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幼少期編
第三十話
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◇◇◇ 国家老屋敷にて
いつものように目立たず進む。和歌山城の近くの上級藩士が住む屋敷街。一つの屋敷で俺らの屋敷の幾つ分の広さになるのだろうか。片手では全く足らないのは子供でもわかる。
この辺りでは小さかろうと、庭番の百名分の知行を得ているのは間違いない。かといって奴らの仕事が我ら百人分の仕事と同価値だとは、甚だ思えない。
我らが百人でかかれば、屋敷の主人の首など簡単に落とせよう。無論、俺一人でも難しい事ではない。
だがやらぬ。さほど意味のない事だからな。端金程度のあぶく銭で追われ者になるくらいなら、小遣いせびって気ままに暮らす方が幾分マシだ。
いつかあの国家老は殺すがな。
さあ、目的地が見えてきた。この屋敷街の中で一際大きな屋敷。国家老 久野 宗俊と言うクズ野郎の屋敷だ。
「お方様より文が届きました」
いつものように縁側のある書斎の庭先で膝をつけて文を差し出す。
国家老の久野は無言で顎をしゃくる。
遠いから縁側に置けという合図だ。庭まで降りるのは面倒なんだろう。最初の頃は、下賎のものと同じ目線には立てぬとか抜かしてやがった。今は面倒くさがって、それすら言わぬ。
クズ野郎は、まるで俺が面倒事を持ち込んだかのような顔で億劫そうに立ち上がり文を拾った。
読み終え指示を受けるまで頭を垂れ待つ。まるで犬だな。
「殿の四男坊への意趣返は手緩かったようだぞ、林よ。まだ碌に挨拶に来ぬとよ」
「は、誠に申し訳なく」
別に俺のせいではないだろうが。前回は自分で絵を描いた癖に。
「次は気をつけよ。代わりはいくらでもおる。それに小遣いもやってるのだ。少しは、無い頭を使ってはどうだ」
「浅学な私にはさして良い案が浮かばず。ご家老様のお知恵をお借りしたく」
これで今回、失敗してもお前のせいだぞ。前もそうだったんだがな。
「今は郡代で何ぞ改革案を出したようだ。税について調べておるなら次は勘定役あたりであろう。いつものように賄賂で絡めとるか。多少頭が回るとて小僧には変わらん。知らぬうちに横領の片棒を担がせて、その金で飲み食いさせれば言い逃れもできまい。こちらにも歯向かえぬ良い飼い犬になろうて。尾藤屋とその辺りで話を詰めておけ」
「承知。尾藤屋では、格式のある料亭でないとなりませんな。密談には離れがよかろうと愚考いたします」
「ふん、浅ましい。金の匂いがすると饒舌になりおって」
そういうとクズ野郎は手文庫から小判を数枚摘むと懐紙に包むでもなく、そのまま放り投げてきた。まったく。小判が見えた時からニヤケが止まらぬではないか。
今度は料亭か。尾藤屋との会談なら芸妓も呼ばねば。京の下り酒がたらふく呑める。楽しみだ。
そうそう、金の匂いで、はしゃぐのはお前の方が酷いからな。
◇◇◇ 江戸のとある藩邸にて
そこは諸大名の藩邸がある江戸の街。街の面積の七割は武家地が占める武士の街。
華美な装飾はされず武士たる心意気を表す荘厳な街。武士道という言葉はいつの頃から使われるようになったものであったか。
その中の一つの屋敷では、武士の印象とは、かけ離れた暗く打算的な空気が支配している部屋があった。中にいるのは二人。いや、影に潜むようにもう一人いるようだ。
「……さすがに綱教(光貞の嫡男)は難しかったか」
「そうですな。綱教はとっくに元服を済ませております。周りはしっかり固められておりますから強い毒など使えませぬ。かといって気がつかないような弱い毒では効きませぬゆえ。それで次男の次郎吉に的を変えたとの事でしたな」
「空振るよりよかろう。だが殿はご不満のようだぞ」
「確かに将軍位争いの対抗馬は綱教でしょう。父親の藩主 光貞では歳を取りすぎですから」
「宗家のお犬様なんぞ、血筋残す価値もないでな。次の将軍位には我が殿の方が相応しかろう」
「殿にあの悪癖が出てしまい、附家老様(家康が傅育につけた家臣)は大変でしょうな。我らは直参になりますし、要職は我が藩の者が占めるのは必然。さすれば栄達が見込めますから大賛成ですが」
「悪癖か。致し方なかろう代々の藩の男子が持つ癖じゃ。むしろ家系の呪いのようなもの」
「呪いですか。確かにあれだけ早死が続けば呪いなんでしょうな」
「血筋のせいか。儂は寧ろ藩祖の遺訓のせいではないかと考えてしまうよ」
「将軍位を望むべからず。将軍家を支えよ。ですね。将軍になれる家柄なのに将軍位を求めてはならないという遺訓。抑圧され鬱屈した感情が噴き出ると言ったところですか」
「さてな。儂は呪いが怖いで、殿のご意向に沿って動くのみ。紀州は四男が城に上がったそうだ。まだまだ油断できん」
「殿は綱教に消えてほしいようですから、上から順にでよろしいですかな?ええと、綱教、長七、源六。いや今は新之助と言うそうですね」
「そうだな。それで問題なかろう。おい、そのようにせよ」
「…………」
弾む話ぶりからは想像もつかないような、人を人と思わない内容。
終始無言で影に潜む男は、返事をせず平伏すると気配を消した。
「先日会食に招かれた料亭は、全体的には、まずまずでしたが、味噌が頂けませんでしてね……」
