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彷徨う舟と黒の使い
目が覚めたら(2)
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◇
はっ、と息苦しさに覚醒したアンシュルは、見慣れた天井を視界に止め、溜め息をついた。
夢で今更ここにいる理由を思い知らされるのは、久方ぶりだ。
大丈夫だ。訓練は順調だし、部隊員にも一目置かれている。あの時と同じようなヘマはしない。
それでももう眠れそうにもないと思い、仕方なく起き上がる。訓練生専用の服を着込み、初夏の匂いがする窓の外に目を移す。
夢の緊張で少し寝汗をかいたので熱気を逃がすように窓を開けた。そして違和感に息を潜める。一瞬蝙蝠の鳴き声かと思ったが、微かに悲鳴のような細い声が耳に入った。
何かいるのか。
暗闇の中、目を凝らすが駐屯地の中庭は風に揺れる木の葉が見えるだけだ。すぐにそのまま、部屋を出ることにした。
一般の学業を修了させたアンシュルは、迷わず父に討伐隊に入る節を伝えた。イーリスを失い初めて討伐隊を目指すというアンシュルの言葉に、彼は凍えるような瞳でじっと我が子を見つめ、長い沈黙の後頷いた。年齢的にも訓練生として遅れている方だ。早い者は十六で討伐部隊訓練生として駐屯地の宿舎に入るが、王族の彼らは先のこともありそれが許される空気ではなかった。
それでもアンシュルの思いはあの頃から一つだけだった。
──守れないなら、倒しにいく。
部屋を出て、虫の声がざわめく夜の駐屯地を巡回するように歩く。
眠れない夜の駐屯地を歩くのは、一度ではない。宿舎の向こうには夜勤の為に起きている隊員たちが本舎にいるし、明かりだって漏れている。
夜は、あの化け物の時間だ。静まりかえった世界でひっそりと息づき、あてもなく走り回り、獲物を捕らえていく。頑丈な塀も壁も無意味だ。彼等は神出鬼没で気が付けばそこにいるから。
剣を──。
微かに響く鳴き声のような音に、アンシュルは訓練用の剣を持っていないことに今頃気付いた。武器を持たずに真我に勝てるとは思わない。小型ならまだしも、中型以上となれば、絶対に無理だ。
引き返すか、そう思い視線を巡らせたときだ。
鳴き声がやみ、囁くような声が風に乗って届いてくる。
──いいよ、先戻って。なんだよ、もう触るなって。
かすれているが、それは間違いなく男の声だった。ぼそぼそと聞こえる他の声も、どうやら同じだ。
すぐにそれが何を意味するのか理解して、ほっと息をつく。杞憂なら、それに超したことはない。
その時、木々の間のから出てきた男がアンシュルを見て驚いたような顔をして立ち止まった。しかし一瞬の間を置いて、男は隠れるように顔を伏せて足早にアンシュルの横を通り抜けた。見られてはいけない場面を見られた、とでもいうような態度だったが、その理由は言わずもがなだろう。
「……ぅあ、びっくり、した」
そうして次に草むらをかき分けて出てきたのは、ここ最近知った顔だ。
線の細い黒髪の、異国人。
「……ナツ」
ナツヤ・サエキって言うんだ。
よろしく。
三月ほど前、訓練生として突如現れた男だった。
「王子か。なんだよ、驚かすなよ」
「……その、王子って言うのやめろ」
彼はアンシュルと目が合うと、事もなげにそう言って、ぱんぱんと自身の肩や腿ををはたく。アンシュルが反射的にそう返すと、汚れを払っていた男がわずかに口元を緩めた。
細い指が額に張り付いた髪をかき上げ、黒い瞳がこちらを見て、そうしてその小さな頭が左に傾ぐ。
「なにしてんの、こんな時間に?」
「……お前こそ」
見ればナツヤは未だに訓練服で、宿舎に戻ったような気配は感じられない。そういえば食堂でも今日は見かけなかったと思い至ったが、いつも見ているわけではないので確信はない。
しかしこの男は不思議と目を惹く存在だった。
異国人の骨格のせいなのかやや小柄で、鍛え上げられた男ばかりがいる駐屯地ではその姿は余計に華奢に映る。肉体だけでなく、その容貌も見慣れない顔立ちで、垂れ目がちの黒目は小動物を思い出させる。しかしその瞳は覇気がなく、所作も常に気怠げだ。黙っていれば未成年に見えるほどなのに、そのせいか成人していることを裏付けているようだった。
王族相手にこんな口調でもいいの? 不敬罪にならない? と以前確認してきた薄く小さな口元は、笑うと綺麗に並んだ歯が見える。
一見すると頼りなく見えるが、その態度やふと黙って何かを考えている姿は、どこか達観したような諦観したような雰囲気を連れていた。だからか、彼の纏う空気が不思議で、真我の授業を受ける時は、自然と隣に座ることが多くなり言葉少なにだが会話を交わす仲だった。
同じ訓練生で自分に物怖じせず接する人間はそう多くない。学校とは違い遊びではないし、いずれは命をかける部隊へ行く者たちだ。そのため出自は様々で、言い換えれば貧困層からの者もいる。彼等はアンシュルを常に遠巻きにして、そしてアンシュルもまた余計な関わりを増やすつもりもなかった。
この中で誰が最後まで生き残るのか。
先を見据えてしまえばそんな未来を覚悟しなければならないのもあった。
「……相談に、乗ってた」
そんな草むらで頬を上気させてか?
