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彷徨う舟と黒の使い
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◇
「……ツ……ナツ! しっかりしろ……っ」
ぱりん、と耳元で弾けた音がして我に返った。
黒い天井が目に入り、視界や聴覚が次第に鮮明になっていく。ランタンで照らされている仄かに明るいそこで、いつの間にか足を投げ出して倒れている自分に気付いた。
そうして誰かに抱えられているのに気付き、正面で俺を呼ぶ必死な形相の男と目が合う。
「ナツ」
アーシュはそう言って、意識を取り戻した俺にほっとしたような表情を浮かべて短く息をついた。
瞬きを数度して、俺を覗き込むハイクと騎士団員を確認し、のろのろと身を起こす。
「……悪い」
額に手をやりながら小さく頭を振って、先程見ていたあの夢のような映像に唾を飲み込む。共鳴するかのように鼓動が速くなっていて、落ち着かせようとして深く息を吸った。
「ソウツ殿、大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫です。すみません、」
背後で呟くようなソウツの声が聞こえて振り返れば、彼もまた抱きかかえられた体勢で今目が覚めたようだ。
どうやら俺たち二人は同時に意識を失っていたらしい。
身を起こしたソウツが俺を見て泣きそうな表情を浮かべているのに、彼も又同じ夢を見たのだろうと確信する。
ソウツと俺はのろのろと立ち上がり、自然と向き合って互いを確認する。
彼に重なったかのように見えた黒い影は、周囲を見渡しても確認できない。
「……ひどいものですね」
「ああ」
それ以上の言葉が出ずに俺たちは厨房に目を向ける。
この船が国に帰れずにいた理由を、その残酷すぎる彼等の最期が目に焼き付いて離れない。
何よりも衝撃だったのは、あの影であろう彼は、ごく普通の人間だった。
死の間際でさえも。
「どれほど善良のひとでも、あれほどの……」
「……うん。普通で善良だったからこそ、かもな」
言いかけたソウツの言葉に頷き、俺は自分の考えがどれほど甘かったのか痛感していた。
真我となってしまう人間は、悲しみや苦しみを抱えて死んでいった者だとは理解していた。
だが実際にその間際を見たら今まで一切何も理解していなかったのだと思い知る。
他国への留学を楽しみ、未来を抱えて帰路についた彼にはなんの陰も見当たらなかった。そう、死する時までもその誇り高い魂のまま。
なのに。
理不尽な目に遭っても魂は穢れずに、それでも彼は望んだ。
望んだのだ。
「どこへ行ったんだ」
言いながら正面に立つソウツの腕を再度掴んでみるが、温かい感触がするだけで特に変化はない。影が今の記憶を見せたくてソウツに重なったのだろうか。それとも偶然か。
どちらにしても俺たちにとっては重要な手掛かりになった。
あれほどまでに酷い最期を迎えたのなら、この船に彷徨う魂はまだいるはずだろう。中には真我となり既に剣で解放された者も少なくはないはずだ。
彼等がそうやってでも故郷に帰れるのならそれに勝る事はないとは思う。
「……一体何が」
サウレ軍の黒髪の男が訝し気に問うのに、俺たちは顔を見合わせてソウツが口を開いた。
「影が見えたので、追いかけたんです。それで……少し彼の記憶に触れたと言うか……。シャダル号は海賊に襲われたようですね」
「……海賊」
軍人が眉を寄せて復唱するのに、もうここには何もないのを確認した俺たちは扉へと引き返して歩を進める。
アーシュとハイクの背を追いながらソウツと並んでいると、背後の黒髪の軍人は、ぽつりと言った。
