11 / 25
三.甲州上吉田
(三)
しおりを挟む
長月二十六日、明七ツ時。
地を這うような靄がたゆたう未明の御師町に、がらり、という音が響いた。
一ノ鳥居のすぐ近く、塩谷平内左衛門の屋敷の裏口が開かれ、中から漏れ出た明かりが朝露に濡れた地面を照らしている。
まるで辺りを気遣うように、無言の男達が足音を忍ばせて歩み出てきた。
揃いの灰色の行衣を着込み、背には荷物を載せた背負子を負ぶった男達は皆、惹きつけられるように南の空を見上げている。今は靄の向こうに隠れているが、その視線の先には彼等の目指す富士の御山が、長々と裾を広げて屹立しているはずであった。
空を見上げる男達の中に一人、随分と背の高い者が混じっている。
他より頭一つ高い割に、身体つきはいささか細い。行衣の上から弁慶縞の角袖を羽織り、手には金剛杖、腰には雪上で草鞋に巻く荒縄が輪になって括りつけられている。
長い黒髪を後ろに撫で付けて一本に結い上げ、涼しげな瞳で暗い空を見上げている姿は、どこか市井で私塾を開いている若い蘭学者のような雰囲気があった。
言うまでもなく、辰である。
もしも初めてこの姿を見た者がいるのなら、本当は女であると知れば大層驚くに違いない。三志の一計で男に扮することになったが、これ程までに男の姿が似合っているとは自分でも予想していなかった。
昨晩、三志は呼び寄せた髪結いに幾ばくかの口止め料を握らせると、「こいつを男に見えるよう、仕立ててやっちゃくれねえか」と頼み込んだのだ。
何故だか喜び勇んだ髪結い婆は、辰を別室へと連れ込むや否や、あっという間に辰のあるか無しかの化粧を落とし、丸髷を解いて総髪に結い上げてしまった。
それだけでは飽きたらず平内左衛門の娘達に何枚も羽織を持ってこさせると、その中から弁慶縞の一枚を選んで、最早石仏のような気分を味わっていた辰に押し付けたのである。
「どうだい。あたしの自信作だよ!」
髪結い婆が満足げに言ったのも無理はない。
衆目に晒された辰の姿は疑いようもなく男で、身の丈に加えて見目もなまじ良いだけに、些か線の細い美丈夫にも思えてしまうのだ。本人としては、情けない事この上ない気分であったが。
でも、これも富士の御山の頂を目指すための関門のようなもの。
──姿を変えるだけで大願を果たせるというのなら、男だろうと化物だろうと幾らでもなってやる!
そんな少しばかりの覚悟を秘めて、いま辰は男の姿で靄の向こうの御山を見上げている。
ただ一つ、気になる事があった。万次郎の真意である。
──どうして万次郎さまは、こんなにも私を手伝ってくれたのだろう?
その理由が、知りたい。
一度考え始めるとそれは熾火のように燻り続けてしまい、いよいよ登拝決行となった今もなお心に引っ掛かったままだったのだ。
このまま御山へ向かって良いものだろうか。出来ればこの釈然としない思いを解消してから、心置きなく御山へ挑みたい。そう、辰は考えていた。
「今朝は随分と霞がかっていますね。どうぞ足元には気を付けて」
見送りに出た万次郎が、常と変わらぬ柔らかな、それでいてどこか案じる風が見てとれる笑顔を浮かべている。
やはり、この気分に整理を付けておくべきだ。
辰は、はっきりとそう思った。
「──三志さま!」
万次郎の袖を掴みながら、辰は冨士浅間社へ向けて歩きだした三志の背に呼びかけた。
「申し訳ございません。少しだけお時間をいただいて良いですか?」
先頭を行く三志が、肩越しに視線だけで振り向いた。
辰が許婚の袖を摘んでいることに何かを察したのか、ゆるりと頷く。
「……ああ、先に浅間社へ行ってる。後から追いついて来い」
「ありがとうございます!」
万次郎の手を引いて、その場を離れる。
これは二人だけの問題だ。三志にも、不二孝の男達にも、塩谷家の人々にも、出来れば聞かれたくはなかった。
