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第101話 シエナの黒歴史
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その建物は、木々がうっそうと茂っていて、長い間、打ち捨てられていたようだった。しかし、邸内はよく手入れされていて、明るい居心地のよさそうな客間にシエナ案内された。
「ここへ」
リオに促され、シエナは座った。
「さっきの侯爵の話だけど、彼は本当に仕事を辞めて、妻と一緒にいた。そうしたかったからだ」
シエナは黙って聞いた。
「今まで甘えてしまって済まなかったと謝ったけれど、妻の心には響かなかった。よい方を見つけて再婚なさってくださいと言われた。再婚に差支えがあるでしょうから、あなたはここには長くいない方がよいとまで言われた。侍女から、侯爵にはすでに愛人がいて、それで長らく王都を留守にしていたのだと吹き込まれたらしい」
「なぜ、侍女はそんなことを?」
「自分が再婚相手になりたかったらしい」
「それで?」
シエナは思わず興味を持ってしまって聞いた。
「侯爵はその侍女をクビにして、自分で奥方の世話を始めた。奥方は最初は嫌がったが、愛情込めてその人のことを思ってする世話は通じるものがある。徐々に持ち直してきた。そして、奥方は夫のおかげで十年ほど長く生きられた」
「十年!」
それは長いのか、短いのか。
「最初の見立ては半年だったそうだから、長いと思うよ」
夫の世話で立ち直ることができたのか。驚きだ。
「夫人は自分を大事にしなかったのだろう。だけど十年でも短かったと思う。後悔しただろう。もっと長く一緒にいられたのに」
それきりリオが何も言わなくなったので、沈黙がおりた。
「シエナ。もし、僕と結婚したくないなら、そう言って」
リオが言った。
「好きじゃない人と一緒に時間を過ごすのは苦痛だと思う」
シエナはリオの顔を見た。好きじゃない人? リオの口から出た言葉に、シエナは衝撃を受けた。
「あなたの気持ちの切り替えは、うまくいかないだろうと僕も思っていた。唯一の家族としてかわいがっていた弟が、実は男としてあなたを見ていただなんて、ショックだったと思う」
言葉に出されると、衝撃的だった。弟ではないとわかって以来、そのことは、できるだけ考えないようにしていた。
「それに、あなたは結婚話が嫌いだ。あなたの両親の結婚の価値観は、貴族として評価の高いいい家へ嫁ぐことだけだった。あの二人は仲が悪い」
シエナは、リオの顔を、固まって見つめた。
「結婚に幸せを見出せなかったんじゃないかと思った」
リオはシエナのことを考えて考え抜いたのだろう。シエナすら気づいていなかった、結婚への拒否感を見抜いた。
「シエナは結婚するならどんな相手がよかった?」
「え……っと? 私?」
「言ってみて」
あまり具体的に考えたことがなかった。シエナは言葉を一つ一つ絞り出した。
「優しい人? 顔も普通の方がいい。財産もなくていい。できれば、あの、負い目を感じなくて済むような人? 私は貧乏だし、何のとりえもないから。平民の方がいいかなって思っていました」
リオはハハハと力なく笑った。貴族との結婚はこりごりだと言っているように聞こえる。
「アッシュフォード子爵はマズかったね。負い目を感じさせたんだね。薪くらいならともかく」
シエナにプレゼントすることが嬉しかった。寒い思いや、つらい目に合わないようにと始めたのに、高いドレスまで買ってしまった。
男の見栄もあった。ほかの男に負けるものかと気負っていたと思う。
「そんなことはないわ。だって、あの時は本当に困っていたの。本当に感謝しています」
リオは、大事にしていた未来が、ボロボロと手元から、砕けて落ちていく感触を覚えた。
人に羨まれる美貌も爵位も、何の役にも立たない。
シエナの心に感謝はあっても愛情はない。
「僕の両親は違っていた。お互いをとても大事にしていた。二人でいることが幸せそうだった。父はいつでも母にこっそりプレゼントを買っては渡していたし、母はもらってうれしそうだった。僕は両親にとてもかわいがられて育った」
「リオのお父様とお母様?」
初めて聞く話だった。
「その頃は、王都の反対側に住んでいた。王都に来てから一度、昔住んでいた家を探しに行ったことがある。空き地になっていた。騎士学校で、その頃の友人と再会したよ。向こうもびっくりしていた。よく一緒に遊んでいた仲間でね」
