黒祓いがそれを知るまで

星井

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彷徨う舟と黒の使い

目が覚めたら ーアーシュ編ー

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「またニールにあげたの。あのお菓子、アンシュルが好きなものでしょ」

 泣き止まぬ弟に辟易しズボンの汚れと涙を拭いポケットに忍ばせていたものを渡したのは今しがたのことだ。壊れた玩具のように泣いていた弟は、その菓子を見るなり満面な笑みを浮かべ、礼も言わずアンシュルの手の中のものをもぎ取っていった。
 走り出したその背を見送ったところで、入れ違いにズボン姿の少女が見えて息を呑む。

「姉、上」

 生きていたのか、と声に出しそうになりアンシュルは違和感に口を噤む。
 そうだ。生きているに決まっている。ここはいつも通りの庭で、西側の丘の上には放牧された馬たちが優雅に草を食んでいる。
 城裏東側のこちらには少しの林があり、自分も含め兄弟達が作った秘密基地があった。丸太を括った床と、汚れた布で屋根を張り巡らせたお粗末な家を通り過ぎれば、アンシュルが転がして置いた切り株が二つ、間隔を開けて並んでいる。
 常に誰かがいる城内から逃がれるための隠れ家。
 イーリスは慣れた様子で切り株の一つに腰をかけて、言った。

「学校でまたオーブリーに絡まれたって聞いたわ」
「……気にしてないよ」
「馬鹿ね、貴方がそうだから調子づくのよ。あの子、随分とひどい事を言うってディアが言ってた」
「見てたのか」
「みんな見てる。私たち、目立つもの」

 溜め息をつくイーリスに無言でいると、彼女は少し睨んだような瞳でこちらを見遣った。
 亜麻色のズボンが白く汚れている。また、訓練場で指導を受けていたようだ。
 
「また勝手に訓練場に行ったのか。父上に叱られるぞ」
「いいの別に。それに私が強ければ父様の心配も減るから」

 素っ気なく返されアンシュルは目を瞬いた。
 イーリスはいつもこうだ。婦女子が真我討伐の訓練を受けることは許されていないのに、彼女はその立場を利用して自由に出入りしている。当然父にも報告がいき、その都度叱られているようだが当人はどこ吹く風でやめるつもりもないらしい。
 恐らくこのように、父も言いくるめるのだ。「真我はいつどこで現れるのかわからないのよ父様。備えておくべきでしょう」と。
 イーリスに甘いのは父だけではない。身重の母はすっかりイーリスを第二の母として信頼しているし、何よりも気の利かぬ寡黙な長男の自分より融通がきくと思っている。実際、アンシュルの言うことなど一つも聞かぬ弟たちも、イーリスの手にかかれば一瞬でしおらしくなった。

「我慢ばかりしていると、知らずに取り返しのつかないことになってたりするのよ」
「我慢なんてしていない」
「オーブリーだって、貴方が言い返せばきっとすぐ大人しくなるのに」
「……別に、言わせておけばいい」
「“人殺しの息子”って? アーシュ、いい加減にして。貴方がそんな風に言われているのを聞けば、弟たちだって悲しむのよ。わかってる?」
「……だが、第一部隊がもう少し早く到着していれば、オーブリーの父親は死ななかった」
「……本気で言っているの?」

 ──本気で言っているの?




 コツ、と小石が胸に当たり、アンシュルは歩を止めた。

「人殺しの息子の癖にお前はいいよな。父親は国民を守れない無能な王なのに、まだ討伐隊を率いて町中を闊歩してる。お前、そんな父親を持って恥ずかしくないのか?」

 学校終わりの帰り道、突然石を投げられた。見れば授業には姿を現さなかったオーブリーがこちらを睨みながらも嗤っている。
 数ヶ月前までは、一緒に机を並べ学習していた。王族である自分にも臆することもなく接してきた彼は、アンシュルにとって数少ない友人の一人でもあった。
 だが、父親を失った彼は次第に荒れ始め、学校にも来なくなった。聞けば父親を失ったことで生計がたたなくなり、自らも働き始めているのだという。
 オーブリーには幼い兄弟が数人いる。そういった境遇も少なくとも以前まではより身近に感じられる共通点だった。
 だが、今は違う。
 半年ほど前、大型の真我がオーブリーの父親を襲った。通報から数十分後に第一部隊が到着したが、運悪くオーブリーの父親を襲った直後だった。偶然そこにいた彼の父は、数人の隊員の目の前で食われたのだ。
 風の噂で間に合わなかったことを聞いたのだろう。もう少し早ければ、死ぬことはなかった。誰かがそう言ったのかもしれない。だが、結果としてオーブリーの父親は亡くなり、討伐隊はその大型を取り逃がした。
 いつもおちゃらけた態度で周囲を笑わせていた少年は、それから一変した。

 人生が変わる出来事が、この世にはたくさん転がっている。
 アンシュルはオーブリーから視線をそらし、歩き出した。討伐隊が間に合わないことなんて今までもいくらでもあっただろう。それこそ救えなかった人々の数も、決して少なくはないはずだ。
 けれどそれが討伐隊の怠慢ではないということを誰もが頭では理解している。
 それは、オーブリーも同じはずだった。

「アーシュ! お前の父親のせいで、俺の家族は苦しんでる!」

 だからお前も、苦しめ!