辰は、少し離れた天水桶の陰に万次郎を引っ張り込む。ちらりと屋敷の方を見たが、これくらい離れていれば聞こえることはないだろう。
突然手を引かれて連れ出された事に、万次郎は目を白黒していた。
「ど、どうしましたか、お辰さん?」
「あの……」
いざとなると言葉が出てこない。
辰は二呼吸だけ時間を置いて頭を整理すると、噛み締めるように言葉を切り出した。
「一つ、お訊ねしたかったのです。どうして、私の富士登拝という大願にこれ程までお手伝いして下さったのか。それが本当に実現するとなれば、私との祝言が先延ばしになると判っていたでしょうに」
嫁になる女がいつまでも家に入らず、叶うかどうかも判らない大願に現を抜かしているというのは、どう考えても外聞が悪いはずなのだ。
万次郎が鎌倉屋を訪ねてきたあの日、もしも万次郎に「そんな夢物語など捨てて今すぐ家に入れ」と言われていたのなら、辰も渋々その言葉に従わざるを得なかっただろう。
それなのに万次郎は、最初からそうするのが当たり前のように様々な便宜を図り、遠方へ向かう際には無理を押して同行してくれた。ただ単に嫁となる者の願いを叶えるためだったと思うには、どうしても割り切れないものを感じるのである。
万次郎は、じっと辰の目を見ている。
まるで、こちらの心の内を見透かそうとしているかのよう。そう、辰が思ったところで。
ふふっ、と万次郎は小さく笑った。
「──お辰さんは、高山右近重友、という人物をご存知ですか」
地を這うような靄がたゆたう未明の御師町に、がらり、という音が響いた。
一ノ鳥居のすぐ近く、塩谷平内左衛門の屋敷の裏口が開かれ、中から漏れ出た明かりが朝露に濡れた地面を照らしている。
まるで辺りを気遣うように、無言の男達が足音を忍ばせて歩み出てきた。
揃いの灰色の行衣を着込み、背には荷物を載せた背負子を負ぶった男達は皆、惹きつけられるように南の空を見上げている。今は靄の向こうに隠れているが、その視線の先には彼等の目指す富士の御山が、長々と裾を広げて屹立しているはずであった。
空を見上げる男達の中に一人、随分と背の高い者が混じっている。
他より頭一つ高い割に、身体つきはいささか細い。行衣の上から弁慶縞の角袖を羽織り、手には金剛杖、腰には雪上で草鞋に巻く荒縄が輪になって括りつけられている。
長い黒髪を後ろに撫で付けて一本に結い上げ、涼しげな瞳で暗い空を見上げている姿は、どこか市井で私塾を開いている若い蘭学者のような雰囲気があった。
言うまでもなく、辰である。
もしも初めてこの姿を見た者がいるのなら、本当は女であると知れば大層驚くに違いない。三志の一計で男に扮することになったが、これ程までに男の姿が似合っているとは自分でも予想していなかった。
昨晩、三志は呼び寄せた髪結いに幾ばくかの口止め料を握らせると、「こいつを男に見えるよう、仕立ててやっちゃくれねえか」と頼み込んだのだ。
何故だか喜び勇んだ髪結い婆は、辰を別室へと連れ込むや否や、あっという間に辰のあるか無しかの化粧を落とし、丸髷を解いて総髪に結い上げてしまった。
それだけでは飽きたらず平内左衛門の娘達に何枚も羽織を持ってこさせると、その中から弁慶縞の一枚を選んで、最早石仏のような気分を味わっていた辰に押し付けたのである。
「どうだい。あたしの自信作だよ!」
髪結い婆が満足げに言ったのも無理はない。
衆目に晒された辰の姿は疑いようもなく男で、身の丈に加えて見目もなまじ良いだけに、些か線の細い美丈夫にも思えてしまうのだ。本人としては、情けない事この上ない気分であったが。
でも、これも富士の御山の頂を目指すための関門のようなもの。
──姿を変えるだけで大願を果たせるというのなら、男だろうと化物だろうと幾らでもなってやる!