アンシュルは僅かに眉を寄せて自分に言い訳をする男をただ見つめた。
だが心中で首を横に振る。どうでもいい。お前がそこで、何をしてようと。
腹の中で思う言葉は口にすることもなく、そうか、と頷く。
「お前は? こんな夜中に訓練服着て、今から剣でも振るの?」
「……いや」
気配がしたから、ここに来た。
それがあの化け物なら倒すつもりで来た。
だが実際は剣も持っていないし、気配の正体はこの男だ。
「今日は、あまり外に出ない方がいい」
不意にナツヤがそう言って、アンシュルの横を通り抜ける。ゆっくりと歩くその姿は、もう話は終わりだとばかりの雰囲気だ。だがアンシュルはナツヤの言葉に疑問を持つ。ずいぶんと妙な言い回しをする。
「何かあったのか?」
「俺が聞きたいよ」
ナツヤ呟きはあまりよく聞き取れず、結局彼は「じゃあな、おやすみ」と足早に去った。
その日は結局強烈な違和感の答えは得られなかったが、その後、騎士団を目指す次弟と偶然駐屯地で出くわした時、アンシュルはその理由を知ることになる。
「彼、所謂見えちゃう人らしいよ。俺の友達が冗談交じりに相談に行ったら、笑いながら『信じてるなら、そういった場所に行ってもふざけない方が身のためだぞ』って」
「……どういう意味だ」
訪ねると、ヴァルはいやあ、と肩をすくめた。
「あいつ、つい最近友人たちととある廃家に肝試し? っていうの? そんなのしにいったんだとさ。あ、もちろん、昼間だって、そう睨むなよ。……まあ別にそこで何か起きたわけじゃないけど、それからとにかく体が重くて、何もやる気が起きない。眠れないし、自分がいなくても世界が回ってるように感じるって、落ち込んでいたんだよ。私生活も順調で変わったことなんてないのに、変だなって。んで、思えばあそこに行った直後からだって気付いてさ。でも、あの人に会ってから変わったって。夜眠れるようになったし、何よりも何に悩んでたのかわからなくなるほど、今までの自分のことが不思議になるくらい身体が軽くなって──」
つまり彼は目には見えぬものが見えて、原因不明の体調不良に悩まされていた男を見てすぐに原因を突き止めたのだと言う。訊けば、そうされた者は一人だけではなく、他にも何人かいて、更には長年宿舎内を騒がせていた幽霊目撃情報も、彼が来てからピタリとやんだのだという。
ナツヤ・サエキは霊が見える。そしてそれを本人は否定も肯定もしていない──。
それを聞いてアンシュルは疑いよりもまず彼女の顔を思い浮かべた。
もうずっと、あの日から成長していない姉だ。
死んだ者が見えるのなら、教えてほしい。
イーリスは今どこにいるのか。やはり助けられなかった自分をずっと恨んでいるのだろうか、と。
「……お前さ、疲れないの?」
真我って本当にこんな色をしているのか? と聞いてきたナツヤは、頷くアンシュルを見上げ、次には妙なことを口走った。
ここ最近で知ったことだが、ナツヤは基本的に口が悪い。態度もどこか横柄で常に面倒そうだが、それとは真逆に化け物にひどく怯え、簡単に弱さをひけらかしていた。
だって、戦いたくないんだから仕方ないだろ。
いつだかそう言って、真っ青な顔で小型の真我と対峙した彼は、結局持っていた剣を一度も振ることはなかった。
聞けばナツヤは行く当てもなく、ここに来たという。この世界がなんたるかを一切知らず、生活も宗教も価値観も全く違う平和な世界からやってきたのだと。
けれどここに来たことは何かしらの意味があるのかも、と時折己を奮い立たせるかのようにはにかんでいた。
「──こんな話をしても、誰も信じないんだけどな」
ナツヤは自嘲気味に笑いそう呟いたが、アンシュルはそれをでたらめだとは思わなかった。
何よりも、彼の纏う雰囲気が違う。それは言葉で言い表せぬほど複雑なものだったが、明瞭でもあった。その上、ナツヤの言葉は常に異国人とも違う妙な言い回しをする。
──なあ、真我って本当に人を食うの?
