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四.女富士開山
(一)
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いまだ黒々とした闇がたゆたう未明時とはいえ、どこに人の目があるかは判らない。
しかも、今は山が閉じられているのだ。そんな時期に御山へ向かう集団があれば例え未明でも目立つ事この上なく、不審な一団であるとして騒ぎになることは必定だった。
御師町の通りに面した表門からではなく、裏口から出立したのはそれが理由である。
なるべく人目を避けるため裏の畦道から富士浅間社へ向かった一行は、拝礼もそこそこに本殿の裏手へ回り込み、登拝道の起点となる登山門の前に立った。
門と呼ばれてはいるが、そこにあるのは小さな鳥居が一つきりである。閉山中であることを示す注連縄が鳥居の低い位置に掛けられており、それだけが聖域と人界を隔てる唯一の障壁であった。
「ここからが、富士の御山……」
この登山門から先は、例え開山中であっても女人が足を踏み入れるのは忌避される事だ。そして二合目の御室浅間社から上部が女人結界となり、通常ならば如何なる女人の立入りも許されてはいない。
流石に躊躇する辰の前で、先頭を行く三志はただ一言、
「──さて、行くか」
そう呟くと、ひょいと注連縄を潜っていってしまう。
辰はどこか後ろめたい気分を抱えながら、腰を屈めて注連縄を潜った。
いよいよ富士の広大な山裾へ取り付いた一行は、なだらかに傾斜が続く山道を伝って徐々に高さを稼いでいく。
開山中には多くの人々が行き交う登拝道は、十分に踏み固められていて随分と歩き易かった。傾斜のある場所には石や丸太で段が設けられているから、例えぬかるんでいても滑り落ちる事はなさそうだ。
道中は一合目の馬返しまで草原の中の一本道で、そこから上は松の疎林の中を潜り抜けていく。折々に社や祠があり、その一つ一つで休憩も兼ねて女人登拝の成功を祈願していくものだから、一行の足取りは自然と遅いものになった。
一日目の宿所と定めた五合目の中宮小屋へ着いたのは、太陽が西の赤石の峰々へ沈んでいこうという頃である。
五合目には登拝道に沿って何軒もの小屋が建ち並んでおり、そのうち最も下段にあるのが塩谷家の所有する小屋であった。
内部は板敷きの居間と竃が並んだ土間に分かれており、奥の壁際には祭壇がしつらえてある。全体として十畳ほどの大きさしかない、狭い小屋であった。
一行は荷物を下ろすと、夕食の準備に取り掛かった。二人の強力が担いできた薪で多めに飯を炊き、伽羅蕗と沢庵漬で腹に詰め込むという侘しい献立である。
慌しい夕食の後は、すぐさま明日のための準備を進める。これに時間をかけるため、夕食はさっと済ませるんですよ──とは、三志に次いで経験の深い八行の言葉だ。
残った飯を握り飯にして表面を炙り、竹皮に包んで二日目の昼食にする。
足の裏にできた肉刺を焼いた縫い針で突いて潰し、軟膏を塗りたくってさらしを巻く。
ほつれた草鞋の紐を結び直し、破れた足袋や脚絆を木綿糸で繕い直す──。
一つ一つは簡単な作業でも、それを一度にこなすとなると惑うのが人の常である。辰は男達から手解きを受けながら、手抜かりなくきっちり仕上げる事だけに集中した。
明日への準備を全て終えた一行は、就寝前の祈祷を捧げるために夜も更けた小屋の外に出た。
明かり一つ無いはずの山肌はしかし、ぼんやりとした青白い光に照らし出されている。まるでこの地が幽世であるかの如く、その仄暗い光は見えるもの全てを朧に染め上げていた。
背後を見遣れば、大きく冴え冴えとした月が中天に昇り、影のように聳える御山の頂へ今まさに掛かろうとしている。
ぱん、と柏手の音が響いた。
遙か頂に向けて、三志が手を合わせている。
あらゆるものが幻のように浮かぶ世界の只中で、中天を見上げる三志の姿は巨岩にも似た重厚な存在感を放っていた。
「御峰は参明富士開山! 御麓は三国第一山!!」
三志の轟然とした言上が、包み込むような静寂を割いて響き渡る。
自然と、辰もまた両手を合わせ、三志が見ているものと同じ御山の頂を仰ぎ見た。
「同行六人、そのうち女は辰、齡二十五。ここに仙元菩薩へ御披露目申し上げ、雪氷の中を頂まで登り御恩礼申し上げる。これぞ結び合い成就なり、何卒無事なる登拝が遂げられんことを、ここに伏して御願い奉る!」
それは山神への入山の報告と、道中の安全を祈願する言上であった。
言葉こそ慇懃であったが、その声音はどこまでも不遜に聞こえる。
結び合い成就──即ち、食行身禄から小谷三志に至る四代の大先達が夢見てきた男女和合の世の素晴らしさが、今回の登拝で実証されるのだ。
平穏無事な登拝のためならば神頼みも辞さぬ覚悟であったのだろうし、それが加持祈祷を否定する自身の信条と相反して、天に向かって雄猛ぶような言上となったのかも知れない。
そして辰は、内心で首を傾げていた。
──雪氷の中を、登っていく?