そんな少しばかりの覚悟を秘めて、いま辰は男の姿で靄の向こうの御山を見上げている。
ただ一つ、気になる事があった。万次郎の真意である。
──どうして万次郎さまは、こんなにも私を手伝ってくれたのだろう?
その理由が、知りたい。
一度考え始めるとそれは熾火のように燻り続けてしまい、いよいよ登拝決行となった今もなお心に引っ掛かったままだったのだ。
このまま御山へ向かって良いものだろうか。出来ればこの釈然としない思いを解消してから、心置きなく御山へ挑みたい。そう、辰は考えていた。
「今朝は随分と霞がかっていますね。どうぞ足元には気を付けて」
見送りに出た万次郎が、常と変わらぬ柔らかな、それでいてどこか案じる風が見てとれる笑顔を浮かべている。
やはり、この気分に整理を付けておくべきだ。
辰は、はっきりとそう思った。
「──三志さま!」
万次郎の袖を掴みながら、辰は冨士浅間社へ向けて歩きだした三志の背に呼びかけた。
「申し訳ございません。少しだけお時間をいただいて良いですか?」
先頭を行く三志が、肩越しに視線だけで振り向いた。
辰が許婚の袖を摘んでいることに何かを察したのか、ゆるりと頷く。
「……ああ、先に浅間社へ行ってる。後から追いついて来い」
「ありがとうございます!」
万次郎の手を引いて、その場を離れる。
これは二人だけの問題だ。三志にも、不二孝の男達にも、塩谷家の人々にも、出来れば聞かれたくはなかった。
辰は、少し離れた天水桶の陰に万次郎を引っ張り込む。ちらりと屋敷の方を見たが、これくらい離れていれば聞こえることはないだろう。
突然手を引かれて連れ出された事に、万次郎は目を白黒していた。
「ど、どうしましたか、お辰さん?」
「あの……」
いざとなると言葉が出てこない。
辰は二呼吸だけ時間を置いて頭を整理すると、噛み締めるように言葉を切り出した。
「一つ、お訊ねしたかったのです。どうして、私の富士登拝という大願にこれ程までお手伝いして下さったのか。それが本当に実現するとなれば、私との祝言が先延ばしになると判っていたでしょうに」
嫁になる女がいつまでも家に入らず、叶うかどうかも判らない大願に現を抜かしているというのは、どう考えても外聞が悪いはずなのだ。
万次郎が鎌倉屋を訪ねてきたあの日、もしも万次郎に「そんな夢物語など捨てて今すぐ家に入れ」と言われていたのなら、辰も渋々その言葉に従わざるを得なかっただろう。
それなのに万次郎は、最初からそうするのが当たり前のように様々な便宜を図り、遠方へ向かう際には無理を押して同行してくれた。ただ単に嫁となる者の願いを叶えるためだったと思うには、どうしても割り切れないものを感じるのである。
万次郎は、じっと辰の目を見ている。
まるで、こちらの心の内を見透かそうとしているかのよう。そう、辰が思ったところで。
ふふっ、と万次郎は小さく笑った。
「──お辰さんは、高山右近重友、という人物をご存知ですか」
20
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
徳川家基、不本意!
克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
女奉行 伊吹千寿
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の治世において、女奉行所が設置される事になった。
享保の改革の一環として吉宗が大奥の人員を削減しようとした際、それに協力する代わりとして大奥を去る美女を中心として結成されたのだ。
どうせ何も出来ないだろうとたかをくくられていたのだが、逆に大した議論がされずに奉行が設置されることになった結果、女性の保護の任務に関しては他の奉行を圧倒する凄まじい権限が与えられる事になった。
そして奉行を務める美女、伊吹千寿の下には、〝熊殺しの女傑〟江沢せん、〝今板額〟城之内美湖、〝うらなり軍学者〟赤尾陣内等の一癖も二癖もある配下が集う。
権限こそあれど予算も人も乏しい彼女らであったが、江戸の町で女たちの生活を守るため、南北町奉行と時には反目、時には協力しながら事件に挑んでいくのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる