鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第三章 夏の記憶

28th Mov. ストリートピアノと初披露

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 伏見さんとの勉強会は週に二度ほどのペースで行っている。
 半日宿題をやって、お昼を一緒に食べて解散するという流れの繰り返し。

 それ以外の僕のスケジュールは週一のピアノのレッスンと家でのピアノ練習がほとんど。他は単発バイトの倉庫作業や引越しの手伝いをしながら、軍資金を貯めているくらいだ。

 ある意味、落ち着いた夏休みだったのだけれども、その様相が一変したのは、八月に入って少ししたくらいのとある日。中野からの個別メッセージが届いたことが発端。

『よお、久しぶり。なんか心配かけちまったみたいで悪かったな。ちょっと報告したいこともあるから、良かったらみんなで集まらないか?』
『問題ないなら良かったよ。じゃあグループトークに移ろうか』

 中野は律儀に個別メッセージを送ってきたが、みんなで集まる話になるのなら、グループトークの方が話しやすい。

『おす。せっかくの夏休みだし、みんなでどっか行かないか?』

 中野が改めてグループトークでみんなを誘う。
 すると、すぐに反応があって、僕より先にメッセージが打ち込まれた。

『私は大丈夫』
『僕も大丈夫だよ』
『おっ! ついにですな! 私も大丈夫です!』

『どこか行くなら夏っぽい場所が良いよな。希望ある?』
『海~‼』
『確かに夏っぽいけど、行くの大変じゃない?』
『近くの海って言ったら、お台場くらいしか思い浮かばないな』

『え~、お台場じゃ泳げないよ~』
『つっても泳げるって言ったら、茅ケ崎とか鵠沼《くげぬま》とか結構遠いぞ?』
『行きはまだしも、海で遊んだ後の電車はちょっとあれかも……』
『じゃあプールはどう? サマーランドなら近いし、八王子駅までなら通学定期あるだろうし』

『野田君ないす‼』
『確かに移動時間が短けりゃ遊ぶ時間も多く取れるしな』
『私も賛成。一度行ってみたかったんだよね』

 神田さんはサマーランドに行ったことないらしい。僕も小さいころに行ったきりで、ずっと行ってなかった。日頃から広告看板は目に入るけど、行く機会はなかったんだよな。

『じゃあサマーランドで! 確か八王子駅の北口からバス出てたよな』
『そうだね。サマーランド行きの停留所があったはず』

『ちょっと話したいこともあるし、バスロータリー前にあるスタバで待ち合わせで良いか? オクトーレの一階の』
『おっけーですよ。わくわく』
『紬、余計なこと言わんで宜しい』
『了解です』

『あとは日にちと時間だな』

 と、こんな感じで急遽サマーランド行きの予定が決まった。

 ※

 昔に買った水着を引っ張り出して、タオルや着替えと共にバッグに突っ込む。
 これで今日の準備は終わってしまった。どうしよう、また時間が余っている。

 いつものように早めに行って、向こうでブラブラしていようかな。そう思い立って、待ち合わせ場所へと向かった。


 八月の初旬。
 お盆前のこの時期は夏らしい空模様で気温もぐんぐん上がっている。
 まだ10時前だって言うのに、駅前にある温度計には30℃の数字が。
 そろそろオクトーレも営業時間になるし、中で涼んでいようかと考えていると声が掛かった。

「やっぱり野田君だ! 予想通り早いねぇ~」
「伏見さんも早いね。どうしたの?」

「野田君なら先に来ているかなって思って」
「確かに先に来てはいるけど」

「でしょ~。ねえ! この前知ったんだけど、オクトーレにはストリートピアノみたいに自由に弾けるピアノが置いてあるの」
「へぇ、そうだんんだ。知らなかった」

「弾いてみない? 私、一度野田君の演奏聴いてみたくて」
「えっ? 僕の? 僕の演奏って言ったって、やっと曲らしき形になったくらいだよ」

「それでもすっごい頑張っているってお母さんに聞いてるよ。上達も早いって」
「そうは言っても……」

「ねっ? お願い。今なら千代ちゃんたちもいないし、オープン直後なら人も少ないはずだから」
「……笑わないでね」

「人が一生懸命なことを笑う訳ないじゃん!」
「……じゃあ、この間合格をもらった練習曲を」

 元々、オクトーレの店内に入って涼んでいる予定だったから、移動すること自体は良いんだけど。まさか店内に自由に弾けるピアノがあって、このタイミングで伏見さんと鉢合うとは。