そんな誰もが知っている事実を、まるで赤子のように復唱させる。
町を歩いているだけで物珍しそうに周囲を見渡す。これはなに? あれは何のために?と確認しては、アンシュルの答えに頷いていた。
だからか、いつしかナツヤは本当に違う世界から来た人間なのだろうと納得した。記憶を失った人間という可能性もあるが、それにしては元にいた世界の話をするとずいぶんと変わった返答をしていたのもある。
傍にいる時間が長くなるほど、アンシュルはナツヤの言う世界をまるでその絵が想像できるほど詳しくなった。かつて彼がいた世界の出来事は、逆に言えば理想郷のような癒やしでもあり、なのにどこか虚無に塗れていた。
ナツヤは孤独だ。
ある日突然この世界に迷い込み、元の世界にはいない化け物が現れる残酷な世界に身を置いている。
彼がどれほど不安を抱いても、励ます親もいなければ絶対的な愛もない。後ろ盾もなく支えもない中で生きているのかと考えただけで、放ってはおけなかった。
だからと言って世話をするつもりなど毛頭ない。だがナツヤはアンシュルが構えるほど一度たりとも不満を口にしたこともないし、真我の姿を確認しても、その正体に戸惑い心が張り裂けそうに傷ついても、現に誰かに傷つけられてもまるで当然のようにそれを受け入れていた。
なぜだろうと注意深く彼を見ているうちに、アンシュルは彼のそれがなんなのか気付いてしまった。
アンシュルは守りたかった。
あの日守れなかった自分を救う方法は、誰かを救うことだと本能が求めていたのかもしれない。
愛や恋を夢見たことは一度たりともない。人はいつ死ぬし、それは自分も同じだからだ。
心をつなげて行き着く先など、想像したくなかったと言ってもいいのだろう。今ならわかるが、それは己の弱さで強さではなかった。だがこの頃の自分は、その日を生き残る方法ばかり、考えていたのだと思う。
ナツヤがずいぶん綺麗な顔つきをしてその肉体も魅力的であると気付いたのはほんの少しの悪戯心からだった。彼の性対象が同性であることは既に知っていたし、駐屯地の男と関係を持っているのも知っていた。
異性愛より同性愛に理解あるとは言い難かったが、あの華奢な容姿を見ればどちらでもいい気もした。それに、彼は誰かを守るより守られる人間だと不思議と理解していたからかもしれない。
俺、お前のこと好きかも。
そう酒に酔った勢いで吐露したナツヤは、自分の放った言葉にずいぶんと狼狽えていたように見えた。こんなことを言うつもりはなかった、そんな言い訳を背負いながら、ああ、と呻く。
「お前の言う通り、男が好きだよ。俺はゲイで、何人かの男とも寝た。叶わぬ恋だとわかっているし、迷惑をかけるつもりなんてない」
火照った頬をごまかすように、ナツヤは気まずげにそう言って、横を通り抜けようとした。宿舎内の、自由時間。訓練はいつものように終わり、近頃では常に隣にいたナツヤと酒でも飲もうかと声をかけるつもりだった。だが、慌てて部屋から出てきた彼はそんな有様で、腕を掴んで引き戻し、部屋の中にいた男を帰した後は終始気まずそうに視線を泳がせていた。
酒を嗜みながらぽつりぽつりと話し始めたナツヤは、同性愛者であることを吐露し、そして確かにアンシュルに好意を持っている事を口にした。好かれているとは思っていた。恋ではなく、人として。そうして、アンシュルは初めてこの男の色欲に溺れ絶頂を覚える顔を見てみたいと唐突に思った。
先ほどまでここにいた男は、その表情を知っているのかと思うとなぜだか苛立ちを覚えるほどに。
──我慢ばかり。
イーリスの声が遠くで聞こえた気がした。
アンシュルはその小さな後頭部を引き寄せて、試しにくちびるを彼のそれに押し当ててみる。
微かな情欲が、燃えるような熱情に変わった瞬間だった。
体を繋げることは、心を繋げることにも結びついているのか、とナツヤを初めて組み敷いた時に今更ながら悟った。男が好きだと、彼は言う。生まれつきのもので、異性に性的魅力は感じないのだと。
端正な容姿で誰をも拒まない男だ。元の世界でもさぞかしそういった意味で苦労はなかっただろうと予測できる。
