鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第五章 進み直した冬

44th Mov. 正解と不正解

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 発表会の曲決めについて、紬と相談して方向性が見えた。
 それでも彼女のようにショパンを弾きたい気持ちは消え去ることはなく、何かのキッカケで弾けることにならないだろうかなんて、都合の良いことを考えてしまう時がある。

 その迷いを見透かされたのか、結先生と曲決めの話をしている時にズバリと質問されてしまった。

「本当に私が決めて良いのね? 野田君の気持ちの中には、他に弾きたい曲があるんじゃないの?」
「いえ……。何というか弾きたい曲というよりは作曲家はいるのですが……。でも、これからの準備期間なんかを考えると、間に合わなさそうなので……。だから先生に僕のレベルにあった曲をいくつか決めてもらって、そこから選びたいと思います」

「ふーむ。発表会までに仕上げる完成度を考えて、我慢しているってところかしら。正解は正解だけど、何かのコンテストに出るわけではないのだから、不正解でもあるわよ。その考え方」
「正解でもあって、不正解でもある……」

「そうね。楽しみとして発表会に出るなら好きな曲を弾けば良いの。コンテストで誰かの心に残るような演奏をしたいなら、心からその曲を好きになって、向かい合わないと難しい。そういう面では、我慢は正しいわね」
「我慢することが正しいことでもあるんですか?」

「我慢って悪いように聞こえるけど、決して悪いことだけじゃないわ。そうやって自分の気持ちと向き合うことも、表現者として大事なことなの。有名な作曲家の半生だって輝かしいものばかりではないし、その頃に作った曲を何の苦労もしてこない人が、ちゃんと理解して上手に弾けるわけもないし」
「そうですね。作曲家もそれぞれの人生があって、苦しいことや悲しいことを乗り越えてきているんですよね。作曲家も人間である以上、生きてきた経験がどんな曲調の曲であっても、それに反映されているんだ」

「そういう解釈もあるわね。苦しむことも楽しむことも君の中に蓄積されていって、それが君の色になるの。だからチャレンジして失敗しても良いし、難易度を下げて完成度を高めても良いの。大事なのは自分で決断すること。それをしておかないと、あとで後悔することになると思うわ」

 ズクズクと鈍い痛みが胸に広がり、苦い思い出が蘇る。
 あの失敗は、チャレンジと呼べるものだったであろうか。
 浮かれて、高望みして、自分で勝手に転んだだけのようにも思える。

 それに、ミニ発表会直後は後悔もした。
 ただ、時間が経ってみると、後悔している内容が変わってきている気がする。
 当初は出演したこと自体を悔やんだ。失敗した事実を無かったことにしたかったからだと思う。

 今は、それは違ったなとハッキリ分かる。ミニ発表会では、格好付けてギリギリ難しい曲にチャレンジした。それに失敗して格好悪いところを見せてしまったのが恥ずかしかったのだ。それが今の僕の後悔だ。

 だったら。答えは決まっている。
 決まっていないのは僕の腹だ。

「元々、ショパンの曲を弾きたかったんです。5か月後に、僕で弾けそうな曲はありますか?」
「そうねぇ。プレリュードの第七番あたりかしら?」

「プレリュードの第七番?」
「聴けば分かると思うわ。ちょっと待ってて。軽く弾いてあげるから」

 息を吸うように鍵盤を流れる手。
 ゾワゾワと鳥肌が立つ。柔らかいのに強い。
 包まれるように押し流される。

 穏やかで揺らめく絹のようなメロディー。
 単に穏やかではなく、弱い揺らめきでもない。
 呼吸をするような自然さで、鍵盤の上を流れる指からは、侵しがたい空間が生み出されているように思う。

「どうかな? 聴いたことあるんじゃない?」

 軽く流したような演奏を終えて、先生は僕に問いかけた。

 ああ、確かに知っている。CMか何かで聞いたことがある。
 これもショパンの作曲だったのか。知ってしまえば、ショパンらしいと思ってしまう。シンプルでエレガンスさに溢れた曲。

 ゆったりとしたテンポで弾くこと自体は難しくなさそうだ。
 でも……。あれほどの演奏を聴いてしまえば、譜面をなぞっただけの演奏が正解なんて思えない。

「その曲なら練習すれば、弾くには弾けそうです。でも発表会までに結先生のような、しっとりした演奏は出来ない気がします」
「良く分かったわね。この曲は技術的にはそこまで難しくないの。でも、テンポがゆっくりな分ごまかしが利かないし、自分の表現次第で、くどくなったり艶っぽくなったりする繊細な曲でもある。この辺りからは、ただピアノを弾く練習だけでは、厳しくなってくるわ」

「先生の言っていた意味が分かった気がします。自分なりの演奏というものは、果てしないものですね」
「確かに果てしないものね。どこまで言っても終わりがないもの。野田君が求めた世界は、そういうものよ?」

「僕は軽々しく人を感動させたいと口にしていた気がします」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。……それで、どうする? 続ける?」

 あいまいな回答。主語のない質問。
 結先生は答えを委ねて、僕に決めさせるつもりらしい。
 先生の質問は、何かを問うている。

「続けます。やれるところまで。僕に出来る最大限頑張って。それを見せたい人がいるんです」
「そう。じゃあ頑張りなさい! 悔いのないようにしっかりね!」

「はい。もう後悔するような演奏はしません。しっかりやり切ります」
「君は練習をサボらないでしょう。だからアドバイスを一つだけ。演奏家は何を弾くかではなくて、どう弾くか、よ。それはさっきので分かってくれたよね?」

 先生の問いかけに、僕は頷く。
 五か月後の目標になりそうなショパンのプレリュードの第七番。レベル的には中級程度。難しい曲ではない。それでも聴かせる演奏が出来る先生は凄い。

 先ほどの演奏は、僕からの選曲依頼を受けて、思い付きのように弾いていた。もしかすると、こういう話のために練習しておいてくれたのかもしれない。それほどまでに、演奏の完成度が高かった。

 もし、そうでないとすると……。

 僕はとんでもない世界に、足を踏み入れたのかもしれない。
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