 再度投げられた小石など、どうでもよかった。




 王家、と聞けばたいそうな扱いをされていると他国の人間は誤解するらしい。
 シュライル・グレイは元々剣士であったという。ここではない他の土地から移住し、真我に苦しみながら生きていた人々を守るため指導者として民に剣を持たせた。強さを備えた人々は徐々に人口を増やし国となり、心も豊かになった。
 結果として国の築いた者として王と呼ばれ、生涯戦士として尊敬された。それが討伐部隊と騎士団の始まりであり、一族が討伐隊をまとめている理由だ。
 だがアンシュルの父は、子供たちに討伐隊に入ることを許していない。

「なぁに、わざわざ死にに行かなくとも、人間は必ず死ぬんだ」

 一度だけ、討伐隊に入りたいと願い出たことがある。
 すると父はその瞳を細め、戯言を言うなとばかりに笑った。本気ではないと理解していたのだろう。生半可な覚悟ではやっていけないとアンシュルとてわかっていたので、鼻で笑われただけで済んでよかったのだと今ならわかる。
 オーブリーの父親は、片腕一本を残し真我の胃の中に飲まれた。たったひとつだけになった肉体の欠片を見た彼は、一体何を思ったのだろうか。

「いいかアンシュル。討伐隊は、守れないものばかり抱えている。決して人を救う仕事ではない。奴らを倒すための職だ。結果として誰かが救われることは、奇跡みたいなもんだ」

 覚えておけ。
 生き残ることは、奇跡なのだと。

 父はそう言って、話すことはもう何もないとばかりに踵を返した。部隊員には誰よりも厳しいと聞くが、家族に対してあまり厳しいことは言わない父だ。
 だが真我の事となれば態度は一変し、常に無表情で淡々と語った。それから兄弟の中では誰も、討伐隊に憧れているなどの言葉は出なくなった。
 思えば父は、ただ自らの子供を危険な目に遭わせたくなかっただけだと理解できる。
 惨い殺され方をする子を一度でも見てしまったら、自分の中の何かが壊れてしまうと予測していたのだ。


 秋も深まり、収穫祭が始まると聞いて、アンシュルはそこへ赴くことにした。
 その日は国を挙げての祝日でもあり、町民のほとんどが参加するからだ。オーブリーの様子が気がかりで、幼い兄弟たちの姿を確認したかった。あれから彼を見かけても石を投げられることもなく無視されるようになり、それが少しだけ引っかかっていたのもある。
 イーリスは出掛けるアーシュの行く先を聞き、「おもしろそう。私も行く」と言った。幼い頃に一度だけ行ったきりで、それから見に行くこともしていなかったからだ。
 いくら身分差がさほどない国とはいえ、王族である以上町民に囲まれるのは常だ。祭りなんてその筆頭で、見知らぬ人間から話しかけられ足止めを食らうことも多々ある。
 それが嫌で避けてきたことだが、父はそうもいかない。第一部隊員として、そして国王として収穫祭は巡回がてら必ず見学していた。
 この日は結局、父の後ろをついて行くことになった。

「ニールが、妹がいいって言うの。二人も入っているなら、一人くらいは女の子でいいでしょって。アーシュは? どっちがいい?」
「……どっちでも」

 女は何を考えているかよくわからないし、男は自分勝手で泣き虫だ。姉と弟たちを思い浮かべアンシュルが心底そう答えると、イーリスがけらけらと声を上げた。

「楽しみね。でも双子の出産は大変なんですって。アーシュ、もしそのとき私がいなかったら、あなたが代わりに母様を励まして支えるのよ」
「なぜ俺が。姉上でいいだろう」
「だからもし、って言ってるじゃない」

