黒祓いがそれを知るまで

星井

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在るべき場所へ

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 目覚めは軽かった。
 窓から漏れる光に目を細め、ベッドが空なのを確認し大きく伸びをする。
 エンリィは早出の為にここにはいない。アーシュも来ていない。
 一人きりの朝は清々しいほどの快晴で、思考もクリアだった。

 身を起こしいつものようにスラックスとシャツを着る。湯を沸かしポットにこの国の茶葉を入れ、カーテンを開ける。
 中庭では、家政婦のナンナが大量の洗濯物を干していた。風に揺れる濃紺色の隊服がはためいて、大量のタオルの量に彼女が溜め息を吐いている。
 ここから見える視界に、かつての小さな真我はいない。
 それに口元を緩めて、踵を返してテーブルのカップに茶を淹れる。
 硬い椅子に座り、事務仕事の書類を重ねて目を通す。湯気の立つカップを口に入れ喉を潤して立ち上がった。
 部屋のドアに鍵はかけずに出た。
 早朝の廊下はしんとしていて、武器庫前に立つ隊員に挨拶をして通り過ぎる。右手の談話室で寝転がる夜勤明けの隊員達が手を上げるのに同じく返して、振り返らずに居住区を後にした。

 空は高い。
 眩しい日差しはいつもの朝で、穏やかな風は何の脅威もなく幸福さえ連れていた。
 この国の人々は、たとえ恐ろしい化け物が出ても屈しない。前だけを見つめ、生に感謝し生きている。

 駐屯地を後にすれば、眠たげな目で今日の勤務であろう隊員が手を上げて俺を見送った。
 頷いて町へ歩き出せば、舗装されていない砂利道がどこまでも続いている。
 朝の空気を思いきり吸い込んで、すぐ傍で佇んでいた老父を見てその腕を掴んだ。
 空洞な瞳は少しだけ俺を見て、掴まれた腕を一瞬見下ろし足を動かす。それを確認して更に先を歩く。
 どこかの民家から早朝に似つかわしくない子どもの笑い声が聞こえて、そのすぐ後に母親らしき女の声が響いた。皿を置く音、おはようとかわす声、鳥のさえずり、小動物の鳴き声。
 道端に蹲っている子どもを見つけ、血まみれの脚も無視して来いと短く命令する。
 そこにいる女も、俺をずっと見ているお前も。

 ズズ、と両手が黒ずんでいく。
 足が、
 太ももが、
 腰が、
 腹が。

 俺はナツヤ。
 そうだ。

 佐伯 夏哉だ。




 身体が軽くなったような感覚がして、道を突き抜けるように走った。足音も聞こえぬその感覚は今までとはまるで違った。
 空は眩しいくらいの明るさで目が痛い。なのに肌に感じる空気はひどく冷たく、まるで違和感が身体を刺しているような感覚だった。
 立ち止まり、後ろについてくる黒い影を振り返り、腕を伸ばした。
 真っ黒な、厚みのない、漫画みたいな自身の腕。
 その腕に一人の手が重なる。二人、三人、四人……。
 そうして最後にやってきた影を見て、俺は言った。

「俺をここに連れてきて、後悔してるか?」

 女の影はじっと俺を見つめ、そうしてゆっくりと首を横に振った。

「……私を……連れていけ……」

 その言葉に、ああ、とようやく真の意味を受け取った気がして俺は笑った。
 そういうことだった。
 彼女はずっと俺に望んでいたのだ。
 俺を信じて、俺の役割を知っていた。

「いくか」

 会えないと嘆いた彼女は、正に彷徨える魂だ。
 きっとそれは俺と同じだった。

 真っ黒な腕を伸ばせば、影は俺の黒い手の上に手を重ねた。そのでたらめな指をしっかりと握って目を閉じる。
 ズズ、と手足が縮む。瞼を開ければ徐々に視界が高くなっていき、縮んだはずの腕は更に距離を伸ばして折り曲がった。
 ぐるぐると唸り声が近くで聞こえて、ぺたりと地についた手が固い毛に覆われていた。
 闇夜を拭ったかのような灰色の世界は、それでも透明感に溢れキラキラと輝いて見える。
 見えるものすべてが、色褪せた宝石のようだった。
 うつくしいのに、凍てつくような、悲しい世界だった。
 邪念を振り払うかのように首を振り、衝動のまま、走り出した。

 足音が聞こえる。ベタベタと不快なはずのその音は、どこか現実味がなくて自身の身体の重みすら感じない。
 走っても走ってもどこまでも軽いその身体に、開放感さえ持って知らずに笑っている自分に気付いた。
 その視界の隅に、人影を見つけて立ち止まる。