だがそれとは裏腹に、少し触れるだけで震える彼の身体は純真だった。些細な愛撫にもアンシュルの吐息にすら反応するその身体は、慣れているというより繊細なほど感じやすく、素直だ。一方で、情欲を匂わせない昼間の彼は常に孤独を語る。自分には何もなく、誰も傍にいないのだとアンシュルに訴えている。それを口に出すことは一度たりともなかったが、アンシュルはその華奢な背を見る度、ナツヤの泣き顔を想像した。
真我の声が聞こえる。彼等は生きている。同じように息をする生き物を殺せないと、初めて自分に縋ったあの日の。
「だからさ、疲れてんの?」
それ、疲れないの? といつだかと同じ疑問を投げかけた彼は次にはそう言って、アンシュルの眉間に人差し指を押し当てた。そうしてひとり、ふと笑う。
納得したような顔つきで頷くナツヤに、視線で先を促す。最早組み敷くのにも慣れた、ある日の昼下がり。
「お前、黙ってる時いつもここに皺寄せてるんだよ。不機嫌そうにさ。最初は怒ってんのかなって思ってたけど、違うんだな」
口元に浮かべていた笑みが消える。ナツヤはアンシュルの瞳の奥を、そのまたずっと奥を映すような目つきで小さく呟いた。
「──おれ、ずっと忘れてたわ。お前みたいな表情をしてる人、何度も見ていたのに。……怒ってるんじゃない。お前みたいな顔つきをする人って、決まって、」
決まって。
「傷ついてた。……お前も、そうなの」
ナツヤはそう言って我に返ったように今度こそちゃんと視線を合わせ、アンシュルの顔を物のように抱え、次には笑った。まるで自分の発言を跳ね飛ばすような軽快な笑いと、じゃれつくように回された腕に何も言えず、ただされるがままでいる。
アンシュルの顔を当然のように抱えながら、彼がその先を促すことは終ぞなかった。傷ついていると言う癖に、その理由を探る様子もない。そこに、アンシュルは彼の闇に触れた気がした。
問われたくないのは、おそらく彼の方だった。
理由があるとするならば、似たもの同士であることだ。
顔を合わせ、言葉を交わすたび、互いを肯定している気がした。否定もなければ糾弾もない。寂しさに身体を埋め、理不尽を誤魔化すようにくちづけを交わす。裸になりその衝動に身を任せる瞬間ほど、生きていると実感する瞬間はない。
失いたくないのに、すべて失う。
いつだってそういった未来を描いている。その覚悟を常に心頭において、剣を振る。
討伐隊員として王に認められるためには、子孫を残さねばならぬ。
今まで一度だってそんな提案をしなかった父は、ある日突然それを宣言し、断れば王位継承権を正式に与えられた。必然的に子孫を残さねばならぬ立場になったが、当然父はそれが目的ではなかっただろう。
子を成さぬ王族は討伐隊員にはしない。
それはいつかお前が死ぬからだ。お前が死ねば、お前の欠片は消滅する。
かつて最愛の娘を失った父は、息子をどうしても討伐隊員にしたくなかった。アンシュルがそれでも望んだからこそ、王も譲歩しただけだ。現に他の兄弟は討伐隊をおとなしく諦めたし、その情熱もさほどない。
だが、イーリスを思い浮かべる度自責に念に駆られるアンシュルにとって、王がどんな難題を出そうとも譲れない思いがある。彼女の無念を、そして己の無念を晴らすために、どんな条件も飲むつもりでいた。
ナツヤが誰かのものになるのは不快だ。
あの図太そうに見えて繊細な彼の心を他の誰かが傷つけるのも癒やすのも許しはできない。
けれど、存在があるうちは手に入る。傍における。失うより、繋ぎ止める方法を考えた。
それにより彼が深く傷つくことも、己が後悔することも予測はしたが、どうしても、それ以外の方法を見つけられずにいた。
はっ、と息苦しさに覚醒したアンシュルは、見慣れた天井を視界に止め、溜め息をついた。
夢で今更ここにいる理由を思い知らされるのは、久方ぶりだ。
大丈夫だ。訓練は順調だし、部隊員にも一目置かれている。あの時と同じようなヘマはしない。
それでももう眠れそうにもないと思い、仕方なく起き上がる。訓練生専用の服を着込み、初夏の匂いがする窓の外に目を移す。
夢の緊張で少し寝汗をかいたので熱気を逃がすように窓を開けた。そして違和感に息を潜める。一瞬蝙蝠の鳴き声かと思ったが、微かに悲鳴のような細い声が耳に入った。
何かいるのか。
暗闇の中、目を凝らすが駐屯地の中庭は風に揺れる木の葉が見えるだけだ。すぐにそのまま、部屋を出ることにした。
