富嶽を駆けよ

有馬桓次郎

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五.富嶽を駆けよ

(三)

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 刻一刻と、吹雪は酷くなっていた。

 あらゆる方位から吹き付ける飛雪はしつこく体表にこびりつき、六人は雪像のような有様となって斜面を下り続けている。
 最早十間先も見通せなくなった視界に、先程まで朧に浮かんでいた烏帽子岩の影も消えてしまった。折悪く日没も重なったようで、一行の周囲はやがて指先すら見えない本物の闇が覆い尽くしていた。

 それでも、先頭を行く八行は慎重に歩を進めている。新雪を掻き分け踏み固めながら、時折大きく方向を変えて何とか一行を尾根の上に留まらせている。
 視界が全く利かない以上、その道行きは先導する八行の記憶だけが頼りだ。
 しかし、降り積もる雪は山肌の全てを覆い隠して、富士の御山を夏とはまるで別世界に変貌させている。夏の御山にしか登った事が無い筈の八行の誘導が、果たして正しい方向を示しているのか否か、確信をもって答えられる者は誰もいなかった。
 寒風は厳重に覆ったはずの首元や袖口から容赦なく染み透り、辰の身体から貴重な暖気を奪い去っていく。
 全身をおこりがかった様に震わせながら、それでも辰は前を行く留次郎の背中を押し、雪原の中につけられた踏み跡を辿って歩き続けた。

 どれほどの時が過ぎていったのか。
 不意に、視界の只中へ黒々とした巨石が現われ、凍えきった辰の背中がビクリ、と撥ねた。暗黒の山腹へ不気味に佇むその岩こそ、七合五勺・烏帽子岩であった。
 その根元には、噴石を積み上げて松の板を葺いた小さな岩室がある。正面には出入口が二つついているが、一方の戸板が無く、内外が素通しになっているのは何故だろうか。
 嫌な予感がした。

「御尊師さま、岩室の中に誰もおりません!」

 一足早く、内部を覗き込んだ八行が叫んだ。
 岩室の中は、十畳程の空間となっていた。床には無垢の板材が地面にそのまま並べられ、上に申し訳程度の筵が敷かれている。入口の脇には、やはり噴石を積み上げた竈がしつらえてあり、空の鉄鍋が侘しく上に置かれていた。
 その全てが、開いたままの入口から吹き込んだ雪にうっすらと覆われている。風雪が部屋の中心でとぐろを巻き、四隅に小さな吹き溜まりを作っている。

「そんな馬鹿なことが……!!」
「まさか、我等を見捨てていったのか!?」

 善行と、その肩に片腕を負われた恵行が、無人の屋内を見て慨嘆する。
 そこは四方が石壁に囲まれているだけで、外界とまるで変わりが無い空間であった。いつ頃に平内左衛門達はここを去っていったのか、温もりなど欠片も残っていない凍りついた部屋であった。
 一体、どうして。
 室内を流れる冷え冷えとした空気に、辰は膝が崩れ落ちるほどの絶望を覚えていた。

「いや、岩室の中に新しい薪が積んである」

 壁際に積み上げられた薪の山を見下ろしながら、八行が呟く。

「恐らく、ここだと待っている間に自分達も凍えてしまうと思って、我等が使うための薪と火口を置いて御山を下ったのだろう。私が彼等の立場でもそうするよ」
「戸板が無いのもそういう事だろうな。俺達が下ってくる事を見越して鍵を開けておいたが、この大風でかんぬきごと抜けて吹き飛んじまったんだ」

 戸板が嵌っていたはずのかまちを撫でながら、三志が言った。
 そこには熊の爪痕のようなささくれが立ち、強大な風の力によって引き剥がされたことが見てとれる。
 平内左衛門は、彼等を見捨てた訳ではなかった。自分たちが居なくとも一行が夜を越えられるよう、準備をした上で岩室を離れたのである。
 しかし、逆巻く富士の大自然が平内左衛門の想像を遥かに超え、彼の配慮を全て無にしてしまったのだ。

 残されていた薪は、一本残らず雪で湿っていて使い物にならなかった。小刀で焚き付けを削ってみたが、燧石を打っても火花が散るばかりで煙すら立たなかった。
 火の気の全く無い岩室は、最早休息を取れるような場所ではなかった。そこは凍てつく空気が支配する、文字通りの氷室に変わり果てていた。

「食行さん、男女和合が成った晴れの日にこの仕打ちたあ、お恨み申し上げますぜ……!」

 烏帽子岩の上部を睨みながら、三志が餓狼のような唸り声を上げる。
 彼等のいる岩室の脇、往路では並んで御ふしを謳いあげた石段の上には、今なお五代・食行身禄の遺骸が眠るとされる小さな祠がある。富士講身禄派、そしてその流れを汲む不二孝にとって、そこは富士山中における最大の聖地と呼べる場所だった。
 そのような場所で、三志は怨嗟の声をあげたのである。
 自らの生涯をかけて追い求めた大願が、富士に神性を見た人々が長年願い続けていた夢が、あろうことか荒ぶる富士の息吹によって阻まれようとしている。
 その非情な事実は、御山に理想を掲げて人々を導いてきたこの老行者にとって耐え難い矛盾に思えたのかも知れない。