「二十年以上前から、我々を悩まし続けた有名な海賊がいました。サウレの船はそれまでに幾度も襲われ、時には船ごと奪われた事もあったんです。彼等の手口は巧妙で、生存者も決して出さなかったので苦労したと……」
「もしかして浅黒い顔の、ちょっと眉が太くて一見すると温厚そうな男か? 年齢は三十代から上くらい。長髪で、体も鍛えられていて」
「私の記憶が正しければ、その彼で間違いないでしょう。サウレ軍人なら必ず学ぶ海賊です。彼の名は、ストロス。我々を長く苦しめましたが、十三年前に無事逮捕され、その場で処刑されました」
「……そうか」
「……よかった」
俺たちの言葉に頷いた軍人は、では、シャダルはやはり彼等に蹂躙されたのですね、と呟いた。
痛ましげに眉を寄せて懐中電灯を照らすその様子は、彼より年上であるはずの仲間を憂い憐れんでいるようだ。
その後は、六人とも無言でそれぞれの部屋を見て回った。少しだけ明るさの漏れる船内は、何かの残骸が転がっただけの、息絶えた船だった。
だがその朽ち果てた部屋を回るたび、ソウツが涙を流すものだから俺はポケットに突っ込んでいたハンカチを彼に押し付けて手を引っ張ってやった。
「すみません……なぜだか、凄く悲しくて……ぅぅ……っ」
「……お前、多分それ中にいるぞ」
恐らく重なったあの影の彼がまだソウツの中にいるのだろう。
ソウツと一緒に船をまわり、少しずつ現状を飲み込んでいるのだろうか。
俺が言えば彼もまた分かっているようで、ただ頷くだけだ。ひとまず悪影響がなさそうなのを確認して、俺は彼の手を引きアーシュ達の後をついていく。
『……寒いんだ……』
それとは別に、小さな船室、談話室だっただろう部屋、シャワー室、トイレ、あちこち行くたびに、すすり泣く声と蒼白い顔をした男に巡り合った。
その中心をハイクが通り抜けていく。俺もそれに倣って、彼にどうしてほしいのか心中で何度も問う。
だが彼は呼びかけには答えない。ただ、寒い、冷たいと嘆いてその黒い軍服に身を包んだまま血だらけの肩を悲し気に見ては消えていく。
まるで船の痕跡を俺たちと一緒に辿っているように。
小さな船室の扉を開けた時、しんとした静寂の中で悲しみが襲ってきて、俺は眉を寄せて室内を見渡した。「ここは、倉庫だったようです」サウレの軍人がそう言ったが、その壁に触れた時、一瞬にして壁が綺麗になり棚が現れ、扉がかつて使われていた形になっていくのをただ見ていた。
「リーン、しっかりしろ……っ」
すれ違いざまに刺された剣は肩を貫通したが、男がすぐに剣を引き抜いたのは幸いだった。
咄嗟に渾身の力で持っていた本を投げつけ逃げてきたが、それも長くはもたないかもしれない。
海賊はまさかそんな攻撃をされるとは思っていなかったのか、避ける事もせず分厚い本の角で目を潰し、悶絶していた。その隙に来た道を引き返してきたけれど、状況は絶望的のはずだ。
痛む肩を抑えなんとか走っていると、途中で護衛隊のラウニに会えた。彼は僕の肩を見るなり血相を変えて自身の上着を脱ぎ、止血をしてくる。
その焼けつくような痛みに眉を寄せても、この絶望的な現状が良くなるとは思えない。
ラウニに腕を掴まれ、逃げ場を探し船内を駆けずり回る。けれど談話室前で大勢の仲間たちが数人の海賊に斬りつけられているのを見て足が竦んだ。
心に広がっていく絶望を引き剥がすようにラウニが僕の手を引っ張り、僕等は更に先へと進む。彼等を助けたかったはずなのに、ラウニは僕の手を放さなかった。僕を連れて戦うわけにはいかないと判断したのだ。
船は揺れていた。叫び声とうめき声、下卑た男達の笑い声すら渦巻く中でただいつも通りに。
ラウニは強かった。元々僕達よりも年上で、海上護衛隊である彼は、船上での戦も経験していたのだろう。留学生活が長かった僕等の護衛として今回の任務には適任だったはずで、違う部隊である僕等には明確にはされなかったけど、きっと彼は上官の部類にいた。