「どうして、その話をずっと黙っていたの? 弟じゃないって」
リオは、この質問に少し驚いたようだったが、耳の先を少し赤くして自嘲気味に答えた。
「下心満載の計算高い男だからだよ。もともと伯父の伯爵夫妻のことは嫌いだった。大したこともないくせに、お高く留まっていると思っていた。あんなみじめな格式だけの伯爵邸に引き取られて、面白いことなんか何もない。だが、弟になっておけば、とてもかわいい女の子と親しくなれた」
リオは本当に弟ではなかったのだ。彼には彼の歴史があった。ごく当たり前のあたたかな両親との十年間。親しい友達。
シエナが全然知らない物語。彼女の父を伯父だと明言した。最初からはっきり認識していたのだ。
完全なシエナの勘違い。
どうしてそんな勘違いをしてしまったのだろう。シエナは猛烈に恥ずかしくなった。
最初に出会った時、抱き着いたのはシエナだ。
恥ずかしそうにしていたリオに、無理やりキスした。
夜は、寝かしつけてあげると言って、ベッドに侵入した。
思い出してみれば、リオの方はいつも引き気味だった。
控え目な子だなと思ったシエナは過激な行動に出た。もっと親密感を上げなくちゃ。
リオに頬ずりしたり、最初のころ、ボタンをうまくかけられないリオの代わり、着替えを手伝ったり、リオの胸にほくろがあるのを見つけて、珍しがって撫でてみたりしたこともある。
今思えば、シエナは両親に全く構ってもらえていなかったため、人が恋しかったのかもしれない。
しかし。
実は弟じゃないリオは、どう感じただろう。
まずい。どうしよう。サーッと血の気が引く思いがした。
かわいい弟との思い出が、全部、黒歴史に塗り替わった一瞬だった。
従兄妹だったとわかった時も、リオはリオ。他人感がなかったのだ。だが、ちゃんと聞けば、彼は本当に他人だった。
その時、注意してくれたらよかったのに!
シエナは泣きそうになった。
王都に来て、アッシュフォード子爵から何回か説明を直接受けていたのに、なぜ、頭が回らなかったのかしら。
考えたくなかったのだ。いろいろやらかし過ぎている。
「いや。嬉しかった」
リオは、シエナの黒歴史の数々を一言で片づけた。
ここは喜んでもらえて何よりですわの一言で済ますシーンなのだろうか。
「あなたはとても頑固だ。どうしても好きになれない相手っていると思う。そこまで嫌われているとは思っていなかった。だけど」
リオはみじめそうだった。
「あなたを侯爵家に閉じ込めて、侯爵にも紹介して、抜き差しならないところまで追い込んで婚約まで持ち込んだ。コーンウォール夫人にもシエナから前向きの返事をもらったと嘘をついた。でも、あなたは笑ってくれない。婚約を了承しただけだ。これでは僕はジョージやボリスと一緒だ」
リオはシエナを見ていなかった。
「だから、ここへあなたを連れてきた。誰もいないここへ。話をしたい。振られるなら誰にも見られたくない」
誰にも、見られていなくてよかった。今、シエナは羞恥で真っ赤だ。人生でここまでいろんな意味で失敗したことがあるだろうか。
「僕の努力は失敗だったかもしれない。プレゼントは、あなたに引け目を感じさせる行動だった。でも、あなたが困っているところを本当に見ていられなかったんだ」
絶対にリオは覚えている。あれも、これも、それから本当にいろいろあった。
全部、シエナから仕掛けたことである。
見知らぬ男に。初めて会った男に。
大変に、大変に、マズい。大失敗だ。頭が沸騰する。恥ずかしすぎる。
リオはシエナを柔らかく抱きしめた。
「最初に見た時から好きだった。だけど、僕のことが嫌いならこれで終わりにしよう」
「お、終わり……?」
さっきと同じようにシエナはお腹の中に不安がいっぱいに広がるのを覚えた。リオは暗い顔をしていた。
「僕の負けだ。婚約は解消する。最後にお願いだ。抱きしめさせて欲しい」
リオはシエナを見た。
だが、普段なら、生真面目な表情でリオを見返すシエナが、真っ赤になってリオの目を避けた。
「好きだ、シエナ。ずっと愛していた」
身をよじるシエナを捕まえて、リオはささやいた。
「僕の目を見て」
リオの目線を避けまくるシエナは、いつもと違っていた。リオの手に自然と力がこもった。シエナが赤くなって、目が潤み、額が熱っぽい。
リオは抱きしめたまま、初めてシエナにキスした。