 伏見さんの前で演奏するなんて考えても無かったな。せめてミニ発表会のころだと思ってたのに。でも誰かに聞いて欲しい気持ちもあるにはあるし。中野たちがいたら恥ずかしいけど、伏見さんだけならまだ良いかな。


 オクトーレの一階のホール。
 エスカレーターが斜にかかり、奥にはガラス張りのエレベーターがある。アップライトピアノはそれを背に置かれている。確かに人は少なめだけど、隣には郵便局もあってそれなりに人がいる。

「や、やっぱり止めようかな」
「ここまで来たんだし、発表会より人は少ないよ! 発表会の予行演習だと思ってさ!」

 止めたい気持ちが頭を占める。けれど、伏見さんの言うことも理解できる自分がいる。今は、人もまばらでピアノを聴きに来ている人はいない。
 発表会のように観客全員が僕を見ているわけでもない。

 ここでビビっていたら発表会での演奏なんて夢のまた夢だ。
 腹をくくるしかないか……。

 不自然なくらいにぽっかりといたスペース。誰もが避けて通るピアノに向かって、僕は歩く。
 エレベーターに乗っている人も郵便局へ向かう人も、ピアノに向かって歩く僕を見ている。そうだよな。僕だって、こんなところにおいてあるピアノを弾こうとしている人がいたら、まじまじと見てしまう。

 でも今日だけはやめて欲しい。エレベーターも早く上に行ってくれ。
 そう祈りながら、僕は椅子に座った。

 鍵盤に置く手。
 僕の手とは思えないくらいに、白くて震えている。
 僕の指示通りに動くのか不安でならない。

 たとえ思い通りに動いたところで、上手な訳ではないのだけれども、それでも上手に弾きたい。憧れた彼女の前での初演奏なのだから。

「じゃあ、モーツァルトのメヌエット ニ短調で」

 結先生に指導されていたスラーのかかったスタッカートを意識しながら、鍵盤を叩く。

 ――小さい。全然音が出てない。

 驚くほどに小さな音で、いつものように音が響かない。すぐ近くにいる伏見さんにすら届くか怪しいほどだ。
 意識的に強めに弾くようにして、何とかいつものような音量になる。

 それでも意識がそっちに行ってしまったからか、演奏は酷いもので不合格間違いなしの出来だった。

 弾き終わるには終わった。けれど振り向くのが怖い。
 彼女がどんな表情をしているのだろうか。がっかりしていないだろうか。

 すると背後で大音量の拍手が鳴り、思わずビクリとしてしまった。
 振り返れば伏見さんが手を叩いている。僕から見ていても手が痛いんじゃないかってくらいに強く、とても強く。

 正直、散々な演奏でこんなに拍手をしてもらうほどでもない。
 オクトーレの店内のお客さんも、僕の演奏より伏見さんの拍手の音量に驚いて注目しているような気がする。

「酷い演奏だったね。そんなに拍手してもらえるような内容じゃなかったよ」
「そんなことないよ! 野田君、すっごい練習してるんだって良く分かった演奏だったもん。三か月であんなに弾けたら充分凄いよ!」

「練習はたくさんしたんだけどね。まだまだだ。伏見さんの言う通り、予行演習しておいて良かったよ。これが発表会だったら目も当てられないや」
「最初なんてそんなものだよ。充分上手く弾けていたから、発表会だって大丈夫!」

 すっごく褒めてくれる伏見さん。
 失敗ばかりだったと思っている僕には、どうしてもフォローしてくれているように思えてしまい、返す言葉が見つからなかった。

 気まずい雰囲気に助け舟が。待ち合わせ五分前に設定しておいたアラームが鳴った。

「ありがとう。そろそろ待ち合わせの時間みたい。待ち合わせ場所に向かおうか」
「うん、そうだね! 今日は良いこといっぱいだ!」

 僕とは対照的にとても楽しそうな伏見さん。
 彼女には良いことが、いっぱい待っているらしい。
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