 中央地区は多くの人間で溢れかえっていた。見たこともない屋台が建ち並び、美味しそうな匂いがそこら中で漂っている。隊服姿の人間も数多くいることから、警戒態勢であることは間違いないようだ。
 先を歩く父の後ろをついていき、アーシュは家族連れの顔ぶれをそれとなしに確認する。
 生計を立てるために学校をやめたオーブリーは、弟たちを連れてここへ来るだろうか。もしオーブリーがいなくて幼い弟たちだけなら、何かを買ってやろう。そう思い、町民に話しかけられ立ち止まった父の広い背中をぼんやり眺めた時だった。
 ひい、と遠くで悲鳴が聞こえた。
 遙か後方で、喧噪にかき消されそうなか弱い悲鳴だ。
 違和感に振り返ったアンシュルは、遠くで次々に人々がなぎ倒されていく光景を目の当たりにして、息を呑んだ。

「父様!」

 イーリスが叫ぶ。
 倒れ込む人々の波が近づいている。投げ倒され、掴まれ、空に放り投げられている人形たちが視界にうつる。
 否、あれは人形ではない。
 ひとだ。人間だ。

「っ、下がれ、イーリスっ!」

 わっと、人々が走り出した。あっという間にその波がすぐ傍まで来て、アンシュルは目を見開いた。人の合間から飛び出した黒い巨体が、壁を伝い、逃げ惑う人の腕をつかみあげている。それを口に入れ、その顎でかみ砕き、血飛沫が地面に飛び散った。
 耳をつんざくような悲鳴が上がった。半狂乱になった女が、巨体に目がけ駆け寄る。だが女はすぐに誰かに掴まれ、それが見慣れた隊服を纏う男たちであることに、アンシュルは安堵のような興奮のような感情で腹の底が燃えるような感覚に襲われた。
 父が、戦う。すぐにでも、第一部隊がこいつを。
 バリバリと人間を喰らった真我が、壁を這い、こちらを見た。
 目のない、虚無の顔をこちらに──。

「アーシュ……ッ!!」

 ぐい、と右手首を強く引かれ、アンシュルは後ずさった。
 入れ違いにイーリスがアンシュルの前に出る。

「イーリス……ッ!」

 真横で父のマントが翻る。もっと先には剣の切っ先を真我に向けている隊員の姿もあった。だが、彼の剣は間に合わなかった。
 父の、剣も。

 足首を掴まれたイーリスは、手を伸ばしアンシュルを見ていた。
 は、と叫びそうになったが真我の口の中に呑まれていくイーリスの表情に固まる。
 ──そこにいて。
 ほっとしたような表情で、イーリスはただこちらを見ていた。アーシュがひとつも傷ついていないことに心底安堵したような、そんな顔つきだった。
 そうしてゆっくりとすべてが遅くなり、だが次には、何もかもが終わっていた。



 その日の出来事を父も自分も一生忘れないだろう。
 お産の母に付き添い手を握りながら、アンシュルは産声を上げる赤子をぼんやりと眺めた。産婆が抱え上げた皺くちゃの生き物は、とてもじゃないが自分と同じ種族には見えない。
 だがこのちいさな生き物から発せられる命の気配、というものは神聖でどこか懐かしく、それでいて守ってやらなければと思うような、不思議な感覚がした。
 胸の奥に湧き上がるこの感情は、一体なんなのだろう?
 アンシュルは戸惑った。
 皺くちゃの赤ん坊は、あらん限りの力を込めて泣いている。

「……アーシュ」

 茫然としながら母の手を握っていたが、その声にやっとアンシュルは現状を思い出した。
 二人目の出産を終えた母が、静かに腕を伸ばす。心待ちにしていた双子を抱く前に、彼女はアンシュルの頭を抱き寄せていた。

「貴方が生きていてくれて嬉しいわ」
「……母、上」
「生きていてくれて、ありがとう」

 母上。
 母上。
 でも、間に合わなかった。
 俺のせいで──。
 あの日から、もうずっと息ができなくて苦しい。喉をかきむしりたくなる不快感で溺れそうだ。
 苦しい。苦しい。
 でもこんなものは罰でも報いでもない。彼女は消え去った。文字通りこの世から存在を消してしまった。自分よりも、彼女の方が苦しんでいる。
 どれほど悔しかっただろう。無念だっただろう。
 あんなにも溌剌で笑みを絶やさなかった姉は、馬鹿な弟のせいで命を落とした。
 母の手を握りながら、縋ることもできずただ首を横に振る。今すぐにでも汗だくで命を産み落とした母のぬくもりに許してもらいたくなる。
 でも、そんな資格はない。
 守ってやれなかった。
 守れなかった。

「……馬鹿ね、アンシュル。我慢なんてしなくていいのよ」

 母の声とよく似たイーリスの声が、やさしく響いている。

 ──また、お菓子をとられたの。
 ──アーシュは我慢ばかり。もう、仕方ないわ、私のをあげる。いいの、あとで父様にねだるから。



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