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四.女富士開山
(二)
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登拝二日目の朝。
辰は、何者かが小屋の板戸を叩く音で目を覚ました。
小屋の中に人の姿はない。
もしや寝坊した自分を放って出発したのではあるまいかと考え、しかし板間に荷物が置きっ放しになっているのを見て胸を撫で下ろす。
また、板戸が激しく叩かれた。
僅かに開いた隙間からびょうびょうと笛にも似た音が響き、それが人の手によるものではないことを悟った。
これは、風の音だ。隙間から差し込む外界の光が、妙に白みがかっているのは何故なんだろう。
ぞくり、と辰の首筋を冷気が撫でる。小屋の中の空気は氷のように冷え切っていた。
辰は布団代わりに掛けていた簑を羽織ると、恐る恐る板戸の隙間に目を寄せた。
「──えっ!」
板戸を引き開ける。
途端に逆巻く強風が顔を叩き、慌てて額の前で掌を広げて遮った。その掌に、ぽつ、ぽつ、と冷たいものが触れては溶け流れていく。
小屋の周囲の風景が、昨日とは一変していた。
見渡す限りの銀世界が広がっている。唐松の疎林も、大人が三人で囲んでなお抱えきれぬ程の大岩も、墨が染みこんだような黒砂も、ここから目にすることが出来る何もかもが真綿のような雪に覆われていた。
降雪は、今も続いている。それも斜面に沿って横殴りに吹きつけてくる飛雪であった。
雪は天から降るものとばかり思っていたが、横合いから飛んでくる、あるいは足元から舞い上がってくる雪もあるのだと、辰はこの時初めて知った。
思えば昨晩、降るような星空の下で三志が言っていたではないか。今日は五合目から上が相当に冷え込んでおり、また風も吹き荒んでいる、と。
昨日の三志の言上は唐突さが否めなかったが、きっとあの時点から、百を超える登拝経験を持つ大先達は降雪の気配を感じ取っていたに違いなかった。
びょう、と風が吹き抜けていく。
まるで目に見えない巨大な掌が叩きつけられたように、均衡を失った辰の身体がフラリ、と傾いだ。
「危ねえ!」
誰かが背後から辰の腕を取り、済んでのところで転倒を免れた。
肩越しに振り返ると、そこにはまだ童の雰囲気を残す留次郎の顔が困ったように眉を寄せている。
「気を付けてくれよ、お辰姉ちゃん。こんなとこで怪我してもつまらねえからさ」
「あ、ありがとう、留ちゃん」
「ほら、しゃんと立って。少し腰を落とした方が踏ん張り利くぜ」
辰としては、一行では最年少の留次郎を弟のように気に入っている。自分より八つも年若ながら、その口調や仕草が妙に大人ぶっているように思えて、まるで近所の顔馴染みの悪童を相手にしている気分だった。
見れば、この風雪の中で男達は小屋の外に立ち、白幕の向こうに隠れた御山の様子を伺っている。雪煙に見え隠れする人影を数えるが、そこには留次郎を加えても六人しか居ない。
「三志さまは?」
「御尊師さまなら、別の登り口がないか見てくるって、恵行さんを連れて行っちまったよ。もうしばらくしたら戻ってくると思うけど」
「どうして? このまま登拝道を登っていくのじゃ駄目なの?」
辰の問いに、留次郎は両手を腰に当てて登拝道の先を見た。
「こんな様子じゃ、ここから上は雪に降り込められて登れやしねえってさ。頂まで吹き曝しで身を隠す場所も無いし、草鞋だけじゃ足元が滑るだけだって」
「三志さま、こんな暗い中を出ていったの……」
周囲の明るさから日の出はとうに迎えているのだろうが、低い雪雲に遮られて今だ天地境に曙光は注がれていない。三志と恵行がいつ発ったのかは判らないが、今よりももっと薄暗い時であったに違いない。
心配する辰を安心させるように、留次郎は白い歯を覗かせて笑いかけてきた。
「大丈夫だって。御山にかけちゃ御尊師さまほど詳しい御人はいねえし、別の登り口だってすぐに見つけて戻って来られるさ」
留次郎の言葉通り、三志が恵行を伴って中宮小屋まで戻って来たのは、それから四半刻ほど経った後のことだった。
「このまま登拝道を登るのは止めだ。西へ逸れるぞ」
肩に雪を乗せたままの三志は、しかし碌に疲れも見せずに言う。その言葉に、御師の平内左衛門が驚いたように目を剥いた。
「西、ということは御山の北面に出るということですか」
「ああ。この大風は、南から御山を回り込んで吹いてきてるもんだ。御中道を使って大沢を渡り、北面に出れば御山そのものが風を遮ってくれる」
五合目には、富士をぐるりと一周する御中道と呼ばれる細道がある。
かつて富士が修験霊場だった頃には多くの行者が修行を積んだ道であったが、嶮岨な上に崖崩れも多く、富士講が隆盛する現在では熟達者しか挑戦することを許されぬ道であった。
「大沢を渡ったところでもう一度斜面に取り付き、そのまま真っ直ぐに上を目指す。下から覗いた限りじゃ、少なくとも七合五勺の烏帽子岩の辺りまでは雪は付いてねえ。本来の登拝道じゃねえから、ちいとばかし歩きにくくはあるがな」
「し、しかし、あれだけ上から岩が転がり落ちてきている大沢を渡るなど……」
「なに。そうひっきりなしに落ちてきてる訳じゃねえし、気配さえ測れば苦もなく渡れるだろうよ」
そして、三志は初めて辰を見た。
にやりと口元を歪めたその顔は、何としてもこの登拝を成功させるという三志の決意が身体の奥底から滲み出しているようであった。
