鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第三章 夏の記憶

31st Mov. 紬と結先生

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「うーん、そうねぇ。発表会に出るのは良いんだけど、曲はどうしましょう」
「出来ればそこまで難しくない方が良いのですが……」

 ミニ発表会に出たいと伝えたことで、これからの練習曲と発表会で披露する曲選びをすることになった。
 それに対して、僕の願いを伝えるが、結先生は困ったような顔をする。

「発表会で失敗したくない気持ちは分かるのよ。でも、野田君の目指しているのは、人の心を動かす演奏なんでしょう? 無理しない範囲で弾ける曲を弾いて、お客さんの心を動かすことなんて出来ると思う?」

 至極真っ当で反論の余地のない結先生のお言葉。
 僕としてはこの前のストリートピアノで痛い目を見たので、難易度が低く、完成度を高めることで失敗しにくい曲にしたいと思っていた。

 だけど、僕がピアノを始めた本来の目的はそういうことじゃなくて、必死にひたむきに頑張るからこそ、手に入れられるかもしれない。そういうものだった。
 先生はそれを指摘しているのだと思う。

「チャレンジ精神が大切ですか?」
「チャレンジ精神というより、自分にとって難しいことを苦しみながら磨き上げて、自分の曲にするからこそ、演奏に深みが出ると思うの。人の心を動かすものって簡単に手に入るものの中にはないはずよ」

「何となくですが、分かる気がします。伏見さんこそ、正にそうだったみたいですし」
「なになに? 紬と仲良くしてくれてるんだ~。先生嬉しいなぁ~。私のことなんか言ってた?」

 急に先生モードから近所のおばちゃんムーブに変わる結先生。
 答えるのは吝《やぶさ》かではないけど、伏見さんがどこまで話しているか分からないので、当たり障りない内容にしておくべきかな。

「自分より圧倒的才能があって、素晴らしい演奏家だったって。それより、先生。レッスンは?」
「今日は後ろの子がお休みだから延長で!」

 カラオケじゃあるまいし。心の中でツッコミを入れたけど、僕には直接言う勇気はない。

「そうですか……。今日は僕も時間あるので、レッスン時間が増えるならありがたい限りですけど」
「任せてちょうだい! その代わりもう少しお話しましょ!」

「それは良いんですけど……。そんなに話すこと無いですよ?」
「えぇ~。あれだけ紬と出かけてて、私のことはそれだけ?」

「何で知ってるんですか⁈」
「だって紬の機嫌良い日は、大抵お化粧や服に気合が入ってるから。鼻歌も良く歌うようになったし」

 確かに伏見さんが機嫌が良い時は鼻歌を歌うクセがある。
 僕との時間で機嫌が良くなってくれるなら嬉しいことなんだけれども。

「それにね! お化粧のやり方を聞きに来たりして可愛いの。何より極め付けは、宿題をちゃんとやってるってことかしら。あの子が夏休み初めから宿題に手を付けているなんて、今まで一度も無かったもの」
「宿題はまあ、はい。僕と一緒にやってます」

「でしょ~! 紬は男の子の友達多くないみたいだし、きっと君のおかげ。紬が毎日楽しそうにしているのも、ちゃんと宿題やるようになったのも」
「中野の影響って可能性もありますよ?」

「先生を甘く見てもらっちゃ困ります。中野君は千代ちゃんの彼氏さんでしょ。知ってるのよ。紬が嬉しそうに話していたから。だから中野君の線は無いわね」
「ほかに男友達がいる可能性も……」

「それは否定して欲しいの? して欲しくないの?」
「……正直、否定して欲しい気持ちが強いです」

「素直でよろしい。安心して。紬に仲の良い男友達はいないわよ。野田君以外には」
「そうですか……」

「だからね、そろそろ紬の誕生日だし、気にかけてくれると嬉しいな。母としては」
「そうだったんですか⁈」

 全く関係の無い話からの衝撃の事実。
 まさか、もうすぐ伏見さんの誕生日だったとは……。

「気になる女の子の誕生日くらい把握してないとダメじゃない。本人に聞けなくても千代ちゃんからでも聞けたはずよ?」
「確かにそうですね。うっかりしてました」

 人生の先輩からの的確なアドバイスに返す言葉も無い。
 しかしどうしよう……。個人的に女の子へ誕生日プレゼントをあげたことなんて無いし、何を送れば良いのか見当が付かない。

「あの子は食べ物に目が無いけど、それじゃあプレゼントとしてはイマイチだし……。好み的には、音楽関係の物だったら大抵喜ぶんじゃないかしら」
「ありがとうございます。参考にします」

 これ以上ない援護射撃を受けて、僕は深々と頭を下げた。
 ちょっとズルかもしれないけど、方向性だけでも教えてもらえれば、それなりに喜んで貰えるものを贈れるかもしれない。

 さっそく、レッスン終わりに駅ビルなどを巡り、物色してみようと心に決めた。

「ちなみに私の誕生日は九月だからね!」
「えっ?」

「だから、私の誕生日は――」
「いや、聞こえてましたけど……。生徒が先生にプレゼントするんですか?」

「生徒さんからお誕生日を祝われるなんて、素敵で人気のある先生だと思わない?」
「傍から見たらそうなのでしょうけど……」

「あーあ、せっかく娘の誕生日のアシストしてあげたのになぁ~。家でも野田君のこと褒めたりしてて、一役買ってると思ってたのに……。先生悲しいなぁ……」
「ありがたいです! ありがとうございます! いつも感謝してます!」

 狙い通りとばかりに、どこぞの令嬢のように手を口の前に持ってきて笑う姿は、どう見ても高校生の母親には見えない。伏見さんの姉と言われた方が納得できるだろう。

 ただ、今回はいつものように「うふふ」ではなく、「ぐふふ」となってしまっている。可愛らしい見た目なのに、そこがちょっと残念に思う。

「よろしい。女性の誕生日は大切にしないとダメよ!」
「はい。肝に銘じます」

「まあ、家で話しているのは、純粋に君が良く頑張っているからだけどね。とりあえず話は戻して、曲は一段上のレベルを目指しましょう。まずはブルグミュラーの『素直な心』に挑戦して、発表会には『アラベスク』辺りが良いラインかしら」
「ブルグミュラーですか」

「そう。初級の終わりと中級の入り口くらいのイメージってところかな。曲らしい曲が多くなって楽しいわよ」
「その分、難易度も上がるんですよね?」

 僕の不安を余所にニヤりと笑う先生。
 だから、その笑い方止めてください。

 僕の願い通りに笑うのは止まったけど、どれだけ取り繕ったところで下世話な感じが拭えない。
 ただ、この笑い方は、時折伏見さんもしているんだよな。
 やっぱり、二人は親子なのは疑いようがないらしい。
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