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第29話 お出かけ
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「来たよ!」
ジルは、公爵家の馬車ではない普通の車でやって来た。
ジルはキラキラした見事な髪をくくり、目立たないようにして、服も普通の生徒のような格好に変えてきていた。
母は、娘を迎えに来た年頃の男性について厳しくチェックするつもりだったに違いない。
なぜなら、私がダンスパーティーの相手と出かけると聞いた途端、異様に張り切っていたからだ。
だが、私はジルが来る時間を一時間遅く伝えておいたので、お迎えの自己紹介だのお茶のもてなしなどは全てかっ飛ばして、馬車に乗ることができた。
母は出て行く馬車を自室の窓から覗き見することしか出来なかった。身なりを整えて、準備万端用意していたのに。
「あとで母に叱られますわ」
私は笑いながら言った。
「エクスター家の名前を出せば一発だろう。それ以外、何にも役に立たないぞ、家名。堅苦しいばっかりだ」
ジルは言ったが、私は答えた。
「だって、私が好きなのはジルだもの」
エクスター殿下がデートのお誘いに来たことが母にバレたら、母は卒倒してしまうだろう。
街にはメインストリートが出来てきており、歩道と車道が分かれて、散策がしやすくなっていた。
一歩裏通りに入ると、昔ながらのぬかるみが残っていたが、表通りは別世界で、金持ちや貴族が優雅に歩きながらカフェを楽しんだり、いろんな店をのぞいてみることができるようになっていた。
とは言え、殿下が普段出かけるような場所ではない。
ジルは初めてなのでキョロキョロしていた。
「まったく町中を知らないのは、問題かもね」
ジルらしい感想だ。
いくつかの店を周り、彼は面白そうなものを買い込んでいた。
そして宝石店やアクセサリーの店を通りかかるたびに私の顔を見ていた。
お金に不自由のない彼は、何か買ってプレゼントしたいらしい。
「きれいなブレスレットだ。フロレンスに似合いそうだと思うんだけどな?」
何軒か通り過ぎた後、彼はついに声をかけてきた。
そうはいかない。だって、彼は、ダンスを踊るだけの相手だ。
もし、ジルだったら……中流貴族でそんなお金もない男が、たとえ安物でも買ってくれると言うなら、嬉しかったかもしれない。でも、ジルは…と言うか、この場合は、エクスター殿下なのだが、あまりにも金持ちで、私の心もお金で買おうとしているみたいな気がしてしまう。
何となく不安な気がした。
やがて、のどが渇いた私たちは、王都の真ん中を流れる大きな河のほとりのカフェに落ち着いた。
「パンケーキが有名だそうだ。君は何が好き?」
前からちょっと行きたかった店だ。私は嬉しくてあちこち見回してしまった。
エクスター殿下は、とてもきれいな男の子だったし、正直なところ、私はうれしかった。
好みも聞いてくれるし。
チョコレートも有名で、帰りにはたくさん買い込んで帰ろうと思った。アリスもメアリも喜ぶだろう。
名物の紅茶も香りの高いすばらしいもので、すっかり私は喜んでしまった。
「ねえ、ダンスのパートナーはしてくれるよね?」
「エドワード様さえよかったら」
「もちろんさ。それに今回限りだしね」
ちょっと驚いて私はジルの顔を見た。
ジルは当たり前だと言う顔をしていた。
「だって、僕は卒業してしまうもの」
「ジルは私より一つ上なだけよね?」
「違うよ。二つ上だよ。だから今年で十八になる」
学園生活はずっと続くような気がしていたけど、考えてみれば、そんなことなかった。