 欲しい。

 なんの前触れもなく、唐突にそう思って首を横に振った。
 この生き物が欲しい。
 それは本能に近い原始的な欲望だった。開いた口からぼたぼたと垂れる液体を見て目が合った人間が怯えたように後退っている。
 その恐怖にまみれた表情に、俺は口を閉ざした。

 要らない。
 俺にはもう不要だ。

 頭を振って衝動と欲望に振り払う。

 俺はもう要らない。
 だってもう俺は……。

 顔を上げれば既に人間の姿は無かった。
 そうして遠くから複数の足音が聞こえて、耳を澄ます。
 きっと彼等は水場に俺を追い詰めるだろう。
 だがその前に、やるべきことは一つだけ。

 移動しながら、佇む迫間の者を見かけ、そいつらを鷲掴みにして口に入れていく。
 彼等はなんの抵抗も見せず、俺の口へと吸い込まれていった。味など何もしない。
 なのに腹に入れるたびに酔い痴れるような幸福感が襲ってきて、その度に身体が軽くなった。
 そこにいるべきじゃない。
 お前らは皆、そこにいるべきじゃない。

 羽が生えたように身体が軽い。
 ぐんぐんとスピード上げて町を走る視界に、人々の驚愕した表情と悲鳴が垣間見える。
 振り向かない。
 壁を伝い、塀を飛び越え、時折魂の欠片を拾い、ただ食らう。
 色のないこの視界は味気ないのに、俺はそれが何であるのか知っている。

 知っているんだ。


 足を止めた場所は穏やかな風に水面が揺れている池の前だ。
 どんなに走っても息切れ一つしない己の身体に感動しながら、なんだかすごく満足感が襲ってきて声を上げて笑った。
 なのに喉から出る声は低くしわがれた咆哮のような声で、その唸り声は遠く離れた場所にいた人間の耳にも届いたのだと分かった。

「……大型の真我、東地区貯水池方向です!」
「応援を……っ」

 バタバタと足音が迫る。焦ったような冷静なような声が段々と近付き、それ以外の声も遠くで聞こえる。
 視界こそ灰色で色のない世界だが、彼等がどこにいるのかなんとなく分かるような気がして、研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚に今更ながらに真我の生態を知った気がした。
 討伐隊から逃がれ、人を襲い続けた真我はこんなにも身体が軽く、何もかもを知ったような感覚でいたのだろうか。
 だとしたら彼等が苦戦する理由も当然だろう。真我には魂の居所が手に取るように分かるのだ。
 その甘くて空腹を誘うような匂いは、なりふり構わずに口に入れたい衝動を抑えるのに必死だった。
 彼等が近付く度にその匂いが濃厚になり、酩酊したような感覚すら覚える。
 沸き立つ欲望に流されまいと首を振る俺は、ふと今までの真我と同じ行動をしている事に気付く。
 機敏な動きで頭を振る彼等の動きを、ひたすらに不気味だと感じていたが、もしかしたらかつての真我も俺と同じ様に葛藤していたのだろうか。

 草むらをかき分ける足音が続き、顔を上げれば隊服を着た者たちが俺を前にして剣を向けていた。
 鋭い目つきと痛いほどの殺気。
 腰を低くし構える態勢は、見慣れた男達の姿。
 その中に目当ての顔が見えなくて吐息を漏らす。

「……被害は?」
「それが何かを食べる仕草はしていたらしいのですが、人を食った様子はなく……」
「……魂か」
「第一はまだなのか? ここまで大型だと……」

 数人の隊員が話すその言葉を耳にしながらぐるりと周囲を見回した。
 連携のとれている彼等は、そうしている間に真我の後ろに回る。一つの事に執着してしまう真我の生態を知っての事だ。
 案の定、背後に走り込もうとしていた隊員を見つけ、無造作にそいつを掴もうとして指が空を切った。
 力の加減が分からずに一瞬戸惑った俺をよそに、討伐隊は剣を振りかざし俺を突こうとする。切っ先が腕を掠り、僅かな痛みが走ったがすぐにそれも消えた。
 後ろに下がり俺を攻撃する若い隊員と距離を取ろうとするが、男の眼差しを見てその考えが甘いのだと悟る。
 彼等は俺を殺すのだ。
 当然だが、命を懸けて対峙するその殺気は凄まじいものがあった。確実に俺を殺すと、彼等は全身で叫んでいる。
 その瞳を見るだけで絶望に近い感情に支配されていくような気がした。
 それはきっと、初めて感じる死への恐怖だった。
 おかしな話だ。消滅を恐れている訳じゃないのに。