今、五合目の中宮小屋の周囲には雪も氷もない。
ここを境として地上と天上が分かれるとの言い伝えから「天地境」と呼ばれる五合目だったが、幸いにして一日目は天候に恵まれて雨風も無く、ここまで順調に登ってくることが出来たのだ。
御山はもう冬に入っていると聞いていたが、このぶんだと明日も穏やかな一日になってくれるかも知れない。
そう考えていた手前、三志の口から聞こえてきた雪氷という言葉は、どこか唐突で意外なものに辰には思えたのだ。
しかも、今は山が閉じられているのだ。そんな時期に御山へ向かう集団があれば例え未明でも目立つ事この上なく、不審な一団であるとして騒ぎになることは必定だった。
御師町の通りに面した表門からではなく、裏口から出立したのはそれが理由である。
なるべく人目を避けるため裏の畦道から富士浅間社へ向かった一行は、拝礼もそこそこに本殿の裏手へ回り込み、登拝道の起点となる登山門の前に立った。
門と呼ばれてはいるが、そこにあるのは小さな鳥居が一つきりである。閉山中であることを示す注連縄が鳥居の低い位置に掛けられており、それだけが聖域と人界を隔てる唯一の障壁であった。
「ここからが、富士の御山……」
この登山門から先は、例え開山中であっても女人が足を踏み入れるのは忌避される事だ。そして二合目の御室浅間社から上部が女人結界となり、通常ならば如何なる女人の立入りも許されてはいない。
流石に躊躇する辰の前で、先頭を行く三志はただ一言、
「──さて、行くか」
そう呟くと、ひょいと注連縄を潜っていってしまう。
辰はどこか後ろめたい気分を抱えながら、腰を屈めて注連縄を潜った。
いよいよ富士の広大な山裾へ取り付いた一行は、なだらかに傾斜が続く山道を伝って徐々に高さを稼いでいく。
開山中には多くの人々が行き交う登拝道は、十分に踏み固められていて随分と歩き易かった。傾斜のある場所には石や丸太で段が設けられているから、例えぬかるんでいても滑り落ちる事はなさそうだ。
道中は一合目の馬返しまで草原の中の一本道で、そこから上は松の疎林の中を潜り抜けていく。折々に社や祠があり、その一つ一つで休憩も兼ねて女人登拝の成功を祈願していくものだから、一行の足取りは自然と遅いものになった。
一日目の宿所と定めた五合目の中宮小屋へ着いたのは、太陽が西の赤石の峰々へ沈んでいこうという頃である。
五合目には登拝道に沿って何軒もの小屋が建ち並んでおり、そのうち最も下段にあるのが塩谷家の所有する小屋であった。
内部は板敷きの居間と竃が並んだ土間に分かれており、奥の壁際には祭壇がしつらえてある。全体として十畳ほどの大きさしかない、狭い小屋であった。
一行は荷物を下ろすと、夕食の準備に取り掛かった。二人の強力が担いできた薪で多めに飯を炊き、伽羅蕗と沢庵漬で腹に詰め込むという侘しい献立である。
慌しい夕食の後は、すぐさま明日のための準備を進める。これに時間をかけるため、夕食はさっと済ませるんですよ──とは、三志に次いで経験の深い八行の言葉だ。
残った飯を握り飯にして表面を炙り、竹皮に包んで二日目の昼食にする。
足の裏にできた肉刺を焼いた縫い針で突いて潰し、軟膏を塗りたくってさらしを巻く。
ほつれた草鞋の紐を結び直し、破れた足袋や脚絆を木綿糸で繕い直す──。
一つ一つは簡単な作業でも、それを一度にこなすとなると惑うのが人の常である。辰は男達から手解きを受けながら、手抜かりなくきっちり仕上げる事だけに集中した。
明日への準備を全て終えた一行は、就寝前の祈祷を捧げるために夜も更けた小屋の外に出た。
明かり一つ無いはずの山肌はしかし、ぼんやりとした青白い光に照らし出されている。まるでこの地が幽世であるかの如く、その仄暗い光は見えるもの全てを朧に染め上げていた。
背後を見遣れば、大きく冴え冴えとした月が中天に昇り、影のように聳える御山の頂へ今まさに掛かろうとしている。
ぱん、と柏手の音が響いた。
遙か頂に向けて、三志が手を合わせている。
あらゆるものが幻のように浮かぶ世界の只中で、中天を見上げる三志の姿は巨岩にも似た重厚な存在感を放っていた。
「御峰は参明富士開山! 御麓は三国第一山!!」
三志の轟然とした言上が、包み込むような静寂を割いて響き渡る。
自然と、辰もまた両手を合わせ、三志が見ているものと同じ御山の頂を仰ぎ見た。
「同行六人、そのうち女は辰、齡二十五。ここに仙元菩薩へ御披露目申し上げ、雪氷の中を頂まで登り御恩礼申し上げる。これぞ結び合い成就なり、何卒無事なる登拝が遂げられんことを、ここに伏して御願い奉る!」
それは山神への入山の報告と、道中の安全を祈願する言上であった。
言葉こそ慇懃であったが、その声音はどこまでも不遜に聞こえる。
結び合い成就──即ち、食行身禄から小谷三志に至る四代の大先達が夢見てきた男女和合の世の素晴らしさが、今回の登拝で実証されるのだ。
平穏無事な登拝のためならば神頼みも辞さぬ覚悟であったのだろうし、それが加持祈祷を否定する自身の信条と相反して、天に向かって雄猛ぶような言上となったのかも知れない。
そして辰は、内心で首を傾げていた。
──雪氷の中を、登っていく?
今、五合目の中宮小屋の周囲には雪も氷もない。
ここを境として地上と天上が分かれるとの言い伝えから「天地境」と呼ばれる五合目だったが、幸いにして一日目は天候に恵まれて雨風も無く、ここまで順調に登ってくることが出来たのだ。
御山はもう冬に入っていると聞いていたが、このぶんだと明日も穏やかな一日になってくれるかも知れない。
そう考えていた手前、三志の口から聞こえてきた雪氷という言葉は、どこか唐突で意外なものに辰には思えたのだ。
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