この人は私より年上で、卒業したら、私の知らない世界に出て行ってしまうのだ……。
もう手が届かないかもしれない。
「僕は海に出たかったんだ」
河を見下ろすテラス席から、キラキラ光が跳ねる川面を眺めながら、ジルは言った。
うっかりその貌に見とれてしまう。
優しく礼儀正しい公子と言う見た目は、彼が学園を離れた途端にはがれて、微笑みすらどこか悪い顔になり、今みたいにボンヤリ川面を見つめている時は、目元も鋭くて悪党っぽい雰囲気を漂わす。
でも、私はこの顔の方が好きだ。
「君の家は海に面した港町を領地に持っているね」
「ええ」
実は行ったこともないけれど。
「羅針盤や海図、船の発達などで海を越えた貿易が盛んになってきた。僕は海に出たいと父上に頼んだ。いろんな国があるそうだ」
出してもらえないのではないだろうか。エクスター公爵家に子どもは一人しかいないはずだ。
「もちろんダメだった。父にとっては僕が頼りの一人息子だ。そして王家にとっても近親の王弟一家は大事な存在だ」
私の父も言っていた。殿下はいずれ摂政になるだろうと。
「王子がまだ一歳だからね……」
それは知っていた。国王には他国に嫁いだ娘が二人と、5年前に結婚した新しい王妃との間に二人の幼い子どもがいる。待望の王子は、去年生まれたばかりだ。
もともとの王太子は、五年ほど前に不慮の事故で亡くなっていた。まだ二十そこそこだったはずだ。
「王太子の死で全部が狂った。僕は海に出て、貿易を手掛けようと思っていた。だが、そんなことは言っていられない。学園は楽しかったが、父と一緒に議会に出なくてはいけなくなった」
「まだ、十八なのに?」
「卒業したら父の補佐として議会に出るよう求められている」
ジルはちょっと寂しそうに笑った。
「この国をどう動かすか。特に幼い王子と王妃の世話は誰がするのか。近親の僕がすることになるだろう、いずれ」
その仕事は彼の父の公爵がするべきことではないのか。
「王室に対する貴族たちの目はあの事故以来とても冷たい。それを思うと、ピンクの紙なんかで遊んでいる場合ではないとわかっていたけど……」
「ジル……」
「エドワードには、好きならちゃんと伝えろと言われた。君ならいいだろうって、彼は言ったよ」
私が思い出したのは普段あまりしゃべらない父の言葉だった。
『お前が嫁ぐと言うなら、我が一族は全力でお前を支えよう……』
あの事故って、なんのことかわからないけど、ジルの……ルイの立場は大変なのだ。父にはわかっていたのだろう。
「あなたのお父様は? エドワードの意見ではなくて……」
こんなことを聞くのはどうかと思ったのだけれど、私は聞かないではいられなかった。
「どうして、僕の父のことなんか聞くの?」
ジルの情け容赦ない目が、私の質問の真意を捕らえて、尋ねる。
二人が好きかどうかを飛ばしてなんでこんなこと聞いちゃったんだろう。
家族の意見が大事になるのは、遊びではない場合だ。つまり、真剣に結婚を考えている人に聞く質問だ。
本来、赤くなるべきだったろうが、私はむしろ青ざめた。
どうして彼は、こんな話を私に今するのだろう。
「だって……今の話は、あなたのがんじがらめな立場を説明するものだわ。ただ一夜限りのダンスパートナーにどうして説明するの?」
ジルは手の込んだ真似をした。
図書館を支配して、文通を始めて、エクスター殿下として申し込み、ジルとして申し込んだ。エドワードを使って……
川辺の気持ちいいカフェには、大勢の客がいて、楽しそうにスイーツを楽しんでいた。
「一夜限りのダンスパートナーじゃないよ。エドワードを使って、君をそのがんじがらめに巻き込んだ。どうしても欲しいからね」
「欲しい……?」
ジルは私を巻き込もうとしているのか。だったら、何に?