残った男達は気配が消えても気にせず、話題は食い物の話に移っていくのだった。
いつものように目立たず進む。和歌山城の近くの上級藩士が住む屋敷街。一つの屋敷で俺らの屋敷の幾つ分の広さになるのだろうか。片手では全く足らないのは子供でもわかる。
この辺りでは小さかろうと、庭番の百名分の知行を得ているのは間違いない。かといって奴らの仕事が我ら百人分の仕事と同価値だとは、甚だ思えない。
我らが百人でかかれば、屋敷の主人の首など簡単に落とせよう。無論、俺一人でも難しい事ではない。
だがやらぬ。さほど意味のない事だからな。端金程度のあぶく銭で追われ者になるくらいなら、小遣いせびって気ままに暮らす方が幾分マシだ。
いつかあの国家老は殺すがな。
さあ、目的地が見えてきた。この屋敷街の中で一際大きな屋敷。国家老 久野 宗俊と言うクズ野郎の屋敷だ。
「お方様より文が届きました」
いつものように縁側のある書斎の庭先で膝をつけて文を差し出す。
国家老の久野は無言で顎をしゃくる。
遠いから縁側に置けという合図だ。庭まで降りるのは面倒なんだろう。最初の頃は、下賎のものと同じ目線には立てぬとか抜かしてやがった。今は面倒くさがって、それすら言わぬ。
クズ野郎は、まるで俺が面倒事を持ち込んだかのような顔で億劫そうに立ち上がり文を拾った。
読み終え指示を受けるまで頭を垂れ待つ。まるで犬だな。
「殿の四男坊への意趣返は手緩かったようだぞ、林よ。まだ碌に挨拶に来ぬとよ」
「は、誠に申し訳なく」
別に俺のせいではないだろうが。前回は自分で絵を描いた癖に。
「次は気をつけよ。代わりはいくらでもおる。それに小遣いもやってるのだ。少しは、無い頭を使ってはどうだ」
「浅学な私にはさして良い案が浮かばず。ご家老様のお知恵をお借りしたく」
これで今回、失敗してもお前のせいだぞ。前もそうだったんだがな。
「今は郡代で何ぞ改革案を出したようだ。税について調べておるなら次は勘定役あたりであろう。いつものように賄賂で絡めとるか。多少頭が回るとて小僧には変わらん。知らぬうちに横領の片棒を担がせて、その金で飲み食いさせれば言い逃れもできまい。こちらにも歯向かえぬ良い飼い犬になろうて。尾藤屋とその辺りで話を詰めておけ」
「承知。尾藤屋では、格式のある料亭でないとなりませんな。密談には離れがよかろうと愚考いたします」
「ふん、浅ましい。金の匂いがすると饒舌になりおって」
そういうとクズ野郎は手文庫から小判を数枚摘むと懐紙に包むでもなく、そのまま放り投げてきた。まったく。小判が見えた時からニヤケが止まらぬではないか。
今度は料亭か。尾藤屋との会談なら芸妓も呼ばねば。京の下り酒がたらふく呑める。楽しみだ。
そうそう、金の匂いで、はしゃぐのはお前の方が酷いからな。
◇◇◇ 江戸のとある藩邸にて
そこは諸大名の藩邸がある江戸の街。街の面積の七割は武家地が占める武士の街。
華美な装飾はされず武士たる心意気を表す荘厳な街。武士道という言葉はいつの頃から使われるようになったものであったか。
その中の一つの屋敷では、武士の印象とは、かけ離れた暗く打算的な空気が支配している部屋があった。中にいるのは二人。いや、影に潜むようにもう一人いるようだ。
「……さすがに綱教(光貞の嫡男)は難しかったか」
「そうですな。綱教はとっくに元服を済ませております。周りはしっかり固められておりますから強い毒など使えませぬ。かといって気がつかないような弱い毒では効きませぬゆえ。それで次男の次郎吉に的を変えたとの事でしたな」
「空振るよりよかろう。だが殿はご不満のようだぞ」
「確かに将軍位争いの対抗馬は綱教でしょう。父親の藩主 光貞では歳を取りすぎですから」
「宗家のお犬様なんぞ、血筋残す価値もないでな。次の将軍位には我が殿の方が相応しかろう」
「殿にあの悪癖が出てしまい、附家老様(家康が傅育につけた家臣)は大変でしょうな。我らは直参になりますし、要職は我が藩の者が占めるのは必然。さすれば栄達が見込めますから大賛成ですが」
「悪癖か。致し方なかろう代々の藩の男子が持つ癖じゃ。むしろ家系の呪いのようなもの」
「呪いですか。確かにあれだけ早死が続けば呪いなんでしょうな」
「血筋のせいか。儂は寧ろ藩祖の遺訓のせいではないかと考えてしまうよ」
「将軍位を望むべからず。将軍家を支えよ。ですね。将軍になれる家柄なのに将軍位を求めてはならないという遺訓。抑圧され鬱屈した感情が噴き出ると言ったところですか」
「さてな。儂は呪いが怖いで、殿のご意向に沿って動くのみ。紀州は四男が城に上がったそうだ。まだまだ油断できん」
「殿は綱教に消えてほしいようですから、上から順にでよろしいですかな?ええと、綱教、長七、源六。いや今は新之助と言うそうですね」
「そうだな。それで問題なかろう。おい、そのようにせよ」
「…………」
弾む話ぶりからは想像もつかないような、人を人と思わない内容。
終始無言で影に潜む男は、返事をせず平伏すると気配を消した。
「先日会食に招かれた料亭は、全体的には、まずまずでしたが、味噌が頂けませんでしてね……」
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