一般の学業を修了させたアンシュルは、迷わず父に討伐隊に入る節を伝えた。イーリスを失い初めて討伐隊を目指すというアンシュルの言葉に、彼は凍えるような瞳でじっと我が子を見つめ、長い沈黙の後頷いた。年齢的にも訓練生として遅れている方だ。早い者は十六で討伐部隊訓練生として駐屯地の宿舎に入るが、王族の彼らは先のこともありそれが許される空気ではなかった。
それでもアンシュルの思いはあの頃から一つだけだった。
──守れないなら、倒しにいく。
部屋を出て、虫の声がざわめく夜の駐屯地を巡回するように歩く。
眠れない夜の駐屯地を歩くのは、一度ではない。宿舎の向こうには夜勤の為に起きている隊員たちが本舎にいるし、明かりだって漏れている。
夜は、あの化け物の時間だ。静まりかえった世界でひっそりと息づき、あてもなく走り回り、獲物を捕らえていく。頑丈な塀も壁も無意味だ。彼等は神出鬼没で気が付けばそこにいるから。
剣を──。
微かに響く鳴き声のような音に、アンシュルは訓練用の剣を持っていないことに今頃気付いた。武器を持たずに真我に勝てるとは思わない。小型ならまだしも、中型以上となれば、絶対に無理だ。
引き返すか、そう思い視線を巡らせたときだ。
鳴き声がやみ、囁くような声が風に乗って届いてくる。
──いいよ、先戻って。なんだよ、もう触るなって。
かすれているが、それは間違いなく男の声だった。ぼそぼそと聞こえる他の声も、どうやら同じだ。
すぐにそれが何を意味するのか理解して、ほっと息をつく。杞憂なら、それに超したことはない。
その時、木々の間のから出てきた男がアンシュルを見て驚いたような顔をして立ち止まった。しかし一瞬の間を置いて、男は隠れるように顔を伏せて足早にアンシュルの横を通り抜けた。見られてはいけない場面を見られた、とでもいうような態度だったが、その理由は言わずもがなだろう。
「……ぅあ、びっくり、した」
そうして次に草むらをかき分けて出てきたのは、ここ最近知った顔だ。
線の細い黒髪の、異国人。
「……ナツ」
ナツヤ・サエキって言うんだ。
よろしく。
三月ほど前、訓練生として突如現れた男だった。
「王子か。なんだよ、驚かすなよ」
「……その、王子って言うのやめろ」
彼はアンシュルと目が合うと、事もなげにそう言って、ぱんぱんと自身の肩や腿ををはたく。アンシュルが反射的にそう返すと、汚れを払っていた男がわずかに口元を緩めた。
細い指が額に張り付いた髪をかき上げ、黒い瞳がこちらを見て、そうしてその小さな頭が左に傾ぐ。
「なにしてんの、こんな時間に?」
「……お前こそ」
見ればナツヤは未だに訓練服で、宿舎に戻ったような気配は感じられない。そういえば食堂でも今日は見かけなかったと思い至ったが、いつも見ているわけではないので確信はない。
しかしこの男は不思議と目を惹く存在だった。
異国人の骨格のせいなのかやや小柄で、鍛え上げられた男ばかりがいる駐屯地ではその姿は余計に華奢に映る。肉体だけでなく、その容貌も見慣れない顔立ちで、垂れ目がちの黒目は小動物を思い出させる。しかしその瞳は覇気がなく、所作も常に気怠げだ。黙っていれば未成年に見えるほどなのに、そのせいか成人していることを裏付けているようだった。
王族相手にこんな口調でもいいの? 不敬罪にならない? と以前確認してきた薄く小さな口元は、笑うと綺麗に並んだ歯が見える。
一見すると頼りなく見えるが、その態度やふと黙って何かを考えている姿は、どこか達観したような諦観したような雰囲気を連れていた。だからか、彼の纏う空気が不思議で、真我の授業を受ける時は、自然と隣に座ることが多くなり言葉少なにだが会話を交わす仲だった。
同じ訓練生で自分に物怖じせず接する人間はそう多くない。学校とは違い遊びではないし、いずれは命をかける部隊へ行く者たちだ。そのため出自は様々で、言い換えれば貧困層からの者もいる。彼等はアンシュルを常に遠巻きにして、そしてアンシュルもまた余計な関わりを増やすつもりもなかった。
この中で誰が最後まで生き残るのか。
先を見据えてしまえばそんな未来を覚悟しなければならないのもあった。
「……相談に、乗ってた」
そんな草むらで頬を上気させてか?
