アネンサードの人々

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サジシーム

第137話 メフメト、テンセスト女伯を所望する

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「一体、どの女性が気に入ったのだ」

 サジシームは心配になった。
 高位の貴族の妻を所望したのだろうか。
 他人の妻に手を出すことは、ロンゴバルトでも犯罪なので、それはないだろうと思ったが、まずい貴婦人なのだろうか。

「レイビック伯爵の母上です」

「えっ?」

 伯父と甥で、母娘を気に入ったのか。


 そこでは、ダリアの王が必死になって説明していた。

「未亡人で夫がいなくても、結婚は一夫一妻制ですので」

「ロンゴバルトはそうでないぞ。心配いらん」

「ですから、女伯はダリア人ですから」

「陛下、もういいじゃありませんか。メフメト様は、レイビック伯爵の母上なら大事にするとかおっしゃっているし」

 王妃がとんでもないことを言い出した。

 王は冷や汗をぬぐった。
「レイビック伯に、今後、兵を出してもらえなくなるぞ」

 王妃は黙った。

「それに、あなたのほかに妻ができてしまうが、それでもよろしいか。メフメト殿は御自分の娘御をダリア王家に縁付けたいとおっしゃっておられる」

「王太子殿下に差し上げてもよろしゅうござる。娘はたんと、おるでな」

 メフメトは愛想よく口をはさんだ。

「今でも陛下には愛人がたくさんおられるので、大差なさそうですわ」

 王妃はプイと横を向いた。

 サジシームが割って入った。

「いいですか、伯父上、それでは新たな人質事件の発生です。それはダメです。何しろたった一人の妻とたった一人のお子でしたから」

「そうか。母御だからな。生まれてすぐに父親方に預けて他家へ嫁ぎなおす女もいるが、この場合はそうではないようだな」

「この親子の場合は、人質事件になってしまいます。ダリアの貴族は妻も一人ですし、子どもも、そうたくさんはいません」

「そんなこともないぞ。いま、そこの王妃がそう言っていたではないか」

「愛人はたくさんおりまして、意味合いは一緒かも知れませんが、後を継げないのです。ええ、ややこしい。メフメト様のように、何十人もお子様がおられるわけではないので、濃度が濃いのです(何の説明だ)」

 見たところ、テンセスト女伯は青ざめているだけのようだった。彼女にはロンゴバルト語がわからないし、何かまずいことが起きているようだくらいしか、わかっていないに違いなかった。

 メフメトは、今、別の方法を考えているようだった。よほど気に入ったらしい。

「では、王太子と、このテンセスト女伯を交換……」

 サジシームは、メフメトのそばによって(メフメトが余計なプランを思いつく前に)、ロンゴバルト語で囁いた。

「今晩、レイビック伯爵を宿で殺します。その時、女二人は生かしてロンゴバルトへ連れてまいります」

「なんだと?」

「黙って! 絶対の秘密です。手配は済んでいます。若い方は私に」

「テンセスト女伯は、わしにか?」

 メフメトの顔がほころんだ。

「ですが、絶対に秘密です」

「よし。あいわかった」


 サジシームがダリア王に向かって宣言した。

「大丈夫ですよ。理解していただきました。まあ、テンセスト女伯が、大変魅力的な女性だったと言うだけのお話で。何しろ、ロンゴバルトでは高位の男性から所望されると言うのは名誉なことなものですから」

 サジシームは片目で、レイビック伯爵一家三人を見ないではいられなかった。
 三人とも固まっていた。

「申し訳ない。人質事件の再来のつもりではなくて、ご自分の娘をダリア王家に出したいと言っておられたほどなので、お気に召しただけと思います。あの、お気を悪くなさらないでくださいませ」

「すまぬが、ダリアでは名誉なことではない」

 憮然としたレイビック伯が言った。

 ダリアの王が引き取った。

「ま、まあ、よいではないか。余興じゃ余興。やはり、国が違えば、文化も違う。お申込みいただいたが受けられぬということじゃ。これで理解が深まった。そして、ご納得いただいたのじゃ。物わかりのよいお方でござる」