それでもその立場を盾にすることもひけらかすこもなく、彼は淡々と僕等を連れ戻す任務の為に船に乗り、その期間を経て帰路に就いていたはずだった。
二人目の海賊を斬り倒した彼は、肩で息をつきながら立っているのもやっとの僕の手を引きまた走り出す。
「……っ、ごめんなさい」
だらだらと流れる血が彼の上着を濡らす。謝る僕に、彼は眉を上げて一度振り返っただけで変わらずに手を引いてくれた。
もう、脚がほとんど動かなくて、遂には立ち止まる僕に彼は真剣な目つきで口を開く。
「諦めるな」
その瞳の奥に溢れる彼の生命力に涙が止まらなくて、僕はもう一度謝る。
彼の声にこたえようと縺れる脚を動かしていても、何もかもがうまくいかない感覚に襲われていた。
ラウニが振り返る。
そして目の前にあった船室の扉をあけて、倒れ込むように座り込んだ僕を支えてくれた。
「寒い……」
どうしてこの部屋はこれほどまでに寒いのか理解できなくて、ラウニを見上げる。
あれ? 僕、いつ倒れたんだ。それになんだかラウニが辛そうな表情をしている。
そうか。
肩の感覚が既に無い事に気付いて、太い血管をやられていたのだと今更ながらに気付いた。
この寒さは血が足りない故にくるものだ。そう思いながら精悍な顔つきのラウニを見上げ、今にも泣き出しそうな彼に笑う。
彼は生きるべき人だ。
ラウニは強い。頭が良くて、鈍臭い僕をいつも気に掛けてくれて、口数こそ多くないけれど仲間をいつも思い遣り見守っていた。年上できっと様々な事を経験していて、厳しい上官にだってなれるはずなのに、声を荒らげる事など見た事もない、そんな男だ。
ほら、今だってその瞳は眩しいほどに力強い。
彼はここで死んでいい人間ではない。
サウレに戻り、輝かしい人生を歩むのだ。
海賊なんかに、負けていい人じゃない。
なのに。
「……ごめんなさい……でも、」
「リーン、頑張れ、諦めるな」
「……ラウニ……寒いんだ……どこ、に……」
「しっかりしろ、俺を見ろ」
「……僕を……」
でも、ラウニ。今だけは。
今だけは。
「僕を……ひとりにしないで……」
ほんの少しだけ、ここにいてくれればいい。
そうしたらきみはこの船から脱出して生き残るんだ。
「……ぼ……くを……」
「ああ、ここにいる。お前の傍に……リーン……」
抱き締めてくれる彼の温もりが感じられない。
冷たくて寒くて暗い中に、僕は沈む。
うそだ。
ラウニ。
僕を捨てて今すぐに、
『……どこにいるの』
黒髪の彼がそう言って、俺を見つめる。
蒼白の顔、流れ出る血液に濡れた肩、後悔と悲しみに濡れた頬。
俺は朽ち果てた倉庫内を見渡し、瓦礫の山に目を向けた。
誰も何も言わなかった。
ソウツでさえ黙々と瓦礫を探る俺を見て、ただぼんやりと。
何かの残骸をかき分けているうちに、目的の物は黒ずんだ塊の下にあった。
朽ちた肉体の中にある、その礎。
ひび割れた頭蓋骨、かつては未来を見ていたはずの二つの穴、形を変えぬままのその歯列。
その隣に寄り添うように同じものが転がっていて、息を吐く。
「……仕方なかったんだ」
『僕は……ラウニを……』
そっと触れたその骨に、駆け巡る悲しい結末。
ラウニはあの後、息絶えたリーンの傍で外の様子をうかがっていた。
倉庫内の荷物は既に奪われた後だった。自国に持ち帰り育てるはずだった植物の小さな苗まで奪われていることに笑って、どこまでも強欲な輩だと蔑んだ。
海賊は、最後に砲弾を船に打ち込む。彼等は襲った船を必ず沈ませる。それが彼等の手口だからだ。
逃げ出した小舟だって、見逃すことはないだろう。
ラウニは天を仰いだ。
既に数多の仲間達の屍を跨いできた。敵の人数は、予想に反して多かった。
