アネンサードの人々

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レイビック伯

第83話 ファン島を譲渡してしまう

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 これまで、そんな高額でインゴットが売れたためしがなかった。一本当たり五十万フローリンと言ったものの、確かに高い時は五十八万フローリンで売れたこともあったが、四十五万フローリンしかならなかったこともあった。

 チャンスだわ……と彼女は思った。

 どんなに少なく見積もっても、1本あたり二万フローリンは得をする! 十五万フローリンの差額が出ることだってある!

「ええと、でも、インゴットの在庫が今もう九本しかなくて……」

 サジシームは目に見えて残念そうな顔になった。

「それでは、全く足りません。半額以下でございます」

「ええと、それでは、残りのインゴットがレイビック伯爵から届いたら、必ずロンゴバルトに……」

 サジシームは首を振った。

「わたくしは明日の朝、戻らねばなりません」

「また、ぜひお越しになってくださいませ、その時には、きっとインゴットが手元にあると思いますわ……」

「それより、王妃様、わたくしの夢をかなえていただけないでしょうか?」

「あなたの夢?」

「そう、この国への憧れでございます」

 サジシームは王妃の手を取った。

「ぜひとも、お願いしたいことがあるのでございます」

「ま、まあ、どのようなことでしょう?」

「この国とロンゴバルトを隔てる青い海、そのちょうど間に小さな島があり、そこにはコテージと小さな港がついているのです。ご存知でしたか?」

「全然知りませんでしたわ」

「暖かな地方なので、コテージには広いテラスが付いていて、はるかに海とこの国を見渡せます。今は王室の所有になっていると聞きます。その島をわたくしにくださいませんか?」

「島?ですか?」

「そう。ファン島と言います。楽しい島と言う意味だそうです。小さな港からボートで釣りに出かけることもできます。コテージには小さな寝室がいくつかと海を見渡せるサロンがあるそうです。いつか王妃様のお越しをお待ちしたい」

 島とコテージの値段なんかわからなかったが、六百万フローリンもするとは思えなかった。サジシームの言う法外な高値でインゴット九本が売れたとしても、六~七百万フローリンは借金が残ってしまう。

