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彷徨う舟と黒の使い
14*
しおりを挟む小さくなっていく馬車の後ろ姿を見送って、後方で静かにたたずんでいる男を振り返る。
エンリィは先に家に戻ると言って既にいない。
俺は無表情を貫いているアーシュに近寄り、溜め息をつき言った。
「言いたい事あるなら言えよ」
「……」
肩を並べて歩き出し、人気の少ない砂利道を歩く。冷たい風が頬を撫で、その寒さに両腕を組もうとしたが包帯の巻いた左腕が痛んで諦めた。
アーシュはそんな俺をちらりと見下ろして、それでも口を噤んだままだ。
「……お前ね、この間から何が不満なの。真我に立ち向かった事は悪かったと思ってる。でもあの場には俺とソウツしかいなかったんだぞ」
正確には同じ場にいたエアには真我は倒せないだろうし、寧ろ標的になる事を恐れた故での行動だ。
彷徨う理由がある彼にそんな消え方などしてほしくなかった。
だから夢中で飛び込んでいったが、それが無謀だったと言われればそうだと反省はしている。
「でも俺は無事だっただろ。それでいいじゃないか」
「……お前はいつもそうだ」
「は」
アーシュの硬い声に俺は彼の横顔を見上げる。
眉根を寄せて真っ直ぐに見て歩を進めるアーシュは、苛立ちを隠そうともせず続けた。
「お前はいつも簡単に自分を投げ出す。……私に殺させたあの日も、今回も、いつだって」
「……どういう意味だよ」
思わず立ち止まった俺を数歩進んだアーシュもまた足を止めて振り返り言った。
「簡単に死にに行くと言っているんだ。何も言わず、自分で決めて私に汚れ役までさせて、そして勝手に死ぬ」
「……アーシュ」
「真我になったお前が態々私に斬られたと聞いて、私が喜ぶとでも思ったのか?」
その言葉に俺は息を飲んで、アーシュのその怒りに揺れる桃紫色の瞳を見つめた。
彼は俺の視線を受けながら続ける。
「私がずっと不安を覚えていた理由に気付いた。それは、お前が何もかも簡単に投げ出す男だからだ」
「……俺は、投げ出してなんか」
「同じ事だ。お前は自分の正体に気付いた時も相談もせず勝手に決めて死にに行った。そして今回も、迷わずに危険に飛び込んでいった! わかるか、お前は諦めてる、いつも、いつも諦めて……っ」
「……アーシュ」
声を荒らげる彼の表情に、俺は戸惑う。
苦し気に痛そうに言葉を紡ぐその表情は、今にも泣き出しそうだ。
なのにアーシュは俺の伸ばした手から離れるように、一歩後ろへ下がった。
「自分だって分かるだろ……。お前は諦めて生きているんだ。……私は、お前のそんなところが憎い」
「アーシュ!」
そのまま踵を返し歩き出そうとするアーシュに俺は思わず叫んで、口を開いた。
心臓がバクバクと高鳴って、アーシュの言葉がえぐるように胸を刺しまるで俺の存在さえ否定された気がしたが、すぐにそうではないとわかった。
彼のその広い背中が暗く寂し気な雰囲気を纏っているのに泣きたくなって急いで伝える。
「諦めてない! だって、お前がいたから俺は戻った! なあ、アーシュ、あのまま死んだ方が良かったなんて一度だって考えなかったんだぞ!」
「……だが、ナツはいつか私を諦める」
「……なにを……っ、アーシュ!」
アーシュは今度は立ち止まる事もせず足早に歩き始める。
なんの迷いもなく、真っ直ぐに緩やかな坂を下って、長閑なあの道をただひたすらに。
「……っ」
その何もかもを拒絶するような後ろ姿に俺は肩で息をしながら茫然と見送る事しか出来なかった。
空白の一年の彼の苦しみを知らなかったわけではない。
けれど今、アーシュがずっと俺という存在に傷付いてきたことを知った気がして、胸が痛かった。
泣きたくなんてないのに、こみ上げる感情に両手で目を覆う。
言われた言葉はきっと何一つ間違ってなどない。