随分斬ったが、同時に同じくらい、否、それ以上に斬られているだろう。
ここまでか。
そうして倒れたままのリーンの瞳を閉じさせて、座り込む。倉庫内に残っていたのは分厚い専門書だ。
なんとなしにそれを開いて、最後の文字の羅列をただ読み続ける。
その時が来るまで。
「……彼は悟っていたんだ」
『僕が……引き止めた……』
「違うよ。彼は知っていた。……どうにもならないことを知ってたんだ。だからもう、気に病まなくていい」
『ぼくは……』
聡い彼は、シャダル号の運命を受け入れたのだ。
多くの仲間が殺され、生き残った者も海に沈むのを見据えていた。自らが出て行って何人かの海賊を手に掛けても、結果は覆らないだろう。
それならばリーンの傍にいて最期を迎えたかったのだ。
「きみの傍にいたかったんだ。だから、彼は受け入れた。……ここに居ないのは彼が何も後悔していないからだ」
『ラウニ……』
俺の言葉にリーンは変わり果てた遺骨から目を離し壁の方を見遣って、濡れた瞳を揺らしていた。
一度、瞬きをする。
肩の傷が消えていく。
もう一度、目を閉じる。
血色の良いあの日の青年が俺の前に立っていた。
「見えるだろ? 他の者もラウニも、きみを待っているはずだ」
その先に何が見えるのか俺には分からないけれど。
『……あたたかい……ああ、ラウニ……』
リーンはそう言って破顔した。
花が咲いたように無邪気な笑みを浮かべ、真っ直ぐに駆けていく。
吸い込まれるように壁に消えていく彼の姿を、しばらく何も言わずに見つめていた。
少しの沈黙が過ぎ、ソウツが静かに俺に近寄り、足元の遺骨に祈りを捧げる。
それを見終えた彼の国の軍人が、遺骨の回収にかかり、外に用意されていた木箱に入れていく。
俺は無言でそれを見ていた。
ずびずびと泣き続けるソウツの顔を見て、苦笑しながら。
「……ツ……ナツ! しっかりしろ……っ」
ぱりん、と耳元で弾けた音がして我に返った。
黒い天井が目に入り、視界や聴覚が次第に鮮明になっていく。ランタンで照らされている仄かに明るいそこで、いつの間にか足を投げ出して倒れている自分に気付いた。
そうして誰かに抱えられているのに気付き、正面で俺を呼ぶ必死な形相の男と目が合う。
「ナツ」
アーシュはそう言って、意識を取り戻した俺にほっとしたような表情を浮かべて短く息をついた。
瞬きを数度して、俺を覗き込むハイクと騎士団員を確認し、のろのろと身を起こす。
「……悪い」
額に手をやりながら小さく頭を振って、先程見ていたあの夢のような映像に唾を飲み込む。共鳴するかのように鼓動が速くなっていて、落ち着かせようとして深く息を吸った。
「ソウツ殿、大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫です。すみません、」
背後で呟くようなソウツの声が聞こえて振り返れば、彼もまた抱きかかえられた体勢で今目が覚めたようだ。
どうやら俺たち二人は同時に意識を失っていたらしい。
身を起こしたソウツが俺を見て泣きそうな表情を浮かべているのに、彼も又同じ夢を見たのだろうと確信する。
ソウツと俺はのろのろと立ち上がり、自然と向き合って互いを確認する。
彼に重なったかのように見えた黒い影は、周囲を見渡しても確認できない。
「……ひどいものですね」
「ああ」
それ以上の言葉が出ずに俺たちは厨房に目を向ける。
この船が国に帰れずにいた理由を、その残酷すぎる彼等の最期が目に焼き付いて離れない。
何よりも衝撃だったのは、あの影であろう彼は、ごく普通の人間だった。
死の間際でさえも。
「どれほど善良のひとでも、あれほどの……」
「……うん。普通で善良だったからこそ、かもな」
言いかけたソウツの言葉に頷き、俺は自分の考えがどれほど甘かったのか痛感していた。
