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幼少期編
第十四話
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三日目
瞼が重い。目は覚めたがもう一度深く沈み込んでいきたい。
昨日は寝付くのが遅く長旅の疲れも相まって夢も見ずに寝ていたようだ。
すでに水野は起きているようで隣にはいない。外は白み始めているなと、つらつら考えていると、ふっと自分のお役目を思い出し、へばりついた背中を無理矢理、床から引き剥がす。
まず借りた掻巻を整えて着替えると、部屋から直接、縁側へと渡った。そして沓脱にある突っ掛け草履を借りて井戸へ向かう。
慌てて身支度を整えていると表より、既に準備を終えた水野と黒川殿が出てきた。
「おはようございます。遅くなり失礼いたしました」
「随分ぐっすりと眠られていたようですな。お疲れのところ遅くまで付き合わせてしまい申し訳ござらぬ」
「いえ、大変勉強になりました! この後の視察は暗中模索の状況でしたが、光明が差したようです」
「それは何よりでござった。老人の戯言に真摯に耳を傾ける御姿を見て胸がいっぱいになり申した」
「値千金の金言なれば拝聴せずにはおられましょうや。ぜひ蒙昧な私に師として道をお示しくださいませぬか?」
「徳川の若君の師とは大層な出世でござるな。今までの不遇を打ち消すどころか、遥か彼方まで出世したような気分にござる」
「若、あまり猶予もない故、準備ができましたら出立しましょうぞ」
「そうだな、後は手荷物を纏めれば出れるぞ」
「ふふっ、手荷物はこちらに。それと黒川殿より握り飯と新しい草鞋を頂戴しました。脚元を整えて出立しましょう」
そう言われて脚元を見てみると、先ほど沓脱で借りたつっかけ草履のままだった。前ばかり見ていて足元が疎かだったなと反省しつつ、朝飯も食っていないことに気がついた。
「準備が整ったようでござるな。お気をつけて。またお立ち寄りなされ」
「必ずや帰りにも立ち寄らせていただきます。師に挨拶せずにしてこの地を通り過ぎれましょうや」
少し冗談めかして答えると黒川殿もまた
「その心掛け忘れるでないぞ」と冗談めかして満更でもない様子で答えてくれた。
俺は先行きが開けた思いと師とも呼べる新たな出会いに温かな気持ちのまま、加茂村を旅立った。我が師となる黒川甚助との出会いであった。
ここは初島のあたりであろうか。二日目のような海辺に山がせり出してくるような情景から打って変わり、平野部と浜辺が広がってきた。
ここまでくれば明るいうちには有田川へ着き、担当する最初の村である野村に着くだろう。
握り飯を食いながら、休憩を取っていた。
景色を眺め、この後の動きを想像していると、水野が徐《おもむろ》に口を開いた。
「黒川殿のような方が代官で加茂村の村人は幸せですな」
「そうだな。俺も黒川殿の教えに背かぬよう心がけねばならぬ。一つ聞きたいのだが、水野は代官にどういう印象を持つ?」
「そうですな。代官といえば、苛烈に税を取り立てているとか、賄賂を受け取り一部の者に手心を加えているなどの噂を聞いたことがあります」
「俺の印象も大きく変わらぬな」
「それだけでなく、嘆かわしいことに税を多く集めたものが有能で出世するとも聞いたことがあります」
そんなことが有能の証だとは。黒川殿が疎まれる理由がわかった気がする。
根本的に両者の立場が違う。役人側つまり藩としては税収が多いほうが良いので税を多く集める方を評価する。対して農民の側からして見れれば、収穫量は同じなのであるから少なく、せめて公正に徴税してくれる方を望む。
税を扱う役人としては、黒川殿のように公正であるべきだと思う。だが世の中は違う。俺の考え方が異端なのか。どう考えても俺は公正であるべきだと思う。藩のスタンスは間違っている。
予定通り、日の落ちないうちに野村に辿り着くことができた。片道とはいえ、初めての旅。長い道のりを踏破できて感慨深い。
夕日が有田川に煌めいている。夕日は普段から見慣れているものなのに、とても貴重なように感じた。
いかん、感傷にふけっていられるほど日が落ちるまで時間がなさそうだ。夜に訪問するのは礼を失してしまう。日の落ちきる前に野村の代官へ着任の挨拶を済ませねば。
「失礼いたす。野村の代官殿はいらっしゃいますか?」
「まもなく日も落ちる時分というになんじゃ。うん、小僧か……何しに来た。農民風情にしては小綺麗な格好をしておるではないか」
「私は郡代見習としてこの村の視察に参りました、徳川新之助と申します」
「はっ! 笑わせるでない!小僧が郡代様だと?」
「確かに私は若輩者なれど藩主光貞が四子。紀州徳川家の血を引くものとして父上や兄上のため、藩務に助力すべく色々な職務を学んでおります。この度の郡代見習もそれによるものです」
「某、殿より側付きとして命じられた水野知成と申す。若君のお申し出、真のことにございます」