シエナが抵抗しない。リオの心の中で歓喜が爆発した。
もしかしたら……
「シエナ、愛している」
シエナがさらに真っ赤になった。
「ここへ」
リオに促され、シエナは座った。
「さっきの侯爵の話だけど、彼は本当に仕事を辞めて、妻と一緒にいた。そうしたかったからだ」
シエナは黙って聞いた。
「今まで甘えてしまって済まなかったと謝ったけれど、妻の心には響かなかった。よい方を見つけて再婚なさってくださいと言われた。再婚に差支えがあるでしょうから、あなたはここには長くいない方がよいとまで言われた。侍女から、侯爵にはすでに愛人がいて、それで長らく王都を留守にしていたのだと吹き込まれたらしい」
「なぜ、侍女はそんなことを?」
「自分が再婚相手になりたかったらしい」
「それで?」
シエナは思わず興味を持ってしまって聞いた。
「侯爵はその侍女をクビにして、自分で奥方の世話を始めた。奥方は最初は嫌がったが、愛情込めてその人のことを思ってする世話は通じるものがある。徐々に持ち直してきた。そして、奥方は夫のおかげで十年ほど長く生きられた」
「十年!」
それは長いのか、短いのか。
「最初の見立ては半年だったそうだから、長いと思うよ」
夫の世話で立ち直ることができたのか。驚きだ。
「夫人は自分を大事にしなかったのだろう。だけど十年でも短かったと思う。後悔しただろう。もっと長く一緒にいられたのに」
それきりリオが何も言わなくなったので、沈黙がおりた。
「シエナ。もし、僕と結婚したくないなら、そう言って」
リオが言った。
「好きじゃない人と一緒に時間を過ごすのは苦痛だと思う」
シエナはリオの顔を見た。好きじゃない人? リオの口から出た言葉に、シエナは衝撃を受けた。
「あなたの気持ちの切り替えは、うまくいかないだろうと僕も思っていた。唯一の家族としてかわいがっていた弟が、実は男としてあなたを見ていただなんて、ショックだったと思う」
言葉に出されると、衝撃的だった。弟ではないとわかって以来、そのことは、できるだけ考えないようにしていた。
「それに、あなたは結婚話が嫌いだ。あなたの両親の結婚の価値観は、貴族として評価の高いいい家へ嫁ぐことだけだった。あの二人は仲が悪い」
シエナは、リオの顔を、固まって見つめた。
「結婚に幸せを見出せなかったんじゃないかと思った」
リオはシエナのことを考えて考え抜いたのだろう。シエナすら気づいていなかった、結婚への拒否感を見抜いた。
「シエナは結婚するならどんな相手がよかった?」
「え……っと? 私?」
「言ってみて」
あまり具体的に考えたことがなかった。シエナは言葉を一つ一つ絞り出した。
「優しい人? 顔も普通の方がいい。財産もなくていい。できれば、あの、負い目を感じなくて済むような人? 私は貧乏だし、何のとりえもないから。平民の方がいいかなって思っていました」
リオはハハハと力なく笑った。貴族との結婚はこりごりだと言っているように聞こえる。
「アッシュフォード子爵はマズかったね。負い目を感じさせたんだね。薪くらいならともかく」
シエナにプレゼントすることが嬉しかった。寒い思いや、つらい目に合わないようにと始めたのに、高いドレスまで買ってしまった。
男の見栄もあった。ほかの男に負けるものかと気負っていたと思う。
「そんなことはないわ。だって、あの時は本当に困っていたの。本当に感謝しています」
リオは、大事にしていた未来が、ボロボロと手元から、砕けて落ちていく感触を覚えた。
人に羨まれる美貌も爵位も、何の役にも立たない。
シエナの心に感謝はあっても愛情はない。
「僕の両親は違っていた。お互いをとても大事にしていた。二人でいることが幸せそうだった。父はいつでも母にこっそりプレゼントを買っては渡していたし、母はもらってうれしそうだった。僕は両親にとてもかわいがられて育った」
「リオのお父様とお母様?」
初めて聞く話だった。
「その頃は、王都の反対側に住んでいた。王都に来てから一度、昔住んでいた家を探しに行ったことがある。空き地になっていた。騎士学校で、その頃の友人と再会したよ。向こうもびっくりしていた。よく一緒に遊んでいた仲間でね」
「どうして、その話をずっと黙っていたの? 弟じゃないって」
リオは、この質問に少し驚いたようだったが、耳の先を少し赤くして自嘲気味に答えた。
