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第53話 3度目の婚約破棄
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その頃、フィオナは、マルゴットと一緒にクリスチンの快適なアパルトマンで、やっと、一息ついていた。
そこは誰も知らない秘密の隠れ家だった。
クリスチンのドレスや小物が至る所に残っていたが、アレキサンドラがいないだけでずっと自由だった。
伯爵家の図書室で小さくなっていた時のことを思うとまるで天国だ。
「好きなようにしていいわ。マークが彼の今の家を改築するか、新しく邸宅を買うか考えているの。どっちにしても、この家はいらなくなるし」
クリスチンは実家に戻って、これまで小言を言われていたのが嘘のように大歓迎されていた。両親も使用人たちもクリスチンの婚約にすっかり浮きたち、彼女をチヤホヤしていた。
クリスチンの未来の夫は、フィオナの遺産なんか問題にならないくらいの大金持ちだった。これ以上、望めないくらいの良縁だったのだ。
そしてマークは宝石などのプレゼントのほかに、二人で住むためのすばらしい邸宅を準備したがっているという触れ込みだった。
クリスチンが借りていた小さなアパルトマンは、マークにとっては邪魔だった。クリスチンを独占したい彼は、クリスチンが自由に振る舞える空間なんか全部無くしてしまいたい派だった。
「そこを占拠しておいて」
マークはセシルに頼んだ。
「クリスチンがあのアパルトマンに、変な男友達を呼び込んだりしたら、俺はたまらん」
昨日の出来ごとは悪夢のようだった。
フィオナは、すっかり落ち着いて、新しく雇った女中にお茶を入れさせ、マルゴットに向かって言った。
「よくパーシヴァル家の本邸に、あんなに速く来てくれたわね。私がどこに連れ去られたか、絶対にわからないと思ったのに。ジャックと来たら、途中で道を変えるのですもの。パーシヴァル家出入りの馬車屋だったのが裏目に出たわ。ジャックの言うことなら、何でも聞くのよ!」
「そこまで想像していませんでしたが、私も辻馬車を待機させておりましたもので」
マルゴットはこともなげに言った。
「は? 馬車を? どこに?」
「ダーリントン伯爵家の前に、でございますよ、お嬢様。これはお引越しでございます」
フィオナは目を丸くした。
「この日があることを予想して、仕立ての補正と偽って、かさばるドレスはいったん仕立て屋に全部預けました。アレクサンドラ様に取られてはなりません」
「そこまではしないと思うけど……それにアレクサンドラに私のドレスは入らないわ?」
マルゴットはフィオナの見解を無視して、話を続けた。
「今度、いつ、伯爵邸に入れるかわかりませんので、荷物を持ち出すために馬車を呼んでありました。こまごました下着やアクセサリー、靴なんかは持って出ないといけません」
フィオナはあっけにとられた。
さすがはマルゴットだ。
だが、マルゴットは、しかめ面をした。
「大変だったのでございますよ? 御者を鞭打って……ではない、ウマを鞭打って全速力で追いかけました。なにしろ、ジャック様が無理やり乗り込んだのが見えましたからね」
同じ頃、アンドルーは仕方なく恐る恐るジャックに向かって、婚約の白紙撤回を求める手紙を書いていた。
会って話をする度胸がなかったのである。
そしてジャックは自室で頭を抱えていた。
ダーリントン家で聞いたアンドルーの結婚のススメなんか、どうでもよかった。
彼の頭に残っていたのは、フィオナを拉致したあの日、伯爵邸に響いていたフィオナの声だった。
「セシルが好き。セシルと結婚します」
手に入らない。多分、フィオナは本当にセシルが好きなのだろう。
高い爵位の政界に入った冷たい感じの男は、とっつきが悪くて、優しいとは思えなかった。
それなのに……
そして、自邸にさらってきたフィオナは、抱きしめると軽く柔らかく温かかった。手の中で溶けるようだった。
その感触を思い出すと気が狂いそうになる。
どうして俺じゃなのだと、ジャックは天の不条理に泣いた。
「それで? 拉致されてパーシヴァル家に連れ込まれたと。そしてキスされたの?」
翌日、忙しい合間を縫ってやってきたセシルは怖い顔をした。
仕方なくてフィオナはうなずいた。
「他は? それだけ?」
フィオナは小首をかしげた。どうして、ほかを心配するのかしら。ジャックもそれだけ?と聞いていたけど、何を心配しているのかしら。他って何かちゃんと言ってくれないとわからないわ。
あ、もしかすると……あのことかしら?
