黒祓いがそれを知るまで

星井

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彷徨う舟と黒の使い

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 昨日行けなかった船室を回るのは、中々に苦労した。
 足場が悪いのもあるが、昨日の時点では気付かなかった多くの迫間の者が佇んでいたのもある。
 海底に沈んでいた時、行き場のない彼等の思いはずっとこの船にとどまったままだった。
 ソウツが泣きそうな顔をして俺の腕をその度に掴むものだから、途中から面倒になった俺はその手のひらを握り締めてやった。まあさっきから手を握っては放してを繰り返しながら歩いているから今更だろうが。
 しかし如何せん片方はただのおっさんで片方は純白の美貌を持った青年だ。それでも周りが何も突っ込まないでいるのは、サウレも騎士団員もどちらもただ職務を全うしているからだ。
 何も言われない事をいい事に開き直ってソウツから手を放さずに歩く。
 思えば誰かとこうして手を繋ぎながら歩くなんて、何十年ぶりだろう。……下手すると小学校入る前とかそのあたりではないだろうか。
 俺の恋人は若い頃も今も変わらずに必ず男だったし、だから外で、ましてや人前でこのような経験はしたことが無かったのだ。
 ていうかソウツ、それでいいのか。されるがままだけど。

 と、それどころではない彼は先程から悲しみに心をやられているようで涙が止まらない、助けてくれ、と俺にだけ聞こえるように囁いてくる。元々の性格はそのようなタイプではないからか必死だ。
 段々苛立ちに塗れていく声になんとか笑いをかみ殺していると、蹲っている軍服の男を見かけて立ち止まった。
 ぽん、とその何もかもが薄い肩を叩いてやる。空洞の瞳が俺を見て、呆然としながら自分の姿を見るそのさまは、確かに物悲しくて苦しい。
 それでも彼等を解き放てるのなら、俺は飽きずに状況を伝えてやる。
 そうして、彼等の痕跡を辿るように周囲の瓦礫を隈なく探して、最早形さえ残っていない小さな白い欠片でも拾って、木箱へ入れていくのだ。
 戸惑う彼等に、船が沈んだことを告げ、憎き相手ももういないのだと伝え、安心しろとそう言って。
 ソウツは俺の手を繋いだまま、口を出す事もなく見ているだけだった。

「ほら、光が見えるだろ?」

 頷く彼は、俺には見えないどこかを見て安堵したような表情を浮かべた。
 ゆっくりと去るその後ろ姿を見守って、煙のように掻き消える現実に沈黙する。

「凄いな」

 ソウツが言った。泣き濡れた瞳は真っ赤に染まり、形の良い二重は更に大きくなって少女のようだ。
 その場を後にし階下へ降りる軍人達のあとを続きながらソウツの白い睫毛がバサバサと上下するのを見ていると、彼は俺を見て続けた。

「あんたと手を繋いでるとよく見える」
「なにそれ」
「……さっき試したんだ。手を放すと見えなくなって、繋いだら見える」
「俺はお前の眼鏡かなんか?」

 笑って言っても、ソウツはそれには反応もせず真っ直ぐ前を向いて言う。

「あんたの見る世界は、こんなに多く彷徨い人がいつもいるのか? 一人二人なんかじゃない……しかも鮮明だ……」

 呟く質問には答えず、俺は真っ白い手のひらを握り締めて少し力を籠める。

「てかそんなことしてたの? 道理でさっきからやたら触るなって思ってたんだよ。甘えてんのかと勘違いした」
「だれが甘えるかっ!」

 言いながらも俺の手を離さないソウツの瞳からまたも大きな雫が零れ落ちて、思わず親指でその頬を拭ってやった。こんなに泣いて、明日腫れるんじゃないか、このでかい目。

「……さっきから君たち凄いけど、俺ツッコんでいいの?」

 背後からのんびりとした声がして、ソウツと俺は同時に振り返った。
 ハイクが欠伸をかみ殺しながらどうでもよさげに肩を竦めたが、あれ、と前方を見ればアーシュと目が合った。