「君は海だ」
ジルは河の方を向いて言った。完ぺきな横顔で、まっすぐな金髪が幾筋か、束ねたはずの後ろの黒いリボンから逃れて、キラキラ輝いていた。
「君と話していると、形式ばって堅苦しくて言いたいことも言えない暮らしが、軽妙で簡単で気楽なものに変わる。僕の言いたいことを全部言うまでもなく察してくれて、そして、思いがけない内容だが僕の意図に沿った返事をしてくれる。そんな人は初めてだった……」
「ジル!」
私は不安になった。どうしてそんな話を私にするの。
「君にはわかってもらえるからさ。ほら、不安そうな顔になった。この話の重さがわかるからだ。そして、どうしようもないらしいってこともわかるんだ。だから、全部しゃべってしまいたくなる」
ジル……。あなたはみんなが思っているような、なんの悩みもない理想的な王子様じゃないのね。
私は努めて明るく言ってみた。
「先のことはわからないわ、ジル。それより目の前のお茶が冷めるわ」
ジルがようやく笑った。
「そうだね。少なくともダンスパーティの相手だけは、決定だな!」
ジルは、公爵家の馬車ではない普通の車でやって来た。
ジルはキラキラした見事な髪をくくり、目立たないようにして、服も普通の生徒のような格好に変えてきていた。
母は、娘を迎えに来た年頃の男性について厳しくチェックするつもりだったに違いない。
なぜなら、私がダンスパーティーの相手と出かけると聞いた途端、異様に張り切っていたからだ。
だが、私はジルが来る時間を一時間遅く伝えておいたので、お迎えの自己紹介だのお茶のもてなしなどは全てかっ飛ばして、馬車に乗ることができた。
母は出て行く馬車を自室の窓から覗き見することしか出来なかった。身なりを整えて、準備万端用意していたのに。
「あとで母に叱られますわ」
私は笑いながら言った。
「エクスター家の名前を出せば一発だろう。それ以外、何にも役に立たないぞ、家名。堅苦しいばっかりだ」
ジルは言ったが、私は答えた。
「だって、私が好きなのはジルだもの」
エクスター殿下がデートのお誘いに来たことが母にバレたら、母は卒倒してしまうだろう。
街にはメインストリートが出来てきており、歩道と車道が分かれて、散策がしやすくなっていた。
一歩裏通りに入ると、昔ながらのぬかるみが残っていたが、表通りは別世界で、金持ちや貴族が優雅に歩きながらカフェを楽しんだり、いろんな店をのぞいてみることができるようになっていた。
とは言え、殿下が普段出かけるような場所ではない。
ジルは初めてなのでキョロキョロしていた。
「まったく町中を知らないのは、問題かもね」
ジルらしい感想だ。
いくつかの店を周り、彼は面白そうなものを買い込んでいた。
そして宝石店やアクセサリーの店を通りかかるたびに私の顔を見ていた。
お金に不自由のない彼は、何か買ってプレゼントしたいらしい。
「きれいなブレスレットだ。フロレンスに似合いそうだと思うんだけどな?」
何軒か通り過ぎた後、彼はついに声をかけてきた。
そうはいかない。だって、彼は、ダンスを踊るだけの相手だ。
もし、ジルだったら……中流貴族でそんなお金もない男が、たとえ安物でも買ってくれると言うなら、嬉しかったかもしれない。でも、ジルは…と言うか、この場合は、エクスター殿下なのだが、あまりにも金持ちで、私の心もお金で買おうとしているみたいな気がしてしまう。
何となく不安な気がした。
やがて、のどが渇いた私たちは、王都の真ん中を流れる大きな河のほとりのカフェに落ち着いた。
「パンケーキが有名だそうだ。君は何が好き?」
前からちょっと行きたかった店だ。私は嬉しくてあちこち見回してしまった。
エクスター殿下は、とてもきれいな男の子だったし、正直なところ、私はうれしかった。
好みも聞いてくれるし。
チョコレートも有名で、帰りにはたくさん買い込んで帰ろうと思った。アリスもメアリも喜ぶだろう。
名物の紅茶も香りの高いすばらしいもので、すっかり私は喜んでしまった。
「ねえ、ダンスのパートナーはしてくれるよね?」
「エドワード様さえよかったら」
「もちろんさ。それに今回限りだしね」
ちょっと驚いて私はジルの顔を見た。
ジルは当たり前だと言う顔をしていた。
「だって、僕は卒業してしまうもの」
「ジルは私より一つ上なだけよね?」
「違うよ。二つ上だよ。だから今年で十八になる」
学園生活はずっと続くような気がしていたけど、考えてみれば、そんなことなかった。
この人は私より年上で、卒業したら、私の知らない世界に出て行ってしまうのだ……。
もう手が届かないかもしれない。
「僕は海に出たかったんだ」