 剣を振られる。左右から走り込まれ、前方の隊員も時を同じくして走ってくる。
 細く尖った剣の先が俺の手足を切ろうと空を切り、身体を突こうと距離を縮められる。

 傷つけたくはない。
 食べたくもない。

 ぐるぐると喉が鳴る。
 しつこい剣の攻撃に耐えきれず、左手から走ってくる男を掴んだ。今度は迷う事無くその身体を手中に収め、そのまま前方の隊員を飛び越えて草むらを走り立ち止まった。
 俺の動きに目を見開いて追った男達が、ごくりと唾を飲み込んでいる。
 てのひらの中でもがく男の顔をじっと見下ろし、彼等の緊張の理由を知った。

 苦し気に呻いた男はそれでも怪我もないようだ。己の食われる瞬間を覚悟しているのだろうか。
 口に運ぼうとしない俺を不思議そうな瞳で見ながらも、隙を窺っているのが分かる。
 その視線を受け止めながら、彼から漂う芳香に無意識に涎が垂れていく。
 ぼたぼたと滴り落ちる液体に知らぬふりをして、顔を上げた。

「……くそっ」
「なんか、変じゃないか?」
「何がだ、早くしないとアビがっ……」

 焦る隊員と、苦し気に呻く手中の男。
 じっと交互に見つめる俺を見る後方の隊員。
 その中に凛とした足取りで剣を持ち近寄る男の姿を見つけて、声を漏らした。

 アーシュ。
 アーシュ。

 待ち望んだ男だった。
 俺の始まりの男だった。

「ヴァァアア…………」

 こみ上げる感情に逆らえず彼の名を呼んだのに、この世の終わりのような声がしてそれを止めた。
 その醜悪な自身の唸り声に、悲しみに心が折れそうになる。
 今の叫びでは何も伝えられない。
 なのに喉から出る音は、不快な低い闇の音。
 伝えたくて口を開いてもこの喉から出る音は、声ではない何かにしかならない。
 もどかしさにかきむしりたくなる感情を抑え込んで、首を振る。気を抜くと黒い何かに支配されていく感覚がした。

 そうだ。
 もう俺と彼は話すらできない。
 全身で叫んでもその声は二度と届かない。
 涙を流しても、あの男は俺を慰める事はない。
 ないんだ。

 首を横に振りながらしっかりしろ。と自身を叱咤する。
 こうなることを知ってこの姿になったはずだろう。
 
 アーシュは、俺を射るように見つめ剣を握り締めた。
 その迷いのない桃紫色の瞳を見て、俺は笑う。
 それでいい。
 それでいい。

 お前が躊躇しないことが俺の願いだ。
 もう、迷わなくていい。
 彷徨わなくて、いい。

 手の力を抜けば、隊員はあっさりと地面に転がった。
 突如拘束から逃れた彼が驚愕するのを確認して、またも左右から走り込んでくる男達を躱す為に飛躍した。ぼたぼたと涎を垂らしながら、地を這って揺れる池の波打ち際に着地する。

「……何故、食べようとしない?」
「知るか、なんだっていいだろ……!」

 数人の隊員が違和感を覚えて声を上げるのに、アーシュも片眉を上げていた。
 そうして立ち止まり、じっと俺の様子を窺っている。

「……変わった真我だな」

 首を傾げ、アーシュが言う。
 だが迷いは一瞬だったのだろう。
 態勢を整えたアーシュと隊員達が一斉に走り込んでくるのに、濡れた地面を握り締めて覚悟した。

 アーシュ。
 アーシュ。
 
 俺はひどい裏切りをした。
 だから、


 これがせめてもの、償いだ。


 灰色の視界がスローモーションのようにゆっくりと動いていく。
 切っ先をかざし走り寄る彼の瞳をじっと見つめる。
 美しい男だ。
 何もかもが美しい男だった。

 複数の剣先が俺に近付く。それを視界の隅で確認しながら、アーシュの剣が迷わず俺の中心を貫いたのを見送った。

 痛みは無かった。
 不思議なくらいに。

 ぐるりと視界が空に変わり、水飛沫の音が遠くで聞こえた。
 身体から何かが抜けていく感覚がして、それが先程口に入れ続けた魂の欠片だと頭の隅で理解した。
 刺された反動で水中に倒れる真我おれを、きっとアーシュは、最期まで見届けるだろう。

 ああ、
 これで……、
 やっと……。




 痛みなどない優しくも愛しい世界に何の意味がある。
 暗く寂しい生を嘆き、苦しみにまみれ、腐った心を持ち続けた世界に何の意味がある。

 違う。
 そんなものはどうでもいい。

 なんだっていい。


 お前と出逢えたのなら。







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