「……」
「……」

 互いに無言で見つめ合って、きまり悪く視線を逸らす俺を無表情で見遣ったアーシュは、踵を返して歩き出す。
 その雰囲気にソウツが戸惑ったような表情を浮かべ、俺は苦笑いをして首を横に振った。
 船内は既に光が届かない位置にきたのか、真っ暗な空間に変わっている。前方と後方を歩く隊員の灯りを頼りに目を凝らしながら、ぎしぎしと軋む床の音をただ歩いた。
 バタバタと他の足音がしたのはすぐだった。前方から揺れる灯が近付き、第二の副隊長含めた数人とエンリィ達の顔が見える。全員剣を抜いていて、一瞬にしてその場に緊張が走った。彼等は俺たちを確認するなり、言った。

「中型の真我を逃がした。見なかったか?」
「見ていない」

 アーシュの答えに、俺は周囲を見渡した。
 真我が消える理由は、一瞬で影となり霧散するからだ。ならば、ここにその影が通ったはず。
 アーシュとエンリィがちらりと俺を見るのに、俺は首を振った。
 ランタンなどの灯りは見える範囲が限られている。その先を見つめても暗闇が広がっているだけだ。

「逃がしたか」

 一瞬の沈黙の後、突然ソウツが俺から手を放し、ゆっくりと前へ出て虚空を見つめながら口を開いた。
 その異様な雰囲気に全員が注目する。

「……殺せ」

 赤い唇が動いて、ただ一言放つ。
 低く、寂し気な声はソウツの声音とは少し違うようにも聞こえ俺は目を見開く。
 その瞬間、彼の背中から黒い影が出て行くのが見えて息を飲んだ。すーっと黒いそれが動く。灯りの届かない方へ。

「……っ、アーシュ、来る!」

 それが何を意味するのか瞬時に理解した俺は叫んだ。
 はっとなったその場に、べた、べたべたべた、と水に濡れたような大きな足音が聞こえてアーシュが咄嗟に前に出ていたソウツの腕を引いて言った。

「大型だ。ハイク、彼等を上へ連れていけ!」

 その場にいた全員が身構え、ぐい、と腕を引かれた俺とソウツはすぐさま階上へと引っ張られた。走り出す勢いのまま俺たちも後に続くが、アーシュとエンリィが心配で振り返った俺にハイクが叫んだ。

「心配すんな、第二の隊長と副隊長もいるし、エンリィは物凄い運がいいやつだから死なないはず!」
「根拠なさすぎるだろ!」

 突っ込んだ俺に彼が笑った気配がしたが、階段を駆け上がり左右を確認しながら剣を出すさまは緊迫した状況を物語っている。
 ガタガタと階下から物音が聞こえ、短い指示と怒号が聞こえ大型と対峙する彼等の様子が耳に入って、鼓動が脈打つ。
 大型と戦うのは久しぶりなはずだ。
 彼等の強さを疑うわけではないが、絶対なんてものはどこの世界にも存在しない。
 後ろ髪を引かれる思いでもう一度振り返る俺をハイクが叱責し、ソウツが腕を引っ張ってくる。

「お前だって危ないんだぞ、今は彼等に任せろ!」
「ナツヤさん!」

 わかってる。
 わかってるさ。

 肩で息をしながら船内を走り、なんとか甲板に向かう俺たちに、背後から不穏な足音が聞こえたのはすぐだった。
 べたべたべたと天井を這うそいつを見上げて、俺たちは脚を止めた。
 真我は、素早い。
 獣の呼吸音のような低い唸り声が聞こえて、ぴちゃぴちゃと大きく開いた口から涎が滴り落ちている。恐怖とは別の押しつぶされそうな重圧感と息苦しさを感じ、こいつとはいつだって遭遇したくないと強く思う。
 よく階段を抜けてきたと思うほどの巨体が、ベタ、と音を上げて天井から降り立った。
 すぐに後方から無数の足音が聞こえ、追いかけてくる騎士団の声が近寄ってくるが俺たちは無言でそいつと向き合っていた。

「やだもう、大きすぎぃ」

 ハイクが気の抜ける台詞を放つが、その声音は少しも笑っていなくて、隣に立っているソウツがごくりと唾を飲み込んだ。
 もう一人の騎士団員がハイクと目を合わせながら剣を真我に向けた。
 俺はそっと後ずさりをしながらソウツの手を掴む。
 誰かを庇いながら戦うのは、余計な気を遣う。ここは、ただでさえ狭い通路だ。

