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レイビック伯
第95話 再会
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「フリースラント、フィニス尼は、こちらへ3年ほど前に来られたばかりのお方なのだが、大変徳の高い慈悲の心あふれる尼僧であられる。慈悲の家は元々ベルブルグで困ったことになった女性たちを助けるために設立されたのだが、実は運営がうまくいっていなかった。フィニス尼が来られてからというもの……ん? フリースラント?」
フリースラントは目を大きく見開き、全く副院長の説明を聞いていなかった。
フィニス尼は微笑んでいたが、不意に下を向いた。大粒の涙がぽとぽと落ちた。だが、彼女はフリースラントの方に向き直った。
「母上!」
「フリースラント……」
フリースラントは、母に抱き着いた。
「母上!」
母に抱きしめられると、すべての悩みや間違いや苦しみが全部どこかに溶かされて消えていくような気がした。
「会えた。やっと会えた……」
母はいつでもあたたかい。何度会いたいと思ったことだろう。
「ごめんなさいね、フリースラント。あなたがレイビック伯だということは少し前にわかったのだけれど、すぐに会いに行くことができなくて」
「母上、わかっていたなら、なぜ、すぐ連絡をくれなかったのですか? 会いたかった……」
「わたくしは、慈悲の家で働いていたので、頼ってくる人たちが大勢いたのです。世話をしなくてはならなくて……」
「ああ、母上」
涙があふれてきて、フリースラントはそれ以上何も言えなかった。
横で、副院長があまりのことにうろうろしていることに気付いてはいたが、そんなこと、もうどうでもよかった。
どれくらい時間がたったのかわからなかったが、フリースラントは母を自城へ連れて帰りたいと頑張った。
「母上、ルシアも待っています。ゾフも待っています。城へお越しください」
「今の仕事を片付けたら、あなたの城へ参りましょう」
副修道院長が遠慮がちに声をかけた。
「あのう、レイビック伯、フィニス尼は、あなたの母上だったのか?」
フリースラントはやっと、ここがベルブルグの修道院だったことを思い出した。彼は苦笑いした。まさか、副修道院長の目の前で、感動の再会劇をやってしまうとは思っていなかった。
副修道院長は、猛烈に驚いていた。が、同時に、フィニス尼がこっそり上質の刺繍入りのハンカチで上品に軽く目を押さえている様子を見て、なにか、意味もなく感動してしまっていた。
「副院長様、母を紹介します。ヴォルダ公爵夫人、テンセスト女伯爵です」
母は、はにかんでいるように少しだけ微笑んでいた。
こうしてみると、母は上品で、何とも言えず物柔らかで優しい雰囲気の美しい人だった。
これは副院長でなくても大ファンになるに決まっていた。息子のフリースラントはちょっと得意になった。
「副院長様、フリースラントを紹介してくれてありがとうございます。わたくしは今の仕事を一段落つけたら、息子の元に行きたいと思います」
「もちろん……もちろん、親子の縁はそう簡単に切れるものではない。全く存じませんでした……」
副院長は、フィリス尼の顔を眺め、次にフリースラントの顔を眺めた。二人はちっとも似ていなかった。しかし、その親し気なさまは親子のものだった。
「ええ。副院長もご承知の通り、ロンゴバルトがファン島を占拠しました」
フィニス尼が、副院長もフリースラントもよく知っている静かな口調で言った。
二人とも、何で知っているんだろうと言う顔になった。しかし、テンセスト女伯は穏やかな表情のまま続けた。
「きっと、慈悲の家よりもフリースラントの方がわたくしを必要とすると思うのです。ですから、レイビック伯の城へ移らなくてはなりません」
「はあ……」
「もし、何もかもが片付いたら、そして、その必要があればまた慈悲の家に戻るかもしれませんが、少なくとも当面はレイビック伯のところに居なくてはいけないと存じます」
「そ、それは、もちろん、フィニス尼のご意思を尊重しますが……」
「それと、もうひとつ」
相変わらず優しい口調だったが、ほんの少し厳しい調子が混ざってきていた。
「副院長様にお願いです。私の名前を決して言わないでください」
「名前と言いますと?」
「わたくしのことはフィニス尼とお呼びください。フィニス尼とテンセスト女伯は別人です」
「もちろん、ご希望通りにさせていただきますが……」
「今の情勢下では、ヴォルダ家の人間は危険なのかもしれません。用心をするに越したはないでしょう」
フリースラントは、母を見て、意味を察したようだった。副院長に向かって言った。
「そうです。王家はヴォルダ家に好意的ではない。フィニス尼は、少なくともベルブルグでは有名です。尼僧に悪意は持たないでしょう。でも、テンセスト女伯には、悪意を抱く可能性がある。黙っておいていただけると助かります」
副院長は、黙ってコクコクと頷いた。こんなことを言われるとは予想していなかったのだ。