「なに? なにかあったの?」
セシルの勢いにフィオナは縮み上がって、それからうなだれた。
「ジャックが……」
ずいっとセシルは身を乗り出し、怖い顔になった。
「セシルの住む世界は、大変だって。自分と暮らした方が、気楽だ、そして……」
一瞬、セシルは妙な顔をした。
「そういう話をしてたわけ? 話だけ?」
言っていいかどうかわからなかったが、うなずき、うつむいたままフィオナは言った。
「セシルはとても、モテるって。きっと、仕事上でも、他の女性とどうしても……それでもいいのかって」
セシルが黙っているので、フィオナはおそるおそる彼の顔を盗み見た。
完全に怒っている。表情の乏しいセシルから、感情を読み取ることにもう慣れていたが、これは怒っている。
「ごめんなさい…?」
フィオナはよくわからなかったが、一応謝ってみた。
「フィオナ、あんな嫉妬に狂ったヤツの言うことを信じるのか? ああゆう金持ちの有閑階級は、そんなことばかりやってるんだ。他人の妻に興味があるんだ。バカバカしい。俺は忙しい。そんな馬鹿な真似はやってられない」
そこまで一気に言ってから、セシルは最初の質問を繰り返した。
「部屋に連れ込まれて、そのあとは? なにかされた?」
「キスされました」
真っ赤になってうなだれるフィオナをじっと見て、セシルもジャックと同じく、質問は取り下げにした。
キスひとつで大騒ぎして真っ赤になっているくらいだ。
セシルは客間のソファにどっかりと腰を下ろした。
「危険すぎる。このアパルトマンに住みたいくらいだ」
「それはダメでございます」
氷のようなマルゴットの声がした。
「表向き、クリスチン様とご一緒に住んでいることになっております。だからどうにか体面が保てているだけのことで。本来はフィオナ様は伯爵邸にいないといけないのでございます」
セシルはマルゴットの言葉に沈黙した。
しかし、その三日後、珍しく仕事が早かったアンドルーがついに婚約白紙撤回の件をジャックに手紙で知らせた。ジャックから返事はこれと言ってなかったが、クリスチンによるとジャックは「井戸の底に住んでいるように」陰気臭く暮らしているそうで、一応、了承したのだろう。
フィオナ3度目の婚約解消である。
そして、正式にグレンフェル侯爵との婚約が決まった。
そこは誰も知らない秘密の隠れ家だった。
クリスチンのドレスや小物が至る所に残っていたが、アレキサンドラがいないだけでずっと自由だった。
伯爵家の図書室で小さくなっていた時のことを思うとまるで天国だ。
「好きなようにしていいわ。マークが彼の今の家を改築するか、新しく邸宅を買うか考えているの。どっちにしても、この家はいらなくなるし」
クリスチンは実家に戻って、これまで小言を言われていたのが嘘のように大歓迎されていた。両親も使用人たちもクリスチンの婚約にすっかり浮きたち、彼女をチヤホヤしていた。
クリスチンの未来の夫は、フィオナの遺産なんか問題にならないくらいの大金持ちだった。これ以上、望めないくらいの良縁だったのだ。
そしてマークは宝石などのプレゼントのほかに、二人で住むためのすばらしい邸宅を準備したがっているという触れ込みだった。
クリスチンが借りていた小さなアパルトマンは、マークにとっては邪魔だった。クリスチンを独占したい彼は、クリスチンが自由に振る舞える空間なんか全部無くしてしまいたい派だった。
「そこを占拠しておいて」
マークはセシルに頼んだ。
「クリスチンがあのアパルトマンに、変な男友達を呼び込んだりしたら、俺はたまらん」
昨日の出来ごとは悪夢のようだった。
フィオナは、すっかり落ち着いて、新しく雇った女中にお茶を入れさせ、マルゴットに向かって言った。
「よくパーシヴァル家の本邸に、あんなに速く来てくれたわね。私がどこに連れ去られたか、絶対にわからないと思ったのに。ジャックと来たら、途中で道を変えるのですもの。パーシヴァル家出入りの馬車屋だったのが裏目に出たわ。ジャックの言うことなら、何でも聞くのよ!」
「そこまで想像していませんでしたが、私も辻馬車を待機させておりましたもので」
マルゴットはこともなげに言った。
「は? 馬車を? どこに?」
「ダーリントン伯爵家の前に、でございますよ、お嬢様。これはお引越しでございます」
フィオナは目を丸くした。
「この日があることを予想して、仕立ての補正と偽って、かさばるドレスはいったん仕立て屋に全部預けました。アレクサンドラ様に取られてはなりません」