「ハイク!」
「隊長!」

 バタバタと無数の足音が近づき、男達が俺たちの前へ出て一斉に切っ先を構えた。
 くい、とアーシュが俺に向けて顎をしゃくった。どこかに避難しろと言っているのだと分かり、俺は周囲に視線を巡らせ、真後ろの扉に気付く。
 階段を上りたくとも床が抜けているせいで迂回しなければならない。そうなると真我との距離が近くなるため、俺はソウツを見つめ頷く。

「ひとまずここに」
「ええ」

 一応先程見た部屋だったし、中も確認済みなので問題ないのを知っている。
 そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけた階上から他のサウレ軍人達も降りてきて、少なくとも討伐に慣れている者が増えるのなら心強いと思い、俺たちは部屋に入った。
 シンとしたその船室は、サウレ軍人が案内した時に言っていた船長室だ。
 他の部屋より広く、置かれていた机は既に形すら残っていないようだったが、きっと当時の船長もこの部屋を綺麗に使っていたのだろうと想像できる。
 がらんとした船室で俺は扉近くの壁に背を預けた。
 左腕が痛かった。じんじんと熱を持っているそこは、今の今まで痛みも忘れていたのに、腫れている感覚がした。確かに、起きたときから全身が熱っぽかったが、動けないわけではないので知らぬふりをしてきたのだ。

「おい、大丈夫か」
「いやぁ……疲れた。ソウツも今日はあんまり寝てないだろ?」

 言うと、ソウツは肩を竦めて小さく頷いた。
 そしてうろうろと船室を回りながら、小さな瓦礫を足でつつく。

「……黒祓いは体力を使うか?」
「どうだろうな。特別に違う体力使ってる感じはしないけど。ソウツは違うのか?」
「俺は今まで黒使こくしとしてちゃんと活動をしたことがない。祓い方なんか知らないんだ」
「……さっき影がソウツの身体を使って喋ってたな。口寄せ、か」
「あの現象は幼い頃から悩まされている。自分の意思がまったくないわけではないから余計ややこしくなる。母はこの能力を特別だと喜んでいたが、ただ憑依されてるだけだ。特別なことじゃない」
「普通の人間は憑依もされないし、たとえされても平然としていないぞ。しかも乗っ取られているわけじゃなく、普通に動いてたよな。それって多分、使いようによってはすごい能力になる」
「ふん」

 ガタガタとブーツの爪先で転がった木材を蹴るソウツの足を見つめていると、扉の向こうでは激しい足音と怒号が聞こえ、俺たちは一瞬、動きを止める。

「……“殺せ”って言ってたよな」
「うん。他の影を思ってるようだった」
「ん? そんなことまで分かるのか?」
「なんとなく……。真我は影の集合体だとあんたが言ってたよな? その通り、俺の中にいた彼は他の影を探してるようで、あの時見えたんだ。ずっと先で、いくつかの影たちが集まっているのを」
「へえ。じゃあやっぱりあの彼は」
「彼の名はトヤー。俺の中にいる時に垣間見える記憶の中でそう呼ばれていた」
「……やっぱりそれ、凄い能りょ」

 言いかけた言葉が止まったのは、正に今扉が文字通りに吹き飛んだからだ。
 耳をつんざくような破壊音がして、黒い塊が扉と共に床に転がっている。

「、ソウツっ!」

 ちょうど扉の正面にいたソウツが衝撃で倒れ込んだのを見て、すぐに駆け寄りその腕を取って立ち上がらせようとした時だ。
 ぐい、と腰を掴まれて目を見開く。
 真横にいた大型の真我が、目のない頭部をこちらに向け俺を見ていた。にゅ、人の手と同じかたちをしたそれが俺を無造作に握り締める。あまりの速さに逃げることも叶わず、そのままぎりぎりと力を込められて、俺はソウツから手を離した。

「ナツ!」
「ナツヤ!」

 首だけ振り返ると何人もの軍人達がすぐに真我に向けて剣を構えていたが、掴まれた俺を見て全員の動きが止まったのが分かる。
 結局足を引っ張っている自分にうんざりして思わず舌打ちしたくなる。
 そうこうしているうちにサウレ軍に助け起こされたソウツが避難していくのが目に入り、ひとまず安堵した。
 よかった。怪我はなさそうだ。

