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第28話 逃げ道がない結婚とエレノアのいる公爵家
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「クレアは何を話しに来たの?」
帰って来たラルフは書斎に私を呼んで聞いた。
ラルフは普段の、普通の格好だった。湯上りのローブ姿ではなかった。よかった。
金鉱山の話はしてもいいのかしら。
もちろん構わないのだろうけれど、私は黙っていることにした。
金鉱山はラルフの長姉の一家のものでもあり、守りうるのはババリア元帥の戦力と、私の父の財力、政治力だ。つまり私はその真っただ中にいる。
ババリア夫人は私とあれこれ話してみて、金鉱山の話をすることに腹を決めたのだ。それは一人前だと認められた気がして嬉しかったけれど、一番、言いたかったのは多分、彼女の可愛い弟を大事にしてほしいということじゃないだろうか。
「ええと……いろいろ」
私はラルフを恐る恐る眺めながら、答えた。
ラルフは私を見たが、フーンと答えただけだった。
「伝えておかないといけないと思ってね」
彼はいつもと同じ、ちっとも甘くない、仕事をしている時の調子で話しかけた。
「本日、王太子殿下はリリアン嬢と正式に婚約した」
私はちょっと驚いたが、ほっとした。思ったより早くすんだ。
ラルフも頷いた。
「これであのばかばかしい婚約破棄騒動は終了した。ベロス公爵も大喜びだ」
それから彼は続けた。
「リリアン嬢が妊娠しているとわかったのでね」
私はびっくりした。
「これで確定だ」
「ずいぶん……」
その後の言葉を どう続けたらいいかわからなかった。
「うん。ずいぶんな醜聞だ」
ラルフは落ち着いて言った。
「もっと早く分かっていたら、私たちは結婚しなくて済んだのかもしれない」
私は何も言わなかった。
「だが、これで風向きが変わる」
「王太子殿下の評判ですか?」
「そうだな。だけど、これであなたは家に帰れる。もう誰も狙わないだろう」
ラルフは鋭い目を私に向けながら聞いた。
「あなたは、これからどうしますか? もうしばらく、ここにいますか? 家に戻りますか?」
いつもの昔からのラルフだった。
彼は諦めたのかも知れなかった。
結婚の口実がなくなったのだ。
それは私にとっても同じだった。
「帰ってもよいことはないのです」
私は言った。
私は力のない様子で、ラルフを見つめた。
熱烈な恋人を見つめる目ではなかったと思う。
「私は結婚した。ダンスパーティに誘ってくれる男性も、お茶に誘ってくれる人もいません。そういう若い娘が社交界で楽しんだりする機会はなくなってしまいました」
「そう言うことがしたかったの?」
ラルフはわからないといった様子で、少し眉をしかめて私を見た。
私はこれまでずっと、王太子妃教育を受けていた。宮廷のしきたりや、外国の大使が訪問する時に備えて他国の情報を学んだり、王妃様に従って用事を代わりにしたり、それからたいていは王妃様に叱られてた。
私が、遊んでいるところを誰も見たことがなかっただろう。
だから、みんなが私を、お茶会やダンスパーティや買い物に興味がない地味な娘だと思い込んでいた。
エレノアなんかは、しょっちゅうそう言っていた。
だけど違うのだ。
私にはそれが許されていなかっただけ。
「そうやって若い娘は、夫を見つけるのです。長い間、ただの若い娘として社交界で楽しむ機会はありませんでした。家ではエレノアにドレスや宝石を取られていました」
「知っている」
ラルフは短く答えた。
「私は両親には可愛がられていて、エレノアはしょっちゅう母に叱られていたけれど、止めてくれるわけではなかった。結局、我慢するのは私でした。私は今は既婚者。それ相当の振る舞いを期待されるのでしょう? 家に戻っても楽しいことは起きない」
「既婚夫人だって、お茶会を開いたり、パーティに出たりしている。大事な務めだ」
ああ、わかっていないのだ。ラルフは。
私は自由な時間を楽しみにしていた。
王太子妃の候補として抑圧された暮らしから解放されて、自由に楽しみたかったのに。
もちろん王太子妃になってしまっていたら、それどころではない。
ずっと、あの王太子の尻拭いで、抑圧された生活を続けるはずだった。
王太子が致命的な失敗をしたら、一緒に責任を被らなければならない運命だった。
だから今の方がずっとマシな状態だと言うことはよくわかっていた。
でも、王太子との結婚を逃れることができるとわかった瞬間、私は夢を見てしまった。
だが、結局、お茶会も恋バナも、ダンスパーティーで見知らぬ素敵な男性に胸ときめかせることも、友達とキャアキャア騒ぎながら買い物することも、全部出来なくなってしまっていた。
あの王太子から逃れるためとは言え、私は結婚してしまったのだもの。
ラルフは私を好きだと言った。恋人はいないと。
つまり、公爵家の跡取り娘の私の夫と言う特権を手放す気はない。
目から涙があふれてきた。これはわがままで、愚痴だ。自分のことがかわいそうになるだなんて。
いつかは誰かと結婚しなくてはならないし、ラルフはきっと悪い夫ではないだろう。贅沢なのだと言うことは、よくわかっていた。
だけど、ラルフは、夫だと言うのなら、妻の愚痴を少なくとも一度くらいは聞く義務があると思う。
彼は、私がなぜ泣いているのか全然わからないらしくて、目に見えて落ち着きを失くしていた。
「どうして泣く?」
「家に戻っても、せいぜい、エレノアに夫に愛されていないかわいそうな女と揶揄されるくらいなものでしょう」
「そんなことはない……」
「いいえ。エレノアは、あなたが心底大事にしていた女性がいると信じている。その人が私だなんて信じない。エレノアにとって都合が悪いからです」
「オーガスタ、あなたは間違っている。私が大事に思っている女性はあなた一人だ……」
事実がどうあれ、ラルフは私にはそれ以外の言葉は言えない。
仮に不倫をしていたとしても、彼が不倫を認めるようなマヌケでないことを私はよく知っている。
そして公爵家邸内には、いつもエレノアがいる。
「家の中で、平和を保ちたければ、エレノアの希望は入れてやらないといけません。エレノアの希望はささいなことばかりで……」
ささくれるようなつまらない数々の出来事。だが、それは日々の生活の質を悪くするものだった。
結婚しても、公爵家に住む限り、エレノアから逃れられない。
「公爵家の跡取りは公爵家にいなくてはいけませんから、どうあろうと家には帰ります。マリーナ夫人にはお世話になったとお伝えください」
「待て。私はどうしたらいいんだ」
彼に当たるのは間違いなのだ。全部私の愚痴だ。
だが、私にしろラルフにしろ、エレノアをどうにか出来るわけではない。
そして、王太子妃候補を外れても、既婚者の私には、若い娘が社交界にデビューする時に楽しみにしていた、ワクワクするような事柄はもう許されていなかった。
あなたにはラルフと言う立派な夫がいるじゃありませんかと。
「家に帰れば、エレノアはあなたを誘惑しに来ると思います」
「え?」
「私の夫が、私よりエレノアを大事にしていると思いたいのです」
「もし、エレノアよりもあなたを大事にしたら、どうなるんだ?」
「多分、私が悪者にされるでしょう。社交界でも家の中でも」
「まるで呪いみたいな女だな」
でも、それでも、私はここを出て家に帰らねば。
公爵家の跡取りだから。
ババリア元帥夫人は、ラルフの本気を口を極めて証言した。
仲の良い夫婦……つまり私がラルフに従って、彼の言うがままになることが都合がいいからだ。
アリサ・ボーネル嬢が聞いた話とやらは多分ガセだ。
きっとラルフは、アリサ嬢なんかに言い寄られても面倒くさかったのだ。
心から愛している人がいますとか言えば、大抵の女は帰ってくれる。
いい方法だと思う。誰も傷つかないし、特に自分の評判が良くなるだろう。
「明日、帰ります」
ラルフが真剣に驚いた。
「そんなに急に?」
「これ以上あなたやパロナ家の人々に迷惑はかけられませんから」
私は答えた。
王太子殿下の結婚が決まったなら、ここにいる必要はない。ここは危険だ。パロナ公家に取り込まれそうだ。
ラルフの手がふわりと伸びて私の手を取ろうとして空をつかんだ。
「どうして信じてくれない」
「信じていますとも」
私は答えた。ラルフの事情を私は十分理解していた。
「それにあなたは公爵家には大事な人材です」
「人材?」
彼は苦々しげな声を出した。
「あなたが私を貴重な人材だと手放さないように、リッチモンド家もあなたを手放さないのですよ」
私は突き放すように言った。
_________________________
来週中には、何とかなると……亀ですみません。
帰って来たラルフは書斎に私を呼んで聞いた。
ラルフは普段の、普通の格好だった。湯上りのローブ姿ではなかった。よかった。
金鉱山の話はしてもいいのかしら。
もちろん構わないのだろうけれど、私は黙っていることにした。
金鉱山はラルフの長姉の一家のものでもあり、守りうるのはババリア元帥の戦力と、私の父の財力、政治力だ。つまり私はその真っただ中にいる。
ババリア夫人は私とあれこれ話してみて、金鉱山の話をすることに腹を決めたのだ。それは一人前だと認められた気がして嬉しかったけれど、一番、言いたかったのは多分、彼女の可愛い弟を大事にしてほしいということじゃないだろうか。
「ええと……いろいろ」
私はラルフを恐る恐る眺めながら、答えた。
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「伝えておかないといけないと思ってね」
彼はいつもと同じ、ちっとも甘くない、仕事をしている時の調子で話しかけた。
「本日、王太子殿下はリリアン嬢と正式に婚約した」
私はちょっと驚いたが、ほっとした。思ったより早くすんだ。
ラルフも頷いた。
「これであのばかばかしい婚約破棄騒動は終了した。ベロス公爵も大喜びだ」
それから彼は続けた。
「リリアン嬢が妊娠しているとわかったのでね」
私はびっくりした。
「これで確定だ」
「ずいぶん……」
その後の言葉を どう続けたらいいかわからなかった。
「うん。ずいぶんな醜聞だ」
ラルフは落ち着いて言った。
「もっと早く分かっていたら、私たちは結婚しなくて済んだのかもしれない」
私は何も言わなかった。
「だが、これで風向きが変わる」
「王太子殿下の評判ですか?」
「そうだな。だけど、これであなたは家に帰れる。もう誰も狙わないだろう」
ラルフは鋭い目を私に向けながら聞いた。
「あなたは、これからどうしますか? もうしばらく、ここにいますか? 家に戻りますか?」
いつもの昔からのラルフだった。
彼は諦めたのかも知れなかった。
結婚の口実がなくなったのだ。
それは私にとっても同じだった。
「帰ってもよいことはないのです」
私は言った。
私は力のない様子で、ラルフを見つめた。
熱烈な恋人を見つめる目ではなかったと思う。
「私は結婚した。ダンスパーティに誘ってくれる男性も、お茶に誘ってくれる人もいません。そういう若い娘が社交界で楽しんだりする機会はなくなってしまいました」
「そう言うことがしたかったの?」
ラルフはわからないといった様子で、少し眉をしかめて私を見た。
私はこれまでずっと、王太子妃教育を受けていた。宮廷のしきたりや、外国の大使が訪問する時に備えて他国の情報を学んだり、王妃様に従って用事を代わりにしたり、それからたいていは王妃様に叱られてた。
私が、遊んでいるところを誰も見たことがなかっただろう。
だから、みんなが私を、お茶会やダンスパーティや買い物に興味がない地味な娘だと思い込んでいた。
エレノアなんかは、しょっちゅうそう言っていた。
だけど違うのだ。
私にはそれが許されていなかっただけ。
「そうやって若い娘は、夫を見つけるのです。長い間、ただの若い娘として社交界で楽しむ機会はありませんでした。家ではエレノアにドレスや宝石を取られていました」
「知っている」
ラルフは短く答えた。
「私は両親には可愛がられていて、エレノアはしょっちゅう母に叱られていたけれど、止めてくれるわけではなかった。結局、我慢するのは私でした。私は今は既婚者。それ相当の振る舞いを期待されるのでしょう? 家に戻っても楽しいことは起きない」
「既婚夫人だって、お茶会を開いたり、パーティに出たりしている。大事な務めだ」
ああ、わかっていないのだ。ラルフは。
私は自由な時間を楽しみにしていた。
王太子妃の候補として抑圧された暮らしから解放されて、自由に楽しみたかったのに。
もちろん王太子妃になってしまっていたら、それどころではない。
ずっと、あの王太子の尻拭いで、抑圧された生活を続けるはずだった。
王太子が致命的な失敗をしたら、一緒に責任を被らなければならない運命だった。
だから今の方がずっとマシな状態だと言うことはよくわかっていた。
