黒祓いがそれを知るまで

星井

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桃紫の瞳

05

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 叫んだのは同時だ。
 天井に届くかと思うほどの真っ黒な影は、細い四つ足を伸ばし獣のように床に這っていた。
 体毛なのか泥のなのかすら分からないほど黒い体はヌメヌメと歪に光り、気色が悪い。獣のような動きと形をしているが、あるはずの目は見当たらない。だがその下の空洞は大きな口で、これが一番厄介な部分なのだ。

「こんなところに真我まがなんて…」

 腰に携帯している剣を抜いたエンリィを見て、俺は激しく嘆きながら地団駄を踏んだ。

「ええい、もう! エンリィお前はいいから応援呼んで来い!」
「し、しかしそれではあなたが」
「俺は大丈夫なの! 大丈夫じゃないけど大丈夫なの!」
「一体どういう、」
「いいから早く行け!」

 叫んだ俺の気迫に何かを感じたのか、すこし逡巡したエンリィは、それでも意を決したように踵を返した。
 離れていくもう一つの懐中電灯の光を未練がましく見つめながら、はぁ、と肩を落として黒い化け物、真我まがと向き直る。
 この世界のもう一つの脅威、それがこの化け物だ。

 ベタン、ベタン、と体の割に細長い前足を動かし、真我まがは俺の方にゆっくりと近付いてきた。
 俺はそれに逃げもせず諦めて受け入れる。開かれた口から牙が見え隠れし、べちゃべちゃと血反吐のような涎を垂らしていた。
 生臭い匂いが鼻につく。首を背けながら鼻先まで来たその黒い塊を見上げた。

「……ニンゲン……良イ匂イスル……」
「三十路過ぎてから体臭きつくなった気がしてたけどやっぱヤバイか?」

 頬を引き攣らせながら笑えば、ぐるぐるとそいつは喉を鳴らしたような音を出した。
 何度か物欲しげに口を開閉し、グイグイ顔を寄せてくるが何故か俺の身体を飲み込もうとはしない。
 本来ならば、こんなに無防備な状態の人間が、コイツに食べられずに済んでいる事は無い。
 真我まがは定期的にこの世界のどこかに現れ、人を好んで食い殺す。真っ黒な体に、歪な四つ足。主に夜に現れ、逃げ足も速い。理性はなく、人間とコミュニケーションは取れないと思われていた。
 事実、こうしてこいつらの声が聞こえるのは俺だけだ。
 他の人間にはこいつらが話す事など知りもしないし、想像も出来ないに違いない。俺は見えない者を見えるだけでなく、聞こえないはずの真我の声を聴ける能力を持っているのだ。

「余計なオプションだよなあ」

 小さく嘆息して、けれどだからこそ騎士団に拾われたのだと思い直す。
 逞しい彼等とは違い、ぬるい日本育ちの俺は生憎としがない事務員しか身の置き所が無かったが。
 元の世界でも霊が見える能力なんて要らなかった。信じて吐露すれば最初は面白がられたけど、そのうち馬鹿みたいな演技はやめろと言われて絶望したものだ。
 端から誰も、信じてはいなかったのだ。インチキだとかなんだとか、自分の身に降りかかればかかるほど勝手な事を言うのだ。
 人は、信じたいものしか信じない。

「……でもあいつ、何の疑いもせず信じたな」

 今日会った金髪の、色男。
 普通なら隣に女児が立ってると言っても、大体は信用しない。まさか、と連呼し、高熱が続いても医者に通い続ける。そのうち夢の中で女児を見ても、現実で声が聞こえても、そんなはずはない、と否定するのだ。最終的に頭が可笑しくなったのだと自信を失くし心を蝕まれる。
 そうしてまた俺の所へ泣きつきにくる。俺が傷ついているとは思いもせずに、助けてくれると何故か確信を持って。
 当然の反応なのかもしれない。
 そうされてきたことを今更どうこう思わないが、エンリィのように疑いもせず信じる人間は、俺にとっては凄く貴重だった。

「……お前どこから来たんだ?」
「……グルル……下……下…」
「下? ……まさか、ずっとここで」
「……此処ニ来ル人間……食ベテタ……腹減ッタ……」

 白骨化した浮浪者の死体はこいつが犯人か。
 この様子じゃ一人だけではなかったのだろう。 
 首を巡らせば、ひらりと視界に薄ピンクの布が写った気がして俺は懐中電灯を照らした。
 シンディだった。

「……ああそうか」

 真我は、人の負の感情が具現化したものだと言われている。憎しみや恨み、妬みや焦り、寂しさや悲しみ、怒りや悔しさ……そうしたものが渦巻いてる場所に多く出現しその原因である人間を食らう。
 それが真実かどうか確かめる術はない。だが殺人現場だった場所や多くの犠牲者が出た事故現場から多数出現することから、この世界の人間はそうだと信じている。
 この家が、一家惨殺が起きた屋敷なら。
 魂の欠片がまだここに残っていたとしたら。
 その思いが命を持つことも自然なのだろう。

「シンディ、お前の母さんと父さんはこいつに……」

 どこにも行けずにいた迫間の無念が、コイツになったのか。
 問いかけに血塗れの少女は答えない。暗闇の中、ただじっと俺と真我まがを見つめている。
 だが俺は確信していた。彼女はエンリィを求めたのではない。
 きっと、それは──。

