吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記

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青年藩主編

第十九話

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 キン。刀の鯉口を切った音がする。
 俺の刀が触られたように思い水野を見ると目で合図をしてきた。
 慌てて俺も鯉口を切る。今のままでは抜刀できない。気が付いていなかった。

 そのまま、水野は俺の呼吸に合わせて息を吸って吐いて、吸って吐いて。段々とペースがゆっくりになり大きく息を吸うと俺もつられるように大きく息を吸う。緊張を解すため、深呼吸の状態まで導いてくれたようだ。浪人どもの近くまで来ているので声を出せない。このままでは不味いと思っての事だろう。

 水野の目線が前を向き、俺の鞘へとかけていた手の力を少し強めると、ふっと飛び出した。その速度は速くはない。間合いを外されたように、いつの間にやら飛び出していったという印象だった。
 一瞬で我に返り、水野の後を追い、葦の中から飛び出る。恐怖で声を出したくなるのを我慢しながら刀を抜き走る。

 間合いまで三歩。
 二歩。走りながら刀を振り上げ担ぐように八相に構える。
 一歩。強く踏み込め。
 間合いに入った。相手はまだ背を向けている。思いっきり叩きつけろ。

 バシュ。
 ぐえっ。

 浪人を斬った音と断末魔が重なって聞こえた。背中をバッサリと斬り下げた。
 人を斬った。この手で。修練の通りに刀を振れた。そして殺した。殺してしまった。碌に顔も見ていない。名前も知らない。名乗りもせず闇討ちのように。

 ぎゃぅっ。

 誰かが斬られたような声がすると、いきなり俺の左腕を掴まれた。

「殿! 考えるのは後になさいませ! 今は背中を預け残りの敵に向き合うのです」

 急に何を言っているのだと思ったが、我に返り周りが見えた気がした。俺の足元に一人。そして左には二人倒れこんでいる。ピクリともしない。倒れた浪人達は既に死んでいる。
 俺には一人目を斬った音も、浪人の声も聞こえなかった。声すら出させず斬ったのか、声を聞き取れないほど無我夢中だったのか、今になってはわからない。そんな事考えている暇はないのだ。

 言われた通りに右を向き、水野と背中合わせになると俺の相手の浪人は驚きのあまり目を見開いていた。

「な、な、なんなんだ、お前ら」

 咄嗟の惨状に考えが追い付いていないようだったが、刀を向けられると条件反射のように抜き合わせた。
 その様子からするに斬り合いの経験があり、相応の修羅場を潜っていることが察せられた。簡単に踏み込める雰囲気ではない。

 勢いに乗ってもう一人とはいかないようだ。先ほどのように勢い任せで突っ込んでも返り討ちに遭うだけだろう。

 このまま時間稼ぎをして水野の援軍を待つか。しかしそれでは、さらに敵がいた場合、不利になる。少なくとも二本松の方に敵がいる。そう遅くないうちに気が付かれるだろう。

 人任せにして待っている場合ではないな。少しは俺の頭も働きだしているようだ。
 落ち着いていけば大丈夫。ここは河原だ。小さいころから遊びまわった。きっとこの経験が役立つはず。

 ジリジリと間合いを詰める。先ほどとは打って変わって半歩ずつ。まっすぐ進まず左へ進んでみたり右に進んでみたり。構えは青眼のまま。

 相手は前に出てきたのが意外そうな顔をしたが、すぐに表情を引き締め間合いを詰めてくる。こちらと違い、道場にいるかのように一歩一歩ズンズンと距離を縮める。こちらが左右に動けば、気にせずその方向に進む。向こうも力の差を感じたようで遠慮がない。こちらが小細工で右左に動いていると思ったようで気にも留めていない。

 確かに小細工だ。まともに打ち合えばやられる。俺の腕でもそれがわかるくらい差がある。かといって、水野の援軍を待つわけにもいかない。だから正々堂々と戦えずとも進むしかないのだ。
 左右の動きを微調整して距離を測る。ここまでは順調だ。刀を青眼から脇構えに移行する。それを見た相手は、当然のように青眼から上段へを移る。歩み勢いと振り下ろしの速度を活かし斬り捨てる気だろう。
 うらぶれた身形《みなり》とは裏腹に教科書通りの対応。浪人するまでは、相応の武士だったのではなかろうか。

