アネンサードの人々

buchi

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サイラム

第183話 総主教様の死

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 総主教様は、レイビックの城に戻って数日後、もうカプトルの砦には戻らず、総本山の修道院と教会に帰っていった。
 つまり、彼の言葉通り、教会の仕事は済んだということなのだろう。



 ロドリックは、レイビック伯の名をフリースラントから譲り受け、フィリスはレイビック伯夫人になった。爵位はフリースラントからの結婚祝いだった。二人の結婚式は地味だったが、噂を伝え聞いた、宮廷中の中年貴族たちのやっかみを買った。
 シュウディ公爵は、自慢のひげをひねっているうち、怒りのあまり数本を抜いてしまってから、ようやくふさわしい言葉を見つけ出した。
「化け物め」
 ロドリックは国中に名をとどろかせた勇猛果敢な騎士である。金山のおかげで裕福でもあった。ケチのつけようがない。探しまくった文句がこれだった。
 意外に的確な罵倒文句だった。
 結婚などと無縁の存在であるはずのベルブルグの副院長も、なにか妙に残念そうだった。
 しかし、フィリスが、いかにも信用していると言った様子で、夫に従っている様子を見ると、反対勢力はトーンダウンした。ルシアもあきらめた様子だったし、ロドリックがフィリスをとても大事に思っていることは、その目の中に現れていた。それを見たフリースラントは、ようやく長らくの友の幸せを認める気になった。花嫁が彼の母でさえなければ、もっと祝福してやれたのだったが。


 何年かの月日がたって、ルシアとフリースラントは子どもたちに恵まれ、ダリアは順調に運営されていた。

 ギュレーターとザリエリ候の仲が悪いのはいつものことで、人がいないと思うと、結構派手に怒鳴りあいになっていた。

 ベルビュー殿のご子息アズリンドは、あれほど楽しみにしていた学校もそこそこに、フリースラントの小姓として仕えていた。利発で、気の利く少年をフリースラントも気に入り、あちこち連れて歩いた。ベルビュー殿は、すっかり年を取って奥方と隠居していたが(そのずいぶん前からすでに化石のような生活だったが)、息子の活躍を聞いて目を細めていた。

 レイビックは王家の夏の城となり、ルシアもフリースラントもここに来ると、ほっと一息つくのだった。
 女伯のいつもながらの穏やかで、よく気の付く歓迎は、気に障らず行き届いているので、ルシアのみならず、供の者も、安心して滞在できた。
 ロドリックとフリースラントは、狂ったように狩猟に出た。
 最初のころは、ギュレーターやロジアンなどの若武者も、必死になって同行していたが、とても一緒に競えるような腕前ではなかった。
 どんな悪路だろうと絶壁だろうと、意に介さず、また、何時間の行程でもちっともこたえない二人についていくどころか、うっかりすると迷子になるのがオチだった。
 あっという間に、他の貴族連中は落伍し、レイビックの古参の猟師連中からそれ見たことかと白い目で見られた。

 二人きりで、狩猟に出ると、彼らは心底のびのびした。陽の光が強い山間の道を、並外れた嗅覚と視覚、聴覚を頼りに駆け回った。
 誰かの歩調に合わせることも必要ない。シカやイノシシ、ときにはクマの匂いでも、彼らはほぼ同時に嗅ぎ分けることができた。






 総主教様は、王立修道院の例の禁断の庭に面した、よく日の当たる快適な部屋から出られなくなっていた。

「少々無理を重ねたのでございましょう。年齢が年齢でございますから」
 高僧たちは静かに語った。そして、ロドリックを老僧の寝ている部屋に招き入れた。

 呼ばれたロドリックは、総主教様の部屋に入った。庭ではなく、中に入るのは初めてだ。僧たちは、二人きりで話ができるよう、部屋を閉め切った。総主教様のたっての希望だった。