「そこまではしないと思うけど……それにアレクサンドラに私のドレスは入らないわ?」
マルゴットはフィオナの見解を無視して、話を続けた。
「今度、いつ、伯爵邸に入れるかわかりませんので、荷物を持ち出すために馬車を呼んでありました。こまごました下着やアクセサリー、靴なんかは持って出ないといけません」
フィオナはあっけにとられた。
さすがはマルゴットだ。
だが、マルゴットは、しかめ面をした。
「大変だったのでございますよ? 御者を鞭打って……ではない、ウマを鞭打って全速力で追いかけました。なにしろ、ジャック様が無理やり乗り込んだのが見えましたからね」
同じ頃、アンドルーは仕方なく恐る恐るジャックに向かって、婚約の白紙撤回を求める手紙を書いていた。
会って話をする度胸がなかったのである。
そしてジャックは自室で頭を抱えていた。
ダーリントン家で聞いたアンドルーの結婚のススメなんか、どうでもよかった。
彼の頭に残っていたのは、フィオナを拉致したあの日、伯爵邸に響いていたフィオナの声だった。
「セシルが好き。セシルと結婚します」
手に入らない。多分、フィオナは本当にセシルが好きなのだろう。
高い爵位の政界に入った冷たい感じの男は、とっつきが悪くて、優しいとは思えなかった。
それなのに……
そして、自邸にさらってきたフィオナは、抱きしめると軽く柔らかく温かかった。手の中で溶けるようだった。
その感触を思い出すと気が狂いそうになる。
どうして俺じゃなのだと、ジャックは天の不条理に泣いた。
「それで? 拉致されてパーシヴァル家に連れ込まれたと。そしてキスされたの?」
翌日、忙しい合間を縫ってやってきたセシルは怖い顔をした。
仕方なくてフィオナはうなずいた。
「他は? それだけ?」
フィオナは小首をかしげた。どうして、ほかを心配するのかしら。ジャックもそれだけ?と聞いていたけど、何を心配しているのかしら。他って何かちゃんと言ってくれないとわからないわ。
あ、もしかすると……あのことかしら?
「なに? なにかあったの?」
セシルの勢いにフィオナは縮み上がって、それからうなだれた。
「ジャックが……」
ずいっとセシルは身を乗り出し、怖い顔になった。
「セシルの住む世界は、大変だって。自分と暮らした方が、気楽だ、そして……」
一瞬、セシルは妙な顔をした。
「そういう話をしてたわけ? 話だけ?」
言っていいかどうかわからなかったが、うなずき、うつむいたままフィオナは言った。
「セシルはとても、モテるって。きっと、仕事上でも、他の女性とどうしても……それでもいいのかって」
セシルが黙っているので、フィオナはおそるおそる彼の顔を盗み見た。
完全に怒っている。表情の乏しいセシルから、感情を読み取ることにもう慣れていたが、これは怒っている。
「ごめんなさい…?」
フィオナはよくわからなかったが、一応謝ってみた。
「フィオナ、あんな嫉妬に狂ったヤツの言うことを信じるのか? ああゆう金持ちの有閑階級は、そんなことばかりやってるんだ。他人の妻に興味があるんだ。バカバカしい。俺は忙しい。そんな馬鹿な真似はやってられない」
そこまで一気に言ってから、セシルは最初の質問を繰り返した。
「部屋に連れ込まれて、そのあとは? なにかされた?」
「キスされました」
真っ赤になってうなだれるフィオナをじっと見て、セシルもジャックと同じく、質問は取り下げにした。
キスひとつで大騒ぎして真っ赤になっているくらいだ。
セシルは客間のソファにどっかりと腰を下ろした。
「危険すぎる。このアパルトマンに住みたいくらいだ」
「それはダメでございます」
氷のようなマルゴットの声がした。
「表向き、クリスチン様とご一緒に住んでいることになっております。だからどうにか体面が保てているだけのことで。本来はフィオナ様は伯爵邸にいないといけないのでございます」
セシルはマルゴットの言葉に沈黙した。
しかし、その三日後、珍しく仕事が早かったアンドルーがついに婚約白紙撤回の件をジャックに手紙で知らせた。ジャックから返事はこれと言ってなかったが、クリスチンによるとジャックは「井戸の底に住んでいるように」陰気臭く暮らしているそうで、一応、了承したのだろう。
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