「しかし、二度とまみえぬのは、はなはだ残念」

 通訳を通じて、メフメトが言い出した。サジシームも、ダリア王も、王妃も、レイビック伯爵一家も緊張した。

「少しばかり、お話してみたいものじゃのう」

 メフメトの目つきが気にはなったが、お話したいだけなら、特に止める理由もないので、通訳を介してテンセスト女伯とメフメトは取り留めもない話を始めた。

 最初、人々は、あきれ返ってこの顛末を見ていたが、とりあえず話は丸く収まり、つたない会話が始まったのを見ると、かなりほっとして、中には帰る仕度を始める者も出始めた。

 もう時間だった。

 頃合いを見て、サジシームが近づいて来た。

「さあ、メフメト様、そろそろ宿舎へ引き上げましょう。テンセスト女伯におかれましてもお疲れでございましょう。失礼をお許しいただきたく存じます」

 最後はダリア語だった。

「今宵はそろそろ引き上げさせていただきましょう。もう、お目にかかることはないと存じますが」

 フィニス女伯がロンゴバルト語で答えたのには、サジシームもメフメトも、通訳をしていたマシムもびっくり仰天した。

「おお、かわいや。なんと美しくいとしい女性であろう。我が後宮にこれほどふさわしい美女はおらぬわ」

 メフメトは思わずそんな言葉をつぶやいたが、サジシームはヒヤッとした。

 メフメトに囁いた、さっきの言葉を聞かれていたとしたら……唯一、最も近くにいたのは、このテンセスト女伯だけだった。

 あんな小声では、絶対に聞こえるはずがない。それに早口のネイティヴのロンゴバルト語なんか、ダリア人の女伯に聞き取れるはずがなかった。

 メフメトは、女伯のロンゴバルト語がよほどうれしかったらしく、思わず、一歩近づいて、その手に触れた。

「二度とまみえることは、ないとな? また、会えることを信じておる……」



 誰かが、会場中に響き渡るような金切り声をあげた。

 帰りかけていた者も、メフメトとテンセスト女伯を見物していた者も、王も王妃も、給仕の女も、声の方を見た。


 声をあげたのはテンセスト女伯だった。

 そして彼女の足元では、ぶよぶよで髭を生やし、お国ぶりの鮮やかな衣装をまとった肉の塊が、容赦なく木の床に頭を打ち付けていた。

 ガチンと言う音をみんなが聞いた。

「メフメト様?!」
「母上?!」

 サジシームとマシム、フリースラントが真っ先に駆け寄った。重いドレスのルシアが続いた。

「メフメト様? メフメト様?」

「どうしたのじゃ、何が起きたのだ」

 人ゴミをかき分けて、ダリア王も来た。

「死んでいる……」

 呆然としてサジシームとマシムは顔を見合わせた。テンセスト女伯は、フリースラントに駆け寄ってそばで震えていた。

「お母さま! 何が起きたと言うの?」

「わからない。わからないわ、ルシア。急に倒れたの」


 大急ぎで、王宮の医者が呼ばれ、メフメトを診察した。

「心臓が間違いなく止まっておりまする。残念ながら、お亡くなりになったとしか……」

「死因は何でござる? ことと次第によっては……」

 マシムが気色ばんだが、医者は首を振った。

「わからない。外傷はございませんし……」

「みんなが見ていた。テンセスト女伯と話していただけだ」

 いくら、メフメトの体を確認してみても、どこにも何の傷もなかった。
 服に穴もなく、食べたものは全員一緒で、誰も具合が悪くなった者はいなかった。

「心臓の発作としか……」

 みんな黙っていたが、しばらくしてサジシームがダリア王に言った。

「こうしていても仕方がござらぬ。とりあえず、引き上げさせていただく。戻って、ロンゴバルトの医者に確認させる。万一、他殺ということになれば……」

「そんなことはありません。私の見立てでは……」

 医者が口をはさんだが、サジシームは青くなったダリア王に言い続けた。

「覚えておいていただこう。これが、ダリアの歓迎か」

 人々は静まり返った。

「テンセスト女伯、どうだったのだ。何があったのだ」

 ダリア王が口早にテンセスト女伯に迫った。

「全然わかりません。突然、崩れるように倒れられたのです」

「そんな女一人がどうにかできる話ではあるまい。ダリア王家の仕業であろう」

 マシムが捨て台詞を吐いた。

「明日、また来る。皆もう帰宅せよ。ここは不吉じゃ」


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