黒祓いがそれを知るまで

星井

文字の大きさ
上 下
56 / 78
在るべき場所へ

55

しおりを挟む



 耳奥が塞がったような感覚に目を開ける。
 ごぽ、と空気が割れるような音がして青い視界に驚愕し口を開ける。
 ごぽごぽと更に泡が目の前を上がっていき、同時に襲う息苦しさに必死にもがいた。

 動かした手と足が何かにまとわりつくように重い。
 それなのに身体は軽く、ここが水中だと理解した。
 必死に足を掻き、手足を動かして上を目指す。

「……っか……はっ……ぅっ……ごほごほっ」

 光り輝く水面へ顔を出せば、柔らかい風が頬を撫でる。
 濡れた視界で周囲を確認して、木々に囲まれた緑と青にここがどこであるか知った。

「おーい、あんた大丈夫かぁ?」

 呑気な声が遠くでして、首を横に振って手を上げる。

「いや、ふつうに、死ぬ……っ」

 気管に入った水を追い出そうと咳き込みながら溺れないように手足を必死に動かす。
 ともすれば沈んでしまいそうな状況なのに、不思議とそんなふうになる心配はなかった。
 桟橋から小さな小舟を出して近寄る見知らぬ男に、俺の呟きは聞こえなかっただろう。

「あんた一体どこから来たんだ? 俺ぁずっとここで釣りしてたんだけどいきなり水中から現れて死ぬほど驚いたぞぉ」
「……悪い、な……っ」

 伸ばされた手を掴んで引っ張り上げられ、転がる小舟の上で、男の声に笑みが零れる。
 空は青く、どこまでも澄んでいた。
 その空気を思いきり吸い込んで、またも咳き込む俺に男が適当に背を撫でてくれる。
 ハアハアと肩で息をしながら、それでも謎の充足感に包まれていた。

「……なぁ、駐屯地に行って、サエキがここでぶっ倒れてるって伝えてくれないか」
「駐屯地? あんた、部隊員なのかい」
「……いや違う、ただの事務員だ」
「そうかぁ。じゃあ待ってろ、その様子じゃ動けそうにもないだろうしなぁ」
「悪いな……恩に着る……」

 言ってまたも咳き込む俺をよそに、小舟を降りた男が早足で去るのを見送って、仰向けのまま空を見上げた。
 眩しいくらいの陽射しは暖かく、冷えた体を照らす。水辺の澄んだ空気がすべてを浄化するようで、視線を向けた青い空は名も知らぬ大きな鳥が優雅に泳いでいた。
 そう言えば、この国の神様は鳥の姿をしてるんだっけ……。
 そんなことを思っていると、バタバタと慌ただしい足音がして小舟が激しく揺れる。

「ナツ!」

 飛び込んできたのは金色の髪を一つに纏めた若い青年だ。
 俺を見るなり瞳を揺らせた彼は、倒れ込んだ俺の身体をしっかりと抱き寄せた。

「どこに行っていた……っ、ずっと探してたんだ……!」
「……いたたた……。エンリィ……」

 ぎゅうぎゅう抱き締めるその力強さに骨が軋むような感覚を覚えながら俺が言えば、感極まったようにエンリィは眉を下げて頷く。

「……良かった……本当に……良かった……っ」
「……ごめんな。ありがとう……」

 その表情に切なさを覚え、涙を堪えながら青年の背に腕を回した。
 懐かしい彼の香りにどうしようもないほどの愛しさがこみ上げて目を閉じる。
 そうだ。
 ここが俺の現実だ。
 迷わずに過ごせる、せかいだ。


 不自然なほど俺たちから目を逸らす男に礼を言って、エンリィは俺を背負って歩き出した。
 情けない事に身体に全く力が入らなくて、疲労感に苛まれていたからだ。
 大きなその背中に胸を預ければ、なんだか以前より逞しくなったような気がして目を閉じる。
 揺れる肩に頭を預けながら、見知ったはずの景色をただ瞳に映した。

「……色々変わったんだ。ナツヤがいなくなって……」
「……そうか」

 気遣うようにゆっくりと歩を進めるエンリィに、ほんの少し大人の余裕を感じ取れて唇を結んだ。
 どれくらいの期間、俺は彼等を置き去りにしたのだろう。

「……ナツ」

 だから駐屯地に着いた時、門前で待ち構えていたその人物に息を飲んで、ずるずると背を降りる俺は確かに怯えていた。
 桃紫の不思議な色合いの瞳が俺を見て、アーシュはぐい、と俺の首を引き寄せる。
 よろけながらその胸に飛び込んで、鼻声になるのを必死に隠しながら俺は言った。

「……ただいま、アーシュ」
「……どれだけ私を心配させるんだ」

 それは聞こえないほどの呟きだった。
 だがその心地良くも低い声が安堵に満ちて背に落ちた時、確かに彼の中の愛を感じて冷えた体が一瞬で命が灯ったように熱くなったのだ。

 ほんの少し残っていた黒い不安はすぐに消えた。
 だから俺は口元を緩めてアーシュを見上げ、エンリィを見遣って言った。

「もう、どこにもいかない」

 ここにいる。
 生きて、ここにいる。





しおりを挟む
感想 27

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。 1日2話ずつ投稿します。

恐怖症な王子は異世界から来た時雨に癒やされる

琴葉悠
BL
十六夜時雨は諸事情から橋の上から転落し、川に落ちた。 落ちた川から上がると見知らぬ場所にいて、そこで異世界に来た事を知らされる。 異世界人は良き知らせをもたらす事から王族が庇護する役割を担っており、時雨は庇護されることに。 そこで、検査すると、時雨はDomというダイナミクスの性の一つを持っていて──

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

【完結】どいつもこいつもかかって来やがれ

pino
BL
恋愛経験0の秋山貴哉は、口悪し頭悪しのヤンキーだ。でも幸いにも顔は良く、天然な性格がウケて無自覚に人を魅了していた。そんな普通の男子校に通う貴哉は朝起きるのが苦手でいつも寝坊をして遅刻をしていた。 夏休みを目の前にしたある日、担任から「今学期、あと1日でも遅刻、欠席したら出席日数不足で強制退学だ」と宣告される。 それはまずいと貴哉は周りの協力を得ながら何とか退学を免れようと奮闘するが、友達だと思っていた相手に好きだと告白されて……? その他にも面倒な事が貴哉を待っている! ドタバタ青春ラブコメディ。 チャラ男×ヤンキーorヤンキー×チャラ男 表紙は主人公の秋山貴哉です。 BLです。 貴哉視点でのお話です。 ※印は貴哉以外の視点になります。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

悩める文官のひとりごと

きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。 そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。 エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。 ムーンライト様にも掲載しております。 

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

売りをしていたらオネェな不良に怒られました

天宮叶
BL
病気の母の治療費と生活費を稼ぐために売りをしていた棗は、ある日学校で売りの仕事をしている所を、有名な不良である沖に見られてしまい…… オネェ不良✕ビッチな受け の可愛いお話です💕

処理中です...