真我となってしまう人間は、悲しみや苦しみを抱えて死んでいった者だとは理解していた。
だが実際にその間際を見たら今まで一切何も理解していなかったのだと思い知る。
他国への留学を楽しみ、未来を抱えて帰路についた彼にはなんの陰も見当たらなかった。そう、死する時までもその誇り高い魂のまま。
なのに。
理不尽な目に遭っても魂は穢れずに、それでも彼は望んだ。
望んだのだ。
「どこへ行ったんだ」
言いながら正面に立つソウツの腕を再度掴んでみるが、温かい感触がするだけで特に変化はない。影が今の記憶を見せたくてソウツに重なったのだろうか。それとも偶然か。
どちらにしても俺たちにとっては重要な手掛かりになった。
あれほどまでに酷い最期を迎えたのなら、この船に彷徨う魂はまだいるはずだろう。中には真我となり既に剣で解放された者も少なくはないはずだ。
彼等がそうやってでも故郷に帰れるのならそれに勝る事はないとは思う。
「……一体何が」
サウレ軍の黒髪の男が訝し気に問うのに、俺たちは顔を見合わせてソウツが口を開いた。
「影が見えたので、追いかけたんです。それで……少し彼の記憶に触れたと言うか……。シャダル号は海賊に襲われたようですね」
「……海賊」
軍人が眉を寄せて復唱するのに、もうここには何もないのを確認した俺たちは扉へと引き返して歩を進める。
アーシュとハイクの背を追いながらソウツと並んでいると、背後の黒髪の軍人は、ぽつりと言った。
「二十年以上前から、我々を悩まし続けた有名な海賊がいました。サウレの船はそれまでに幾度も襲われ、時には船ごと奪われた事もあったんです。彼等の手口は巧妙で、生存者も決して出さなかったので苦労したと……」
「もしかして浅黒い顔の、ちょっと眉が太くて一見すると温厚そうな男か? 年齢は三十代から上くらい。長髪で、体も鍛えられていて」
「私の記憶が正しければ、その彼で間違いないでしょう。サウレ軍人なら必ず学ぶ海賊です。彼の名は、ストロス。我々を長く苦しめましたが、十三年前に無事逮捕され、その場で処刑されました」
「……そうか」
「……よかった」
俺たちの言葉に頷いた軍人は、では、シャダルはやはり彼等に蹂躙されたのですね、と呟いた。
痛ましげに眉を寄せて懐中電灯を照らすその様子は、彼より年上であるはずの仲間を憂い憐れんでいるようだ。
その後は、六人とも無言でそれぞれの部屋を見て回った。少しだけ明るさの漏れる船内は、何かの残骸が転がっただけの、息絶えた船だった。
だがその朽ち果てた部屋を回るたび、ソウツが涙を流すものだから俺はポケットに突っ込んでいたハンカチを彼に押し付けて手を引っ張ってやった。
「すみません……なぜだか、凄く悲しくて……ぅぅ……っ」
「……お前、多分それ中にいるぞ」
恐らく重なったあの影の彼がまだソウツの中にいるのだろう。
ソウツと一緒に船をまわり、少しずつ現状を飲み込んでいるのだろうか。
俺が言えば彼もまた分かっているようで、ただ頷くだけだ。ひとまず悪影響がなさそうなのを確認して、俺は彼の手を引きアーシュ達の後をついていく。
『……寒いんだ……』
それとは別に、小さな船室、談話室だっただろう部屋、シャワー室、トイレ、あちこち行くたびに、すすり泣く声と蒼白い顔をした男に巡り合った。
その中心をハイクが通り抜けていく。俺もそれに倣って、彼にどうしてほしいのか心中で何度も問う。
だが彼は呼びかけには答えない。ただ、寒い、冷たいと嘆いてその黒い軍服に身を包んだまま血だらけの肩を悲し気に見ては消えていく。
まるで船の痕跡を俺たちと一緒に辿っているように。
小さな船室の扉を開けた時、しんとした静寂の中で悲しみが襲ってきて、俺は眉を寄せて室内を見渡した。「ここは、倉庫だったようです」サウレの軍人がそう言ったが、その壁に触れた時、一瞬にして壁が綺麗になり棚が現れ、扉がかつて使われていた形になっていくのをただ見ていた。