「な、な、なんと! 殿のご子息様でいらっしゃられまするか! 某の無礼な態度、平に! 平にご容赦を!」
野村の代官は先ほどの態度と打って変わって米つきバッタのように額をゴス、ゴスと音がするほど何度も頭を上げ下げしている。
「小僧なのも事実。気にしてはおりませぬ。挨拶もできませぬゆえお顔をお上げくだされ」
「若様のご厚情、この田野、身が震える思いでございます! さすがは殿のご子息様! 人徳が溢れ出ていて、眩しゅうございます!」
「…………」
「田野殿とおっしゃるのか? さあ若君も当惑しておられる。お立ちなされ」
このままでは、また米つきバッタになりかねないと思ったか、水野は、野村代官の田野 何某を立たせた。
改めて田野を見てみると、髪は薄く、細い目は吊目がちで矮躯だ。
綱教兄上より少し歳が上に見える。30代前半くらいであろうか。その割に腹が出ていて、背が低く細身なこともあり餓鬼のような見た目だ。黒川殿より肌は白く、上等な着物を着ているように見える。何よりすでに少し酒の匂いがしていた。
とは言ったものの、本当は顔立ちより額に目が行ってしまった。うっすら血が滲んでいた。思わずニヤけそうになる。それに小石がめり込んでいるではないか。水野、よく真顔で接していたな。なぜ本人も含め、そこをスルーできるのだ。
「某、田野 通利と申しまする。このしがない野村の代官を任されておりまする。さあ、さあ、和歌山城からの旅路、お疲れでしょう。中にお入りください! 」
「ありがとうございます。しかしまもなく日が落ちます。本日はご挨拶に伺ったまで。どこぞ空き家を借りて明日改めます」
「なにをおっしゃいます! 若君様は某の屋敷にお泊り下され! この村で一番上等な屋敷でございますゆえ! 某はそこらで野宿でもしますゆえ、ご自身の家だと思ってお寛ぎくだされ! 屋敷には酒もあれば、村民に持ってこさせた菜もあり申す。飯も必要ですな! 飯も持ってこさせましょう!」
「いえ、若君は酒を嗜みませぬ。それに田野殿を追い出して、この屋敷に泊まるわけには……」
「良いのです!良いのです!では!」と田野は、さっさと駆け出して行ってしまった。
「田野殿は随分と個性的な方ですね」
「そうだな。気になるところが多すぎて呆気に取られてしまったわ」
その後、本当に飯が届いた。白米だ。貴重な米を差し出させてしまった村名主に申し訳が立たない。菜も独り身らしい田野殿だけでは食べきれないほどあった。そして酒もたっぷりあった。全て野村の用意したものなのだろうか。
折を見て村民に確認せねば。
瞼が重い。目は覚めたがもう一度深く沈み込んでいきたい。
昨日は寝付くのが遅く長旅の疲れも相まって夢も見ずに寝ていたようだ。
すでに水野は起きているようで隣にはいない。外は白み始めているなと、つらつら考えていると、ふっと自分のお役目を思い出し、へばりついた背中を無理矢理、床から引き剥がす。
まず借りた掻巻を整えて着替えると、部屋から直接、縁側へと渡った。そして沓脱にある突っ掛け草履を借りて井戸へ向かう。
慌てて身支度を整えていると表より、既に準備を終えた水野と黒川殿が出てきた。
「おはようございます。遅くなり失礼いたしました」
「随分ぐっすりと眠られていたようですな。お疲れのところ遅くまで付き合わせてしまい申し訳ござらぬ」
「いえ、大変勉強になりました! この後の視察は暗中模索の状況でしたが、光明が差したようです」
「それは何よりでござった。老人の戯言に真摯に耳を傾ける御姿を見て胸がいっぱいになり申した」
「値千金の金言なれば拝聴せずにはおられましょうや。ぜひ蒙昧な私に師として道をお示しくださいませぬか?」
「徳川の若君の師とは大層な出世でござるな。今までの不遇を打ち消すどころか、遥か彼方まで出世したような気分にござる」
「若、あまり猶予もない故、準備ができましたら出立しましょうぞ」
「そうだな、後は手荷物を纏めれば出れるぞ」
「ふふっ、手荷物はこちらに。それと黒川殿より握り飯と新しい草鞋を頂戴しました。脚元を整えて出立しましょう」
そう言われて脚元を見てみると、先ほど沓脱で借りたつっかけ草履のままだった。前ばかり見ていて足元が疎かだったなと反省しつつ、朝飯も食っていないことに気がついた。
「準備が整ったようでござるな。お気をつけて。またお立ち寄りなされ」
「必ずや帰りにも立ち寄らせていただきます。師に挨拶せずにしてこの地を通り過ぎれましょうや」
少し冗談めかして答えると黒川殿もまた
「その心掛け忘れるでないぞ」と冗談めかして満更でもない様子で答えてくれた。
俺は先行きが開けた思いと師とも呼べる新たな出会いに温かな気持ちのまま、加茂村を旅立った。我が師となる黒川甚助との出会いであった。
ここは初島のあたりであろうか。二日目のような海辺に山がせり出してくるような情景から打って変わり、平野部と浜辺が広がってきた。
ここまでくれば明るいうちには有田川へ着き、担当する最初の村である野村に着くだろう。