アンシュルは僅かに眉を寄せて自分に言い訳をする男をただ見つめた。
だが心中で首を横に振る。どうでもいい。お前がそこで、何をしてようと。
腹の中で思う言葉は口にすることもなく、そうか、と頷く。
「お前は? こんな夜中に訓練服着て、今から剣でも振るの?」
「……いや」
気配がしたから、ここに来た。
それがあの化け物なら倒すつもりで来た。
だが実際は剣も持っていないし、気配の正体はこの男だ。
「今日は、あまり外に出ない方がいい」
不意にナツヤがそう言って、アンシュルの横を通り抜ける。ゆっくりと歩くその姿は、もう話は終わりだとばかりの雰囲気だ。だがアンシュルはナツヤの言葉に疑問を持つ。ずいぶんと妙な言い回しをする。
「何かあったのか?」
「俺が聞きたいよ」
ナツヤ呟きはあまりよく聞き取れず、結局彼は「じゃあな、おやすみ」と足早に去った。
その日は結局強烈な違和感の答えは得られなかったが、その後、騎士団を目指す次弟と偶然駐屯地で出くわした時、アンシュルはその理由を知ることになる。
「彼、所謂見えちゃう人らしいよ。俺の友達が冗談交じりに相談に行ったら、笑いながら『信じてるなら、そういった場所に行ってもふざけない方が身のためだぞ』って」
「……どういう意味だ」
訪ねると、ヴァルはいやあ、と肩をすくめた。
「あいつ、つい最近友人たちととある廃家に肝試し? っていうの? そんなのしにいったんだとさ。あ、もちろん、昼間だって、そう睨むなよ。……まあ別にそこで何か起きたわけじゃないけど、それからとにかく体が重くて、何もやる気が起きない。眠れないし、自分がいなくても世界が回ってるように感じるって、落ち込んでいたんだよ。私生活も順調で変わったことなんてないのに、変だなって。んで、思えばあそこに行った直後からだって気付いてさ。でも、あの人に会ってから変わったって。夜眠れるようになったし、何よりも何に悩んでたのかわからなくなるほど、今までの自分のことが不思議になるくらい身体が軽くなって──」
つまり彼は目には見えぬものが見えて、原因不明の体調不良に悩まされていた男を見てすぐに原因を突き止めたのだと言う。訊けば、そうされた者は一人だけではなく、他にも何人かいて、更には長年宿舎内を騒がせていた幽霊目撃情報も、彼が来てからピタリとやんだのだという。
ナツヤ・サエキは霊が見える。そしてそれを本人は否定も肯定もしていない──。
それを聞いてアンシュルは疑いよりもまず彼女の顔を思い浮かべた。
もうずっと、あの日から成長していない姉だ。
死んだ者が見えるのなら、教えてほしい。
イーリスは今どこにいるのか。やはり助けられなかった自分をずっと恨んでいるのだろうか、と。
「……お前さ、疲れないの?」
真我って本当にこんな色をしているのか? と聞いてきたナツヤは、頷くアンシュルを見上げ、次には妙なことを口走った。
ここ最近で知ったことだが、ナツヤは基本的に口が悪い。態度もどこか横柄で常に面倒そうだが、それとは真逆に化け物にひどく怯え、簡単に弱さをひけらかしていた。
だって、戦いたくないんだから仕方ないだろ。
いつだかそう言って、真っ青な顔で小型の真我と対峙した彼は、結局持っていた剣を一度も振ることはなかった。
聞けばナツヤは行く当てもなく、ここに来たという。この世界がなんたるかを一切知らず、生活も宗教も価値観も全く違う平和な世界からやってきたのだと。
けれどここに来たことは何かしらの意味があるのかも、と時折己を奮い立たせるかのようにはにかんでいた。
「──こんな話をしても、誰も信じないんだけどな」
ナツヤは自嘲気味に笑いそう呟いたが、アンシュルはそれをでたらめだとは思わなかった。
何よりも、彼の纏う雰囲気が違う。それは言葉で言い表せぬほど複雑なものだったが、明瞭でもあった。その上、ナツヤの言葉は常に異国人とも違う妙な言い回しをする。
──なあ、真我って本当に人を食うの?