「リーン、しっかりしろ……っ」
すれ違いざまに刺された剣は肩を貫通したが、男がすぐに剣を引き抜いたのは幸いだった。
咄嗟に渾身の力で持っていた本を投げつけ逃げてきたが、それも長くはもたないかもしれない。
海賊はまさかそんな攻撃をされるとは思っていなかったのか、避ける事もせず分厚い本の角で目を潰し、悶絶していた。その隙に来た道を引き返してきたけれど、状況は絶望的のはずだ。
痛む肩を抑えなんとか走っていると、途中で護衛隊のラウニに会えた。彼は僕の肩を見るなり血相を変えて自身の上着を脱ぎ、止血をしてくる。
その焼けつくような痛みに眉を寄せても、この絶望的な現状が良くなるとは思えない。
ラウニに腕を掴まれ、逃げ場を探し船内を駆けずり回る。けれど談話室前で大勢の仲間たちが数人の海賊に斬りつけられているのを見て足が竦んだ。
心に広がっていく絶望を引き剥がすようにラウニが僕の手を引っ張り、僕等は更に先へと進む。彼等を助けたかったはずなのに、ラウニは僕の手を放さなかった。僕を連れて戦うわけにはいかないと判断したのだ。
船は揺れていた。叫び声とうめき声、下卑た男達の笑い声すら渦巻く中でただいつも通りに。
ラウニは強かった。元々僕達よりも年上で、海上護衛隊である彼は、船上での戦も経験していたのだろう。留学生活が長かった僕等の護衛として今回の任務には適任だったはずで、違う部隊である僕等には明確にはされなかったけど、きっと彼は上官の部類にいた。
それでもその立場を盾にすることもひけらかすこもなく、彼は淡々と僕等を連れ戻す任務の為に船に乗り、その期間を経て帰路に就いていたはずだった。
二人目の海賊を斬り倒した彼は、肩で息をつきながら立っているのもやっとの僕の手を引きまた走り出す。
「……っ、ごめんなさい」
だらだらと流れる血が彼の上着を濡らす。謝る僕に、彼は眉を上げて一度振り返っただけで変わらずに手を引いてくれた。
もう、脚がほとんど動かなくて、遂には立ち止まる僕に彼は真剣な目つきで口を開く。
「諦めるな」
その瞳の奥に溢れる彼の生命力に涙が止まらなくて、僕はもう一度謝る。
彼の声にこたえようと縺れる脚を動かしていても、何もかもがうまくいかない感覚に襲われていた。
ラウニが振り返る。
そして目の前にあった船室の扉をあけて、倒れ込むように座り込んだ僕を支えてくれた。
「寒い……」
どうしてこの部屋はこれほどまでに寒いのか理解できなくて、ラウニを見上げる。
あれ? 僕、いつ倒れたんだ。それになんだかラウニが辛そうな表情をしている。
そうか。
肩の感覚が既に無い事に気付いて、太い血管をやられていたのだと今更ながらに気付いた。
この寒さは血が足りない故にくるものだ。そう思いながら精悍な顔つきのラウニを見上げ、今にも泣き出しそうな彼に笑う。
彼は生きるべき人だ。
ラウニは強い。頭が良くて、鈍臭い僕をいつも気に掛けてくれて、口数こそ多くないけれど仲間をいつも思い遣り見守っていた。年上できっと様々な事を経験していて、厳しい上官にだってなれるはずなのに、声を荒らげる事など見た事もない、そんな男だ。
ほら、今だってその瞳は眩しいほどに力強い。
彼はここで死んでいい人間ではない。
サウレに戻り、輝かしい人生を歩むのだ。
海賊なんかに、負けていい人じゃない。
なのに。
「……ごめんなさい……でも、」
「リーン、頑張れ、諦めるな」
「……ラウニ……寒いんだ……どこ、に……」
「しっかりしろ、俺を見ろ」
「……僕を……」
でも、ラウニ。今だけは。
今だけは。
「僕を……ひとりにしないで……」
ほんの少しだけ、ここにいてくれればいい。