握り飯を食いながら、休憩を取っていた。
景色を眺め、この後の動きを想像していると、水野が徐《おもむろ》に口を開いた。
「黒川殿のような方が代官で加茂村の村人は幸せですな」
「そうだな。俺も黒川殿の教えに背かぬよう心がけねばならぬ。一つ聞きたいのだが、水野は代官にどういう印象を持つ?」
「そうですな。代官といえば、苛烈に税を取り立てているとか、賄賂を受け取り一部の者に手心を加えているなどの噂を聞いたことがあります」
「俺の印象も大きく変わらぬな」
「それだけでなく、嘆かわしいことに税を多く集めたものが有能で出世するとも聞いたことがあります」
そんなことが有能の証だとは。黒川殿が疎まれる理由がわかった気がする。
根本的に両者の立場が違う。役人側つまり藩としては税収が多いほうが良いので税を多く集める方を評価する。対して農民の側からして見れれば、収穫量は同じなのであるから少なく、せめて公正に徴税してくれる方を望む。
税を扱う役人としては、黒川殿のように公正であるべきだと思う。だが世の中は違う。俺の考え方が異端なのか。どう考えても俺は公正であるべきだと思う。藩のスタンスは間違っている。
予定通り、日の落ちないうちに野村に辿り着くことができた。片道とはいえ、初めての旅。長い道のりを踏破できて感慨深い。
夕日が有田川に煌めいている。夕日は普段から見慣れているものなのに、とても貴重なように感じた。
いかん、感傷にふけっていられるほど日が落ちるまで時間がなさそうだ。夜に訪問するのは礼を失してしまう。日の落ちきる前に野村の代官へ着任の挨拶を済ませねば。
「失礼いたす。野村の代官殿はいらっしゃいますか?」
「まもなく日も落ちる時分というになんじゃ。うん、小僧か……何しに来た。農民風情にしては小綺麗な格好をしておるではないか」
「私は郡代見習としてこの村の視察に参りました、徳川新之助と申します」
「はっ! 笑わせるでない!小僧が郡代様だと?」
「確かに私は若輩者なれど藩主光貞が四子。紀州徳川家の血を引くものとして父上や兄上のため、藩務に助力すべく色々な職務を学んでおります。この度の郡代見習もそれによるものです」
「某、殿より側付きとして命じられた水野知成と申す。若君のお申し出、真のことにございます」
「な、な、なんと! 殿のご子息様でいらっしゃられまするか! 某の無礼な態度、平に! 平にご容赦を!」
野村の代官は先ほどの態度と打って変わって米つきバッタのように額をゴス、ゴスと音がするほど何度も頭を上げ下げしている。
「小僧なのも事実。気にしてはおりませぬ。挨拶もできませぬゆえお顔をお上げくだされ」
「若様のご厚情、この田野、身が震える思いでございます! さすがは殿のご子息様! 人徳が溢れ出ていて、眩しゅうございます!」
「…………」
「田野殿とおっしゃるのか? さあ若君も当惑しておられる。お立ちなされ」
このままでは、また米つきバッタになりかねないと思ったか、水野は、野村代官の田野 何某を立たせた。
改めて田野を見てみると、髪は薄く、細い目は吊目がちで矮躯だ。
綱教兄上より少し歳が上に見える。30代前半くらいであろうか。その割に腹が出ていて、背が低く細身なこともあり餓鬼のような見た目だ。黒川殿より肌は白く、上等な着物を着ているように見える。何よりすでに少し酒の匂いがしていた。
とは言ったものの、本当は顔立ちより額に目が行ってしまった。うっすら血が滲んでいた。思わずニヤけそうになる。それに小石がめり込んでいるではないか。水野、よく真顔で接していたな。なぜ本人も含め、そこをスルーできるのだ。
「某、田野 通利と申しまする。このしがない野村の代官を任されておりまする。さあ、さあ、和歌山城からの旅路、お疲れでしょう。中にお入りください! 」
「ありがとうございます。しかしまもなく日が落ちます。本日はご挨拶に伺ったまで。どこぞ空き家を借りて明日改めます」
「なにをおっしゃいます! 若君様は某の屋敷にお泊り下され! この村で一番上等な屋敷でございますゆえ! 某はそこらで野宿でもしますゆえ、ご自身の家だと思ってお寛ぎくだされ! 屋敷には酒もあれば、村民に持ってこさせた菜もあり申す。飯も必要ですな! 飯も持ってこさせましょう!」
「いえ、若君は酒を嗜みませぬ。それに田野殿を追い出して、この屋敷に泊まるわけには……」
「良いのです!良いのです!では!」と田野は、さっさと駆け出して行ってしまった。
「田野殿は随分と個性的な方ですね」
「そうだな。気になるところが多すぎて呆気に取られてしまったわ」
その後、本当に飯が届いた。白米だ。貴重な米を差し出させてしまった村名主に申し訳が立たない。菜も独り身らしい田野殿だけでは食べきれないほどあった。そして酒もたっぷりあった。全て野村の用意したものなのだろうか。
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