「──御尊師さま、明かりが見えます!」

 その声に、三志は小走りで岩室を飛び出して行った。辰もよろばう足を叱咤して、その後に続く。
 善行が、雪の斜面に立って下方を俯瞰していた。三志はその背に縋りつくと、善行の肩越しに麓を見下ろす。
 
「どこだ、どこに見える」
「ほら、あすこに。ずうっと下の方、黄色い灯が一つ」

 善行が示した方角へ、辰も視線を向ける。
 最初は吹き募る雪と黒々とした闇がたゆたうばかりだった。だが、よくよく目を凝らして眺め続けていると、風雪が収まる一瞬一瞬にちろり、ちろりと瞬く小さな光が見える。
 それは、決して幻ではない。胡麻粒よりもなお細かな光だったが、確かに人の手で生み出された温もりを感じる光であった。

「ありゃ天地境の辺りだな。中宮小屋に、誰かが火を焚いて籠もってやがる」
「もしや、塩谷さまでありましょうか」
「有り得る話だ。俺たちが下りて来るのを待っているのやも知れねえ」

 三志は、遥か光の方角へ視線を据えながら言った。

「皆、ここから見える灯の位置をしっかと覚えておけ。もしもこの先、あの灯が見えぬようになったとて、その方向へ下りて行けばやがて中宮小屋に辿り着く」
「やはり、下りますか」

 八行の短い言葉に、三志は小さく頷く。

「ああ。少しずつ風も弱まってきちゃいるが、あと一刻もすれば前にも増して吹き荒れる。ここじゃ耐える事は出来ねえ、今の内に天地境まで下りるぞ」

 その言葉に応える者は、いなかった。誰もが疲れきり、誰もが傷ついていた。
 だが、この場所にこれ以上留まる事はできない。暖を取れる火も無く、風を防ぐ戸も無く、そんな場所でこれ以上の吹雪に立ち向かえる筈も無かった。
 岩室だけの問題ではない。ここに至る行路の中で、装束をまともに保っていた者など皆無だった。
 荒れ狂う暴風によって煽られ、剥がされ、はためき続けていた衣服は、いずれも襤褸切れのように裾がほつれ、破れ果てている。
 滑り止めのために足の裏へ巻いていた荒縄はいつの間にか無くなり、それどころか草鞋ですら穴が開いて、じかに足袋の裏で地面を感じている者さえいる。これらを新しいものに取り替えようにも、結び目が固く凍り付いていては解くことも出来ない。
 このまま七合五勺に留まる事は、死を意味している。それは、この場にいる全員が認める所だったのだ。

 まるで幽鬼のような足取りで、一行は烏帽子岩を後にする。
 あれほど荒れ狂っていた風雪は、六合五勺を過ぎる辺りから徐々に小康状態となっていった。時折吹く風は氷よりもなお冷え切っていたが、その圧は体表を柔らかく撫でる程度まで収まっている。
 それまで天頂を覆っていた雲が薄くなり、山頂近くに昇った朧月から青白い光が富士の山腹へ流れ落ちていた。
 それは蛍火のようにささやかな光だったが、灯火と呼べるものを何も持たない彼等にとっては、例えわずかでも足下を照らし出してくれる恵みの光であった。

 月の輝きを背に受けながら、辰は先を行く自らの影を追って斜面を下り続けている。影は雪上で伸び縮みしながら、まるで疲れなど知らぬかのように辰を導き続ける。

 影になりたい。
 顔も身体も見分けがつかぬ姿になってでも、この魂魄まで凍りつくような白い地獄から抜け出せるのなら何を差し置いてもいい。

 そんな益体もないことを考え、慌てて首を振って打ち消した。
 約束したではないか、無事に帰る、と。江戸日本橋の雑踏の中で、吉田御師町の朝霧の中で、自分をこの御山へと送り出してくれたあの優しい人達と。
 ならば、進み続けるしかないのだ。僅かに残された体力気力を振り絞り、この深い新雪に覆われた斜面をひたすらに下り続ける。
 それだけが、今や彼女に残された生還への唯一つの道であった。

 それが何処の地点で起こった出来事なのか、定かではない。
 辰は地面だけを見つめて歩いていたし、例え視線を上げていたとしても、降り積もった雪によってあらゆる目印が埋まっていた状況では、とても現在地を見分ける事は難しかっただろう。

「……母ちゃん!」

 その魂消るような叫びに、ハッとして顔をあげた。
 前を行く留次郎の身体が、ゆっくり、ゆっくりと左へ傾いでいく。恐らくは無意識に踏み出したのだろう左脚が新雪の中へ埋まったと見るや、ぼそり、と底が抜けるように雪原がくり抜かれた。
 湧き立つ雪煙の中へ腕を繰り出す。届かなかった。
 あと一寸のところで捉え損ねた留次郎の身体が、大沢への急斜面を俵のように転がり落ちていく。

「留ちゃん!」
「駄目だ、お辰やめろ──!!」

 きっと気配から察したのだろう、三志の叫び声が彼方から聞こえる。
 約束したのだ、無事に帰ると。
 約束したのだ、姉ちゃんが連れてってあげると。

 辰は、斜面に身を躍らせた。
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