グッバイマイラブ ~そばにいるよ~

波奈海月

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第三章

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「あら、武村さん!?」
「え?」
 そろそろ終業が迫る時間だった。入り口が見える席に座っている女子社員が上げた声に、鮎原は息を飲む。
「武村……」
 まさかの武村だった。余りにも予想外なことに動揺してしまい、鮎原は顔を伏せた。
「や、ご無沙汰しています」
 ぺこりと頭を下げた武村が中に入ってくる。
「久しぶりだな、元気か?」
「ええ、元気にやってます」
 口々に上がる元同僚たちの歓迎の声に答えながら、武村は営業課長の椎名のもとに来る。
「済みません、まだ仕事中に。出張で京都に行ってたんです。その帰りなんですけど、最終まで時間あったのでちょっと寄らせてもらいました」
「おお、そうか。もう終業時間だ、構わないさ」
 椎名の声に、武村の周囲に人が集まってくる。
「おい、聞いたぞ。ジ・エットと共同企画のプロジェクト任されたんだってな」
「ええ、ありがたいです。これも周りの方のおかげです。俺ひとりでできることじゃないですから」
 にこりと笑みを浮かべて武村が答える。東京に行ってからは会社での顔を見ていないが、以前はこうしていつも話の中心にいた。
「なあ、鮎原。元本社のエースが東京で頑張ってるんだぞ。お前も鼻が高いよな、同期だし」
「え、そ、そうですね。本当に……」
 同僚のひとりに肩を叩かれ、おずおずと鮎原は顔を上げる。
「――鮎原も、元気そうだな」
「武…村……あ、ああ。まあな」
 武村が鮎原の横に来て手元を覗き込む。つい二週間前会ったことなどおくびにも出さずに。今何やってるんだ、と。
 鮎原は、近くなった武村の顔の、シルバーフレームの見慣れた眼鏡に安堵を覚えた。そういえば、フレームの調節に眼鏡屋に行くと言っていたな、と思い出す。
「じゃ、今夜は久々に武村交えて飲みに行くか?」
 今日はもう終わりだ、と時計を見ながら椎名が言えば、途端に賛同の声が上がる。だがそれを遮るように、武村が椎名に向き直る。
「済みません、明日朝一で会議入ってるんです。だから今夜中に戻らないといけなくて」
 言いながら武村が、こつ、と三回、鮎原が机の上に出していた携帯電話を指先で叩いた。
 鮎原の鼓動が、どきん、と跳ね上がる。
 それは合図だった。後で部屋に行くという。まだ武村が本社にいた頃に、人目を憚る社内恋愛とちょっとした遊び心で決めた――。
「ああ、そうか。なら無理に誘うわけにはいかないな」
「済みません。今度ゆっくりこっちにきますから、そのときまた声かけてください」
 申し訳なさそうに椎名に頭を下げている武村の横で、鮎原は小さく頷いた。
「いや、最終ならまだ少し時間があるぞ。近場なら、軽く引っかけるくらい大丈夫だろう」
「分かりました。ホント、少しでいいですか?」
 諦めきれないのか椎名が食い下がり、武村が苦笑する。
「じゃあ課長の奢りですね」
「んなわけがあるかいっ」
 行く気満々の同僚の声に椎名が声を上げ、周りの者は笑いながら帰り支度を始めた。
 武村はどうする気なのだ、と先ほどの合図を胸に鮎原はちらりと目線を流す。
「鮎原さん?」
 そんなとき名を呼ばれた。鮎原が、声のしたほうに顔を向ければ、ひょいと覗いている妹尾と目が合った。
「あ、妹尾――」
 もう終業の時間を過ぎていた。今さらのように約束していたことを思い出す。
「鮎原?」
 焦りを見せた鮎原を隣にいた武村が怪訝そうに見て、その視線の先を確かめる。
「誰だ?」
 一年前までの覚えしかない武村が鮎原に尋ねてきた。
「あ、あいつは、妹尾。去年東京から異動してきて、今商管にいるんだ」
 同時期に異動した者同士、顔を合わせるのは滅多にないことだった。
「商品管理なら相模さがみさんの下に?」
 武村が商品管理部の主任の名を口にする。
「はい、相模主任に扱かれてます。もしかして武村さんですか? うちでも名前出るんですよ。敏腕営業って」
 言って妹尾は軽く頭を下げた。
「何だ、妹尾。鮎原に用事なのか? そっちはまだ終わってないのか?」
 そんなやり取りを聞いていた椎名が、上着を羽織りながら口を挟む。
「済みません。まだ少しやってるんです。それで、こないだ鮎原さんが撮っていた商品写真のデータをコピーさせて欲しいなって思いまして」
 どういうつもりなのか分からなかったが、妹尾が機転を利かしてくれて助かったと思った。こんな雰囲気の中で昼にした約束を言い出されたら、どう反応すればいいのか困ることになる。
「そういうことか。鮎原、出してやれ。データ全部入れたんだろ?」
「はい。妹尾、ちょっと待っててくれ。今出すから」
「済みません、もうこちら終わってるみたいなのに」
「じゃあ、先に行ってるからな。いつもの店だ、後から来いよ」
 椎名に肩を叩かれ、その背中を見送れば、入れ替わるように妹尾が横に来た。
「じゃあ鮎原、後でな」
「ああ、後で――」
 一瞬妹尾と肩を並べた武村も、言って出て行く。
「お疲れサマでしたー」
 にこやかに終業を労う声を上げた妹尾にバツ悪く感じながら、鮎原はまだ落としていないパソコンを操作した。
 データ一覧を呼び出し、表示されるまでの時間、部屋にいた者が次々と出て行く。そうして営業部には鮎原と妹尾だけになった。
「……どのデータが要るんだ?」
「ウソですよ。データは全部持ってますから」
「あ……、そうだったよな」
 ふうっ、と息をついた。何ともいえない空気を覚える。聞こえるのはパソコンの稼働音と蛍光灯がちりちりと発光する音だけだった。
「今夜は……その……」
 言わなくては、と鮎原は口を開く。
「今夜は止めておきましょう。皆さんで行かれるみたいですし」
 先に言われてしまった。「そういうことよくありますよね」と、どこから聞いていたのか、急に決まった部内の飲み会の話を承知していた。
「妹尾、ごめん。お前が先だったのに」
 そういうことはよくあること。どちらを優先するかなど、職場の人間関係が絡めば仕方がないことだ。
「オレはまたのときにつき合ってもらえればいいですから。あの人が武村さんか。カッコいいですね。久しぶりに会われたんでしょ? だったら積もる話もあるでしょうから」
 久しぶりには違いない。だがそれは、妹尾が思っているような「久しぶり」ではない。約束を反故にしてしまうこともあってか、気が差して仕方がない。
「余り待たせちゃ悪いですよ。行ってください。これの電源落としておきますから」
 妹尾が、鮎原の使っているパソコンを指差す。
「……悪いな」
 どうしようもなく後ろめたさを感じながら、鮎原は立ち上がった。



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【オレンジとシェリー】
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