「大丈夫か」

 低く掠れた声がして、俺は顔を上げた。同時に目の前の真我がバタバタと四つ足を激しく動かし暴れている。
 見れば剣先が真我の背中から胸を貫通し俺の目の前で小さく光っていた。
 ぼたぼたぼた、と得体のしれない液体が床に落ちる。大きく開けた口から断末魔の叫びが飛び出る。それは人の泣き声のような怒声のような、色んな思いが混じった音だ。
 思わず耳を塞いだ俺に、真我に剣を突き入れただろう男が俺の額を優しく撫でつけた。

「……っ……よう、朝ぶり」

 誤魔化すように笑みを浮かべ、周囲に聞こえないように小さく呟く。男はそれに答えず、のたうち回る真我を見ながら俺の隣に立った。
 数秒もせずバタバタと複数の足音が聞こえ、瞬く間に周辺が明るくなる。王国騎士団第二部隊たちだ。主にこの町に発生する真我を倒す使命を請け負っている彼等は、手慣れた様子で死にかけの真我を見上げた。
 コイツの叫びを、普通の人間は聞こえない。悲痛な、この世の終わりだと言うような苦しみにまみれたこの声は、俺にとっては聞いていられないほどつらいが、それは皆聞こえない音なのだ。
 真我はやがて、糸が切れたようにばたんと横たわった。
 苦しげに微かに揺れる腹部が、時を止める。そうして次の瞬間、色が変わった。

「間に合って良かった」

 エンリィが静かに俺の傍に来て眉を寄せて死んだ真我を見つめて言った。
 それに微かに頷きながら、すっかり背筋を伸ばして体調不良など忘れたかのような晴れた表情の彼を見て、俺は任務が終わったことを知る。
 ふわふわと燃え尽きた灰のように真我の欠片が空に漂っていった。瞬く間に散り散りになった身体が真っ白な細かい粒子となって床に落ちていく。
 真我まがの最期は、いつも美しい。凶暴な生とは反対に。

「……シンディ、もういいんだぞ」

 ひらひらとネグリジェの裾が靡いている。
 第二部隊の隊員たちが慌ただしく屋敷中を調べる中、男とエンリィは静かに俺の言葉を聞いていた。見えもしない、嘘みたいな現実を。

 血まみれだった少女の顔は、すっかり汚れが落ちて綺麗な肌を見せている。栗色の大きな瞳は、成長すればさぞかし男たちを虜にしていただろう。

「大丈夫」

 何とはなしに口に突いた言葉をそのままシンディに言えば、彼女は少しだけはにかんだような表情を見せた。
 苦しみで終わった生を彼女は恨んではいない。子どもは、大人が思うよりずっと真っ直ぐで清く強い。どんな目に遭っても、自分だけの親を、信じている。
 寧ろ苦悩のまま死んだ両親を長い間ずっと心配してこの地に縛られていたのだろう。罪深い大人の二人は娘の想いを知らぬまま生を終え、迫間となり、真我になった。
 うまくいくことだけが人生ではない。
 それくらい俺にだって理解できる。

「もう、休めよ」

 シンディが真っ直ぐに駆けていく。薄汚れた室内がまるで新築のように綺麗な姿を垣間見せた。玄関先で、ドレスを着た女性の姿が見えた気がした。その隣に革靴を履いた男性の脚が見える。三つの後ろ姿は瞬く間に闇に溶け込み、消えていった。


「ご苦労だったな」
「いやいや俺はただ、コイツの用事で来ただけだし」

 金髪の二人を見上げ、俺はエンリィを指差して男に言った。桃紫色の瞳が四つ、俺を見下ろしている。精悍な顔つきの美しい男は、優しげな目元をして落ち着いた装いだ。金色の髪も襟足で揃えられ濃紺の隊服は長い襟を立たせ文句なしに格好良い。
 その隣のエンリィは、彼より僅かに背は低いものの気難しそうな眉と少し薄い唇が若さを強調している。こうして並ぶと一目でわかる。

「さすがに似てるな」
「……兄上、知り合いですか?」

 エンリィの問いかけに男がなんて答えたのか。
 肩を竦めながら俺はそこからさっさと退散することにした。終わったならもうこんなところにいたくはない。すぐにでも帰りたい。

「あー……疲れた」

 大欠伸をしながら屋敷を出て夜道を歩く。しかし数歩進んだところで、俺は無言で元来た道を引き返した。

「え、エンリィ! 帰るぞ!」
「……は?あなた今先に出ていったんじゃ」

 兄と話していた奴は訝しげに俺を見て、口を開く。

「うるさいな、お前こそこの暗い夜道を一人で帰れるのか? 第二部隊はまだまだ時間かかるぞ。他に真我がいないか周辺を隈なく探さねばならんし、報告書も上げなきゃならん」
「……帰りましょうか」

 背に腹は代えられない。
 互いの利害が一致したことに気付いたエンリィが俺の後ろをついてくるのを確認し、笑みが零れる。
 肩を並べ夜道を歩きながら、俺は言う。

「あそこに怖い顔をした女が立ってるんだ。あっちにはじーさんがゆらゆら揺れてるし、向こうには」
「やめろ、少しは黙れ!」



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