「下心満載の計算高い男だからだよ。もともと伯父の伯爵夫妻のことは嫌いだった。大したこともないくせに、お高く留まっていると思っていた。あんなみじめな格式だけの伯爵邸に引き取られて、面白いことなんか何もない。だが、弟になっておけば、とてもかわいい女の子と親しくなれた」
リオは本当に弟ではなかったのだ。彼には彼の歴史があった。ごく当たり前のあたたかな両親との十年間。親しい友達。
シエナが全然知らない物語。彼女の父を伯父だと明言した。最初からはっきり認識していたのだ。
完全なシエナの勘違い。
どうしてそんな勘違いをしてしまったのだろう。シエナは猛烈に恥ずかしくなった。
最初に出会った時、抱き着いたのはシエナだ。
恥ずかしそうにしていたリオに、無理やりキスした。
夜は、寝かしつけてあげると言って、ベッドに侵入した。
思い出してみれば、リオの方はいつも引き気味だった。
控え目な子だなと思ったシエナは過激な行動に出た。もっと親密感を上げなくちゃ。
リオに頬ずりしたり、最初のころ、ボタンをうまくかけられないリオの代わり、着替えを手伝ったり、リオの胸にほくろがあるのを見つけて、珍しがって撫でてみたりしたこともある。
今思えば、シエナは両親に全く構ってもらえていなかったため、人が恋しかったのかもしれない。
しかし。
実は弟じゃないリオは、どう感じただろう。
まずい。どうしよう。サーッと血の気が引く思いがした。
かわいい弟との思い出が、全部、黒歴史に塗り替わった一瞬だった。
従兄妹だったとわかった時も、リオはリオ。他人感がなかったのだ。だが、ちゃんと聞けば、彼は本当に他人だった。
その時、注意してくれたらよかったのに!
シエナは泣きそうになった。
王都に来て、アッシュフォード子爵から何回か説明を直接受けていたのに、なぜ、頭が回らなかったのかしら。
考えたくなかったのだ。いろいろやらかし過ぎている。
「いや。嬉しかった」
リオは、シエナの黒歴史の数々を一言で片づけた。
ここは喜んでもらえて何よりですわの一言で済ますシーンなのだろうか。
「あなたはとても頑固だ。どうしても好きになれない相手っていると思う。そこまで嫌われているとは思っていなかった。だけど」
リオはみじめそうだった。
「あなたを侯爵家に閉じ込めて、侯爵にも紹介して、抜き差しならないところまで追い込んで婚約まで持ち込んだ。コーンウォール夫人にもシエナから前向きの返事をもらったと嘘をついた。でも、あなたは笑ってくれない。婚約を了承しただけだ。これでは僕はジョージやボリスと一緒だ」
リオはシエナを見ていなかった。
「だから、ここへあなたを連れてきた。誰もいないここへ。話をしたい。振られるなら誰にも見られたくない」
誰にも、見られていなくてよかった。今、シエナは羞恥で真っ赤だ。人生でここまでいろんな意味で失敗したことがあるだろうか。
「僕の努力は失敗だったかもしれない。プレゼントは、あなたに引け目を感じさせる行動だった。でも、あなたが困っているところを本当に見ていられなかったんだ」
絶対にリオは覚えている。あれも、これも、それから本当にいろいろあった。
全部、シエナから仕掛けたことである。
見知らぬ男に。初めて会った男に。
大変に、大変に、マズい。大失敗だ。頭が沸騰する。恥ずかしすぎる。
リオはシエナを柔らかく抱きしめた。
「最初に見た時から好きだった。だけど、僕のことが嫌いならこれで終わりにしよう」
「お、終わり……?」
さっきと同じようにシエナはお腹の中に不安がいっぱいに広がるのを覚えた。リオは暗い顔をしていた。
「僕の負けだ。婚約は解消する。最後にお願いだ。抱きしめさせて欲しい」
リオはシエナを見た。
だが、普段なら、生真面目な表情でリオを見返すシエナが、真っ赤になってリオの目を避けた。
「好きだ、シエナ。ずっと愛していた」
身をよじるシエナを捕まえて、リオはささやいた。
「僕の目を見て」
リオの目線を避けまくるシエナは、いつもと違っていた。リオの手に自然と力がこもった。シエナが赤くなって、目が潤み、額が熱っぽい。
リオは抱きしめたまま、初めてシエナにキスした。
シエナが抵抗しない。リオの心の中で歓喜が爆発した。
もしかしたら……
「シエナ、愛している」
シエナがさらに真っ赤になった。
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