そうしたらきみはこの船から脱出して生き残るんだ。
「……ぼ……くを……」
「ああ、ここにいる。お前の傍に……リーン……」
抱き締めてくれる彼の温もりが感じられない。
冷たくて寒くて暗い中に、僕は沈む。
うそだ。
ラウニ。
僕を捨てて今すぐに、
『……どこにいるの』
黒髪の彼がそう言って、俺を見つめる。
蒼白の顔、流れ出る血液に濡れた肩、後悔と悲しみに濡れた頬。
俺は朽ち果てた倉庫内を見渡し、瓦礫の山に目を向けた。
誰も何も言わなかった。
ソウツでさえ黙々と瓦礫を探る俺を見て、ただぼんやりと。
何かの残骸をかき分けているうちに、目的の物は黒ずんだ塊の下にあった。
朽ちた肉体の中にある、その礎。
ひび割れた頭蓋骨、かつては未来を見ていたはずの二つの穴、形を変えぬままのその歯列。
その隣に寄り添うように同じものが転がっていて、息を吐く。
「……仕方なかったんだ」
『僕は……ラウニを……』
そっと触れたその骨に、駆け巡る悲しい結末。
ラウニはあの後、息絶えたリーンの傍で外の様子をうかがっていた。
倉庫内の荷物は既に奪われた後だった。自国に持ち帰り育てるはずだった植物の小さな苗まで奪われていることに笑って、どこまでも強欲な輩だと蔑んだ。
海賊は、最後に砲弾を船に打ち込む。彼等は襲った船を必ず沈ませる。それが彼等の手口だからだ。
逃げ出した小舟だって、見逃すことはないだろう。
ラウニは天を仰いだ。
既に数多の仲間達の屍を跨いできた。敵の人数は、予想に反して多かった。
随分斬ったが、同時に同じくらい、否、それ以上に斬られているだろう。
ここまでか。
そうして倒れたままのリーンの瞳を閉じさせて、座り込む。倉庫内に残っていたのは分厚い専門書だ。
なんとなしにそれを開いて、最後の文字の羅列をただ読み続ける。
その時が来るまで。
「……彼は悟っていたんだ」
『僕が……引き止めた……』
「違うよ。彼は知っていた。……どうにもならないことを知ってたんだ。だからもう、気に病まなくていい」
『ぼくは……』
聡い彼は、シャダル号の運命を受け入れたのだ。
多くの仲間が殺され、生き残った者も海に沈むのを見据えていた。自らが出て行って何人かの海賊を手に掛けても、結果は覆らないだろう。
それならばリーンの傍にいて最期を迎えたかったのだ。
「きみの傍にいたかったんだ。だから、彼は受け入れた。……ここに居ないのは彼が何も後悔していないからだ」
『ラウニ……』
俺の言葉にリーンは変わり果てた遺骨から目を離し壁の方を見遣って、濡れた瞳を揺らしていた。
一度、瞬きをする。
肩の傷が消えていく。
もう一度、目を閉じる。
血色の良いあの日の青年が俺の前に立っていた。
「見えるだろ? 他の者もラウニも、きみを待っているはずだ」
その先に何が見えるのか俺には分からないけれど。
『……あたたかい……ああ、ラウニ……』
リーンはそう言って破顔した。
花が咲いたように無邪気な笑みを浮かべ、真っ直ぐに駆けていく。
吸い込まれるように壁に消えていく彼の姿を、しばらく何も言わずに見つめていた。
少しの沈黙が過ぎ、ソウツが静かに俺に近寄り、足元の遺骨に祈りを捧げる。
それを見終えた彼の国の軍人が、遺骨の回収にかかり、外に用意されていた木箱に入れていく。
俺は無言でそれを見ていた。
ずびずびと泣き続けるソウツの顔を見て、苦笑しながら。
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「クーちゃんではありません、クー・チャンです。あ、主様、やめてください!」
これは隣国の帝国皇太子に嫁いだ小王国の『姫君』のお話。
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