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在るべき場所へ
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◇
耳奥が塞がったような感覚に目を開ける。
ごぽ、と空気が割れるような音がして青い視界に驚愕し口を開ける。
ごぽごぽと更に泡が目の前を上がっていき、同時に襲う息苦しさに必死にもがいた。
動かした手と足が何かにまとわりつくように重い。
それなのに身体は軽く、ここが水中だと理解した。
必死に足を掻き、手足を動かして上を目指す。
「……っか……はっ……ぅっ……ごほごほっ」
光り輝く水面へ顔を出せば、柔らかい風が頬を撫でる。
濡れた視界で周囲を確認して、木々に囲まれた緑と青にここがどこであるか知った。
「おーい、あんた大丈夫かぁ?」
呑気な声が遠くでして、首を横に振って手を上げる。
「いや、ふつうに、死ぬ……っ」
気管に入った水を追い出そうと咳き込みながら溺れないように手足を必死に動かす。
ともすれば沈んでしまいそうな状況なのに、不思議とそんなふうになる心配はなかった。
桟橋から小さな小舟を出して近寄る見知らぬ男に、俺の呟きは聞こえなかっただろう。
「あんた一体どこから来たんだ? 俺ぁずっとここで釣りしてたんだけどいきなり水中から現れて死ぬほど驚いたぞぉ」
「……悪い、な……っ」
伸ばされた手を掴んで引っ張り上げられ、転がる小舟の上で、男の声に笑みが零れる。
空は青く、どこまでも澄んでいた。
その空気を思いきり吸い込んで、またも咳き込む俺に男が適当に背を撫でてくれる。
ハアハアと肩で息をしながら、それでも謎の充足感に包まれていた。
「……なぁ、駐屯地に行って、サエキがここでぶっ倒れてるって伝えてくれないか」
「駐屯地? あんた、部隊員なのかい」
「……いや違う、ただの事務員だ」
「そうかぁ。じゃあ待ってろ、その様子じゃ動けそうにもないだろうしなぁ」
「悪いな……恩に着る……」
言ってまたも咳き込む俺をよそに、小舟を降りた男が早足で去るのを見送って、仰向けのまま空を見上げた。
眩しいくらいの陽射しは暖かく、冷えた体を照らす。水辺の澄んだ空気がすべてを浄化するようで、視線を向けた青い空は名も知らぬ大きな鳥が優雅に泳いでいた。
そう言えば、この国の神様は鳥の姿をしてるんだっけ……。
そんなことを思っていると、バタバタと慌ただしい足音がして小舟が激しく揺れる。
「ナツ!」
飛び込んできたのは金色の髪を一つに纏めた若い青年だ。
俺を見るなり瞳を揺らせた彼は、倒れ込んだ俺の身体をしっかりと抱き寄せた。
「どこに行っていた……っ、ずっと探してたんだ……!」
「……いたたた……。エンリィ……」
ぎゅうぎゅう抱き締めるその力強さに骨が軋むような感覚を覚えながら俺が言えば、感極まったようにエンリィは眉を下げて頷く。
「……良かった……本当に……良かった……っ」
「……ごめんな。ありがとう……」
その表情に切なさを覚え、涙を堪えながら青年の背に腕を回した。
懐かしい彼の香りにどうしようもないほどの愛しさがこみ上げて目を閉じる。
そうだ。
ここが俺の現実だ。
迷わずに過ごせる、せかいだ。
不自然なほど俺たちから目を逸らす男に礼を言って、エンリィは俺を背負って歩き出した。
情けない事に身体に全く力が入らなくて、疲労感に苛まれていたからだ。
大きなその背中に胸を預ければ、なんだか以前より逞しくなったような気がして目を閉じる。
揺れる肩に頭を預けながら、見知ったはずの景色をただ瞳に映した。
「……色々変わったんだ。ナツヤがいなくなって……」
「……そうか」
気遣うようにゆっくりと歩を進めるエンリィに、ほんの少し大人の余裕を感じ取れて唇を結んだ。
どれくらいの期間、俺は彼等を置き去りにしたのだろう。
「……ナツ」
だから駐屯地に着いた時、門前で待ち構えていたその人物に息を飲んで、ずるずると背を降りる俺は確かに怯えていた。
桃紫の不思議な色合いの瞳が俺を見て、アーシュはぐい、と俺の首を引き寄せる。
よろけながらその胸に飛び込んで、鼻声になるのを必死に隠しながら俺は言った。
「……ただいま、アーシュ」
「……どれだけ私を心配させるんだ」
それは聞こえないほどの呟きだった。
だがその心地良くも低い声が安堵に満ちて背に落ちた時、確かに彼の中の愛を感じて冷えた体が一瞬で命が灯ったように熱くなったのだ。
ほんの少し残っていた黒い不安はすぐに消えた。
だから俺は口元を緩めてアーシュを見上げ、エンリィを見遣って言った。