河を見下ろすテラス席から、キラキラ光が跳ねる川面を眺めながら、ジルは言った。
うっかりその貌に見とれてしまう。
優しく礼儀正しい公子と言う見た目は、彼が学園を離れた途端にはがれて、微笑みすらどこか悪い顔になり、今みたいにボンヤリ川面を見つめている時は、目元も鋭くて悪党っぽい雰囲気を漂わす。
でも、私はこの顔の方が好きだ。
「君の家は海に面した港町を領地に持っているね」
「ええ」
実は行ったこともないけれど。
「羅針盤や海図、船の発達などで海を越えた貿易が盛んになってきた。僕は海に出たいと父上に頼んだ。いろんな国があるそうだ」
出してもらえないのではないだろうか。エクスター公爵家に子どもは一人しかいないはずだ。
「もちろんダメだった。父にとっては僕が頼りの一人息子だ。そして王家にとっても近親の王弟一家は大事な存在だ」
私の父も言っていた。殿下はいずれ摂政になるだろうと。
「王子がまだ一歳だからね……」
それは知っていた。国王には他国に嫁いだ娘が二人と、5年前に結婚した新しい王妃との間に二人の幼い子どもがいる。待望の王子は、去年生まれたばかりだ。
もともとの王太子は、五年ほど前に不慮の事故で亡くなっていた。まだ二十そこそこだったはずだ。
「王太子の死で全部が狂った。僕は海に出て、貿易を手掛けようと思っていた。だが、そんなことは言っていられない。学園は楽しかったが、父と一緒に議会に出なくてはいけなくなった」
「まだ、十八なのに?」
「卒業したら父の補佐として議会に出るよう求められている」
ジルはちょっと寂しそうに笑った。
「この国をどう動かすか。特に幼い王子と王妃の世話は誰がするのか。近親の僕がすることになるだろう、いずれ」
その仕事は彼の父の公爵がするべきことではないのか。
「王室に対する貴族たちの目はあの事故以来とても冷たい。それを思うと、ピンクの紙なんかで遊んでいる場合ではないとわかっていたけど……」
「ジル……」
「エドワードには、好きならちゃんと伝えろと言われた。君ならいいだろうって、彼は言ったよ」
私が思い出したのは普段あまりしゃべらない父の言葉だった。
『お前が嫁ぐと言うなら、我が一族は全力でお前を支えよう……』
あの事故って、なんのことかわからないけど、ジルの……ルイの立場は大変なのだ。父にはわかっていたのだろう。
「あなたのお父様は? エドワードの意見ではなくて……」
こんなことを聞くのはどうかと思ったのだけれど、私は聞かないではいられなかった。
「どうして、僕の父のことなんか聞くの?」
ジルの情け容赦ない目が、私の質問の真意を捕らえて、尋ねる。
二人が好きかどうかを飛ばしてなんでこんなこと聞いちゃったんだろう。
家族の意見が大事になるのは、遊びではない場合だ。つまり、真剣に結婚を考えている人に聞く質問だ。
本来、赤くなるべきだったろうが、私はむしろ青ざめた。
どうして彼は、こんな話を私に今するのだろう。
「だって……今の話は、あなたのがんじがらめな立場を説明するものだわ。ただ一夜限りのダンスパートナーにどうして説明するの?」
ジルは手の込んだ真似をした。
図書館を支配して、文通を始めて、エクスター殿下として申し込み、ジルとして申し込んだ。エドワードを使って……
川辺の気持ちいいカフェには、大勢の客がいて、楽しそうにスイーツを楽しんでいた。
「一夜限りのダンスパートナーじゃないよ。エドワードを使って、君をそのがんじがらめに巻き込んだ。どうしても欲しいからね」
「欲しい……?」
ジルは私を巻き込もうとしているのか。だったら、何に?
「君は海だ」
ジルは河の方を向いて言った。完ぺきな横顔で、まっすぐな金髪が幾筋か、束ねたはずの後ろの黒いリボンから逃れて、キラキラ輝いていた。
「君と話していると、形式ばって堅苦しくて言いたいことも言えない暮らしが、軽妙で簡単で気楽なものに変わる。僕の言いたいことを全部言うまでもなく察してくれて、そして、思いがけない内容だが僕の意図に沿った返事をしてくれる。そんな人は初めてだった……」
「ジル!」
私は不安になった。どうしてそんな話を私にするの。
「君にはわかってもらえるからさ。ほら、不安そうな顔になった。この話の重さがわかるからだ。そして、どうしようもないらしいってこともわかるんだ。だから、全部しゃべってしまいたくなる」
ジル……。あなたはみんなが思っているような、なんの悩みもない理想的な王子様じゃないのね。
私は努めて明るく言ってみた。
「先のことはわからないわ、ジル。それより目の前のお茶が冷めるわ」
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