「……ぅっ!」

 だが真我の力が更に強くなり、声が漏れた。大きな手が俺を潰す勢いで掴み上げ、足が床から離れる。

「──っ!」

 内臓がつぶれそうだった。こんなにも大型の力は強いのかと驚愕し、自由な両手で真我の手から死に物狂いでもがく。
 ハァ、と真我が大口を開けた。ぼたぼたと滴り落ちる涎と白い歯列が見え隠れしている。その醜悪な外見はかつて人だったものとは似ても似つかない。
 死の間際、トヤーは己の弱さを憎み、仲間を殺した男を恨んだ。ゆるされないはずだと、ゆるすつもりはないとただあの一瞬だけ、復讐を願った。
 悪戯に命を奪われる最期は、どれほど惨めで苦しかっただろう。
 だが彼はソウツと重なり、船内を辿った。黒く変化した己の魂だけでは、真実はもう見られないと悟ったからか。それともソウツのその清廉された魂にただ惹かれたのか。
 俺たちを介して記憶を辿り、憎い者はもういないと彼は知ったのだろう。涙していたソウツは、中にいる彼の姿だ。
 殺せ、と彼は言った。
 同じように悔いを残し、影となった仲間達を連れ、俺たちの前に現れて。
 それはあの時の俺と似ている。解放されたくて終わりを望んだ、あの日の俺と。
 だが俺とトヤーは違う。彼は死してなお誇り高い軍人であり、仲間を思い続ける邪悪とは程遠い、魂の持ち主だった。
 きっと、葛藤している。
 虚しさに気付いても生者の芳香に誘われるこの存在を。
 近付く真我の口は小刻みに震えている。俺はそれをただ見つめていた。
 真我になることを望み、そして次に消滅を選んだ彼を思えば、不思議と恐怖は湧かなかった。
 
「エンリィ!」

 なんの合図も出ない中で、躊躇なく出たのはエンリィだ。真我の正面から駆け寄り、その剣を横に振る。すぐにアーシュが俺の方へと走り、真我の腕を狙ってその剣を振った。
 真我はそのまま真上に飛び上がり、持っていた俺を振り向きざまに投げつけた。
 ふわりと身体が宙に浮く。だが次には背中を強く打ち付けて、息が止まった。

「来るぞ、後ろに回れ!」
「五時方向から行きます!」
「エンリィ、下がれ!」
「ナツヤ!」

 まるで玩具のように壁に投げつけられた衝撃は相当だったが、とにかく必死に息を吸った。しばらく背中の表面から内臓が軋むような感覚がして、喘ぐように息を整える。
 揺らぐ視界には暴れ回る真我をなんとか仕留めようと男達が剣を振っているのが見えた。
 起き上がろうと手のひらに力を入れると、その中心から妙な感触を覚えた。やっとで身を起こし、違和感を掴み上げる。
 黒と灰色の、丸い物体。
 海の藻屑が丸まったようなそれに眉を顰めた瞬間、俺の視界は一気に眩しい光に包まれ、春に包まれた緑の中にいた。
 
 抜けるような色の金髪が風に揺れている。
 美しい瞳がこちらを見て、目尻を下げて口許を緩めた。
 その逞しく大きな手のひらが頭を撫でて、彼の厚い唇が心地良い低音を放つのを見つめていた。

──そうか、寂しくなるなぁ。

 でも兄上、僕は向こうに行ってもこの国の役に立ちたいんです。

──馬鹿だな、お前は若いんだから、国のことなど考えなくともいい。真我の事なんて忘れて、自分だけの人生を歩め。

 でも兄上、僕は……。

──それに、世界は驚くほど広いぞ。そうだ、お前がその気なら、頼みたいことがある。……簡単にここを離れられぬ俺のかわりに、世界中を見て周り、様々なことを学んでほしい。そしていつかこの国に寄った時に教えてくれ。お前の見てきた世界を。

 ……はい、兄上。

 兄上。

 高い青空に、桃色の花びらが舞って、白い鳥が泳いでいる。
 自分よりずっと背の高い彼を見上げて、爽やかに笑うその姿を目に焼き付ける。
 ここを離れたくないと言ったら、きっと彼は困ってしまう。だからそう、この言葉は封印しよう。
 自分はもう、幼い子どもではない。
 早く一人前になり、彼が自分を誇りに思う時が来るその日まで、ただひたすら精進しよう。そのうちにこの想いも長い冬が明けたこの国の春のように、優しく希望に溢れた記憶になる。

──これをやろう

 これは……。

──お前は俺のたった一人の弟だ。どこへ行こうと、家族だろう。



 どこへ行こうと、家族だろう。





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