 部屋に入ったとたん、むっと変わった匂いがした。
 人間にはわからない匂いだった。
 総主教様は死にかけているのだ。


 ロドリックが、総主教様が寝ているベッドの足元まできて、頭を下げると老僧は、そちらの方を向いた。

 ロドリックは胸を突かれた。もう屍のようだ。

「ロドリック、最初会った時、私が言った言葉を覚えているかな?」

「なにを? 何をでございますか?」

「私の後を継いでほしいと」

 ロドリックは仰天した。

「それはできません。そんな恐れ多いことをおっしゃられるとは……」

「違うのだ。ロドリック。総主教の後を継いでほしいわけではない。私、ピオス6世が終生追い続けたのは……」

 総主教様は言葉を切った。彼は、もう今は目だけで生きていた。言葉もかすれがちだった。

「アネンサードだ。私はアネンサードを追い続けてきたのだ。お前に託したい」

「アネンサードは、もう、歴史からも消えました。今後、誰も口にしないでしょう。絶滅した種族、幻の物語です。これ以上することは何もないのです」

「アネンサードは終わっていない」

 総主教様は語り掛けた。

「ルシアはどうだった? 母のアデリア王女が何の力も持っていなかったのに、突然、力を発揮した」

 ロドリックは虚を突かれた。ルシアのことも調べていたのか。
 総主教様は枯れ木のような手を伸ばした。

「これを託す」

 総主教様は机の上に積まれた紙の山を指した。

「なんでしょうか? これは?」

「アネンサードの研究は、私だけのものではない。教会の先人が、長い時間をかけ戦い、記録を残したのだ。それは教会の財産だ。教会に残す」

 それなら、ロドリックに託したいというこの紙の山は何なのだろう。

「これは、フリースラント、ルシア、ロドリック、フィリスに関する記録の部分だ」

 衝撃が走った。全身の感覚を鋭くたぎらせて、ほかに聞いている者がいないか、確認した。

 総主教様は目を大きく見開き、ロドリックの姿を求めた。

「これをお前に残そう」

 文書はかなりあった。こんなにたくさん集めていたのか。新しいものも多かった。

「なぜ、ルシアがこの世に出てきたのか、それを考えてくれ。彼女は血の偶然だ。お前たち程はっきりした近親者ではないのだ」

 ルシアの系統について、ロドリックは何の知識もなかった。
 明らかに由緒正しい王家の生まれだが、血がとても濃い。近親婚となる叔父と姪の間の子どもだ。誰の血が作用したのだろう。

「今後の可能性はゼロでないのだ。わかるな?」

 ロドリックは言葉の意味をかみしめた。今後の可能性?

「そして、ルシアは王、フリースラントは摂政、お前は救国の英雄だ。信仰厚い修道士であることも知られている。だが、フィリスは? フィリスはそうではない」

 総主教様は片手を伸ばした。枯れ木のような手だった。ロドリックはその手を取った。冷たくて軽い手だった。

「この記録の中のフィリスは死神だ。その証拠なのだ」

 ロドリックはその意味を悟った。この書類は死ぬまで秘匿しなくてはならない。否、死んでから後もだ。そうしなければフィリスの命はない。
 しばらく黙ってから総主教様は続けた。

「ヴォルダ公爵の愛息を殺害した一族を皆殺しにしたこと、慈悲の家で邪魔者扱いされていた家族を金と引き換えに殺したこと、戦場で多くの兵士の命を奪ったこと」

 この文書が表ざたになった時……

「この文書をお前に渡そう。証拠の品だ。フィリスを守れ。お前にしかできない」

 フィリスを守れ……

「私は、ずっと昔に約束したのだ。アネンサードは一人残らず必ず殺すと」

 机の上の書類を見つめていたロドリックは、独り言のような総主教様の言葉に驚いた。いったい誰と約束したと言うのだ?

「だが、アネンサードとは、なんなのだ。人に似すぎている異人種は不気味で怖れを生む。忌み嫌われる。たとえ混血が進んでいても、心はヒトと違う。異端は国を揺るがしかねない。それでも、私は殺せなかった。ただのつまらない感傷に過ぎないと理性ではわかっているのに、どうしても殺したくなかった。許してほしい」

 だんだん口ぶりも乱れ、声も小さくなり、総主教様の口元に耳を近づけないと聞こえなかった。誰に向かって何を言っているのか、ロドリックにはわからなかった。

「この国は守り切った。だから……許して欲しい……」


 しばらく、総主教様は黙っていた。

 時が過ぎた。

 もう、眠ってしまったのだろうか? ロドリックは、この部屋から出て行った方がいいのだろうか。



 だが、総主教様は目をつぶったまま言った。

「愛している? そして幸せか?」

 ロドリックは頷いた。「はい」

「そうか。ならいい。私の人生は無駄ではなかった。死ではなく愛を残した。最後に花を咲かせたようなものだ」

「フィリスを呼びます! そうすれば……」

 ロドリックは叫んだ。エネルギーを分けてもらえば、もう少し生きられる。この人は、最後まで慈悲の人だった。
 高僧は物憂げにロドリックを振り返った。

「だめだよ。知っているだろう。それは悪魔の力、魔の力だ。だから、アネンサードとヒトは共存出来ない」



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