「副院長さま、母はあなたとなら連絡が簡単です。教会繋がりで。母から連絡が来れば、私はすぐに母を迎えに行きます」
母に再会して、涙をあふれさせているフリースラントは、まだ、子供のように見えた。
そして息子を抱きしめるフィニス尼も、どこにでもいそうな母に見えた。
だが、親子の話の中身は再会を喜び合っているだけのものではなかった。副院長は奇妙な気がした。
彼らの話は国の話だった。今までと種類の違う事態が動き始めていることを感じているのだ。
そして、彼の母の言う通り、大きく世の中が動き始めている。
5年前初めて会った、どこかまだあやふやな部分を残していた少年は、今、立派な一人前の大人になっていた。
彼の一挙手一投足が、貴族たちから、王室から、強い関心を持たれている。
いつの間にか、彼は主要プレイヤーに選ばれていたのだ。当たり前のように。
そして戦うことになる……副院長は思った。
副院長はフィニス尼に好意を持っていた。
あの微笑み、穏やかで優しい物腰……。だが、それだけではなかった。彼女もまた、フリースラント同様、只者ではなかった。
あんなにいい加減で、だめだった慈悲の家が、彼女が赴任して以来、有能で懸命に働く組織に生まれ変わった。
そして……ここが、副院長にも良く分からなかったが、何人ものベルブルグの裕福な老女たちが、我も我もと全財産を寄付して慈悲の家への入居を希望してきたのだ。
『意味がさっぱり分からない。もとはと言えば、貧乏人用の施設。今まで知らなかったが、フィニス尼は由緒ある貴族の出身で、新しく尼僧院に入ってきた老女たちと比べても決して見劣りのしない方だったのか。だが、今でもそのことは秘密にしているようだから、それが理由で慈悲の家が大人気になった訳ではないだろう?』
今や慈悲の家は、大金持ちだった。
副院長は、商売柄、女性とご縁は尼僧以外全くなかったが、尼僧たちは商売の話になると、副院長に任せきりになるのが常だった。そのせいで、契約だのなんだのと言う話は女性には無理だと副院長は素で信じていた。ところが、数年前に初めて会ったフィニス尼には、副院長の出番なんかまったくなかった。それどころではない。新しい仕入れ先や、新しい顧客がどんどんやってきて、ベルブルグの修道院が負けそうになる勢いだった。
会って話せば、控えめで、どちらかと言うと引っ込み思案に見えるフィニス尼の決定は大胆で気が遠くなるようなものが多かった。
「親子だ」
フリースラントとよく似ていた。そして、どうにか成功してしまうところも。
そして、今、彼女は副院長すらがやっと知ったばかりのファン島の譲渡をすでに知っていて、さらにその意味も明確に理解していた。見た目と全く合わないフィニス尼の強靭な能力に、副院長はようやく気が付いたばかりだった。
フリースラントは目を大きく見開き、全く副院長の説明を聞いていなかった。
フィニス尼は微笑んでいたが、不意に下を向いた。大粒の涙がぽとぽと落ちた。だが、彼女はフリースラントの方に向き直った。
「母上!」
「フリースラント……」
フリースラントは、母に抱き着いた。
「母上!」
母に抱きしめられると、すべての悩みや間違いや苦しみが全部どこかに溶かされて消えていくような気がした。
「会えた。やっと会えた……」
母はいつでもあたたかい。何度会いたいと思ったことだろう。
「ごめんなさいね、フリースラント。あなたがレイビック伯だということは少し前にわかったのだけれど、すぐに会いに行くことができなくて」
「母上、わかっていたなら、なぜ、すぐ連絡をくれなかったのですか? 会いたかった……」
「わたくしは、慈悲の家で働いていたので、頼ってくる人たちが大勢いたのです。世話をしなくてはならなくて……」
「ああ、母上」
涙があふれてきて、フリースラントはそれ以上何も言えなかった。
横で、副院長があまりのことにうろうろしていることに気付いてはいたが、そんなこと、もうどうでもよかった。
どれくらい時間がたったのかわからなかったが、フリースラントは母を自城へ連れて帰りたいと頑張った。
「母上、ルシアも待っています。ゾフも待っています。城へお越しください」
「今の仕事を片付けたら、あなたの城へ参りましょう」
副修道院長が遠慮がちに声をかけた。
「あのう、レイビック伯、フィニス尼は、あなたの母上だったのか?」
フリースラントはやっと、ここがベルブルグの修道院だったことを思い出した。彼は苦笑いした。まさか、副修道院長の目の前で、感動の再会劇をやってしまうとは思っていなかった。
副修道院長は、猛烈に驚いていた。が、同時に、フィニス尼がこっそり上質の刺繍入りのハンカチで上品に軽く目を押さえている様子を見て、なにか、意味もなく感動してしまっていた。
「副院長様、母を紹介します。ヴォルダ公爵夫人、テンセスト女伯爵です」
母は、はにかんでいるように少しだけ微笑んでいた。
こうしてみると、母は上品で、何とも言えず物柔らかで優しい雰囲気の美しい人だった。
これは副院長でなくても大ファンになるに決まっていた。息子のフリースラントはちょっと得意になった。