そんな誰もが知っている事実を、まるで赤子のように復唱させる。
町を歩いているだけで物珍しそうに周囲を見渡す。これはなに? あれは何のために?と確認しては、アンシュルの答えに頷いていた。
だからか、いつしかナツヤは本当に違う世界から来た人間なのだろうと納得した。記憶を失った人間という可能性もあるが、それにしては元にいた世界の話をするとずいぶんと変わった返答をしていたのもある。
傍にいる時間が長くなるほど、アンシュルはナツヤの言う世界をまるでその絵が想像できるほど詳しくなった。かつて彼がいた世界の出来事は、逆に言えば理想郷のような癒やしでもあり、なのにどこか虚無に塗れていた。
ナツヤは孤独だ。
ある日突然この世界に迷い込み、元の世界にはいない化け物が現れる残酷な世界に身を置いている。
彼がどれほど不安を抱いても、励ます親もいなければ絶対的な愛もない。後ろ盾もなく支えもない中で生きているのかと考えただけで、放ってはおけなかった。
だからと言って世話をするつもりなど毛頭ない。だがナツヤはアンシュルが構えるほど一度たりとも不満を口にしたこともないし、真我の姿を確認しても、その正体に戸惑い心が張り裂けそうに傷ついても、現に誰かに傷つけられてもまるで当然のようにそれを受け入れていた。
なぜだろうと注意深く彼を見ているうちに、アンシュルは彼のそれがなんなのか気付いてしまった。
アンシュルは守りたかった。
あの日守れなかった自分を救う方法は、誰かを救うことだと本能が求めていたのかもしれない。
愛や恋を夢見たことは一度たりともない。人はいつ死ぬし、それは自分も同じだからだ。
心をつなげて行き着く先など、想像したくなかったと言ってもいいのだろう。今ならわかるが、それは己の弱さで強さではなかった。だがこの頃の自分は、その日を生き残る方法ばかり、考えていたのだと思う。
ナツヤがずいぶん綺麗な顔つきをしてその肉体も魅力的であると気付いたのはほんの少しの悪戯心からだった。彼の性対象が同性であることは既に知っていたし、駐屯地の男と関係を持っているのも知っていた。
異性愛より同性愛に理解あるとは言い難かったが、あの華奢な容姿を見ればどちらでもいい気もした。それに、彼は誰かを守るより守られる人間だと不思議と理解していたからかもしれない。
俺、お前のこと好きかも。
そう酒に酔った勢いで吐露したナツヤは、自分の放った言葉にずいぶんと狼狽えていたように見えた。こんなことを言うつもりはなかった、そんな言い訳を背負いながら、ああ、と呻く。
「お前の言う通り、男が好きだよ。俺はゲイで、何人かの男とも寝た。叶わぬ恋だとわかっているし、迷惑をかけるつもりなんてない」
火照った頬をごまかすように、ナツヤは気まずげにそう言って、横を通り抜けようとした。宿舎内の、自由時間。訓練はいつものように終わり、近頃では常に隣にいたナツヤと酒でも飲もうかと声をかけるつもりだった。だが、慌てて部屋から出てきた彼はそんな有様で、腕を掴んで引き戻し、部屋の中にいた男を帰した後は終始気まずそうに視線を泳がせていた。
酒を嗜みながらぽつりぽつりと話し始めたナツヤは、同性愛者であることを吐露し、そして確かにアンシュルに好意を持っている事を口にした。好かれているとは思っていた。恋ではなく、人として。そうして、アンシュルは初めてこの男の色欲に溺れ絶頂を覚える顔を見てみたいと唐突に思った。
先ほどまでここにいた男は、その表情を知っているのかと思うとなぜだか苛立ちを覚えるほどに。
──我慢ばかり。
イーリスの声が遠くで聞こえた気がした。
アンシュルはその小さな後頭部を引き寄せて、試しにくちびるを彼のそれに押し当ててみる。
微かな情欲が、燃えるような熱情に変わった瞬間だった。
体を繋げることは、心を繋げることにも結びついているのか、とナツヤを初めて組み敷いた時に今更ながら悟った。男が好きだと、彼は言う。生まれつきのもので、異性に性的魅力は感じないのだと。