でも、王太子との結婚を逃れることができるとわかった瞬間、私は夢を見てしまった。
だが、結局、お茶会も恋バナも、ダンスパーティーで見知らぬ素敵な男性に胸ときめかせることも、友達とキャアキャア騒ぎながら買い物することも、全部出来なくなってしまっていた。
あの王太子から逃れるためとは言え、私は結婚してしまったのだもの。
ラルフは私を好きだと言った。恋人はいないと。
つまり、公爵家の跡取り娘の私の夫と言う特権を手放す気はない。
目から涙があふれてきた。これはわがままで、愚痴だ。自分のことがかわいそうになるだなんて。
いつかは誰かと結婚しなくてはならないし、ラルフはきっと悪い夫ではないだろう。贅沢なのだと言うことは、よくわかっていた。
だけど、ラルフは、夫だと言うのなら、妻の愚痴を少なくとも一度くらいは聞く義務があると思う。
彼は、私がなぜ泣いているのか全然わからないらしくて、目に見えて落ち着きを失くしていた。
「どうして泣く?」
「家に戻っても、せいぜい、エレノアに夫に愛されていないかわいそうな女と揶揄されるくらいなものでしょう」
「そんなことはない……」
「いいえ。エレノアは、あなたが心底大事にしていた女性がいると信じている。その人が私だなんて信じない。エレノアにとって都合が悪いからです」
「オーガスタ、あなたは間違っている。私が大事に思っている女性はあなた一人だ……」
事実がどうあれ、ラルフは私にはそれ以外の言葉は言えない。
仮に不倫をしていたとしても、彼が不倫を認めるようなマヌケでないことを私はよく知っている。
そして公爵家邸内には、いつもエレノアがいる。
「家の中で、平和を保ちたければ、エレノアの希望は入れてやらないといけません。エレノアの希望はささいなことばかりで……」
ささくれるようなつまらない数々の出来事。だが、それは日々の生活の質を悪くするものだった。
結婚しても、公爵家に住む限り、エレノアから逃れられない。
「公爵家の跡取りは公爵家にいなくてはいけませんから、どうあろうと家には帰ります。マリーナ夫人にはお世話になったとお伝えください」
「待て。私はどうしたらいいんだ」
彼に当たるのは間違いなのだ。全部私の愚痴だ。
だが、私にしろラルフにしろ、エレノアをどうにか出来るわけではない。
そして、王太子妃候補を外れても、既婚者の私には、若い娘が社交界にデビューする時に楽しみにしていた、ワクワクするような事柄はもう許されていなかった。
あなたにはラルフと言う立派な夫がいるじゃありませんかと。
「家に帰れば、エレノアはあなたを誘惑しに来ると思います」
「え?」
「私の夫が、私よりエレノアを大事にしていると思いたいのです」
「もし、エレノアよりもあなたを大事にしたら、どうなるんだ?」
「多分、私が悪者にされるでしょう。社交界でも家の中でも」
「まるで呪いみたいな女だな」
でも、それでも、私はここを出て家に帰らねば。
公爵家の跡取りだから。
ババリア元帥夫人は、ラルフの本気を口を極めて証言した。
仲の良い夫婦……つまり私がラルフに従って、彼の言うがままになることが都合がいいからだ。
アリサ・ボーネル嬢が聞いた話とやらは多分ガセだ。
きっとラルフは、アリサ嬢なんかに言い寄られても面倒くさかったのだ。
心から愛している人がいますとか言えば、大抵の女は帰ってくれる。
いい方法だと思う。誰も傷つかないし、特に自分の評判が良くなるだろう。
「明日、帰ります」
ラルフが真剣に驚いた。
「そんなに急に?」
「これ以上あなたやパロナ家の人々に迷惑はかけられませんから」
私は答えた。
王太子殿下の結婚が決まったなら、ここにいる必要はない。ここは危険だ。パロナ公家に取り込まれそうだ。
ラルフの手がふわりと伸びて私の手を取ろうとして空をつかんだ。
「どうして信じてくれない」
「信じていますとも」
私は答えた。ラルフの事情を私は十分理解していた。
「それにあなたは公爵家には大事な人材です」
「人材?」
彼は苦々しげな声を出した。
「あなたが私を貴重な人材だと手放さないように、リッチモンド家もあなたを手放さないのですよ」
私は突き放すように言った。
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