「せっかく御山まで来たからにゃ、天上を見ないまま打ち止めなんてうまくねえからな」
辰は、何者かが小屋の板戸を叩く音で目を覚ました。
小屋の中に人の姿はない。
もしや寝坊した自分を放って出発したのではあるまいかと考え、しかし板間に荷物が置きっ放しになっているのを見て胸を撫で下ろす。
また、板戸が激しく叩かれた。
僅かに開いた隙間からびょうびょうと笛にも似た音が響き、それが人の手によるものではないことを悟った。
これは、風の音だ。隙間から差し込む外界の光が、妙に白みがかっているのは何故なんだろう。
ぞくり、と辰の首筋を冷気が撫でる。小屋の中の空気は氷のように冷え切っていた。
辰は布団代わりに掛けていた簑を羽織ると、恐る恐る板戸の隙間に目を寄せた。
「──えっ!」
板戸を引き開ける。
途端に逆巻く強風が顔を叩き、慌てて額の前で掌を広げて遮った。その掌に、ぽつ、ぽつ、と冷たいものが触れては溶け流れていく。
小屋の周囲の風景が、昨日とは一変していた。
見渡す限りの銀世界が広がっている。唐松の疎林も、大人が三人で囲んでなお抱えきれぬ程の大岩も、墨が染みこんだような黒砂も、ここから目にすることが出来る何もかもが真綿のような雪に覆われていた。
降雪は、今も続いている。それも斜面に沿って横殴りに吹きつけてくる飛雪であった。
雪は天から降るものとばかり思っていたが、横合いから飛んでくる、あるいは足元から舞い上がってくる雪もあるのだと、辰はこの時初めて知った。
思えば昨晩、降るような星空の下で三志が言っていたではないか。今日は五合目から上が相当に冷え込んでおり、また風も吹き荒んでいる、と。
昨日の三志の言上は唐突さが否めなかったが、きっとあの時点から、百を超える登拝経験を持つ大先達は降雪の気配を感じ取っていたに違いなかった。
びょう、と風が吹き抜けていく。
まるで目に見えない巨大な掌が叩きつけられたように、均衡を失った辰の身体がフラリ、と傾いだ。
「危ねえ!」
誰かが背後から辰の腕を取り、済んでのところで転倒を免れた。
肩越しに振り返ると、そこにはまだ童の雰囲気を残す留次郎の顔が困ったように眉を寄せている。
「気を付けてくれよ、お辰姉ちゃん。こんなとこで怪我してもつまらねえからさ」
「あ、ありがとう、留ちゃん」
「ほら、しゃんと立って。少し腰を落とした方が踏ん張り利くぜ」
辰としては、一行では最年少の留次郎を弟のように気に入っている。自分より八つも年若ながら、その口調や仕草が妙に大人ぶっているように思えて、まるで近所の顔馴染みの悪童を相手にしている気分だった。
見れば、この風雪の中で男達は小屋の外に立ち、白幕の向こうに隠れた御山の様子を伺っている。雪煙に見え隠れする人影を数えるが、そこには留次郎を加えても六人しか居ない。
「三志さまは?」
「御尊師さまなら、別の登り口がないか見てくるって、恵行さんを連れて行っちまったよ。もうしばらくしたら戻ってくると思うけど」
「どうして? このまま登拝道を登っていくのじゃ駄目なの?」
辰の問いに、留次郎は両手を腰に当てて登拝道の先を見た。
「こんな様子じゃ、ここから上は雪に降り込められて登れやしねえってさ。頂まで吹き曝しで身を隠す場所も無いし、草鞋だけじゃ足元が滑るだけだって」
「三志さま、こんな暗い中を出ていったの……」
周囲の明るさから日の出はとうに迎えているのだろうが、低い雪雲に遮られて今だ天地境に曙光は注がれていない。三志と恵行がいつ発ったのかは判らないが、今よりももっと薄暗い時であったに違いない。
心配する辰を安心させるように、留次郎は白い歯を覗かせて笑いかけてきた。
「大丈夫だって。御山にかけちゃ御尊師さまほど詳しい御人はいねえし、別の登り口だってすぐに見つけて戻って来られるさ」
留次郎の言葉通り、三志が恵行を伴って中宮小屋まで戻って来たのは、それから四半刻ほど経った後のことだった。
「このまま登拝道を登るのは止めだ。西へ逸れるぞ」
肩に雪を乗せたままの三志は、しかし碌に疲れも見せずに言う。その言葉に、御師の平内左衛門が驚いたように目を剥いた。
「西、ということは御山の北面に出るということですか」
「ああ。この大風は、南から御山を回り込んで吹いてきてるもんだ。御中道を使って大沢を渡り、北面に出れば御山そのものが風を遮ってくれる」
五合目には、富士をぐるりと一周する御中道と呼ばれる細道がある。
かつて富士が修験霊場だった頃には多くの行者が修行を積んだ道であったが、嶮岨な上に崖崩れも多く、富士講が隆盛する現在では熟達者しか挑戦することを許されぬ道であった。
「大沢を渡ったところでもう一度斜面に取り付き、そのまま真っ直ぐに上を目指す。下から覗いた限りじゃ、少なくとも七合五勺の烏帽子岩の辺りまでは雪は付いてねえ。本来の登拝道じゃねえから、ちいとばかし歩きにくくはあるがな」
「し、しかし、あれだけ上から岩が転がり落ちてきている大沢を渡るなど……」
「なに。そうひっきりなしに落ちてきてる訳じゃねえし、気配さえ測れば苦もなく渡れるだろうよ」
そして、三志は初めて辰を見た。
にやりと口元を歪めたその顔は、何としてもこの登拝を成功させるという三志の決意が身体の奥底から滲み出しているようであった。
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