「もう、どこにもいかない」
ここにいる。
生きて、ここにいる。
耳奥が塞がったような感覚に目を開ける。
ごぽ、と空気が割れるような音がして青い視界に驚愕し口を開ける。
ごぽごぽと更に泡が目の前を上がっていき、同時に襲う息苦しさに必死にもがいた。
動かした手と足が何かにまとわりつくように重い。
それなのに身体は軽く、ここが水中だと理解した。
必死に足を掻き、手足を動かして上を目指す。
「……っか……はっ……ぅっ……ごほごほっ」
光り輝く水面へ顔を出せば、柔らかい風が頬を撫でる。
濡れた視界で周囲を確認して、木々に囲まれた緑と青にここがどこであるか知った。
「おーい、あんた大丈夫かぁ?」
呑気な声が遠くでして、首を横に振って手を上げる。
「いや、ふつうに、死ぬ……っ」
気管に入った水を追い出そうと咳き込みながら溺れないように手足を必死に動かす。
ともすれば沈んでしまいそうな状況なのに、不思議とそんなふうになる心配はなかった。
桟橋から小さな小舟を出して近寄る見知らぬ男に、俺の呟きは聞こえなかっただろう。
「あんた一体どこから来たんだ? 俺ぁずっとここで釣りしてたんだけどいきなり水中から現れて死ぬほど驚いたぞぉ」
「……悪い、な……っ」
伸ばされた手を掴んで引っ張り上げられ、転がる小舟の上で、男の声に笑みが零れる。
空は青く、どこまでも澄んでいた。
その空気を思いきり吸い込んで、またも咳き込む俺に男が適当に背を撫でてくれる。
ハアハアと肩で息をしながら、それでも謎の充足感に包まれていた。
「……なぁ、駐屯地に行って、サエキがここでぶっ倒れてるって伝えてくれないか」
「駐屯地? あんた、部隊員なのかい」
「……いや違う、ただの事務員だ」
「そうかぁ。じゃあ待ってろ、その様子じゃ動けそうにもないだろうしなぁ」
「悪いな……恩に着る……」
言ってまたも咳き込む俺をよそに、小舟を降りた男が早足で去るのを見送って、仰向けのまま空を見上げた。
眩しいくらいの陽射しは暖かく、冷えた体を照らす。水辺の澄んだ空気がすべてを浄化するようで、視線を向けた青い空は名も知らぬ大きな鳥が優雅に泳いでいた。
そう言えば、この国の神様は鳥の姿をしてるんだっけ……。
そんなことを思っていると、バタバタと慌ただしい足音がして小舟が激しく揺れる。
「ナツ!」
飛び込んできたのは金色の髪を一つに纏めた若い青年だ。
俺を見るなり瞳を揺らせた彼は、倒れ込んだ俺の身体をしっかりと抱き寄せた。
「どこに行っていた……っ、ずっと探してたんだ……!」
「……いたたた……。エンリィ……」
ぎゅうぎゅう抱き締めるその力強さに骨が軋むような感覚を覚えながら俺が言えば、感極まったようにエンリィは眉を下げて頷く。
「……良かった……本当に……良かった……っ」
「……ごめんな。ありがとう……」
その表情に切なさを覚え、涙を堪えながら青年の背に腕を回した。
懐かしい彼の香りにどうしようもないほどの愛しさがこみ上げて目を閉じる。
そうだ。
ここが俺の現実だ。
迷わずに過ごせる、せかいだ。
不自然なほど俺たちから目を逸らす男に礼を言って、エンリィは俺を背負って歩き出した。
情けない事に身体に全く力が入らなくて、疲労感に苛まれていたからだ。
大きなその背中に胸を預ければ、なんだか以前より逞しくなったような気がして目を閉じる。
揺れる肩に頭を預けながら、見知ったはずの景色をただ瞳に映した。
「……色々変わったんだ。ナツヤがいなくなって……」
「……そうか」
気遣うようにゆっくりと歩を進めるエンリィに、ほんの少し大人の余裕を感じ取れて唇を結んだ。
どれくらいの期間、俺は彼等を置き去りにしたのだろう。
「……ナツ」
だから駐屯地に着いた時、門前で待ち構えていたその人物に息を飲んで、ずるずると背を降りる俺は確かに怯えていた。
桃紫の不思議な色合いの瞳が俺を見て、アーシュはぐい、と俺の首を引き寄せる。
よろけながらその胸に飛び込んで、鼻声になるのを必死に隠しながら俺は言った。
「……ただいま、アーシュ」
「……どれだけ私を心配させるんだ」
それは聞こえないほどの呟きだった。
だがその心地良くも低い声が安堵に満ちて背に落ちた時、確かに彼の中の愛を感じて冷えた体が一瞬で命が灯ったように熱くなったのだ。
ほんの少し残っていた黒い不安はすぐに消えた。
だから俺は口元を緩めてアーシュを見上げ、エンリィを見遣って言った。
「もう、どこにもいかない」
ここにいる。
生きて、ここにいる。
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