「それで、借金は全額返したことにしていただけるのかしら?」

 サジシームは、ほんのり微笑んだ。

「もうひとつ」

 彼は王妃の両手を取った。

 王妃は指輪をしていた。

「このいずれかをわたくしに」

 王妃は真っ赤になった。

「これは、あの、値打ちものではありません」

「値段に意味はありません。王妃様のものをおひとついただきたいのです、わたくしに」

 王妃はかすかにうなずいた。

「どの指輪を一番よく身につけられておられますか?」

「こ、これかしら?」

 彼は、王妃の指から指輪をひとつ抜き取りにかかった。

 王妃はあいにくかなり太っていたので、ロマンチックな作業のはずだったが、実は大ごとだった。

 ようやく一つ抜き取って(サジシームは大汗をかいていた)、彼は大事そうにしまい込んだ。

「王妃様の直筆を持って帰りとうございます。どうか、私に、コテージと港のついたファン島を下賜するとお書きくださいませ。それを思い出に、ロンゴバルトに帰ります」

 王妃は真っ赤になって、何回も間違えながら証文を書いた。

「では、借金はこれで全部おしまいというわけね?」

 彼女は苦労して書いた証文を、サジシームに渡して尋ねた。

「とんでもありません」

 サジシームは真顔で否定して、とてもやさしい口調で付け加えた。

「これで、王妃様の分は全部頂戴いたしました。でも、国王陛下の分は残ってございます」

「まさか、国王陛下の指輪が欲しいわけではないでしょうね」

 サジシームは本気で面白そうに笑ったが、答えた。

「借金が残っていないと、わたくしは王妃様に会えません。この国に来る理由がなくなります」

 それから、証文をじっくり確認した後、彼は微笑んで王妃の顔を見た。

「指輪の件はご内密に。それから楽しみの島の件も。島の名前が悪うございます。まるで何かあったようで……」


 王がペッシにせっつかれて、部屋に入ってきた時には、怪しい雰囲気は微塵もなくて、王妃が従僕にインゴット九本を運び込ませているところだった。

「妃となんの話をしておったのかね?」

 ペッシに焚きつけられた王は、息を切らし気味に入って来るなり尋ねた。

「国王陛下におかれましては、三百万フローリンをご用立て致しておりまして……」

 おもねるような調子でサジシームは切り出した。途端に王は渋い顔になった。こんなことなら来なければよかった。

「サジシーム殿は、インゴットなら高値で算定する、借金を棒引きにすると言ったのよ」

「王妃様、棒引きにするとは申しておりません。今回は、とりあえず、インゴット9本で九百万フローリン分のご返済ということにさせていただきます」

 王とペッシは、驚いて顔を見合わせた。それだと、インゴット一本あたりほぼ倍の見積もりになる。その分借金は半額になるわけだ。ロンゴバルトの商人は決してまけないので有名なのに!

「インゴットでのご返済をお約束していただきました。インゴットが届き次第、また、参上させていただきます」

 有利な取引に口をさしはさむことは遠慮することにして、二人はサジシームがインゴットを包み込む様子を黙って見守った。さすがに重いので、サジシームの従僕も手伝いにやってきていた。

「そうそう、国王陛下並びに王妃様」

 サジシームは最後に話しかけた。

「わたくし、先ごろレイビックに行ってまいりましたが、そこで妙な噂を耳にいたしました」

 三人は、サジシームのいかにも耳寄りな話を知らせると言った素振りに、好奇心を誘われ、サジシームの浅黒い顔を見つめた。

「レイビック伯爵は、絶対に結婚できないと言う噂でございます」

 三人は、ハッとしたようにサジシームの顔に注目した。サジシームは顔には出さなかったが、心の中でニヤリとした。これで、あの二人は結婚できなくなる。

「この国の事情に疎いわたくしには、良く分かりませんでしたが、ルシア様とレイビック伯爵はご兄妹だということで‥‥」

「兄妹?!」

「神の許可が得られない。それで結婚できないのだと言われておりました」

 彼は、あっけに取られている三人を残して、丁重に礼をすると部屋を出て行った。




「走れ!」

 馬車に乗り、王宮を離れると、サジシームは従僕に叫んだ。

「うまくいったぞ! すぐにこの国を離れるんだ!」

 次の宿場で、ウマと馬車を変えると、彼は目立たない格好に着替え、街道をひた走った。

 ファン島は、交戦上の要所であった。

 喫水の深い、入江に囲まれた天然の良港を備え、砲台があった。十五年前の激戦地だったが、おそらく名前はあまり知られていない。サジシームの父が殺された、ファン島を渡った先の港町ヌーヴィーが有名だった。鋼鉄の騎士の活躍はロンゴバルトでも有名だった。それにしても、王妃は戦争の歴史を知らなさ過ぎた。

「テラスのついたコテージもあるにはあるが……」

 証文を取り出して、彼は大笑いした。

「いや、本当にいずれ王妃をあの島に迎えたいものだ。死体になっているかもしれないが」

 指輪を取られた意味も彼女は徐々に気が付くだろう。できるだけ多く人目に触れてきた指輪を選んだのだ。それがどれなのか、本人に聞いたのだ。

 指輪を与えるなど! これも彼女の弱みにつながるだろう。あたかも、何かあったかのようだ。事態が不利になれば、サジシームは王妃の指輪を見せて歩くことができる。指輪をネタに脅す日が来るかもしれない。