それは俺の奥底にある本質で、アーシュはずっとそれを感じ取って生きてきた。
俺を守るために、自分の想いを一度も口にせず犠牲にして。
◇
「……何があった」
数日振りに帰宅した家には先に帰っていたエンリィが出迎えてくれた。だが肩を落として部屋に入った俺を見るなり彼は怪訝そうに首を傾げる。
戸惑うようなエンリィの表情に俺はただ首を横に振って、両手を広げて言う。
「疲れた。もうできない」
上着すら脱ぐ気が起きなくてエンリィを見上げれば、何も言わずに俺に近寄り上着を脱がせてくれる。
その優しさに思う存分甘えようと首に両腕を回してしがみつく。
エンリィは少し笑って俺を持ち上げた。身長差のせいで苦じゃないのだろうが、この男は本当に逞しくなったのだ。
肩に顎を乗せながら、俺は呟く。
「……風呂、入りたい」
「わかった」
言いながらもぎゅうぎゅうしがみつく俺をエンリィは軽々と風呂場まで運んで、何も言わずに服を脱がしてくれる。両腕をあげてシャツを脱がせるのを手伝い、腰を上げてパンツを下ろすのに従い、素っ裸になった俺を先に風呂に入れたエンリィが、少し遅れて自分も裸になり入って来た。
浴槽には既に湯が張られていて、用意をしてくれたエンリィの気遣いに感動する。久々に熱い湯船に浸かれると喜ぶ俺に、エンリィも笑って入るよう促した。
後ろから抱きかかえられるように二人で入れば溢れ出た湯が滑り落ちていく。
アジーズから買い取った異国の石鹸は良い香りがして気に入っているものだ。それをエンリィが湯に浸かったままの俺につけながら優しく撫でるように汚れを落としてくれるのを頭を預けて任せる。
「……疲れただろう」
「お前もだろ」
「……ナツヤの仕事には慣れたつもりだけど、ああいう場はやはり苦手だ」
「ビビりだもんな」
「ナツヤだってそうだろ」
クスクス笑いながら言い合って、包帯の巻かれた左腕を濡らさぬように外に出しながら、あちこち痣だらけになった体をエンリィの長い指が通り過ぎていく。
くすぐったいようなゾクりとするような感覚を楽しみながら、湯気に包まれる空を眺めている俺にエンリィが穏やかに問う。
「兄上と喧嘩でもした?」
「……なんで」
「兄上、船からおかしかった」
その言葉に俺は口許を緩めて、脇腹を撫でるエンリィの指に吐息をつく。
「……アーシュに、お前はいつも簡単に自分を投げ出すって」
「………」
「真我になった時あいつにとどめを刺されにいったのも傷つけてたみたいだ」
しんとした浴室でエンリィが腕を動かす度にちゃぷりと水音が鳴り、俺の掠れた声と共に小さく響いていた。
エンリィの肩に首を預けて目を閉じる俺の首筋に暖かい湯がかけられて、指が通っていく。
「……諦めて生きてるんだろって」
「……」
「……いつか私の事も諦めるって」
言ってて悲しくなって声が震えそうになりそれを誤魔化すように笑った俺は、重い瞼を開けてエンリィを見る。
彼は微笑を浮かべながら俺の視線を受け止めて、そうしてあいつと同じ色の瞳で何でもないように口を開いた。
「……それって熱烈な告白だ」
「……え」
ちゃぷちゃぷと湯が鳴って、その指が背中をなで、臀部を通り過ぎ恥骨を触ったところで、俺はその腕を止めて頭を上げてエンリィに向き直る。
穏やかな表情をしたエンリィは俺の視線に少し笑って、優しい声音で続けた。
「兄上は言葉足らずだからそういった表現しかできないだけだ。要は、ナツヤに“私を諦めるな”と言っているだけ」
「……っ」
「簡単じゃないか。すぐに死にに行くような事はするな。それは私を諦めている事と同じ、生きる事を諦めようとするな、それは私を置いていくのと同じ。……兄上はそう言いたかったんだ」
「……エンリィ」
「私だってナツヤのその本質に気付いてないわけじゃない。死にに行くような行動には毎回頭を悩ませるし、心臓だって持ちそうにもない。兄上の言い分もわかる。自分を大事にして欲しい。それは私達を大事にすることと同じだから」
