかない。ましてや酔っ払って醜態をさらすようなことになっては……
「僕は――いや俺は、今夜は君と過ごしたいと思っているんだけどな」
「は?」
何? いきなり何、言われたの?
自分のことを「僕」から「俺」と言い直した吉瀬さんは、とんでもない爆弾発言を投下した。
わたしと今夜を過ごすって、どういう意味!?
わたしはあんぐりと口を開けたまま、瞬きを数回、いや数十回した。
つまりそれって、大人の男と女、性的な意味で、ってこと?
そう思い至った途端、動揺する。それを意志の力で抑え、わたしはなんとか冷静を装った。
清純ぶる気はないし、そういった誘いは初めてではないけれど、ここで言うことではないだろう。こっちは気のない男に押しかけられ、さらには待ち伏せされて気分が悪いのに。
いや違う。わたしは今、吉瀬さんに裏切られた気がしてムカついたのだ。
結局、男とはそういうものなのか。助けてくれて良い人だと思ったのに、そういう機会を狙っていたなんて。
「君さ、結構感情が顔に出るよね。今は、『何言ってんだこいつ』かな?」
わたしの心の中を読んだように言う吉瀬さんは、変わらず笑みを浮かべていて、その表情にも態度にも悪びれた様子がない。
まったく、男ってどいつもこいつも……
「わかっていらっしゃるなら、話が早いです。一応うかがいますが、どうしてそうなるんですか?」
わたしはすっと背筋を伸ばし、カクテルを呷ると毅然と問い返した。
「君に一目惚れしたといったら信じるかな? 遅れて行ったあのとき、思いきり怯えた顔した君が立っていたんだ。それを見た瞬間、俺は恋に堕ちた」
「え? は? 一目惚れって……? あのとき?」
頭の中に疑問符を飛び交わせながら、わたしは言われたことを脳内で反芻する。
入ってきた男を見てびっくりしたし、まずいとも思ったけど、怯えていたなんて――
もしかしたら、無意識にそんな顔をしてしまったのかもしれない。本当に驚いたし、正直言えば、怖かったのは事実だ。
「だから俺は、守ってあげたいと思った」
「そんな……。からかわないでください」
先ほどのムカつきはどこへ行ったのか、トクントクンと鼓動が加速を始める。
さらに端整な顔をずいっと近づけられて、わたしは息を呑んだ。
どんなに素顔の自分を認めてくれる人でなければ恋をしないと思っていても、ときめきは止められない。
元々、吉瀬さんのことをちょっと良いかもと思っていたのだ。
だからこんなことを言われたら、ほわりほわりと心が揺れ出してしまう。
「からかってなんかないよ。あの番号を書くプレートに君の番号を書いたから、本当は連絡が来るのを待っていればいいんだろうけど」
「え……」
わたしは顔を僅かに引き攣らせた。ナンバープレートには、誰の番号も書かずに返却している。
「その顔……、君は、俺の番号を書いてくれなかったのか?」
わたしはさらに目もとを強張らせ、吉瀬さんの眼差しから逃れるように顔を伏せる。
「君の番号しか書かなかった俺には、このまま待っていても、プリマの執事さんからの連絡は来ないということか……」
確かに、そういうことになる。
それにしても、本当に、わたしの番号を書いてくれたというの?
「話してて、君も満更じゃなさそうだった。だからてっきり俺の番号を書いてくれたと思っていたよ。でも連絡をただ待っているのがもどかしくて」
わたしだってサクラという立場でなければ、吉瀬さんの番号を書いただろう。
吉瀬さんの声はどこか気落ちしているように聞こえ、わたしは申し訳なさで一杯になった。
今彼はどういう顔をしているのだろう。俯いているわたしにはわからないけれど……
わたしは、吉瀬さんの様子が気になり、おずおずと顔を上げた。
吉瀬さんは、それを待っていたかのようにわたしを見ると、ニヤリとどこか人の悪そうな笑みを浮かべた。
声音と表情が違うでしょ、それ!?
わたしは思わず目を瞠る。けれど気づいてしまった。表情こそ笑っていても、吉瀬さんの目は、ゾクリとするほど真剣だ。
「俺は本気だ。良かったよ、声をかけられて。こういうパーティは初めてだし、実を言うとあまり期待してなかった。でも君がいた。本気で、君がほしいと思っている」
吉瀬さんの、まるで獲物を前にした肉食獣のような表情。それを見て、わたしの脳内に最大出力のアラートが鳴り響く。
ヤバい。マズい。このままでは――
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