アネンサードの人々

buchi

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サイラム

第185話 物語の始まり

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 それは、総主教様の死から十五年ほど前の話。


 森に囲まれた広大な総主教庁は、完全な静寂に包まれていた。

 大礼拝堂の大理石の床の上では、静かで真剣な祈りが、大勢の僧により無言のままささげられていた。

 偉大なる総主教ゼルス3世が、今、息を引き取ろうとしていたのだ。



「よいか、サイラム。なぜ、私がお前を選んだかわかるか?」

「わかりません!」

 サイラムは激しく首を振った。禁断の庭に面した、総主教様の居室だった。ほんのひと握りの高位の僧しか出入できない。

「総主教様、私は平民の出身でございます。本来なら、総主教様のおそばに寄ることすら……」

「この、バカ者」

 総主教様は、目をむいた。

「身分など、どうでもいいこと。お前は賢く、忍耐強く、決しておごらず、たゆみなく努力する。誰よりも効率的に。そして正しく」

「それは……当たり前でございます」

「その通り。だが、それができない人間のなんと多いことか」

 総主教様はいらだった様子で続けた。

「適任なのだ。適任。お前自身が否定してどうする」

「しかし……」

「それに、それだけが理由で総主教をやれと言っているのではない」

 サイラムは、涙で汚れた顔を驚いてあげた。ほかに何があると言うのだろう。

「お前は、私を裏切った」

 サイラムは、意外過ぎてびっくりした。全く心当たりがなかった。

「サイラム。お前は教会をなめている。ばれなかったと思っているだろうが……」

「何を? 何をでございますか?」

 サイラムは必死に尋ねた。何の話か分からなかった。

「お前は、アネンサードを見逃した」

 サイラムは、呆然として、死の床にある総主教を見つめた。

「お前は責任を取るのだ」

 大声の出ない総主教様はささやいた。

「人々は皆お前が高徳の僧だと知っている。いつでも正しい。その結果、破格の出世だった。だから権力志向ではないかと。野心的で冷酷ではないかと。だが違う」

 サイラムは、間違いがなく、機械のように実行し、決して迷わなかった。先を見通す先見の明は、誰もが一目置かざるを得なかった。

「お前の本質は慈悲だ」

 サイラムはさらに驚いて、総主教様を見つめた。これまで誰がサイラムを慈悲の人と言っただろうか。

「教会は人の心の礎となるべく存在している。圧倒的な正しさだ。ゆるぎない信心が人間には必要なのだ。迷いをなくすために。弱い心を救うために」

 サイラムはベッドのそばに跪いたまま、途切れ途切れの声を聞いた。

「教会と言う最後の砦を失くした人間は迷い、私利私欲に走り、国は乱れる。教会は悪魔を許さない。アネンサードの姿は悪魔そのもの。人の心に迷いと怖れを生む。アネンサードは忌むべき異端なのだ。必ず殺せ。一人残らず。次代の総主教としての役目だ」

「総主教様! 私には……」

「ダメだ。私の遺言状には、お前の名前が書いてある。誰も逆らえない。私は王弟だ。その私の後押しだ。平民である以外、お前を避ける理由などない。責任を取れ。総主教は国を守るために存在するのだ。国と民と民の心を。お前は、この国、ダリア、人間のために戦うのだ」

「アネンサードは昔の伝説でございます。誰にも忘れられた言い伝えにすぎません」

「お前は、その伝説が生きていることを知っている。お前だけが、気が付いたのだ」

 サイラムは、必死になって総主教様を見つめた。それは本当だった……

「サイラム」

 総主教様はささやいた。声が出なかったのだ。

「お前にはできる」

 かすかな声がささやいた。

「アネンサードを殺せ。この国と民を守るのだ……」



 サイラムが何をどう判断したのか。

 前の総主教様の死から長い長い年月が過ぎた後、彼が何を選んだのか。裏切りの汚名を知る者は誰もいない。

「代わりに愛を」

 時代は過ぎていく。薄れて混ざり、やがて片鱗もとどめなくなったアネンサードの血は深く沈殿していく。

「それでも国は安寧だ。だから人の心の最後に咲いた花を手折らずに……愛する心は人そのものなのだ」

 沈殿した血はゼロにはならない。連綿と伝えられ、人の種の命の終焉までともにあり続ける。それは、ずっとのちの話になる。




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みんなの感想(1件)

るるる
2024.10.14 るるる
ネタバレ含む
buchi
2024.10.14 buchi

読んでくださって本当にありがとうございます。

私はこの複雑な話が好きなのですが
読んでくださる方が少なくて!😭
(長い上に、複雑。ザマァでもないのに残虐)
いや、もう本当にありがとうございます

解除

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