「……そうか」
静かに言うエンリィの言葉に、俺は納得して泣きそうにも見えたアーシュのあの表情を思い出していた。
彼は昔から言っていたじゃないか。──お前がいつかいなくなりそうで、怖い。と。
あれはずっと、俺に伝えていたのだ。
ずっとずっと、俺に。
「……それに、兄上は私にも嫉妬している。こうしてナツヤを甲斐甲斐しく世話するのは同居人の特権だし、あの人は立場的にも忙しい。平気なフリしてるけど、我慢してるんだ。その我慢が、今回のナツヤの行動で切れた。……大丈夫。心配しなくてもいい。冷静になったらきっと謝りに来る」
「……なあお前、いつの間にこんなに大人になったの」
「いつまでも子ども扱いするな。あんたを毎回良い声で鳴かせるくらいには男を磨いただろ?」
そう言って悪戯っぽく笑うその唇に俺は自分の唇を寄せて首に両腕を回した。
「じゃあ今日もそうしろ」
触れ合う唇に侵入してくる舌を絡めて、俺たちは体温を確かめ合う。
悪戯に触れあいながら、髪を洗い身体を洗い合い、時々くちづけを交わし見つめあって思いを通じさせる。
不安や疲れをも共有して、愚痴や嘆きも一緒に消化して、そうして個々の存在を繋げるのだ。
罪悪感を持たないかと問われたら、勿論あると答えられる。
でも俺たちの仲をたとえ世界中の人間から糾弾されたとしても、この関係を変えるつもりはない。
互いにおざなりに体を拭いて裸のまま寝室のベッドに寝転がり、エンリィの丁寧な愛撫に息を吐き出す。
舌は俺の胸の突起をくすぐり、その指は下腹部を優しく触る。傷だらけになった体を労わるような優しいそれに、目を閉じて感じ入った。
「……エンリィ」
「うん?」
湿った水音、足の間を這う唇、冷たい潤滑油の感触がして敏感な部分が徐々に綻んでいく。
「……ぇんり……っ」
「……うん」
俺が呼ぶたびに返事をしてくれる彼が、そうっと内部に身を沈めてくるのに背を仰け反らせて息を吐く。痣がある背中が痛んで、眉を顰めた俺をエンリィは見逃さず、優しく抱き起してくれて、繋がったまま向きあった。
「……ナツヤ、好き」
「ぁ、あっ……ん、ん」
その広い背中に指を滑らせて、エンリィの肩口に唇をあてながら俺は彼の温もりにこれ以上ないくらいの幸福を感じて愛しくなる。
緩やかな突き上げは傷つけるための動きではない。強烈な快楽を追うための動きでもない。
ただその愛しさに奪い奪われたい感情のまま、互いに深く身を解け合わせるだけだ。
荒い吐息をあげながら、見つめ合って、舌を絡めて、指と指をしっかりとつなぎ合う。
隙間を埋めて、すべてを受け入れ、それだけでも絶頂を覚えるくらいに。
「ん……俺……も……っ」
「……好きだ」
この男はいつだって俺の欲しい言葉を吐く。
それがただの優しさでも慰めでも、嘘ではないのが分かるから俺はまた明日を生きられる。
「はぁっ……はぁ……」
俺はずるい。
きっと、こうして俺が望んできたものをあいつも望んでいた。
一人きりで眠りたくない夜、ただ誰かに寄り添ってもらいたい日もあったはずだ。
しがらみも何も無かった頃、俺と二人でじゃれあいながら眠ったあの日を思い出すこともあったはずだ。
無邪気で幸福に包まれたあの日々に、過ぎ去った色々な事実を重ねて後悔した日も。
あの日、俺を傷つけたことに自分も傷付いて、けれどそれを認めるわけにも吐き出すわけにもいかず、ただひたすらに歩き続けていたはずなのだ。
疲れたとも辞めたいとも言えずに、助けを呼ぶ術も知らずに。
俺は最低だ。
手に入らない男を愛しながら、慰めを常に求めて逃げ続けていた。向き合う力も勇気もない癖に、自分だけ救われようと被害者ぶってきた。
忽然と消えた恋人に、あの日のアーシュは何を想っていたのだろう。
「……俺は馬鹿だ」
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