 上段に構える事は、承知の上だ。脇構えからの切り上げと上段からの切り落とし。切り上げる方が不利なのも理解している。速度は遅くなるし力も込めにくい。
 しかし、この状態になれば、後は間合いを図るだけだろう。あいつの間合いに入り次第、刀を振り下ろす。それで終わりと考えているはずだ。その分、他の事への意識が薄れるはず。

 そろそろ相手の一足一刀の距離。仕上げだ。思わず口角が上がる。相手も口角を上げた。勝ちを確信しているのだろう。
 でもいいのか? ここは道場ではなく、河原だぞ。地面は、さほど大きくないとはいえ小石と砂利。

 この距離では、浪人の息遣いまでも聞こえる。吸う、吐く、吸う。向かい合った浪人がヒュっと息を吐き力強く踏み込んできた。

 ガギッ!ビュッ。
 バシン!

 俺は、脇構えから逆袈裟に振り上げた。
 相手の刀は空を切った。
 こういう結末を思いもしなかったような驚いた顔をして。

 俺がこまめに移動して微調整したのは、足場の悪いところへ誘い込むため。この辺りの河原でも慣れないとわからないが、小さな浮石がある。普通に歩く分には、問題にならないが、上段から振り下ろすため強く踏み込んだ場合は違う。
 踏み込みの足が踏ん張れず流れるのだ。当然、剣筋は乱れるし、速度も落ちる。
 それを期待して、俺は間を合わせて左へ駆け抜ける事だけを考えていた。
 考えていた通り、浮石を踏んだことで少し刀の速度が落ちた。もし落ちなければ自分から刀に突っ込んでいたことだろう。

 相手の刀を避け相手の横に抜ける瞬間、力いっぱい刀を切り上げた。間合いが近くなりすぎたので、腰骨辺りの硬い骨を叩いてしまったようだ。一人目を斬った感触と違い、鉄の棒で叩いたような手応えだった。手が痺れてしまったし、刀も反ってしまった事だろう。
 先ほどの一撃で相手が倒れてくれなければ、こちらがやられる。今の状態ではまともに斬り合うことも出来ないであろう。

 残心を解き、振り返り青眼に構えると相手の浪人は背を向けていた。ゆったりと、たたらを踏むように一歩二歩と進み、ついに右足が出ず、ひっくり返るように倒れこんだ。生死は不明だが、戦闘能力は失ったであろう。

 大きく息を吐き、二人を斬った刀の血振りをする。強張った右手を柄から剥がし、懐から懐紙を取り出して刀身を拭った。まだ終わりではないからだ。
 完璧に血糊や脂は落ちないから本来の切れ味には戻らない。しかし、そのままでは脂が巻き付いて、切れなくなってしまう。いったん落ち着いた今のうちに、少しでも手入れをしておくべきだった。

 処理を終えて視線を上げてみれば浪人達で立っているものは誰一人いなかった。
 俺が一人を相手に苦労している間、水野は四人を斬り捨てていた。しかも刀を拭う俺の様子を見ているくらい余裕があった。刀は既に鞘に収まっている。
 彼ほどの腕になれば、硬くないところを斬り、刀に負荷を掛けなかったのだろう。俺のように骨を叩いて刀を曲げるなんて事はしなかったようだ。

「お見事でした。殿の武略の勝利ですな」

 見ているくらいなら助太刀してくれてもいいじゃないかと思わずにはいられなかった。
 しかし、この後こそが本番。まだまだ彼を頼る事が出てくる。少しでも体力を温存してもらわねば、後々困る事になるだろう。
 それに言ってもらった通り、俺だけでも何とかなった。人と斬り合う経験も積めたのだが。
 先ほどの人斬りの経験は気持ちを重たく沈めこむ。それとは別に体の腹の底に重石があるように感じる。重心が低くなったような、浮ついた身体が地に足つけたような。不思議な気持ちだ。これが人を斬るという事なのだろうか。
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