 まだ、時期は早かった。

 まだ、ファン島に乗り込むことはできない。

 しかし、いつかこの証文が生きる日が来るだろう。証文一枚で島が手に入るとは、彼も考えていなかったが、少なくとも口実にはなるはずだった。

 ロンゴバルトでは、金は採れない。金は珍重されていた。

 インゴット一本六十万フローリンどころではなかった。百万の値が付くことさえあった。

 つまり、彼は全くと言っていいほど、この取引では損をしていなかったのだ。

「行くぞ!マシム」

 彼は忠実な家来のマシムに声をかけた。笑いがあふれてきた。




 王都王妃とペッシの三人は、顔を見合わせていた。

 頼みの綱のインゴットが、今はもう一本も残っていないのは、なんとなく心細かった。

 とは言え、今回のサジシームの申し出は、非常に有利な取引だったので、断るなどと言うことは論外だった。
 インゴットを渡せば渡すほど、借金額が有利に減るのである。出来るだけ多く渡すのは当然だった。
 それに、いったんロンゴバルトに帰ってしまえば、またこの国にやって来るなどと言うことは考えにくかったので(少なくとも王とペッシは)、この借金は返済し終わったものとみなしていた。

 しかし、こうなると、レイビック伯爵が約束した残りの四十本のインゴットが、がぜん欲しくなってきた。それがないと、王太子の結婚式もあげられそうにない。

「さっき、サジシームがおかしなことを言っていたわ。二人は兄妹だって」

 王は黙っていた。彼にもさっぱり意味が分からなかった。

「ルシアには、年長の母親違いの兄姉ならいますわ。でも、レイビック伯爵は、デブの中年の成金のはずよ」

「それはどうでもいい。デブでも、中年でも、ルシアには早く式を挙げて欲しいものだよ」

 王はイライラして言った。

 彼らは、以前にもらった手紙をもう一度読んでみた。

『わたくしの母でもあるアデリア王女が真実を話していただければ、結婚式を挙げられます』

 二人とも、何回読んでも意味が分からなかった。

「これはもう、アデリア王女に見せた方がいいのではないかな?」
 王が言い出した。



 アデリア王女とかかわりあいになるのが嫌で、結局、ウェルケウェ伯爵が交渉人に呼び出された。

 ウェルケウェ伯爵は、何代か前の王の庶子の家系で王家に近かったが、これと言って影響力のない家系の出だった。

 政治的には無色で、ハンサムと言うのではないが、なんとなく紳士的然とした見た目が好まれ、王太子の養育係となっていた。

 事なかれ主義の人物だったが、王太子の養育係はもしかして王太子が実権を握った暁には、陰の独裁者として力を振るい得るかもしれなかった。

 王太子は言葉が遅く、優柔不断で、妙なことにこだわる癖があり、たまに訳の分からないことで怒りだす厄介な人物だったが、実務向きではない王太子の資質は、摂政を意味するかもしれず、そんなわけで伯爵は王太子の世話役に甘んじていた。

 根が無精で、容易なことでは動かない伯爵が、王太子の結婚についての重要な用件ということで駆け付けてみると、王と王妃とペッシの三人は、アデリア王女を呼び出していて、説得の方法について議論していた。

「アデリア王女の説得には、私は関係ありませんし、お役に立ちませんので」
 と伯爵は逃亡を図ったが、王妃が甲高い声で説明を始めた。

「いいこと? まず、王太子の結婚の費用のために、インゴット四十本を早く手に入れないといけないのです。そのためには、レイビック伯爵に早く結婚してもらわないといけないのです。彼らが結婚するためには、アデリア王女が真実を話してくれないといけないのです。ですから、まず、アデリア王女に真実を話してくれるよう説得しなくては」

 ウェルケウェ伯爵には、何がなんだかさっぱりわからなかった。

「真実とは何のことでしょう?」

 実はウェルケウェ伯爵を呼び出した三人にも、その真実とやらはわかっていなかった。

「何のことかしら? 実はそれを伯爵に聞きだしていただきたくて……あら、アデリア王女が来たわ」

 それがウェルケウェ伯爵の悲劇の始まりだった。


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