「副院長様、フリースラントを紹介してくれてありがとうございます。わたくしは今の仕事を一段落つけたら、息子の元に行きたいと思います」
「もちろん……もちろん、親子の縁はそう簡単に切れるものではない。全く存じませんでした……」
副院長は、フィリス尼の顔を眺め、次にフリースラントの顔を眺めた。二人はちっとも似ていなかった。しかし、その親し気なさまは親子のものだった。
「ええ。副院長もご承知の通り、ロンゴバルトがファン島を占拠しました」
フィニス尼が、副院長もフリースラントもよく知っている静かな口調で言った。
二人とも、何で知っているんだろうと言う顔になった。しかし、テンセスト女伯は穏やかな表情のまま続けた。
「きっと、慈悲の家よりもフリースラントの方がわたくしを必要とすると思うのです。ですから、レイビック伯の城へ移らなくてはなりません」
「はあ……」
「もし、何もかもが片付いたら、そして、その必要があればまた慈悲の家に戻るかもしれませんが、少なくとも当面はレイビック伯のところに居なくてはいけないと存じます」
「そ、それは、もちろん、フィニス尼のご意思を尊重しますが……」
「それと、もうひとつ」
相変わらず優しい口調だったが、ほんの少し厳しい調子が混ざってきていた。
「副院長様にお願いです。私の名前を決して言わないでください」
「名前と言いますと?」
「わたくしのことはフィニス尼とお呼びください。フィニス尼とテンセスト女伯は別人です」
「もちろん、ご希望通りにさせていただきますが……」
「今の情勢下では、ヴォルダ家の人間は危険なのかもしれません。用心をするに越したはないでしょう」
フリースラントは、母を見て、意味を察したようだった。副院長に向かって言った。
「そうです。王家はヴォルダ家に好意的ではない。フィニス尼は、少なくともベルブルグでは有名です。尼僧に悪意は持たないでしょう。でも、テンセスト女伯には、悪意を抱く可能性がある。黙っておいていただけると助かります」
副院長は、黙ってコクコクと頷いた。こんなことを言われるとは予想していなかったのだ。
「副院長さま、母はあなたとなら連絡が簡単です。教会繋がりで。母から連絡が来れば、私はすぐに母を迎えに行きます」
母に再会して、涙をあふれさせているフリースラントは、まだ、子供のように見えた。
そして息子を抱きしめるフィニス尼も、どこにでもいそうな母に見えた。
だが、親子の話の中身は再会を喜び合っているだけのものではなかった。副院長は奇妙な気がした。
彼らの話は国の話だった。今までと種類の違う事態が動き始めていることを感じているのだ。
そして、彼の母の言う通り、大きく世の中が動き始めている。
5年前初めて会った、どこかまだあやふやな部分を残していた少年は、今、立派な一人前の大人になっていた。
彼の一挙手一投足が、貴族たちから、王室から、強い関心を持たれている。
いつの間にか、彼は主要プレイヤーに選ばれていたのだ。当たり前のように。
そして戦うことになる……副院長は思った。
副院長はフィニス尼に好意を持っていた。
あの微笑み、穏やかで優しい物腰……。だが、それだけではなかった。彼女もまた、フリースラント同様、只者ではなかった。
あんなにいい加減で、だめだった慈悲の家が、彼女が赴任して以来、有能で懸命に働く組織に生まれ変わった。
そして……ここが、副院長にも良く分からなかったが、何人ものベルブルグの裕福な老女たちが、我も我もと全財産を寄付して慈悲の家への入居を希望してきたのだ。
『意味がさっぱり分からない。もとはと言えば、貧乏人用の施設。今まで知らなかったが、フィニス尼は由緒ある貴族の出身で、新しく尼僧院に入ってきた老女たちと比べても決して見劣りのしない方だったのか。だが、今でもそのことは秘密にしているようだから、それが理由で慈悲の家が大人気になった訳ではないだろう?』
今や慈悲の家は、大金持ちだった。
副院長は、商売柄、女性とご縁は尼僧以外全くなかったが、尼僧たちは商売の話になると、副院長に任せきりになるのが常だった。そのせいで、契約だのなんだのと言う話は女性には無理だと副院長は素で信じていた。ところが、数年前に初めて会ったフィニス尼には、副院長の出番なんかまったくなかった。それどころではない。新しい仕入れ先や、新しい顧客がどんどんやってきて、ベルブルグの修道院が負けそうになる勢いだった。
会って話せば、控えめで、どちらかと言うと引っ込み思案に見えるフィニス尼の決定は大胆で気が遠くなるようなものが多かった。
「親子だ」
フリースラントとよく似ていた。そして、どうにか成功してしまうところも。
そして、今、彼女は副院長すらがやっと知ったばかりのファン島の譲渡をすでに知っていて、さらにその意味も明確に理解していた。見た目と全く合わないフィニス尼の強靭な能力に、副院長はようやく気が付いたばかりだった。
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