端正な容姿で誰をも拒まない男だ。元の世界でもさぞかしそういった意味で苦労はなかっただろうと予測できる。
だがそれとは裏腹に、少し触れるだけで震える彼の身体は純真だった。些細な愛撫にもアンシュルの吐息にすら反応するその身体は、慣れているというより繊細なほど感じやすく、素直だ。一方で、情欲を匂わせない昼間の彼は常に孤独を語る。自分には何もなく、誰も傍にいないのだとアンシュルに訴えている。それを口に出すことは一度たりともなかったが、アンシュルはその華奢な背を見る度、ナツヤの泣き顔を想像した。
真我の声が聞こえる。彼等は生きている。同じように息をする生き物を殺せないと、初めて自分に縋ったあの日の。
「だからさ、疲れてんの?」
それ、疲れないの? といつだかと同じ疑問を投げかけた彼は次にはそう言って、アンシュルの眉間に人差し指を押し当てた。そうしてひとり、ふと笑う。
納得したような顔つきで頷くナツヤに、視線で先を促す。最早組み敷くのにも慣れた、ある日の昼下がり。
「お前、黙ってる時いつもここに皺寄せてるんだよ。不機嫌そうにさ。最初は怒ってんのかなって思ってたけど、違うんだな」
口元に浮かべていた笑みが消える。ナツヤはアンシュルの瞳の奥を、そのまたずっと奥を映すような目つきで小さく呟いた。
「──おれ、ずっと忘れてたわ。お前みたいな表情をしてる人、何度も見ていたのに。……怒ってるんじゃない。お前みたいな顔つきをする人って、決まって、」
決まって。
「傷ついてた。……お前も、そうなの」
ナツヤはそう言って我に返ったように今度こそちゃんと視線を合わせ、アンシュルの顔を物のように抱え、次には笑った。まるで自分の発言を跳ね飛ばすような軽快な笑いと、じゃれつくように回された腕に何も言えず、ただされるがままでいる。
アンシュルの顔を当然のように抱えながら、彼がその先を促すことは終ぞなかった。傷ついていると言う癖に、その理由を探る様子もない。そこに、アンシュルは彼の闇に触れた気がした。
問われたくないのは、おそらく彼の方だった。
理由があるとするならば、似たもの同士であることだ。
顔を合わせ、言葉を交わすたび、互いを肯定している気がした。否定もなければ糾弾もない。寂しさに身体を埋め、理不尽を誤魔化すようにくちづけを交わす。裸になりその衝動に身を任せる瞬間ほど、生きていると実感する瞬間はない。
失いたくないのに、すべて失う。
いつだってそういった未来を描いている。その覚悟を常に心頭において、剣を振る。
討伐隊員として王に認められるためには、子孫を残さねばならぬ。
今まで一度だってそんな提案をしなかった父は、ある日突然それを宣言し、断れば王位継承権を正式に与えられた。必然的に子孫を残さねばならぬ立場になったが、当然父はそれが目的ではなかっただろう。
子を成さぬ王族は討伐隊員にはしない。
それはいつかお前が死ぬからだ。お前が死ねば、お前の欠片は消滅する。
かつて最愛の娘を失った父は、息子をどうしても討伐隊員にしたくなかった。アンシュルがそれでも望んだからこそ、王も譲歩しただけだ。現に他の兄弟は討伐隊をおとなしく諦めたし、その情熱もさほどない。
だが、イーリスを思い浮かべる度自責に念に駆られるアンシュルにとって、王がどんな難題を出そうとも譲れない思いがある。彼女の無念を、そして己の無念を晴らすために、どんな条件も飲むつもりでいた。
ナツヤが誰かのものになるのは不快だ。
あの図太そうに見えて繊細な彼の心を他の誰かが傷つけるのも癒やすのも許しはできない。
けれど、存在があるうちは手に入る。傍における。失うより、繋ぎ止める方法を考えた。
それにより彼が深く傷つくことも、己が後悔することも予測はしたが、どうしても、それ以外の方法を見つけられずにいた。
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